2 暗号化される世界



 念のため図書館にある『万葉集』全てを開いてみたが――ゆうに数十冊はあった――カードも、目を引く何かしらもなかった。

「うーん……」


――こにりなんううんしとまよさあ


 この奇怪な文字列をじっと眺めていると、だんだんゲシュタルト崩壊してくる。

 なんなんだ、これは一体。全く糸口がつかめない。完全に行き詰まってしまった。




 ▶ ▶




「鴇野、そろそろ次の予定の時間じゃない?」

「ああ、そうだな」


 朝霧は、テーブルの上に広げた荷物をまとめ始める。進展はそれほどなかったが、俺を気遣ってここらで切り上げようとしているのだろう。


「助かったわ。特に、『万葉集』のところ。あたしひとりじゃ、絶対に気づけなかったもの」

「あはは、和歌とか古文とか、そういうのに詳しいんだ」

「珍しいじゃない。今時の子って、あんまりそういう人いないと思ってたわ」


 珍しい、か。確かにそうだろう。古文に興味を抱かないどころか、学ぶ必要なんてないとまで言い出す人間も見たことがある。それも、少なくない数で。


「……幼馴染が、好きだったんだ。その影響かな」

「へえ、そうなの」

 つまらない感傷が表に出そうになって、抑える。こんなこと、朝霧には何の関係もない。

 それよりも、問題は暗号だ。


 家に帰っても見返せるように、写真を撮っておこう。

 俺は携帯電話を取り出すと、カードを撮る。ぱしゃり、とシャッター音が鳴り響いた。


「えっ、何それ! カメラなの?」

 途端、朝霧が食いついてくる。

「携帯電話だけど……知らないのか?」

「電話? 電話なのに、写真も撮れるの?」


 ん? なんだこの反応。

 携帯を知らないのか……?

 最初のカードの裏に書かれた和歌も、インターネットで調べれば済んだ話だ。だが、携帯電話を知らないのなら、頷ける。


 朝霧は携帯電話に興味津々で、使い方を説明するとそれはもう食いついてきた。ある程度機能をレクチャーして、ようやく満足してくれたようだ。


「あ、店を出る前にお勘定も払わないとね」

 彼女は、ずっと引きずっていたトランクケースを開ける。 

 トランクの中には、札束がぎっしりと隙間なく詰め込まれていた。

「な……」

 しかも単なる札束じゃない。全て聖徳太子が載った一万円札なのだ。


 詳しくないが、旧札とは簡単に大量に用意できるものなのだろうか。

「……ちょっとごめんな」

 無作為に札束のひとつを手に取って、ぺらぺらめくってみる。確かに全て聖徳太子の顔がある。他にもいくつか札束を確かめてみたが、福沢諭吉が印刷されたものは一枚としてなかった。


「旧札なんて初めて見たよ」

「あら、そうなの。ごめんね、細かいのがないからこれで失礼するわね」

 そう言って、朝霧は一万円札を一枚こちらに渡してくる。


「あ、ああ……後でおつりを渡すから」

 受け取るが、戸惑いが隠せなかった。

 なんなんだ? 彼女は。

 明らかに尋常ではない。


 奇妙なカードを手がかりに、弟の行方を追って。

 携帯電話を知らず、トランクいっぱいの旧札を持っていて。

 これで何の事情もない至って普通の人間だったら、逆に驚くだろう。

 それくらい突飛な存在だった。




 ▶ ▶




 会計を終えて、店を出る。


「鴇野、今日はありがとう。もしかしたら、また会うこともあるかもしれないわね」

「というか、まだ全然解決してないじゃないか。よかったら、明日も手伝うよ」

 和歌に関することなら、いくらか力になれそうだし。

 ひとりで弟を探し回るのは、きっとひどく骨が折れて立ち往生してしまうだろう。


「ふふ、随分優しいのね」

「あ――お節介だったか?」

「ううん、全然。すっごくありがたい」

 朝霧の笑顔は、からっとした明るさに満ちていた。


「あなたにはお世話になったし、信頼できそうだから言うわ」

 自信に満ちた瞳をこちらに向けて、彼女は言う。

「あたしは、過去から来たのよ」


 過去?

 一瞬耳を疑った。


 時空旅行。

 タイムトラベル。

 そんな言葉は、別に耳慣れないものではない。だが、あくまで創作上の話だ。現実と地続きではなかった。


 しかし、それで納得できる部分も大いにあった。

 携帯電話を知らないのも、旧札を持っているのも。

 いかにもな過去からの来訪者だった。

 だからといって、聖徳太子の札束をトランクにぎっしり詰めているのはだいぶ得心いかないが。


「えっと……タイムマシンとか、使ったのか?」

 訊きたいことが山ほどあって、思わずそんな月並みな質問から始めてしまう。

 対する朝霧の返答は、あっけらかんとしたものだった。


「そんな大仰な物は要らないわよ。時間は人の意志で操れるからね」


――孝太郎くん、知ってる?


――時間は人の意志で操れるのよ。


「…………」

「どうしたのよ? 急に黙り込んで」

「え、あ、いや……」

 その台詞は……。

 単なる偶然、だよな?


「興味あるの? 時間移動に」

 ないと言ったら嘘になる。

 『狛野物語』や『松が枝』といった散逸物語を読んでみたいし、『宇治拾遺物語』の編纂者が知りたい。


「あはは、さすがにそんなに遡られないわよ」

 千年ほど前に行くことはできないらしい。とはいえ彼女の様子を見るに、携帯電話のない時代から――少なくとも数十年単位の移動は可能なようだ。


「じゃあ、過去に戻ってやり直すことも、可能なのか?」

「…………」

 朝霧は眉をひそめた。


「無理よ。そんなことはできない」

「……そうか」

 過去から来たという少女の佇まいは、泰然としていた。

 それなら、彼女はなぜ未来を訪れようと思ったのだろう。


「秋萩もあたしと同じ時代からここに来て――あいつは、この力を悪用しようとしている」

 時間移動の力を、悪用?

 そんなの、少し考えただけでいくらでも甚大な被害が思いつく。

 重大なタイムパラドックスを起こしたり、世界そのものの有り様を変えたり。


「当然止めたわ。でも、そんなこと聞くような相手じゃない。何度も衝突して……最終的に、勝負をして決めることになった」

「勝負って……どんな?」

「これよ」

 朝霧は、暗号が書かれたカードを見せる。


「こんなヒントにもならないようなヒントで、あたしがあいつを見つけ出すことができれば、あいつはバカなことをやめるっていう賭けなの」

 いわば時空を超えたかくれんぼね、と彼女は話す。


「でもね、絶対に見つけ出さないといけない。あたしはあいつを止めなくてはならないから」




 ▶ ▶




 家に帰ると、瀬名はちゃぶ台にノートや参考書を広げて勉強していた。俺を見ると、すぐに笑顔を向けてくる。

「あ、先輩、おかえりなさい」

 思わず釣られてこちらの顔まで綻ぶような、魅力的な表情。小柄であどけないとはいえ、その端正な容貌は可愛らしさというよりも綺麗さが際立っている。

 恰好は部屋着で、ゆったりとした水色のワンピースを纏っている。丈は長く、ノースリーブで涼しげだ。


「ただいま」

 そういえば今日過去から来た人間に会ったよ、と。瀬名に話したらどうなるだろう。

 彼女は、こちらの話を疑ってかかるような人間ではない。きっと真面目に聞いてくれる。だが、だからこそ話す気にはならなかった。

 軽々しく吹聴するようなことでもないだろう。朝霧は俺を信用して明かしてくれたんだろうし。


「先輩、ここの解釈なんですが」

 瀬名は参考書を指さす。

「ああ、古文か」

「わからないところがあるんです。少し教えてもらえませんか?」

「いいよ」

「ありがとうございます」

 瀬名は微笑む。この表情が見られるのなら、軽く勉強を教えるくらい安いものだった。


 腰を落として参考書に目を落とす。『我身にたどる姫君』らしい。

 瀬名が指差しているのは設問外の部分だった。ただ問題を解くには、読み飛ばしても問題ないような箇所。


「でも、気になるんです」

「瀬名は真面目だな」

 皮肉でもなんでもなく、心から出た言葉だった。

「ちょっと待っててくれ。確か注釈書があったはずだから」


 俺は本棚に並んだ背表紙を次々に見ていく。すぐに目的のものを見つけ出すと、ちゃぶ台の上に広げる。

「えっと、このページは――」

 瀬名は俺の手元の注釈書を覗き込んでくる。眼下で彼女の頭がひょこひょこ動いた。つむじまで見える。


 彼女は成績優秀だ。特進クラスに所属し、学年トップの座を争うほどに。

 いくら年上とはいえ、俺が教えられるのは古文くらいだった。きっと大学も東京の難関大学に簡単に合格する。

 そうなったら、こうして一緒に暮らすことはなくなるだろう。俺は、そう思った。




 ▶ ▶




 古文の勉強を終えて、俺は一息つく。

 さすがに瀬名が引っ掛かるだけあって、だいぶ読解に骨が折れた。


「先輩、ありがとうございました。これですっきりしました」

「あはは、どういたしまして」

 正直俺の方が教えられたようなものだが。


「そうだ、瀬名はこの暗号、わかるか?」

 「こにりなんううんしとまよさあ」という謎の文章が書かれたカードを、携帯電話で見せる。

 彼女なら、何か知っているかもしれない。


「なんですか? これ。大学の催しか何かですか?」

 大学の催し、か。言い様によってはそうなるのかもしれない。


「この右下にある②という数字は?」

「ああ、その前に一枚カードがあったんだ」

「なるほど」

 瀬名は、まじまじと奇妙な文字列を眺めている。


「ふふ、なんだか昔読んだ推理小説を思い出します」

 隣に座る少女は、携帯電話の液晶に指を滑らせる。

「まず目につくのは、『う』が連続している点ですね。それに、『うう』が『ん』で挟まれています」

「そうだな……」

「これだけ法則性がないと、換字式なのかもしれませんね」


 換字式。文字を一文字ずつ別の文字に置き換えるという暗号である。

 たとえばシーザー式なら、「A」を「B」、「B」を「C」というふうにずらして置き換えていく。「HAPPY」なら、「IBQQZ」となるのだ。


 だが、ずらすのは一文字だけとは限らない。五文字ずらして「MFUUD」とすることもできるし、そもそも文字の置き換えを無作為に行い、「A」を「S」、「B」を「L」とすることもある。

 こうなってくると、もう途方もないパターンが考えられる。


「アルファベットなら二十六文字しかないからまだ楽ですが、平仮名となると五十文字です。濁点や拗音なども含めれば、もっと増えるでしょう」

 だいいち、平仮名を平仮名に置き換えているとは限らない。「A」を「せ」、「B」を「ゆ」に置き換えている可能性だって考えられる。


「これだけの情報量で解くのは、無理がありますね。あまりにも文が短すぎて、法則性を見出だせません。そもそも、換字式でないという可能性も大いにありますし」

「そうだな……」

 やはり、簡単には解き明かせないか。


「行き詰っちゃいましたね。そうだ、先輩。スイカがあるんです。一緒に食べませんか?」

「お、いいな」

「ふふ、では早速切ってきますね」

 彼女の姿がキッチンに消え、少しすると小気味いい包丁の音が聞こえてきた。手伝おうかとも思ったが、二人羽織になるよりは彼女ひとりに任せた方が安全だろう。


 いくらかの時間を置いて、瀬名が再び部屋に戻ってくる。手にした大皿に乗せられた、スイカ。二等辺三角形のような形に切り分けられている。

「ああ、ありがとう」

 一切れ手に取る。


 種がないと思ったら、どうやら丁寧に全部取り除いてくれたらしい。

「なんか悪いな、わざわざ」

「いえ、切り方にコツがあるんです」

 随分器用なものだ。

 ありがたくスイカを一口かじる。甘くて瑞々しい味が広がった。


 瀬名は無邪気に笑みを浮かべる。

「おいしいですね」

「そうだな」


 明日また朝霧と約束しているし、暗号はそのときに考え直すか。

 一晩経てば、新しい考えが浮かぶかもしれないし。

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