17 a broken clock is right twice a day
いよいよ、わたしは高校生になった。高等部の制服にも生活にも慣れつつある。
先輩は三年生になり、より一層勉強に励んでいるようだった。でも、こうして公園で話す時間は息抜きにいいらしく、続けていた。
先輩はわたしを見て目を細める。
「やっぱり、よく似合ってるよ。その髪飾り」
「あ、その……」
以前先輩からもらった、花韮の髪飾り。別に、着けているのに深い理由はないけど、褒められるとどうすればいいのかわからなくなる。
春は、好きな季節だった。
降り積もる雪が溶けてなくなって、緑や花が芽吹くから。
見慣れた公園も、様々な花が咲いてぱっと輝くようだった。
「瀬名って、花を見たりするの、好きだよな」
「え、そうですか?」
「ほら、今だって公園の花をよく見てるじゃないか」
「あ、その……綺麗なので」
「そういえば、県内に大きな国営公園があるんだけどさ、今の季節はチューリップや菜の花が咲き誇っていて、すごく綺麗らしいんだ」
「へえ……」
「行ってみるか?」
「い、いいんですか?」
「ああ」
公園か……楽しみだ。ほかにはどんな花が咲いているのだろう。
「バスで片道一時間くらい掛かるけど、話してればすぐだよ。でも、今は園内のレストハウスが改修中らしくって、公園の中でごはんを食べられるところがないらしいんだ。だから、昼過ぎに行った方がいいかもしれない」
折角遠出するのに、それほど長居できないのは残念だ。
そうだ、お弁当を持っていけばお昼の問題はクリアできるのではないだろうか。
「……じゃあ、わたしがお弁当作りましょうか?」
「え、いいのか?」
「はい」
それくらいなら、労力の内にも入らなかった。
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思えば、料理なんて家庭科実習くらいでしかやったことがない。
わたしは、書店でお弁当のおかずについてまとめた本を何冊か購入する。
毎日お弁当を作る人向けに、非常に多くのメニューが載っている。とても参考になるけど、精査するのが難しい。どれを作れば先輩に喜んでもらえるだろう?
彩りのいいものにしたい。やっぱり見た目がいいと、おいしそうに思えるだろうし。
先輩はどんな料理が好きなのだろう。嫌いだったり、食べられないものはあるのだろうか。
いつも甘いもののお店に付き合ってくれるけど、それ以外は……精々喫茶店くらいにしか行ったことがない。
しまった。こんなことなら甘いものなんて食べたがるのをやめて、レストランにでも行けばよかった。そうすれば少しは先輩の好みがわかったのに。
わからない……どれを作ればいいのかな……。
とりあえず玉子焼きを作ってみることにした。無難なところだろうし、黄色はきっとお弁当を華やかにすることだろう。
レシピとにらめっこするが、「適量」とはどのくらいなのだろう。どうして手順書に曖昧な記述がされているのだろう。謎だ。数学の数式に「適量」なんてものがあったら、そもそも成り立たないだろうに。前後の式から判断できるわけでもないし。
家に玉子焼き用の長方形のフライパンがあったので、熱して、レシピ通りに調味した溶き卵を流し込む。
「ぐ……」
卵をひっくり返すのが難しい。思い切り形が崩れてしまう。
これは、一体どうすればいいんだろう。
ひとまずわかったのは、菜箸はこの作業に向いていなさそうであるということだ。細くて、生地に穴が開いてしまう。フライ返しを使おう。
次に、ひっくり返すタイミングを見極めることも重要だ。ある程度固まっていなければ当然形が崩れてしまうし、だからといって熱し過ぎれば焦げてしまう。
適切な焼け具合となった卵を、フライ返しで全体を持ち上げるようにしてひっくり返す。ひとまずはこれで試してみよう。
しかも、超えるべき関門はこれだけではない。卵をひっくり返すのはあくまで通過点。一番重要なのはその後に控えた、生地を巻く作業だろう。ここで失敗したら全て終わりだと言ってもいい。熟考すべきだ。
このフライパンを縦に四等分し、それに沿って巻くことはもう決めてある。
別のレシピ本に目を通す。
どうやら玉子焼きには、ひっくり返さなくてもいい作り方があるようだ。難題のひとつをスキップできるのなら、それがいい。このレシピを採用しよう。
「…………」
またフライパンと向き合うが、知識や作戦を頭に入れても、なかなか思うように身体が動かなかった。
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わたしは額の汗を拭う。
皿の上に乗った、鮮やかな黄色の玉子焼き。形もいい。一切れ口に入れてみる。うん、味も悪くないと思う。「適量」がわからず甘めに作ってしまったため、味付けの方向性は後でじっくり考え直す必要があるが。
冷蔵庫にあった卵を全て使い切ってしまったけど、どうにか上手く玉子焼きを作れるようになった。
キッチンには玉子焼きの残骸が山のように残っている。これらは後でまとめてスクランブルエッグにして、何回かに分けて食べよう。
しかし、おかずをひとつマスターするだけでこんなに骨が折れるなんて。一体お弁当を作るのにどれだけの手間がかかるというのだろう。料理とはこんなに難しいものだったのか。
料理は一般教養の中に入るだろうし、これぐらいできないと先輩に失望されてしまう。これは大きな課題だ。
そう考えていると、声を掛けられる。
「あれ、どうしたんですか?」
しまった。家の調理師が夕食を作りに来てしまった。もうそんなに時間が経っていたのか。
「すみません、すぐに片付けます」
失敗した玉子焼きの山。広げられたレシピ本の数々。
彼はキッチンの様子を見て、わたしの目的を悟ったらしい。
「よかったら、料理について少し教えましょうか?」
「え、そんな、業務外のことをお願いするわけには……」
「大丈夫ですよ。これくらい、安いものですし」
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結構いい人だった。色々料理のことについて教えてくれて、お弁当の試作品が完成した。
「適量」についてもなんとなくわかってきた。
彩りと味のバランスを考えて構成したお弁当。
リハーサルで作ったものを調理師に味見してもらったが、そこそこの評価をもらえた。これなら、先輩に持って行っても大丈夫だろう。
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待ち合わせ場所でしばらく待っていると、約束していた時間の一時間前に先輩はやってくる。
思い返せば、待ち合わせの時間を設定したとき、彼は随分遅めの時刻を「きっとこれくらいがちょうどいいから」と言っていた。もしかして、早めに来ることを踏まえていたのだろうか。
「あ、その服……」
先輩の視線は、こちらに向いていた。今日わたしは、以前買った薄桃色のワンピースを着ている。
「先輩、どう、ですか? これ」
「えっと、その、すごく、かわいいよ」
か、かわいいなんて……。それは、なんともくすぐったい響きだった。
先輩と一緒にバスに乗る。本当に、話していたらすぐ公園に着いた。
空には雲ひとつなく、ぽかぽかとした春の陽気が心地よい。吹き抜ける風が涼を運ぶ。いい天気だ。
県の外れにある広大な公園は、のんびり歩いていたら一日では周りきれないのではないかと思うくらいだった。
見渡すほど大きな花壇には、色とりどりの花々が咲いている。空気の流れに揺れるパンジーにチューリップ、石楠花などなど。桜まである。
できることなら、全て目に焼き付けたい。
絵を描いていた頃だったら、スケッチブックを取り出していただろう。でも、今はもうそんな必要はなかった。
「……いい香り」
春風が、花の匂いを運んできた。
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しばらく公園を歩いたところで、お昼の時間になる。
わたしと先輩は、二人用のベンチに腰掛けた。
二段重ねの弁当箱を取り出して、先輩に渡す。
「あの、これ、よかったら……」
「ああ、ありがとう」
お弁当には、玉子焼きにプチトマトに、生ハムのきゅうり巻き。メインとしてささみのチーズフライを入れた。
ご飯には、にんじん鶏そぼろが掛かっている。
「おお、豪勢だな!」
「そ、そんな……ふつうです」
先輩はささみのチーズフライを口にする。
「すっごくうまいな!」
「ほ、本当ですか?」
「ああ。瀬名って料理上手なんだな」
先輩はおいしそうにお弁当を食べている。
よかった、練習した甲斐があった。
「この玉子焼き、桜でんぶが入ってるんだな」
「はい。その方が春らしいかと思って」
「ああ。伊達巻きみたいに甘い玉子焼きによく合ってるよ」
「…………」
これでも甘さひかえめにしたつもりだったのに……まだ足りなかったか。改良の余地ありだ。
先輩は喜んでくれたが、こんな付け焼き刃の技術ではいけない。もっと普段から料理をしないと。どんな料理でも作れるように。先輩の好みも調べて、それに沿う料理を作れるようにならないと。
「その……先輩はどんな料理が好きなんですか?」
「え? ああ――すき焼きとか、生姜焼きとか、至ってふつうの好みだと思うよ。どちらかといえば、洋食より和食の方が好きかな」
「そ、そうですか……」
先輩は和食が好きなのか。だったらもっと練習して、色々作れるようにならないと。
「あれ? 弁当、瀬名の分は?」
「え?」
あ、そうか。わたしの分も必要なのか。先輩の分を作るのに夢中で、すっかり失念していた。
「じゃあこれ、半分に分けよう」
先輩はお弁当を差し出してくる。だけど、それを受け取る気にはならなかった。
「あの、全部先輩に食べて欲しいので……」
そう言うと、彼は目を丸くする。しまった、失言だっただろうか。でも、そのために作ったのだし。
「わかった、ありがとう。後で甘いものでも食べに行こうか」
「え、いいんですか!?」
「ああ」
先輩は笑みを浮かべる。
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昼食の後は、また公園を散策する。ここはアクティビティも豊富で、遊具はもちろん、ボートに乗ったり軽いスポーツができたりと、遊ぶ内容に事欠かない。
「あれ?」
先輩は急に立ち止まると、ポケットに手を入れて何かを探しているようだった。
「先輩、どうしたんですか?」
「携帯がないみたいだ。どこかに置いてきたかもしれない。ごめん、ちょっと俺の携帯鳴らしてくれないか?」
「はい」
わたしの携帯電話を操作して、先輩の電話番号に掛ける。
少しすると、着信音が先輩の鞄の中から聞こえてきた。
「ふふ、もう、先輩ったら。灯台下暗しですね」
「あはは、そういえばボートに乗るときに仕舞ったんだった」
失くしたわけではなくて、よかったが。
「瀬名って、俺のこと『先輩』で登録してるんだ」
電話を掛けたときに、電話帳の登録名を見られたらしい。
「あ、はい……そうですが」
「それだと、どの先輩かわからなくならないか?」
「ほかの人は名前で登録しているので」
特に不都合はない。先輩は先輩だし……それ以外の人間は、区別するまでもない。
至極ふつうのことだと思うのに、先輩は変な顔をしている。
「そういえば、瀬名って俺のこと名前で呼ばないよな」
「い、いけませんか?」
「いいや、ちょっと思っただけだ」
先輩はもしかして「先輩」って呼ばれるのが嫌なのだろうか。だとしたらこれ以上呼ぶわけにも……。
「……先輩は、名前呼びの方がいいですか?」
「特にこだわりはないけど――俺だって来年には卒業するしな」
そうか、先輩は先輩でなくなってしまうのか。
わたしにとっては、永遠に先輩だけど。
……試しに、名前で呼んでみようかな。
そう思って、口を開いてみる。
「こ、こ、ここ、こ――」
頭がくらくらする。舌がうまく回らない。
そんな……先輩のことを名前で呼ぶなんて。そんなのまるで。
先輩の顔がまともに見られない。
「あはは、ごめん、俺が悪かったよ」
先輩は、わたしの頭にぽんと手を置く。彼の名前を呼ぶことが、こんなに難題だったなんて。
「……先輩は先輩です」
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日が暮れるまで公園を巡って、帰りのバスに一緒に乗る。また、一時間くらい先輩とお話できる。
「そういえば、先輩の書いた古文の論考が、また雑誌に掲載されていましたね」
「ああ、そうだったな」
「やっぱり先輩はすごいです」
古典文学同好会がなくなっても、先輩は様々な功績を上げていた。
「前も言ったけど、まだまだ学術誌レベルには及ばないんだ。もっと頑張らないとな」
もう充分すごいのに、彼は向上心に溢れていた。
「『源氏物語』の時代は、一夫一妻制だったっていう研究があるんだ」
「え?」
そんなの信じられない。
『源氏物語』の主人公だって、複数の妻を持ち、様々な女性のところに通っていたのに。
「妾妻は複数いるけど、正妻はひとりだろ? 夫と住み暮らす妻はひとりだけで、あとの妻は、夫が訪ねてくるのを待つしかない」
確かに……それはそうだけど。でも、それを一夫一妻制と言うのはなんだか納得がいかない。
「生物的に考えれば、一夫多妻制の方が効率がいい。事実、一夫多妻制は多くの時代や場所で採用されてきた。無論現代においても。だけど、俺たちにとっては結婚といえば一夫一妻だ。法律的な拘束はもちろんあるし、そういう常識だって培われている」
「……やっぱり、そちらの方がいいですよね」
「ああ。今の時代の感覚だとな」
先輩の弁舌はさわやかだった。普段、余程勉強しているのだろう。
「恋愛に対する厳格さは、家父長制の隆盛に伴って根付いたんだ。それ以前の時代は、そうでもなかった。古代に至っては、対偶婚だ。望む間だけ一緒にいて、飽きたら離れるんだよ。ひどく流動的で性愛偏重の婚姻。そうなったら、最早不義という概念すら存在しない。その方が自由だって思う人もいるかな?」
いくら古代とはいえ、そんな恋愛が当たり前だったなんて、信じられない。今がそんな時代でなくて、よかった。
「家父長制が色濃い時代の、ろくに恋愛結婚ができない状態だって、不便だと思うよ。その時代は、結婚相手を選択する自由は、ないに等しかったんだから」
確かに、好きな人と結婚できるのならそれが一番だ。
しかしそれは、結婚が契約という意味合いを持っているからにほかならない。結婚の意義が薄まれば、そもそも結婚する意味がなくなるのだ。
「現代は、古代の婚姻形式に回帰しようとしているのかもしれないな……」
自由に恋愛できる時代になるということは、婚姻関係が持つ絶対性が薄れることを意味する。古代のように、すぐにくっついたり別れる時代に戻りつつあるのかもしれない。
でも、そんなものは望ましくない。
できれば、もっと拘束力のあるものがいい。
文字通り、病めるときも健やかなるときも。その命ある限り永遠に続くほど拘束力のあるものが。
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