25 玉鬘の終わり
学校を休んで、わたしは外科に向かった。経過を診るために、昨夜救急外来を訪れた病院と同じところに行かなければならなかった。やや遠出を強いられた。
医師によると、大した腫れも見られないため、特に問題はないだろうとのことだった。その後施された消毒等の処置も、先輩がやってくれたそれと大して変わりはなかった。
全く……一体何の意味があったのだろう。いたずらに時間を浪費しただけのように思える。先輩が望むのなら、わたしはそれに従うだけだが。
病院を出て地下鉄に乗る。
横に座っている中年女性が、うつらうつらしている。徐々にその身体は傾き、こちらにもたれかかってくる。
「…………っ」
触れ合った肩から、嫌悪感が迸る。
他人から触れられるなんて、気持ちが悪かった。嫌だった。耐えられなかった。
意識を逸らそうと、自分の手元に目を落とす。
わたしの左手。先輩がぐるぐる巻きにしたガーゼや包帯は、診察の際に取り外され、代わりに看護師が施した簡素な処置として、包帯が巻かれている。
……こんなことなら病院なんかに行かなければよかった。
いや、先輩の希望なのだからどうしようもないが。
そのとき、子どもの声が聞こえた。
顔を上げると、若い夫婦が手すりに掴まっていた。女性の方が、二、三歳ほどの男児を抱いている。
母親の背負ったリュックには、子どもに人気のマスコットキャラクターのストラップが揺れていた。
これから家族でどこかに出かけるのだろう。平日だが、全ての人間が土日休みというわけでもないし。
母親が、子どもに棒つきの飴をくわえさせる。うれしそうにはしゃぐ子ども。
今度は男性の方が男児を抱える。
母親は、そのまなざしをじっと子どもに向け、頭を撫でる。
子どもの声が、頭に響く。
甲高い声。何の遠慮も屈託もない声。
別に泣きわめいているわけではないのに、それがどうしようもなく不快だった。
吐き気がこみ上げてくる。
必死に抑えようとする。
苦しい。
何もかもがうまくいかない。
電車は大きく揺れて、停車した。
がらりとドアが開いた瞬間、わたしは外に出ていた。目的の駅ではなかった。利用したこともない、名前しか知らない駅。
降車したのは、わたしひとりだけだった。
お決まりのアナウンスと共に、背後で電車が再び発進する。風を残して、すぐに走り去ってしまった。
地下鉄のホームには、誰もいない。次の電車はおよそ十分後らしかった。
三つ並んだ椅子の端に腰掛ける。
わたしは一体何をやっているのだろう。こんなことで時間を無駄にして。
こんな地下の深い暗いところで。ひとりきりで。
線路が続いている先に目を遣っても、ただぽっかりと闇が広がっているだけだ。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。わたしはただ――
「……先輩」
そう呟くと、一瞬気分が軽くなる。
しかし、次の瞬間、その何倍もの嫌悪感がこみ上げてくる。
自分を構成するあらゆる細胞が醜悪でできていて、目を背けたかった。今すぐナイフでその邪魔なもの全てを削ぎ落としたい。
だけど、実際にそうしたら、後には何が残るだろう。
「……気持ち悪い」
気を緩めた瞬間、指先からどろどろに腐り落ちていく感覚。
もうこんな身体では一秒たりともいられない感覚。
自分の形が保てない。
わたしは、震える指に無理やり力を込めて、携帯電話を操作する。
GPSのマップ上に、先輩の所在が示されていた。地下でも、どうにか電波は届くらしい。
彼は大学にいた。当然だ、この時間は講義があるのだから。
大丈夫。何も問題はない。
何も。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
何も間違っていない。
全部全部上手くいっている。
何も心配する必要なんてない。
わたしはもう、どうすればいいのか知っているのだから。
先輩だって、今のわたしの方が好きだって言ってくれた。
もっともっと頑張らないと。
「早く邪魔な人間を消さないと……」
今すぐそうするべきだった。遅くなってしまう前に。間に合わなくなってしまう前に。
冷たい風が吹き抜ける。
次の電車が来たようだった。
「先輩……」
またそう呟くと、不快感は少しやわらいでいた。
もう次にやることは決まっていたから。
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世界が茹だるような鬱陶しい空気で隙間なく満たされていて、どこにも逃げ場はなかった。
自分の内側の温度と、外気の温度の隔絶が不快だった。異物の中に身を置いている感覚。
わたしは、無個性な私服に着替えている。
所有している分譲マンションの部屋に一度寄って、荷物を取ってきた。
そこにわたしは護身用の武器を置いていた。さすがにいつも持ち歩くわけにはいかない。スタンガンは常に携帯しているが。
花の髪飾りを鞄に仕舞う。露骨にこんな
包帯が巻かれた左手は目立つため、上から肌色のゴム手袋を着ける。暗闇の中では上手く紛れ込むだろうし、指紋防止にもなる。
犬に噛まれて負った傷がずきりと痛んだ。
「…………」
あの犬……今度街で見かけたら消してしまおうか。先輩も随分愛着を抱いていたようだし。
まぁいい。
今考えるべきはそんなことではない。
傷は浅い。この程度何の支障もない。
それよりも。
朝霧とかいう女。
彼女は早く消さなければならない。
邪魔だ。
邪魔な人間はみんな消さないと。
わたしは先輩のことをずっとずっと不幸にしないといけないんだから。
先輩のことなんて嫌いだ。大嫌いだ。
ずっと一緒にいるなんて。
あんな指切りの約束、何の強制力もない。無意味だ。どうしてあんな無駄なことをしてしまったのだろう。
先輩が他の誰かを見るというのなら、その相手を全員消せばいいんだ。そうすれば先輩はもうよそ見できなくなるし、何も問題はない。
わたしはもうわかったのだ。
これが一番の方法だって。
一番手っ取り早くて、効果的だ。
だから、これからもずっとずっと消し続けていかないと。
そう思うと、また気分が少しやわらぐ。
「頑張らないと……」
わたしにできるのは、頑張ることだけだった。
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朝霧という人物は、派手な色の髪をポニーテールにして、歩いていた。わたしよりもずっと背が高くて、なぜか夜臼坂学園の制服を着ている。
彼女は先輩と行動を共にしていたから、見つけるのは容易だった。先輩と別れたため、周囲の
「あの……すみません」
「ん? どうしたの?」
「その、コンタクトレンズを落としてしまって……」
「まあ、大変じゃない! あたしも探すの手伝うわよ」
「はい、こっちで落としたんですが……」
わたしはさらに路地裏に進んでいく。より、人目も逃げ道もない方向へ。
「この辺?」
大人しくついてきた朝霧は地面に手をついて、ありもしないコンタクトレンズを探す。こちらに無警戒に背を向けて。
快活で、いかにも善良そうな人間だ。
人を惹き付けるのも頷ける。
でも、人間なんて他にいくらでもいるのに、どうしてよりにもよってわたしの先輩を奪おうとするのだろう。
邪魔だ。
邪魔で仕方がない。
この女を散々苦しめてから殺したいところだったが、残念なことに長居している時間がない。その分人目につきやすくなるし、わたしは早く帰って夕食の支度をしないといけないのだから。
手短に済ませよう。
「えっと、確か落としたのは――」
そう言いながら、わたしは彼女に背に触れた。
手のひらに思い切り憎悪と嫌悪と絶望を込めて。
絵筆を水に浸したときのように、すぐに朝霧の全身が黒色に染まるはず、だった。
だけどそうはいかなかった。
何かに弾かれた。
弾かれて、返されて、止まる。
朝霧は素早く振り返る。
「あなた、今まさかあたしを消そうと……!?」
しまった、どうやら気取られたらしい。
でも、どうして失敗を――
その疑問はすぐに解消された。
彼女の首元に覗く竹紐。
見間違えるはずがない。
それは、わたしが先輩に贈った――
黒色を寄せ付けないお守りの首飾り。
先輩の身を守るための。
ああ。
いつもそうだ。
いつも先輩はわたしを裏切る。
だけど、不思議とわたしの感情は何一つ動かなかった。
この朝霧という女を消してしまえば、問題は全てなくなるのだから。
邪魔なものは消してしまえばいい。
先輩から選択肢を根こそぎ奪ってしまえばいい。
それだけのことだ。
今までずっとそうしてきたし、きっとこれからもそうしていくだろう。
わたしはすぐさまスタンガンを取り出す。
失敗するケースだって無論想定している。そのために逃げ道だってきちんと塞いであるのだ。
消すことには失敗したが、気絶ないしは殺しさえすれば、あとはどうにでもできる。ネックレスを奪ってすぐに黒化させればいい。
容赦はしない。
最大出力で朝霧の身体にスタンガンを押し当てる。
しかし、初撃に失敗した時点で、彼女は警戒して後ろに転がっていた。すんでのところでスタンガンは届かず、かわされる。
「な!? 何するのよ!?」
朝霧はさらに後ろに下がりながら立ち上がって、身構える。
こうなってくると体格上わたしが不利だった。
「あなたも黒闇天の手先なの!? そんなの使われたら死んじゃうじゃない! わかってるの!?」
どうでもいい人間が、どうでもいいことを話していた。
早く消えてしまうべきなのに。
役に立たないスタンガンは仕舞って、防犯スプレーを取り出す。武器は他にもいくつか携帯している。特に、こうして邪魔な人間を消すときには。
このスプレーも護身用という名目で用意したものだ。リーチの差を補うためには、こういう武器を使うのがひとつの手だった。すかさず噴射する。
朝霧の顔面に直撃した。
「ぐ……なに、これっ!」
彼女はうずくまる。
カプサイシンを大量に含んだ粉末。まともに顔面に浴びたらひとたまりもないだろう。わたしはスタンガンに持ち替えて、完全に行動停止させようとした。
しかし朝霧はまた立ち上がる。
「あ、あなたねえ、やっていいことと悪いことが――」
威勢のいい言葉とは反対に、動きは鈍い。好機だ。
わたしは再度最大出力でスタンガンを押し当てる。今度は当たった。しかも、胸部に。これは最悪死もあり得る。
朝霧の身体はぐったりとアスファルトの上に横たわった。
わたしは彼女の首元に手を伸ばす。
しかし、腕ががっしりとつかまれた。
誰に?
そんなの、ひとりしかいない。
朝霧だ。
「…………」
あんなのを食らったら、いくら身体が丈夫でも、そもそも筋肉が思うように動かないはず。
この女は本当に人間なのだろうか。
「あたしは、ここで殺されるような運命じゃないのよ!」
朝霧はわたしの腕をつかんだまま、立ち上がる。
「こんなことしたって何にもならないわ! いい加減諦めなさい!」
逆にこちらに掴みかかってくるが、今度はわたしが距離を取る番だった。再度スタンガンを直撃させて、怯んだ隙に手を振り払う。
「ぐ……」
彼女の動きが止まる。わたしに近づけば、電撃を受ける。だが、近づかなければどうにもできない。そんな葛藤があるようだった。
やがて、朝霧は何かを話し始める。その表情から察するに、わたしを説得しようとしているのだろう。でも、何も聞こえなかった。興味もなかったし、耳を貸す気もなかった。
だって、どうでもいい人がどうでもいいことを話しているだけなのだから。どうせ消されることから逃れようと、舌先三寸の言葉を並べているのだろう。だけどわたしは端から心変わりする気などないのだし、聞くだけ時間の無駄だった。意味のないことをしないのは、当たり前のことだ。
そんなことよりも、わたしは家に帰って夕食の支度をしないといけないのだから、早く済ませないと。
メニューはもう決まっている。どれも先輩の好きな料理だ。仕込みだって終わらせてある。あとは軽く調理をするだけ。ちょうど先輩が家に帰ってくる頃に出来上がるように。
あのネックレスさえなければ、優位に事を進められるのに。
わたしは特殊警棒を取り出す。これも、体格差をカバーするための伸縮式の武器。
あまりこういった攻撃は得意ではないが、仕方ない。これで攻撃しながら、ネックレスを奪おう。多少長期戦になるが、仕様がない。
わたしは、どうしても彼女を消さないといけないんだ。
だって、そうしないと、先輩は――
そのとき、わたしの携帯電話が鳴った。
これは、先輩が、近くに来ている合図――
どうして?
この辺りは先輩の帰り道ではない。来るはずないのに。
ひょっとして、この女が何かをした……?
まずい。こんなところ見られたら誤魔化しようがない。
この女を早く消さなきゃ――でも、ネックレスを奪って彼女を完全に消し去るまで、一体どれだけかかるのだろう?
もし間に合わなかったら――先輩が、来てしまったら。
ダメだ。それだけは避けなくてはならない。
でも、どうすれば……?
逃げたら――逃げたら間違いなく彼女から事が露見する。
そんなことになったら先輩は、わたしを――
決断のときは迫っていた。
だが、その逡巡がいけなかった。
朝霧は人間離れした瞬発力で距離を詰めると、わたしに組み付く。
しまった――
もがこうとしても、振り解けない。彼女の力は、わたしをゆうに上回っていた。
どうしてわたしの身体はこんなに小さいのだろう。腕がこんなに細いのだろう。まともに跳ね除けることすらできない。
ああ、ずっとこうだ。生まれてきたときから。
それでもわたしは頑張るしかなかった。それしかないのだから。
わたしは全力を振り絞って、身体をねじって、組み付きから逃れようとする。
「あ、あなた、それ以上動くと肩が外れるわよ!?」
そんなこと、どうだってよかった。先輩に今のこの光景を見られること以上に忌避したいことなんてなかった。
その瞬間。
肩が外れた。
「ひ――」
思わず怯んだ朝霧。拘束の手も緩む。その隙は見逃さない。夜陰の中に駆け出す。
「あ、ちょっと! あなた! 病院に――」
外れた肩がだらんとぶら下がっている。そして、そこから痛みが走っていた。
大丈夫。これは脱臼だ。自分で直せる。痛みなんて無視すればいい。何も問題はなかった。しばらくは本調子ではなくなるから、先輩に気取られないようにしなければいけないが。
その点利き腕でなかったことは幸いだと言えるだろう。料理が作れなくなったりしたら大変だから。
脱臼くらい、大した問題ではなかった。はめ直して多少動作に気を遣えば、先輩に訝しまれることもないだろう。
もうすぐ先輩がやってくる頃合いだ。
この場はこうして去らないといけないが、必ずあの朝霧という女を消さなくてはならない。
だって、わたしは、先輩のことが大嫌いだから。
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