19 絶望は烈度を増して



 先輩はどこにも行かせない。

 大丈夫、今までだって全部なんとかしてきた。

 今回だって、きっと、大丈夫。


 先輩を不幸にして、不幸にして、どこにも行けないようにしないと。

 そうだ、今回の話自体を、ダメにしてしまえばいいんだ。

 先輩が望もうと望むまいと関係ない。ずっとずっと、ここにいるしかなくなる。もうそれしかない。


 わたしは、先輩を不幸にするためなら、なんだってしないと。どんな、ことだって、しないと。

 だって、わたしは先輩が大嫌いだから。




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 わたしはまず写真を用意した。

 ひとつは、先輩の写真。もうひとつは、校内で喫煙をしていた生徒の写真。

 そして、後者の顔を、先輩の顔にすげ替えた。


 今の時代、この程度の加工なんて簡単だった。一見して捏造と分からないくらいには、上手くできた。

 こんなの、絵を描くのと似たようなものだった。


 あとは、これを公開する人間が必要だ。その人に、わたしが矢面に立たないための身代わりにもなってもらおう。

 目を付けたのは象潟だった。


 軽薄な男だった。

 少しこちらから接触したら、すぐに言い寄ってきた。

 先輩に付きまとわれて困っているから、少しお灸を据えたいと言ったら簡単に乗ってきた。彼は、先輩と古くから親しくしていたらしいのに。


 写真は捏造ではなく、偶然撮れたものだということにした。そうしないとさすがに乗ってこないかと考えたのだが、彼には偽物だということが見抜かれた。曰く、「鴇野がこんなことをするわけない」と。


 それでも、象潟は段取りの通りに写真を表沙汰にした。もちろん、わたしの名前は一切出さずに。

 当然、これは一大事となった。

 こうして、わたしの目的は達成された。


 だけど、問題がひとつあった。もう用済みにも関わらず、象潟がしつこく付きまとってきたのだ。何かを勘違いしているらしい。

 挙句の果てに、断ったら事の真相を先輩に明かすと詰め寄ってきた。


 本当にやる度胸もないだろうに。おおやけになったら困るのはお互い同じだから。つまらない脅しだ。

 わたしが、だったらあなたの恋人にもこのことを教えようか、と言ったらあっさり引いた。今新しい恋人がいる事実を、知られているとは思っていなかったらしい。全く愚かなものだ。




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 先輩は自宅謹慎――停学となった。大学の合格は取り消されたらしい。正確には、高校側が辞退した。重い処置だが、外聞を気にしてのことだろう。


 これで、先輩はどこにも行けない。

 どこにだって。

 そう、これでいいんだ。

 何も間違っていない。


 だって、こうしなければどうなっていたというのだろう。

 それこそ全てが終わっていた。

 だけど、これでひとまず回避できるのだ。




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 放課後、わたしは先輩の家を訪ねた。

 これまで一度も招待されたことはなかったけど、場所は把握していたし、こっそり来たことも何度かある。


 中の様子は分からないけど、一見すれば普通の二階建ての一軒家に見える。

 ベージュ色の壁にダークブラウンの屋根。何の変哲もない。

 玄関の脇にはカーポートが設置されている。しかしまだ夕方だから車は停められていなかった。


 二階の窓を見る。

 常識的に考えれば、あそこが子ども部屋で――先輩の部屋だろう。先輩は一人っ子だし。

 しかし今はカーテンが閉まっていて、何も窺えなかった。

 表札の鴇野という文字を見ながら、わたしはチャイムを鳴らす。


 まずは家人が出るだろうか。それとも居留守を使われるだろうか。それなら辛抱強く待つだけだが。

 少しして、玄関の扉が開く。

 現れたのは先輩だった。


「……悪いけど、帰ってくれ」

 開口一番、先輩はそう言い放った。わたしが何かを言う暇もない。


「わかりました、でも、これだけは言わせてください。わたし、先輩がそんなことする人じゃないって知ってますから」


 我ながら、なんて馬鹿らしい言葉なのだろう。

 そりゃ知っている。当たり前だ。あの写真が偽物だということは、わたしが一番よく分かっているのだから。


 先輩は何も言わなかった。ただ、冷ややかな目でわたしを見ていた。まるで、犯した罪を知っているかのように。


「……それじゃ」

 彼は冷たく言って、扉を閉める。


 明日もまた来よう。




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 わたしは何日も先輩の家を訪ねた。だけど、そのたびに門前払いされた。

 ずっとこのままだったらどうしよう。

 もう先輩とあの公園で、お話できなくなったらどうしよう。

 そうなったら、わざわざあんなことをした意味が全くない。


 あんなことなんてしなければよかった。

 そうすれば、まだ先輩と毎日お話できていたはずなのに。

 だけど後悔したってどうしようもない。時間を巻き戻すなんて不可能なのだから。


 毎日訪ねるのはさすがによくないだろうか。

 だけど、少しでも接点がなくなったら、そのまま全てがなくなってしまいそうだった。それに、先輩に会えない日が続いたら、わたし――


 大丈夫。

 先輩はわたしのやったことを知らないんだから。

 何も問題はない。




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 その日は、いつもと違っていた。

「……立ち話もなんだし、上がってくれよ」

 先輩はそう言って、家の中に招いてくれる。


 一般的な建売住宅、といった内装だった。

 玄関、廊下、リビングダイニングとキッチン。ふだん先輩はここで暮らしているのだと思うと、不思議な感覚がした。でも、確かに先輩の匂いがする。


「あ、あの、先輩……これ、お土産です」

 わたしは、鞄からカップケーキを取り出す。かわいいラッピングペーパーに包まれている。


「ん? これ、瀬名が焼いたのか?」

「その、あんまり上手じゃないんですが……」

 誰かの家を訪ねるときはお土産を持っていかないといけないし、最近お菓子作りの練習をしているから。お菓子は特別な日以外食べられないため、味見程度しか口にしていないけど。


「そんなことないよ。店売りの袋に入ってたら、お店のお菓子だと思ったくらいだ」

 先輩はいつでもわたしに優しくしてくれる。


「もしかして、これまでもずっとお菓子を作ってきてくれてたのか?」

「あ、いえ、その……練習しているだけですから」

 そう言うと、彼はわたしをじっと見つめた。


「先輩?」

「あ、いいや……そりゃ悪いことをしたな」


 階段を上った先に、先輩の部屋はあった。

 室内に案内されて四方を見回す。


 広さで言うと六畳程度だろうか。壁際にそれぞれ机、本棚、ベッドが置かれており、部屋の真ん中にはカーペットが敷かれ、丸いちゃぶ台が置かれている。

 きちんと整理されており、乱雑な印象は受けない。

 いつも窓の外から見ていた部屋の中が、こんなふうになっていたとは。


 男子学生の居室とは、こんなものなのだろうか。ほかの例を知らないから、よくわからない。

 でも、ここで先輩が普段暮らしているのだと思うと、不思議な感覚がした。

 毎日あの机で先輩は勉強していて、あのベッドで眠っているんだ。


 促されるままに、座布団の上に座る。

「冷たい麦茶とオレンジジュースがあるんだけど、どっちがいい?」

「あ、その……オレンジジュースでお願いします」


 先輩が部屋を出て行ったので、わたしはひとりきりになる。

 することもないため、いけないとは思いつつも部屋の中をまじまじと見つめてしまう。

 本棚には古典文学の本がずらりと並んでいる。机の上にも、読みさしの本が何冊か置かれていた。

 ゲームソフトやCDの束もある。タイトルを見てもよくわからなかった。


 物が多いのにきちんと整理整頓されている。本は本棚に、ゲームやCDは種類別にラックに。教科書や文房具は机周りに。わざわざ開けるつもりはないが、タンスやクローゼットの中には衣服類がまとめられているのだろう。


 部屋の中に秩序があった。

 それは、ほとんどのものが棄却されたことによって秩序を持つわたしの部屋とは、正反対だった。

 この空間が好きだ、と思った。


 タンスの上に、見覚えのあるものがあった。

 腕時計。

 これは、神庭みたきから贈られた――


 それに気づいた瞬間、わたしは思わず腕時計を自分の鞄の奥に仕舞い込んでいた。

 このタイミングで無くなったら、いくら先輩でもわたしのことを疑うだろう。

 だけど、ずっと、こんなもの奪い取って捨て去ってしまいたかった。めちゃくちゃに壊してしまいたかった。


 やっと、それが叶う。

 今すぐ消すことも可能だが、それでは一瞬で終わってしまう。

 家に帰ってから丹念に丹念に、部品のひとつひとつまで壊さないと。


 荒くなる息をどうにか抑える。

 態度で先輩に気取られないようにしないと。

 平静を装わないと。


 外の陽はだいぶ傾いてきていた。秋も深まってきて、日が沈む時間が早くなっている。

 どんなにいい天気でも、太陽は平等に毎日西の空に消えていく。

 それが、少し残念だった。


「おまたせ」

 先輩が部屋に戻ってくる。ちゃぶ台に置かれた橙色のオレンジジュースには、氷がいくつか浮かんでいた。

 先輩の飲み物は、麦茶だった。


「わざわざすみません」

 グラスに口をつけると、オレンジの甘い味が広がる。

 ……おいしい。


 顔を上げたとき、じっと見てくる先輩の視線に気づく。

「先輩?」

「……瀬名って、本当に甘いものが好きだな」

 また子どもだと思われただろうか。表情に出したつもりはないのに。


 彼は、おやつも持ってきていた。

 皿の上には、わたしの手土産のカップケーキと、恐らく先輩の家にあったであろうラング・ド・シャ。


 チョコレートを挟んだラング・ド・シャは、甘くておいしい。

 口に運んでいると、また先輩に生暖かい目で見られていた。


「先輩、その……今日は家に上げてくれてありがとうございます」

 ずっと追い返され続けていたら、どうすればいいのかわからなかった。


 彼はコップに口をつけてから、言葉を発する。

「瀬名、どうして来たんだ?」

 それはいつも通りの声だった。

「え、どうしてって……その……」


 先輩はわたしの次の言葉を待っていた。口を開かず、ただこちらを見ている。

「えっと、先輩が心配で……わたしにできることは何かないかなって思って……」

「へえ」

 彼の言葉はそれ以上続かなかった。


「ご、ごめんなさい、迷惑でしたよね……」

 先輩は何も言わなかった。肯定も否定もしなかった。

 なんだろう。何かがおかしい。


「あ、あの、お邪魔でしたらわたし、もう帰りますから……」

「そんなに縮こまる必要ないよ。瀬名は心配して来てくれたんだろ?」

 冷淡な表情と声色。いつもの先輩とまるで違う。


「瀬名の顔を見ると、なんだか気が休まるんだ。こうして話しているだけで、元気になれるよ。来てくれてありがとう」

 一切感情が籠っていない言葉。彼の目は依然としてこちらに注がれていた。


「せ、先輩、ごめんなさい……」

 うつむくものの、絶えず先輩の視線を感じる。

「どうして謝るんだ? 瀬名は俺を励ましに来てくれたんだろ? 手作りのお菓子まで持ってきてくれたし」


「い、いえ、その……」

「本当に瀬名が来てくれてうれしいよ。これで、明日からまた頑張れそうだ。細かいことは忘れて」


 これは、罰だろうか。

 わたしが先輩に会いに来ることを抑えられなかったから。

 先輩は他人に配慮する余裕がないだろうに、それを求める形になってしまったから。


 彼はもしかして、わたしがやったことを知っているんじゃないだろうか。

 そうじゃないとこれはおかしい。

 いや、違う。


 先輩に知られるはずないんだ。

 明かせるとしたら象潟くらいだが、事実を伝えるということは、自分が偽りの証拠を用いたことも話すということになる。さすがにそんなことをするほど愚かではないだろう。そのための共犯関係なんだから。


 こんなことになるくらいだったら、象潟をさっさと消しておくべきだった。

 そうすれば何も問題はなかったのに。

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