18 夢と知りせば
「瀬名ちゃん、一緒に帰らない?」
合唱祭実行委員の会議の後、同じクラスの男子の方の委員に話しかけられた。
人の先頭に立つタイプで、成績も良い方だったはず。だが、押しの強いところがあって苦手なタイプだ。
「え? 結構です」
「い、いや、送っていくって!」
ただでさえ委員会の仕事で余分に時間を取らされて、迷惑しているのに。こんな人に割く時間なんて余っていない。
わたしは無視して昇降口に向かうものの、彼はしつこく着いてくる。
「もう遅い時間だし、女の子ひとりで歩くのは危ないよ」
余計なお世話だ。
薄々感じてはいたが、彼はわたしと親しくなろうとしている。
そもそも同じ実行委員となったのも、わたしと彼を接近させるために周りが仕組んだものだろう。くだらない。
断固拒否したかったが、そう事を荒立てても面倒な気がする。別に他人にどう思われようが興味などないが、悪い噂でも広められて万一先輩の耳にでも入ったら大変だ。
校門までたどり着いても、彼はまだ諦める様子がない。このままだと本当に家まで来そうだ。
「瀬名ちゃんって家どっち?」
どうして馴れ馴れしく名前で呼んでくるのだろう。虫唾が走る。
もっと直接的な言葉で釘を刺そうかと思ったとき。わたしの携帯電話が振動した。
トントントン、ツーツーツー、トントントン。
この振動パターンは、先輩からの電話だ。
「すみません」
そう言って、わたしはちらりと携帯を見遣る。いかにも誰かから連絡が来たというようなポーズ。
「失礼します」
足早に立ち去るが、さすがにクラスメイトは追ってこなかった。
「あ……」
人気のないところに移動して、電話に出ようとしたタイミングで、切れてしまった。
どうしよう……掛け直そうかな? すぐ掛け直せば、先輩はきっと出てくれるはず。でも、先輩に電話を掛けるだなんて、そんな……そんなこと、躊躇われる。出てくれなかったら困るし……。
少し待っていれば、先輩はまた電話を掛けてくれるだろうか。何か用があるなら、きっと……でも、掛かって来なかったらどうしよう……。
「瀬名」
「ひゃっ!?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまう。振り返ると、先輩がいた。いつも通りにこやかにこちらを見ている。
「き、奇遇ですね、こんなところで会えるなんて」
「ああ」
「先輩、その、さっきの電話……どうしたんですか?」
「大した用じゃないよ。ただ、今何してるかなって」
「そ、そうですか……」
つまり、わたしのことを気に掛けていたということだろうか。
「さっき一緒にいたの、友達か?」
「クラスメイトというだけですよ。実行委員で一緒になったんです」
「そうか」
先輩は温和な表情のままだった。
「ああいうのは瀬名にはふさわしくないよ」
そう言って、わたしの手を取る。
「もう仕事終わったんだろ? 帰ろうか」
そのまま手を引いて歩き出した。
先輩と手をつないでいる。
少し骨ばった、大きな手の感触。わたしの手とは全く違っていた。そのあたたかな体温も。
どうしてこんなこと……誰かに見られたら面倒なのに。
でも振り払ったら、先輩が大嫌いなことが伝わってしまうし。わたしは仕方なく、手をつないだまま帰った。
� �
二学期が始まった頃。家に帰ると、自室の机の上に紙が一枚置かれていた。
これは、両親がわたしに何かを連絡するときに使う手段だった。
紙に書かれた内容はシンプルだった。
近々遠縁の子どもを養子を迎えるから、荷物をまとめておけと。
近場にマンションを用意するから、そこに住めと。
冬休みまで猶予を設けるから、それまでに全て済ませておけ、と。
引っ越しの日付まで決まっていた。
わたしには分譲マンションの一室と、相当まとまった金額が与えられるらしい。その代わりに、今後わたしに関してはほとんど全く関知しないとのことだった。
未成年を身一つで放り出すことで生じ得る数々の面倒ごとを考えれば、こうした方が手っ取り早いのだろう。
荷物、なんて言われても、わたしには大した荷物なんてない。最低限の衣服。教科書。参考書。これくらい。他には何もない。
キャンバスやイーゼルをはじめとしたかさばる画材は、とっくの昔に全て捨てた。
……全部どうだっていい。
食事を摂ろうとダイニングに向かう。
だが、扉を開ける手が止まった。
そこには、いつか見た光景と同じものがあった。
わたしの両親と養子が、一緒に三人で食卓を囲んで話していた。
「…………」
ああ、あれが件の養子か、と改めて思った。
勉学にも芸術にも運動の才能にも恵まれた神童だという。全国模試では一位。ピアノの全国コンクールでも一位。部活動においても全国大会まで進み、見事優勝を収めたらしい。
一目見ただけでも、聡明で人当たりのいい様子が伝わってくる。
きっと、ああいう人のことを、特別と言うのだろう。
そういえば――と思い出した。
わたしが以前二位となった東日本ジュニアピアノコンクール。あのとき、最優秀賞を獲得したのは、年下の彼だった。遠縁だったのか。
会話の内容は端々しか聞こえないが、随分楽しそうだ。
知らない間に、相当打ち解けたらしい。父と母も、少なくとも表面上の仲を取り繕えるくらいには関係修復したようだ。
その空間は完成されていて、完結していた。一分の隙もなく。
きっと、これがあるべき姿なのだろう。
わたしは、ただ理解した。
家を出て、すっかり歩き慣れた道を進む。目を閉じていても、たどり着けるだろう。
住宅街の中の、それほど大きくはない公園。
ベンチに座ってしばらくすると、先輩がやってくる。
「瀬名」
彼はわたしを見ると、笑いかけてくれる。その空色の瞳は、わたしに向けられている。
「――先輩」
また、一緒に話す時間が始まる。誰にも邪魔されない時間が。
先輩とは、いつもこうしてお話するし、ときどき一緒に出かけたりもする。もう何年も、ずっと。
わたしは、先輩のことが大嫌いだから。
だから、続けていくんだ。
� �
「……あれ?」
先輩と公園で話した後、家に帰ると、自室の机の上に紙が一枚置かれていた。
これは、両親がわたしに何かを連絡するときに使う手段だった。
わたしは手に取って読んでみる。内容をかいつまんで言えば、遠縁の子どもを養子にするから、わたしに家から出ていくよう求めるものだった。
……くだらない。
わたしは、紙から手を離す。無意味なゴミは、ふわりと浮いて机の上に滑り落ちる。
そんなこと全部どうだってよかった。どうでもいい人間がどんなにどうでもいいことをしようがどうでもいい。
机の上のゴミを片付けると、わたしはノートを開いて明日の授業の予習を始めた。
� �
何度通ったかわからない公園。
そこで、先輩はわたしに向き合っていた。
「俺、東京の大学に合格したんだ」
「……え?」
十月に合格が発表されるとはどういうことだろう、と思ったが。
AO入試の結果は、今の時期にも公開されるらしい。
先輩の今までの功績や書いた論文、何よりも古文に向ける熱意は、大学側にとって覚えがよかったという。面接を担当した教授に、ぜひうちの大学に来てほしいとまで言われたそうだ。
先輩が合格したのは東京の有名な大学で、もちろん古典文学の研究でも名が轟いている。
ふつうの入試では、国語や古文に特化した先輩の能力は評価されづらい。本来ならば、合格するのは難しいレベルの大学。
そこに進学できるのは、彼の古文の研究という夢への大きな一歩になることは間違いない。
またとない機会だった。
だけど。
先輩が、上京する?
遠くに、行ってしまう?
「そんな顔するなって。盆と正月には帰ってくるから」
盆と正月?
なんて頓珍漢な言葉なのだろう。
そんなの三百六十五日の内の、たったの数日だ。会えるのは、八千七百六十時間の内の、微小とも言えるわずかな時間だ。残りの数百日――数千時間は、一体どうなるというのだろうか。
県内の大学に進学するっていうから、安心していたのに……。
「……寂しく、なってしまいますね」
どうにか声を発する。なるべく感情を込めずに。そう取り繕うのが精いっぱいだった。
あれ、これでいいんだろうか。今言うべき台詞は、これで適切なんだろうか。
わからない。もう何もわからなかった。
先輩がいなくなる。いなくなる。いなくなる。頭の中がそんな言葉に支配されて、先輩の話している内容が頭に入ってこない。
もうダメだった。
「わたし、帰ります」
彼に背を向けて、その場を去る。後ろで何か声がしたが、気にかける余裕もない。
足元がぐらつく。
天と地が逆さまになってしまったかのようにうまく歩けない。
壁に手をついて、自分を支えて、どうにか歩を進めるけど、それも長くは続かなくて、立っていられなくなって。膝をつく。
先輩が上京する。
先輩がどこかに行ってしまう。
そんな、そんなの――
許せるはずが、ない。
だって、わたしは、もっともっと先輩を不幸にしないといけないんだから。
遠くに行ってしまったら、それができなくなる。
わたしが同じ大学に入学するまで、二年も離れてしまうなんて――そんな時間、永遠みたいなものだった。
二年もすれば、先輩はきっとわたしのことなんてどうでもよくなるはずだ。なんだったら、忘れてしまうかもしれない。わたしは、こんなにも先輩のことを憎んでいるのに。憎くて憎くて、たまらないのに。彼にとってただの、無価値で無意味な存在になり下がる。
想像しただけで、どうにかなってしまいそうだった。
なんとか、しないと。
先輩が上京するなんて、そんなこと絶対に阻止しないと。
でも、どうすればいいのだろう?
あなたのことが憎くて仕方がないから上京しないでなんて、そんなの言えるはずがない。言っても聞き入れてくれるわけがない。
先輩は古文の研究をしたいって、それが将来の夢だって、言っていたんだから。こんな絶好の機会、捨てるはずがない。わたしなんかにいくら頼まれたところで、鬱陶しがるだけだろう。
きっと、何をやっても無駄だ。
もう終わりだ。
何もかも、終わり。
気付くと、わたしの両手は闇に浸したように真っ黒に染まっていた。いつかのときみたいに。
わたしは消えてしまうのだろうか。神庭みたきや、夜来なずなと同じように。
なんだか、全てがどうでもよかった。
こんな両手に、こんな身体に、こんな存在に一体何の意味があるのだろう。
だって、もう先輩はいなくなるんだから。
先輩にとってどうでもいい存在になり下がるのなら、消えてしまったって死んでしまったって何も変わらない。
そもそも二年も先輩に会えないなんて、生きている意味がない。
だったら、ここで消えてしまおう。
「瀬名、大丈夫か?」
先輩の声がした。見ると、わたしの傍に立って、心配そうな顔をしている。
「……先輩」
わざわざ追ってきてくれたのだろうか。
彼は、わたしを気遣う言葉をたくさん掛けてくれる。
気づけば両手は元の白色に戻っていた。
先輩の顔を見た瞬間に、自分の中に広がる感情が嫌だった。
彼のまなざしが、声が、全てが、わたしに与えるものが嫌だった。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
そうすれば、先輩はどこにも行かない。
だけど、わかっている。時間が止まるはずなんてない。そんなバカげたこと、起こらない。
わたしは、先輩と――
「……頑張らないと」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます