20 good holiday
ラネットに――止まった時間に染め上げられた観覧車。
俺の前には、扉があったところから覗く空が広がっているばかりだ。見下ろすと、怯むほど地面が遠い。
こんな異常事態、救助の手を期待しても、一体いつ来るのかわからない。
下手をすれば、虐殺が全部済んでからということになりかねない。
まさに、空中の密室に閉じ込められている。
早速進退窮まる状況に追い込まれた。
神庭みたき……厄介極まりない幼馴染。
彼女の姿は、既に見えなくなっている。
――私ね、手は抜きたくないの。そうしたら敗北したときの楽しさが目減りするでしょう? だから、頑張ってね。
よくもいけしゃあしゃあと言ってくれたものだ。俺を何もできない環境に引きずり込んで。
お前は、遊園地から全ての人間が消えるまで、俺が指をくわえて見ていることを望んでいるのか?
そんなはずはない。
あの幼馴染が求めているのは、こんな状況すら打開し得る存在だ。
だが、どうしようもなかった。俺は時間を操る術などない、至ってふつうの人間なのだから。
いや。
俺の眼前に広がる空に、足を踏み出せばいい。そうすれば、彼女と同じようにここから出られる。
その数秒後には、硬い地面に叩きつけられた死体が転がっているだろうが。
「はぁ……」
想像は容易い。
宙吊りになったゴンドラから飛び降りればどうなるか。
とはいえ、ずっと観覧車の中で待ちぼうけているわけにもいかない。
俺はみたきを信じている。
彼女が俺を殺さないことを信じている。
ここで躊躇して何もしない人間を必要としていないことも。
そして神庭みたきも、鴇野孝太郎が自分を信じることを信じているに違いなかった。
意を決して、俺は空に身を投げ出した。
身体を支えるものがなくなる。逆さになって、頭が下になる。
空気の重みを感じる。風が肌を切る。
地面が近づいていく時間は、案外長く感じられた。
高さ三十五メートルは、一般的に十二階の高さくらいに相当する。
落ちたら当然のように死ぬ距離だ。この体勢では、受け身すら取れない。
ふと、昔のことが脳裏を過った。
いつだったか、屋上から飛び降りて死のうと考えていた頃のことを。こんな形で実現に相成るとは、とんだ運命もあったものだ。
自分の意志で死を決定できるのはいい。
だが、やはり飛び降りは、死に方として好ましくなかった。
その瞬間、時間が止まった。周囲から色彩が零れ落ちて、モノトーンになる。
重力が消え、全身が浮き上がる錯覚に囚われる。俺は急いで身を翻して、体勢を変える。
一秒後、色と時間が戻ってくる。
気づけば、タイル張りの地面に座り込んでいる自分がいた。痛みはない。身体のどこにも異常はない。
時間停止。重力のコントロール。
こんなことをするのは、あの頭がおかしい幼馴染しかいない。
一瞬心臓が止まるかと思ったが、何も問題はない。
俺は立ち上がって、歩き出した。
▶ ▶
地上の様子は、随分様変わりしていた。
無彩色の世界。影絵のように黒一色に染まったアトラクション。
空までもが、灰色に染まっていく。
右往左往する人間たちだけが元の色を留めていて、空間停止としか言いようがない光景だった。
こんな異変、当然来園者たちも黙ってはいない。
出口を目指して人の大群が押し寄せている。響く混乱の声の中に、時折怒声が混じる。血相を変えて携帯電話を操作しようとしている者も多くいた。
係員は、制止しようにも聞き入れられず、動転した客に詰め寄られても何も答えられず、ただ頭を抱えている。
アトラクションに乗った状態で黒色に呑まれた人々は、これ以上の恐慌をきたしていることだろう。
ジェットコースターは、一回転するコースの一番上――逆さになった状態で止まっている。本来なら運動エネルギーがあるため、ああやって静止することはない。
だが、コースターそのものの時間が止められているのだ。あり得ない状態になってしまう。
乗客も逆さ吊りとなっているだろう。こうなると、人間自体の時間は止まっていないことが逆に拷問のようになる。
各種ライドマシンは空中高くに固まっており、バイキングは転覆寸前のように垂直になっている。
よりにもよって最悪のタイミングを狙い澄まして時間を止めていた。
冴木メリーランドは、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
午後一時頃、遊園地が最も混雑する時間帯を狙った惨事。
約八ヘクタール、東京ドームおよそ二個分の敷地内全てを包むラネット。
携帯電話は圏外のままで、つながらない。仕掛けたカメラ映像も同様。
時間が止まっては、無線通信も働かないということなのだろう。
これでは民俗学研究会のメンバーと連携が取れない。
笠沙さんの空間停止ではこんなことは起きなかったから、予想外だった。規模が大きすぎるのが原因か、それともみたきが何か細工をしているのか……考えても如何ともし難い。
人波に押され、俺も入場口の方に流されていく。しかし、客が外に脱出している様子は見受けられない。
目を凝らすと、敷地外との境に黒い壁が立ちはだかっている。
まるで塀のように高く隙間がない。壁と空に区切り目はなく、黒と灰色が溶け合っていた。
これが、停止された空間の端――
いくら人が押し寄せても、絶対の檻となって逃がそうとしない。
みたきの空間停止を妨害する計画は、失敗したらしい。
時間操作で彼女を凌駕することなんて、土台無理だったのだ。
▶ ▶
入場口へ向かう群勢から離れると、いくらか人口密度が減って歩きやすくなる。
太陽の温度も、止まった時間にまでは届かないのか、徐々に気温が下がっているようだ。
しかし、ここからどうすればいいのだろう。研究会員と連絡が取れないのが痛い。このまま園内を彷徨って、出くわすことを祈るしかないのか……?
そう考えていると、耳をつんざく悲鳴が響き渡る。脊髄反射的に声の方向に目を遣ると、逃げる少女たちと、それを追う男の姿を捉える。
男の方には見覚えがあった。
あれは確か、民俗学研究会が捕らえたはずの、みたきの信者。
地下牢に閉じ込められているはずの人物。
どうして、ここに?
逃げ出したのか?
今は考えている場合ではない。
俺も後に続いて駆け出した。
信者は、少女ふたりを壁際に追い詰めている。手を伸ばしてにじり寄ろうとするが、追ってきた俺に気づいて振り返った。
「お前……俺たちを誘拐している犯罪者の一味だな?」
さすがに顔を覚えられていたらしい。
「お前ら、警察に突き出されればお縄になるってわかってんだろうな? 今は
いくら虐殺を止めるためとはいえ、誘拐と監禁が法に悖るのは紛れもない事実だった。
「ちょうどいい。ここで
男は、ターゲットをこちらに変更したようだ。瞬時に走り出して、距離を縮めてくる。
向こうは、手で触れたものを消せる危険人物。俺はすぐさま警棒型スタンガンを取り出す。
「……なんだ? それは。そんなんで勝とうというのか?」
「ああ。これはスタンガンだ。当たっても消えこそしないが、しばらく行動不能になる」
足を止める信者。
この武器は、相手が軽率にこちらに近づくことを防ぐ効力があった。
しかし、こうやって真正面に対峙している時点で、状況は不利だ。
隙を突いてスタンガンでしびれさせることしか、勝ち目はないのだから。
膠着状態の中、男は突然背を向けると、壁際で腰を抜かしている少女に組み付いた。
「きゃあああああっ!」
黄色い声が張り上げられる。
「動いたらこの女を殺す――なんてのはどうだ?」
ふてぶてしく笑う信者。
「ぐ……」
人質……面倒な展開になった。助けようにも、この男が少女を消してしまう時間の方がずっと短い。
「その警棒を地面に落とせ。それ以外は動くんじゃねえぞ。こんな女、赤子の手をひねるより簡単に殺せるんだ」
「ひ、ひぃ……っ」
恐怖に青ざめる人質を前にしては、どうしようもなかった。
俺は言われるがままに警棒を手放す。
「ひひひ、それでいい。誘拐犯かつ監禁犯には、罰が必要だよなぁ? それが法治国家たるこの国の清く正しい住民として、するべきことだよなぁ? さーて、これからどうしてもらおうか……」
万能感に酔いしれているのか、嗜虐心に浸っているのか、男は顔を歪めてにやついている。
自分の罪過を棚に上げて、清く正しい住民なんてよく言えたものだ。
現状を打破する手立ては思いつかなかった。
こんなシンパの言う通りにするしかないのか……?
「じゃあ、まずは服を脱いでもらおうか。男の裸なんて見たかねえけど、遊園地の真ん中でマッパになってる男は、さぞ滑稽で笑えるだろうからな――」
悪趣味にも程がある命令を出そうとした男だったが、その動きは固まる。
一瞬で、首から上を除く全身が黒一色に変化していた。
これはラネット――
既視感があった。
「か、笠沙さん――」
彼が近くにいる。機械を操作して、助けてくれたのだ。
呆けている暇はない。俺は急いで、硬直している信者にラネットキャンセラーの手錠を着けてから、ロープで縛る。
「や、やめ、ろ……! 離せ……!」
抗議の声など聞く余地もない。
「……お前、一体どうやって地下牢から逃げ出したんだ?」
「はっ、お前たちは……気づいて、ないんだ。これが……予言された未来で、最初から勝ち目なんてないってことに……」
「何……?」
勝ち目がない? 最初から?
詰問を重ねようとしたが、それは闖入者に妨げられる。
「あっ、ありがとうございます……!」
遠巻きに見ていたもうひとりの少女だった。寄ってきて礼を言う。
人質にされた方は、放心したように座り込んでいたが、友人の言葉に釣られるようにして感謝の言葉を述べる。
「た、助かりました……こんな変質者に追いかけられて、抱きつかれて、本当に気持ち悪かったので……」
「無事でよかったです」
返答してから、地面に転がした信者を見る。彼は不貞腐れたように口を固く閉ざして、何も話す気はなさそうだ。
みたきは、逃げ場をなくした遊園地で、信者たちに客を殺して回させているのか……。ライブハウスでの悪夢の鬼ごっこの再来――いや、実行と言うべきか。
ただ遊園地全てを消し去るより、こうして人々に恐怖を与えながら殺していくなんて、如何にもみたきの好きそうな方法だった。
▶ ▶
少女たちを逃してから、男――みたきのシンパをトランクス一枚に剥いて、逃げられないよう遊園地の柵に縛り付ける。口には、男の脱がした靴下を詰め込むのも忘れない。
「ま、まさかこんなことになるなんて……十年老けた……」
再会した笠沙さんは、深く嘆息する。
「ありがとうございます。また助けられましたね」
「いえ……す、すみません……神庭みたきの空間停止を止められなくて」
「みたきの奴が規格外過ぎるんですよ」
「そ、それでも……僕が成功していれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに……」
弱りきった声。失敗が尾を引いているようだ。
どう励ましたものか考えていると、うつむいていた彼は顔を上げる。
「……大事なのは、これからどうするか、ですよね」
「ええ、そうですよ」
「僕も……頑張ります。みんなを助けるために」
笠沙さんの瞳には、意志が宿っていた。失敗にめげない、強い意志が。
ああ、彼はもう大丈夫だ、と思った。弱さの中から、強さを掴み取ったのだ。
「鴇野さん、神庭みたきに出くわしたそうですが、大丈夫でしたか?」
「それは……大丈夫でした。なんともありません」
何事もなかったとは言わないが、命に別条はないし。
「そうですか、よかった……」
彼の話では、みたきに会ったという連絡を受けてから、すぐに俺のところに向かおうとしたが間に合わず、ほどなくして遊園地内が混乱に陥ったという。
あまりの事態にどうするべきか困りあぐねていたら、少女の悲鳴が聞こえ、その方向を目指したら、信者と対峙している俺がいたらしい。
「鴇野さんは、色んな人を身を挺して助けようとするから、たまに見ていて心配になりますよ」
「あはは、ありがとうございます」
他人の人生より自分の人生を優先する道理などなかった。人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきだから。自分の人生だけが特別なわけがない。
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