20 eclipse



「ご、ごめんなさい、先輩……」

 所在なさに、また謝罪の言葉を口にしてしまう。


「瀬名が謝る必要なんてないよ。励ましに来てくれて、すごく感謝してるんだ。ずっと家にいると行き詰まるし、誰かと話すとそれだけで気が晴れるから」

 先輩の口からは、上滑りする常套句ばかりが出てくる。


「これで、停学が明けたらまた心機一転頑張るよ。いつまでもくよくよしたってしょうがないよな。これからきっといいことが起きるし、前を向いて歩いていくよ」


 どうすればいいのかわからなかったし、かといって先輩の次の言葉を待つのは恐ろしかった。

 室内が冷たすぎる気がした。どんどん肌から熱が失われていく。

 秋はもう終わっているのかもしれなかった。


 依然として先輩の空色の瞳はこちらに向けられていた。観察しているかのように。

 わたしが黙り込んでも、ずっと。


 少しの沈黙の後、彼はやっと目を離した。


「瀬名、もう俺に近づかないでくれ」

 それは予想だにしていなかった言葉だった。

「え……?」


 意味を理解するまでに、少し時間を要した。

 すごくシンプルな言葉なのに。

 わたしにはよくわからなかった。


 先輩に――近づかない?

 先輩が、それを、望んでいる?

 わたしが? 先輩に? 近づかない?


 先輩の望みが? これから? ずっと?

 どうして?


 そんなこと、よく考えなくてもわかるのに。


「先輩……わたしのこと、嫌いになったんですか?」

 彼は少しの間わたしの顔をまじまじと見ていた。痛いほどの静けさ。

 今にも心臓が壊れてしまいそうだった。


 先輩は、目を逸らす。

「……いいや」

 そのときわたしはやっと人心地を取り戻せた。


 よかった。

 先輩はわたしのことが嫌いになったわけじゃないんだ。

「じゃあ、その、どうして……」


「……最近気づいたんだ。俺は自分で思ってるほど、自分を律することができないんじゃないかって。正直俺は今象潟の奴にどうやって復讐するかしか考えてないし、今あいつに会ったら何をするか分からない」


 やっぱり、先輩にもそういう感情があったのか。

 すごく自然なものだろう。でも、彼はきっとそれが嫌なのだ。


「今後誰かに裏切られたとしても、きっとそうなるだろう。……特に、瀬名相手だと。だから、もう近づかないでくれ」


 どういうことだろう。

 先輩が何を危惧しているのか、よくわからなかった。

 だけど、ひとまず先輩はわたしがやったことを知らないらしい。それだけは、よかった。


 先輩から離れるなんて、そんなことできるはずがない。わたしは先輩を苦しめないといけないんだから、だからわざわざあんなことをしたというのに、


 ここで先輩に避けられるわけにはいかない。

 どうにか、しないと。

 どうにか先輩に信じてもらわないと。


「先輩が何を心配しているのか分かりませんが……わたしは先輩を裏切ったりなんてしませんよ。以前も言いましたよね。わたしは、わたしだけは先輩の味方だって」

 どれだけ言葉を並べても、先輩の目は冷ややかだった。


「た、たとえほかの誰が裏切ったとしても、わたしは先輩のことを裏切りません。だから、何も心配する必要はないんですよ」


 嘘ばかりが口をついて出てきた。

 だって、ここで先輩に避けられるわけにはいかないから。なんとかして信じてもらわないといけないから。


「どうしてそんなことが言えるんだ?」

 先輩はわたしの腕を掴んだ。

 彼の手に力が籠る。ぎちぎちとこちらの腕を締め付けて、痛いほど締め付けて、離さない。


「せ、先輩?」

「一体何の確証があるっていうんだよ?」

 彼の表情は依然として冷たいままだった。でも、腕が鬱血していく。指先の感覚が消えていく。


 わからない。先輩のことも、何もかも。

 わたしは、どうすればいいんだろう。

 どうすれば、先輩とずっと一緒にいられるんだろう。


 誰か教えてくれればいいのに。

 それがわかれば、わたしはどんなことだってするのに。


 わたしの腕を掴んだまま、先輩は言う。

「……俺さ、瀬名に裏切られたら、確実に瀬名を殺してしまう気がするんだ」


 殺す?

 先輩がわたしを?

 そんなこと、想像だにしていなかった。


 先輩は手を離した。腕には彼の手の跡が残っている。

「だから、もう俺に構わないでくれ」


 そんなふうに言われたって、できるはずがなかった。

 どうせ真実を知れば、先輩はわたしを殺してもおかしくないだろう。それだけのことをしたのだから。

 ずっと先輩に近づけないなんて、そんなの死んだ方がマシだ。


「わ、わたし、先輩のことを絶対に裏切りませんけど、もし裏切られたと感じさせたら――先輩になら、殺されてもいいです」

「…………」

 彼は、相変わらず無表情にわたしを見下ろしていた。


「……瀬名、最近象潟の奴に会ってただろ?」

「え……?」

「何をしてたんだよ」


 バレている?

 先輩に全て?

 いや、そんなはずはない。

 バレていたら、とっくに殺されていてもおかしくない。


 でもどうして先輩がそんなことを知っている?

 どこまで知られている?

 何もわからない。


 一瞬気が遠くなるが、どうにかこらえる。

 隠し通さないと。

 どの道先輩に知られてしまったら全て終わりなんだから。

 やるしかないんだ。


「な、何って……別に……。ただ、同好会のことで話がしたいというから、少し付き合っただけです」

「へえ」


「そ、それよりも先輩、どこからそんなことを知ったんですか? 又聞きだとしたら、何か偏った情報が含まれているのかもしれませんし……」

「今はこっちが訊いてるんだけど」


「わ、わたしにはこれ以上話すことは何も……」

「随分焦ってるみたいだけど、どうしたんだ?」

「あ、焦ってなんかいません……っ」

 先輩に知られているんじゃないかと、そればかりが気がかりで、上手く言葉が継げない。


「せ、先輩、何を気にしているんですか? 象潟さんなんて、同好会が同じだったというだけで、それ以外何の関わりもありません。だけど、先輩とは小学校の頃から一緒ですし……わたしが先輩のこと裏切ったりするはずありません」

「…………」


 彼は何も言わない。

 このままじゃダメだ。何もかもが終わってしまう。


 わたしは、思い切って先輩に抱きついた。

 どうにかしてごまかさないと。顔を見られるのもまずい。焦っている自分を隠しきれない。

 先輩は振り払おうとはしなかった。


 こんな状況でも、抱きついてみると先輩は先輩の感触がした。気持ちがやわらいでくる。

 大丈夫。まだ全て終わったわけではない。なんとかして先輩に信じてもらわないと。とりあえず話を逸らすんだ。


「先輩、覚えていますか? 最初に会ったときのことを。あの公園で絵を描いていたわたしを、先輩が見つけてくれたんです」


 彼の胸に顔をうずめているから、先輩の表情はわからなかった。ただ、体温の暖かさが伝わってくる。

 情に訴えかけるなんて、愚かな方法だった。でも、今のわたしにはそれしかなかった。


「最初に会ったときから、もう五年も経ちます。色々なことがあったけど……わたしは、その、先輩のことを、大切な人だと思っています。先輩にはたくさんお世話になったし、先輩と一緒にいると楽しいですから」


 耳を澄ませると、先輩の心音が聞こえてくる。

 わたしは何を言っているんだろう。自分の言っていることすらよくわからなくなってきた。でも、今言葉を途切れさせたら一巻の終わりであるような気がした。


「だから、その、大切な人を裏切ったりするはずありません。先輩、わたしのことを信じてください」

 わたしは、顔を上げて先輩を見る。


「そ、その、さっきも言いましたけど……わたし、先輩になら殺されたって構いませんから。だって、その、大切な人に失望されるくらいなら、その方がマシですから」


 先輩は無感動にこちらを見ていた。


「そうか――」

 次の瞬間、わたしは硬い床に押し倒されていた。


 何が起きたのかわからなかった。

「せ、せんぱ――」

 しかしその間にも、わたしは口を塞がれ、身動きできなくなっていた。




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 本当に最悪の気分だった。

 外は完全に日が落ちていて、暗闇ばかりが広がっていた。


 努めて感情を顔に出さないようにしながら、わたしは身体を起こす。だが内心、せり上がる不快感でいっぱいだった。

 どうして、こんなことに……。


 ブラウスのボタンを締め直そうとしたが、そもそもボタンがいくつか弾け飛んでいた。縫い付け直さないといけない。


「……ごめん」

 彼はこちらを見ようとしない。

「先輩……」


 全く、自分でやったくせに……。

 しかし、これで距離を置かれることの方が厄介だった。全ての予定が狂ってしまう。それだけは避けなければならない。


 わたしは彼に顔を近づけると、唇と唇を触れさせ舌を差し込んだ。先輩は身じろぎしたが、それだけだった。

 この人にありったけの不幸を味わわせるためには、手段など選ばない。そう、それがたとえどんな手段であったとしても。


 顔を離すと、彼は戸惑ったような表情をしていた。

「せ、瀬名……?」

「気にしないでください。わたしは、その……先輩のこと、好きですから」

 この状況をなんとかするには、これしかなかった。


「……本気で言ってるのか?」

「はい、もちろんです」

 もちろんそんなはずないけど、でも、先輩を苦しめ続けるにはこうするしかない。


「先輩、わたし、明日もカップケーキ焼いてきますから」

 もう一度唇を重ねる。先輩は今度も拒まなかった。


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