三話 真相と桎梏

1 メリュジーヌ・モチーフ



 わたしをもっとも愛する人は、わたしをもっとも傷つける他者である。

                ――上野千鶴子




 ⏪ ⏪




「孝太郎くんって、人間に興味持ってないでしょ?」

 彼女の話はいつも唐突だった。

 今日も俺は埃っぽい土蔵を訪れて、みたきにプリントを届けに来ていた。


「え? そんなの初めて言われたな」

 お節介とか、そんなことはよく言われるけど。自分で言うのはなんだが、他人に興味を持っている側の人間だろう。


「孝太郎くんって嫌いな人いるの?」

「それは……言われてみると、いないけどさ」

「それが興味ないってことよ」

「そ、そうか? 好きの反対は無関心だって言うけど、俺はみたきが好きだし」


「そういうところがダメだと言ってるの」

 彼女は大げさにため息をついた。

「私のこと、特別好き?」

「ああ、もちろん」

 みたきは幼馴染で、古文に出会うきっかけともなった存在だ。


「じゃあ、私と付き合ってって言われたら、付き合う?」

 俺は目の前の幼馴染をまじまじと見つめた。

 これは、ひょっとして告白なのだろうか。


「付き合うよ」

「そう。だったら、付き合って」

 相変わらず冷淡な表情で、彼女は話す。じっとこちらを見据えて。


 みたきが交際関係を求めてくるのは意外だったし、予想していなかった。いつも冷笑的で、人を食ったようで、彼女の前では人間などおしなべて矮小な存在でしかないという態度で、恋愛には一切興味ないといった様子なのに。


「みたきって俺のこと好きなのか?」

「ええ」

「そうか、じゃあ付き合おう」

 彼女がそうしたいと言うなら、断る理由はなかった。


「……私が付き合ってって言わなくても、いつかはあなたの方から私に告白してた?」

「みたきがそれを望んでいるのがわかったら、告白してたよ」


 目の前の少女は、冷めたまなざしを向けてくる。たった今恋人になった人間に向ける顔とはとても思えない。

「あなたってすごいのね。私に何も言われなければ、そんなことしようなんて一切考えなかったでしょうに」


 確かに、みたきと付き合うという発想は、これまで全くなかった。

 でも、彼女が望んでいるというのなら、俺はそれに応え――みたきに恋人として接するだけだ。人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきだから。


 たとえば、今俺がここで「太陽は西から昇って東に沈む」なんて言ったところで、それは一切真実が伴っていないし、何の意味もない言葉だ。しかし、「俺は神庭みたきが好きだ」と言えば、その感情は真実となる。誰にも真に否定することはできない。

 この世で最も自由なのは、自分の感情だ。自分自身で決定できるのだから。


「……それじゃ、あなた本来の感情は?」

 みたきは目を眇めた。

「どうしても曲げられない感情が、あなたにはないの? 全ての感情をコントロールできるというの?」


「コントロールなんて……そんな大それたものじゃないよ。太陽の軌道なんかと比べれば、自由が効くだけだ」

 他人を嫌いになることより、他人を好きになることの方がよほど簡単だし。


「わかった。あなた、やっぱり他人のことなんて全部どうでもいいと思ってるんだわ。だから誰にも何の感情も抱かないし、簡単に変えられる。別に誰と付き合おうがあなたにとっては全て同じことなのよ」


「……なんだか、俺が随分冷徹人間みたいに聞こえるけど」

 心外だった。どうでもいい人間と付き合うなんて、そんなの変人にも程があるだろう。


「どうでもよかったらそもそも会いに来ないし、付き合おうとしない。俺はみたきのことを尊重してるから」

「……誰に対してもね」

 彼女の反応は、やはり冷ややかだった。上手く相手の望む対応ができていないのは、明らかだ。方向を変えないと。


「ごめんな、これからは気をつけるよ」

 正直、みたきが何にこだわっているのかわからなかった。

 反応が薄かっただろうか。もう少し表に出す感情を大きくするか。

 みたきは、テンションが高いタイプがあまり好きではないと思っていた。だから彼女の前では平坦な反応を示すようにしていたが、その認識を改めるべきなのかもしれない。


「たとえばあなたって、クラスメイトの鈴木さんのことは好きなの?」

「え? まぁ、そうだな。嫌いになる要素もないし」

 そもそも、ろくに学校に来ないみたきが、鈴木さんの名前を知っていたことが驚きなんだが。


「じゃあ、私に告白されるより前に、鈴木さんに告白されていたら、そっちと付き合ってた?」

「いいや、もうみたき以外と付き合うなんて考えられないよ」

 こうして交際関係となった以上、そう言うのは当然だった。恋愛関係の延長線上に婚姻関係があって、不倫が不法行為となるのなら、浮気だって不道徳だし。


「…………」

 長い髪の幼馴染は、こちらを見たまま黙り込む。

 少しの間沈黙が続くが、いきなりキスされた。彼女の腕が、俺の背に回される。


 冷たいくちびるの感触。彼女の髪の、甘い花の香りが広がった。それは、花粉の運び屋を誘う強い芳香のようだ、と思った。

 俺はただそれを受け入れた。恋人関係になった以上、拒む理由がなかったからだ。


 彼女は顔を離した後、俺を見つめて言う。

「あなたが何にも怒ったり嫌がったりしないのはね、何かに入れ込んだりしないからよ。どうでもいい人がどうしようが、どうでもいいものに何されようが、感情が動くことはないもの」

 やはり、俺はみたきにとんでもない冷血人間だと思われているらしい。


「あなたは、たとえば見ず知らずの人が危機に陥っていたら、身を賭して助けることができる。逆に言えば、とても親しい人間と見ず知らずの人間、両方が危険な状態で、どちらかしか助けられないとなったら、あなたは迷うわ。だって、そこに何の差異もないから。あなたにとっては、同じだから」

 俺は、きちんと差異を見出だせるのに。確かに、どちらを助けるか訊かれたら、迷うが。


「『人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべき』――なるほど、聞こえのいいご高説だわ。でも、それが真に意味するのは、特別な人間なんていないってこと。あなたにとって、全ての人間は同じ意味しか持たないってこと」

 こちらの首に腕を回したまま、みたきは言葉を続ける。


「初めてだったでしょう」

「え?」

「誰かとキスするの」

「ああ、そうだな」

「私も」

 そうか、みたきもファーストキスだったのか。


 確かに、このキスで何も感情が動かなかったことは認めよう。

 でもみたきのことは大切に思っているし、恋人となった以上それ相応の好意を表現するつもりはある。

 何も感じないなんて、声に出して――自分の感情を規定する意味は皆無だった。


「……あなたって幸せなのね」

 その一週間後、件の鈴木さんに告白された。既に付き合っている人がいたため断ったが。




 ⏩ ⏩




 グランドホテルの広い廊下は、すっかり灰色に染まっている。時間が欠落した世界は、夏の温度すらなくひんやりしていた。

 彩度のない背景を背に、俺の幼馴染は立っている。


「ふふ、随分と身長が伸びたのね。とても喜ばしいことだわ」

 みたきは何ひとつ変わっていなかった。その笑いを含んだ涼やかな声も、冷笑も、五年前そのままだった。


「……久しぶりだな」

「ええ、あなたにとっては、五年という歳月は永遠にも思えるでしょう?」


「ここは、一体なんだ? お前は、どうして急に現れたんだ?」

「そうね……私が現れた理由を話すには、そもそもこれまで私がどこにいたのかを説明する必要があるわ」


 みたきは俺に背を向けると、神託を授けるかのように手をかざす。

 すると、灰色になったグランドホテルの廊下が、急に歪曲する。風景が渦を巻いて黒色に溶け、瞬く間に周囲は黒一色になった。


 さらに手を動かす目の前の少女。天も地もない墨染めの世界に、いきなり椅子が二脚現れた。木製で――これまた黒色だが――アンティーク調の椅子だった。

「長い話になりそうだから。立ちっぱなしは味気ないもの」

「……お前、この空間を自由に操作できるのか?」


 みたきが椅子に腰掛けるので、俺も空いている方に座る。体重を預けると、わずかに軋む音がした。質感も感触も、どこまでもリアルだ。今生み出されたものとはとても思えない。


「突然だけど、世界ってひとつだけではないの」

「……そりゃ、突然な話だな」


「並行世界って、聞いたことあるかしら」

「ああ。今いる世界とは似て非なる世界のことだろ?」

「そうよ。人の意志で時間が操られると、そのたびに世界は分岐して、新たな並行世界が生まれるの」


 椅子に座った幼馴染は、脚を組む。

「つまり世界は無数に存在するってことなんだけど――世界が複数あるということは、その間、世界の狭間もあるのよ。そして、私は行方不明になった五年間、ずっと世界の狭間にいた」

 そして、今まさに俺がいる空間、それが世界の狭間なのだろう。


「頭のおかしい殺人鬼に、哀れにもラネットで消されてしまった私は、完全に消える直前にとっておきの技を使ったの。世界から退場する間際、世界の狭間に自分自身を固定させたのよ。ふつうは無理なんだけどね。ラネットの扱いに関して、私に及ぶ人間はいないから」

「な、なるほど……」

 そう言われても、理屈がよくわからないが。


「でも、この通り完全に世界――時間と空間から切り離された存在になっちゃったわ。もう元の世界に戻ることはできない。自分という存在を繋ぎ止めるので精いっぱい」

 だからこそ、この五年間彼女は姿を現さなかった、ということか。


「もう、毎日家の蔵で孝太郎くんを待つこともできないわ。懐かしいわね。あなたがいつも私の家を訪ねてくるの、妻問いのようで好きだったのに」


 妻問い、か。言われてみれば、似ているのかもしれない。

 今の時代はもう、夜に女性の家を訪ねて、朝が来れば去るなんてことをしなくてもいいが。そもそも、簡単にまみえることができるのだから。


 今のみたきは、地縛霊のような存在なのだろう。世界の狭間から離れられない、生きているとも死んでいるとも言えない存在。


「だけど、利点もあるのよ? ここは世界の狭間だから、薄皮一枚隔てた世界を、覗き見することができるの。孝太郎くんのことも、ずっと見ていたわ」

「そ、そうか……」


「こんなふうにね」

 みたきは、人差し指を立てて軽く振る。

 すると黒い空間の一部に景色が浮かび上がる。まるで黒色のスクリーンのようだった。


 映し出された景色は、皆原駅の前だ。夜の駅前を、多くの人が行き交っている。

「これが、世界っていうのか……?」

「ええ。どこでも見られるわよ」


 みたきは更に指を動かす。

 スクリーンは移り変わり、次に浮かんだのは俺の家だ。瀬名がちゃぶ台にノートや参考書を広げて勉強している。日常とはかけ離れた状況から、いきなり安穏な光景を見せられて、どこかほっとする。


「……プライバシーもへったくれもないな」

「ふふ、大丈夫よ。色んな人間を見てきたから、ちょっとのことじゃ孝太郎くんに失望しないわ。つまり私は、この五年間あったことも把握しているってわけ」

 この環境はこの環境で、便利なところがある。特に、世界を見下ろしたい人間にはぴったりだ。


「最近この街では事件が頻発しているじゃない。極めつけに、ふたりの大規模な時間遡行。これで時間と空間が不安定になって、ようやく世界と繋がった﹅﹅﹅﹅のよ。もっとも、あまりにも歪みが生じて、如意宝珠が許容量を超えてとうとう壊れちゃったけど」

 俺は、握りしめたままだった如意宝珠を見る。便利な道具だったが、事こうなっては仕方ない。


 先程まで俺がいたグランドホテルは、時間が止まってこそいたが紛れもなく世界だった。だが、世界の狭間からみたきが現れ、俺は引きずり込まれた。だから、ここは世界の狭間なのだ。


「みたき、世界を滅ぼそうとしていたってのは本当なのか?」

 それは、彼女に対して一番訊きたかった質問だ。本当に、世界の終わりを望んで信者たちに人殺しをさせていたのか?


「嫌ね。そんな物騒なことするわけないじゃない」

 俺の幼馴染は、即答した。


「あんなのは嘘よ。思い通りになる手駒――実験体が必要だったの。過激なことを言って、それらしい設定﹅﹅をちりばめれば人は簡単に心酔してくるわ。ラネットの力をいかにも霊験あらたかっぽく使えばダメ押しね」


「実験? それで多くの人々を殺したのか?」

「いいえ、全部信者が勝手にやったことよ。頼んでもいないのに予言書を拡大解釈して……ごめんなさい、私のシンパが色々と迷惑を掛けたようで」

「…………」


「人を殺すなんて――そんな残酷なこと、できるはずがないじゃない。できる人の正気を疑うわ」

 みたきは、一切悪びれる様子もない。わかってはいたが、本当にどうしようもない人間だ。


「予言書もあくまで設定のトッピングとして用意したものなの。その方がカルトらしさが出るかと思って。でも一から文面を考えるのは面倒だったから、ちょうど手元にあった『方丈記』から文章を拝借したのよ。そしたらあんなことになるとはね」

 その辺は、概ね俺の予想通りだった。


 大量殺人は信者が勝手にやったことだなんて見え透いた嘘だし、みたき本人もわかった上で揶揄のために言っている。だからこそ性質が悪い。

 まぁ、ここにいる以上もうそんな凶行はできないだろうが……。


 性根がだいぶ捻じ曲がっている幼馴染は、もったいつけるように口を開く。

 いよいよ本題に入るつもりらしい。

「ねえ、孝太郎くん。誰が私を殺したのか……知りたい?」


 答えは明白だった。

 知りたいに決まっている。

 だけど、俺はすぐには頷けなかった。


 嫌な予感がした。

 何の根拠もないが、それでも聞いてしまったら戻れなくなってしまいそうな、そんな予感が。


 しかし結局は今更だった。

 時間は不可逆で、はなから戻れなどしない。

 ラネットの力を使わない限り。

 俺は、ゆっくりと首肯した。

 

「ふふ、そう言うと思った」

 みたきは口の端を吊り上げる。


「私を殺したのは、韮沢瀬名よ」

 彼女の話はいつも唐突だった。


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