3 終わりとの出会い
翌日も、空きコマに朝霧と落ち合った。
図書館で暗号に関する本を借り、大学のラウンジでふたりで読み漁ったりした。しかし、進展はなかった。
うーん、「こにりなんううんしとまよさあ」「こにりなんううんしとまよさあ」――ダメだ、ゲシュタルト崩壊しそうだ。
「北山の~」の和歌の方に何か手がかりがあるかと、和歌から「こにりなんううんしとまよさあ」を引いてみたり、逆に足してみたりしたが、余計混迷を極めるばかりだった。
「あああああああっ! もうダメ! こんな意味のわからない文章とにらめっこしてたら、脳がバターになるわ!」
朝霧が突然声を上げる。相当キているらしい。
「あはは、休憩しようか」
「じゃあ、どっかにお昼食べに行かない? ちょうどいい時間だし」
「ああ、悪い、俺弁当だから」
ありがたいことに、瀬名は毎日弁当を作ってくれる。
「それならあたし、その辺のお店で何か買ってくるわ」
朝霧は、足早にラウンジを出ていった。
店であの聖徳太子札を出すのだろうか。戸惑う店員の顔が目に浮かぶ。
彼女は、過去から来たと言っていた。
確かに今時のものには疎いようだったが、実際話してみると感覚は同級生と何ら変わらない。見たところ時間移動に慣れている感じだから、違う時代に溶け込むのが上手いというのもありそうだが。
それでも、朝霧と話すのは興味深かった。
違う時代の人間が何を考えて、どんなことを話すのか。この時代の人間と共通しているのはどこか、違うのはどこか。
俺は、そんなことが知りたくて古文というものに親しんでいるのだから。
少しすると、コンビニの袋を提げた朝霧が戻ってくる。おにぎりを買ってきたらしい。一階にコンビニがあるから、きっとそこに行ったのだろう。
彼女がいた時代には、コンビニはあったのだろうか。あまり好奇心を顕わにして質問しまくるのは失礼かと思って控えているが。それでも、気になった。
「ねえ、これ、どうやって外すの?」
見ると、コンビニおにぎりの包装に苦戦しているようだった。確かに、独特だからな。同時代の人間でも、たまに外すのに失敗しているのを見かける。
「ちょっと貸してくれ」
俺はおにぎりを受け取ると、慣れた手付きで包装を外していく。そして、彼女に返した。
「ありがとう! 上手いのね」
「あはは、慣れてるから」
これくらいは、現代人の面目躍如ですらなかった。
朝霧は、外れた包装とおにぎりをまじまじと見つめている。
「へえ、海苔と米が直に触れないようにしているのね」
「ああ、それで海苔のパリパリ感を保てるらしい。こういうの考える人ってすごいよな」
「そうね、未来の世界に来ると、面白い発見がいっぱいで飽きない」
朝霧は、おにぎりを一口食べる。
「うん、おいしいわ」
随分とおいしそうに物を食べる人だ、と思った。
「というか、あたしのことを疑わないのね」
「え? 疑うって?」
「過去から来たとか、そういうの。荒唐無稽だってバカにしないじゃない」
確かに、そういう反応をする人間もいそうだ。でも、全くそんな気分にならなかった。
なんとなくだが、朝霧はそういう嘘を吐くタイプには見えないし。
「ふふふ、そうかもね」
どうしてだか、朝霧はくすくす笑っている。
「あたしもね、なんとなくだけど、こういうことを言ってもあなたは疑ったりしそうにないって思ってたの。あたしたち、勘の鋭さは似ているかもしれないわね?」
「あはは、そうだな」
俺も昼食を摂ろう。
浅葱色の巾着袋から、弁当箱を取り出す。ぱかっと蓋を開けると、おかずがぎゅうぎゅうに詰まっている。
「わあ、素敵なお弁当……! 色とりどりで、かわいらしくて……もしかして、それって恋人の手作り!?」
途端に朝霧は身を乗り出す。まずい、その手の話が好きなタイプらしい。
「……まぁ、そんなもんかな」
どうにか濁そうとしても、彼女はさらに食いついてくる。
「こんな豪勢なお弁当、すっごく愛情を感じるじゃない!」
「そ、そうかな……」
俺は頭を掻く。確かに、いつも手間暇掛けて作ってくれていることがわかる弁当だ。
「ねえ、どんな人なの!?」
興味百パーセントといった朝霧のまなざし。これは、答えるまで解放してくれなさそうだ。
「えっと、韮沢瀬名っていうんだけど……二歳下で、後輩なんだ」
「後輩! いいじゃない! 馴れ初めは!?」
「な、馴れ初め? そうだなぁ……」
なんと言ったものか。
⏪ ⏪
俺が小学六年生のとき。
その公園に行ったのは、単なる気まぐれだった。
住宅街の中にある、小さめの公園。三方を建物に囲まれ、遊具も少ない。子どももあまり寄り付かず、ましてや日も暮れたこんな時間では人っ子ひとりいない。
しかし、ひとつだけ特筆すべき点があった。
噴水があるのだ。
しかも噴水の中央に『天体の運行』と題された、太陽系を表したガラスのモニュメントが置かれており、それが街灯のささやかな光や水の反射と相まって、なんとも美しい光景を作り出しているのだ。
なんでも、近所に住む物好きな富豪が寄贈したものらしい。
こんなひなびた公園で、こんなものが見られるなんて、そのギャップが面白くもあった。
だからその日も『天体の運行』を拝もうとしたのだ。
だが公園には先客がいた。
女の子だった。
噴水から少し離れた丸い屋根つきのベンチに腰掛け、イーゼルに向かっている。どうやら『天体の運行』を描いているらしい。
小さくてかわいらしい少女だ。ともすれば小学校低学年くらいにしか見えない。
さらさらの鴉の濡れ羽色の髪をショートカットにしている。
瞳は大きく、口は小さく結ばれている。頬は子どもらしい丸みを残しており、どことなく小動物系だが、表情は冷たく、人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていた。
服を汚すのを防ぐために、白いエプロンとアームカバーを身に着けている。
俺は彼女を見たことがある。
名前は……確か、韮沢瀬名。小学四年生だったはずだ。早生まれらしいから、まだ九歳。
親の方針で色々と習い事をさせられてきた俺は、結局どれも長く続かず、今では絵画教室くらいにしか通っていない。別に絵が上手いわけではなかったが、キャンバスに色を塗りたくるのは楽しかった。
そして、その絵画教室で彼女は有名人だった。
なぜ有名なのかというと、とてもシンプルな理由で、韮沢瀬名はとんでもなく絵が上手だったのだ。
絵画コンクールに出展すれば、必ず最優秀賞を取る。他の追随を許さない。彼女の絵を前にすれば、誰もが立ち止まってしまう。見入って、目が離せなくなる。天才としか言いようがない能力を持っていた。
しかも、彼女の才能はそれだけにとどまらなかった。
成績は学年トップ。英語のスピーチや朗読のコンテスト、書道の大会、ピアノのコンクールなどなど、常に何かしらの賞を取っている。全校集会で生徒が表彰されるとき、彼女はいつもその顔ぶれの中にいる。
最近では全日本ジュニアピアノコンクール銀賞を取っていたし、多くの分野でその才能を発揮する才女なのだ。
しかし誰かと親しくすることには興味がないようで、絵画教室でも誰かと会話している姿を見かけることの方が珍しい。俺と同じく、小中高一貫校である
いくらすごい賞を取っても、にこりともしない。ただ黙々と絵を描いている。
こんなところでも絵を描いていたのか。しかも、こんな時間に。
確かに『天体の運行』はモチーフとしては最適だろう。とはいえ小さな女の子が夜にひとりで公園にぽつんといる姿は、なんとも危うく見える。
「瀬名ちゃん、ここで絵を描いてるんだ」
何とはなしに声を掛けてみると、返事はなかった。彼女は一切こちらに見向きもせずただ黙々と絵を描き続ける。
というか、気づかれていなかった。余程集中しているらしい。すごい集中力だ。
なんだか邪魔するのも気が引けたのでこのまま立ち去ろうかと思ったが、その瞬間彼女がベンチに置いた絵の具に手を伸ばそうとして、目が合う。
大きくて、何より丸い瞳だ、と思った。街灯と『天体の運行』の光が、その白い頬に、さらさらの黒髪に、色を落としていた。透き通ったガラスのような少女だった。こんなに容貌が整っている人間を見るのは、初めてだ。
彼女はぱちくりとまばたいて、瞳に疑いの色が浮かぶ。
「……なんですか? あなた」
その不審者を見るような目ったら、なかった。数秒後には鞄に下げた防犯ブザーを鳴らしかねない勢いだった。俺の年齢がもう少し上だったら、問答無用で鳴らされていただろう。
「い、いや……違うんだ」
そりゃいきなり変な男が横に立っていたら、そんな顔をするのも無理はないのかもしれない。でも、これでも同じ絵画教室に通っていて、そもそも同じ小学校なんだが。
「俺のこと、見たことないか? 絵画教室で一緒だろ?」
「さあ。一々覚えていられませんし」
全く顔を記憶されていなかった。
「とっ、とにかく、怪しい者じゃないって! 俺は鴇野孝太郎。六年生だ。学校だって一緒だろ? ほら、夜臼坂」
「…………」
弁明はむしろ逆効果のようで、疑いのまなざしは揺らがなかった。
「……別に、なんだっていいです。わたしの邪魔さえしないでいただけるのなら」
そう言って、彼女はすっかりこちらに関心をなくしたように『天体の運行』に視線を戻す。そしてキャンバスと視線を行き来させては、筆を動かす。
「綺麗だよな、これ」
「わたしはあなたと世間話をするつもりなんてありませんが」
「…………」
なんてにべもないんだ……。まるでなつかない犬のようである。
俺はちらりとキャンバスに目を遣った。
そこには瑞々しい色彩で『天体の運行』が描かれていた。
ガラスや水の表現が巧みで、俺が普段使っている油絵具とは別物にしか思えないほど、透明感がある。
水や光の加減を緻密に写しているだけでなく、上手く絵画としての魅力も表現していた。
目の前にある噴水の情景を、キャンバスという魔法の鏡を通して見ているかのような、そんな錯覚すら覚える。
まだ描きかけなのに、それだけ魅力があった。
どこかの展覧会で飾られていても遜色がないどころか、むしろ役不足だとすら思えるだろう。
一体どうすればこんなに魅力的な絵が描けるのだろう。
天賦の才能か――いや、こうして絵を真剣に描いている様子を見ると、かなりの努力に裏打ちされているようにも思う。
「完成が楽しみだな」
自然とそんな声が出ていた。
「あ、ごめん、勝手に見ちゃって」
彼女は慌てる俺を意にも介さない。ただ筆を動かしている。
会話が途切れる。
なんとも気まずい。
ここまで話しかけるなという空気を出されて、さすがに帰ろうかと思ったそのとき、瀬名はちらりと俺を見た。
「先輩も描きに来たんですか?」
それは妙に大人びた物言いだった。
「俺は――見に来ただけだ」
それに、こんなの見せられたら敵わない。同じ題材を選びたくなくなる。
彼女はいつもここに来ているのだろうか。夜、『天体の運行』を描くために。
確かに美しい絵だが、小学生が――彼女のような小さな子どもが夜ひとりで公園にいるというのはどうにも危ない気がする。ハムスターをサバンナに放り込むような暴挙だ。
「そろそろ帰った方がいいよ。最近この辺りに変質者が出るらしいし」
「そうなんですか?」
「ああ」
彼女の瞳は、目の前のお前こそが変質者だ、と言いたげだった。
俺を一瞥してから、画材を鞄にしまい始める。
「それでは、さようなら。先輩」
小柄な後輩は、荷物を抱えて公園を出ていく。露骨に逃げられてしまった。
その小さな身体で大きなイーゼルとキャンバスをかつぐ姿は、見ていてどこか不安になる。転ばないといいけど。
なんとなく、その小さな背中が頼りなくて寂しげに見えた。
それが俺と彼女の最初の出会い、というわけではなかったけど。でも、韮沢瀬名に
⏩ ⏩
「全然ロマンチックじゃないわね。それに、どこが馴れ初めなの?」
「……そんなもんだって」
というか馴れ初めとかないから。
にしても、気恥ずかしい。なんでこんなことを話しているのだろう。
俺と瀬名はそもそもそういう関係ではないのに。
その後、休憩を終え暗号解読を再開したが、成果はなかった。結局、その日は解散することになった。
「そういえば、朝霧って今はどこで寝てるんだ?」
「近くのホテルよ」
「そうか……」
宿賃も聖徳太子札で払っているのだろうか。
構内の道がよく分からないだろうと思って、大学の外まで案内する。
真昼の日差しに耐えかねて、俺は鞄から緑茶のペットボトルを取り出した。
「秋萩との勝負って、期限とかあるのか?」
「一ヶ月後よ」
そうか、それならまだ猶予がある。といっても、あまりのんびりしていられる状況ではなさそうだが。
大学を出たところで別れようとして、朝霧は急に立ち止まった。
「待って」
「え? どうしたんだ?」
「
急に駆け出した彼女を追って、俺も走る。一体何が起こってるんだ?
朝霧は、なぜだか行き先がはっきりしているようだった。どんどん裏路地の方へと入っていく。
角を曲がったところで、朝霧は足を止めた。
「な――」
ビルとビルの間の、薄汚れた小道。
そこには、ただ闇ばかりが広がっていた。
闇、というのは比喩ではない。
ビルの壁も、アスファルトの地面も、辺り一面が黒よりも黒い色に染まっていたのだ。ペンキをぶち撒けたとか、そんなレベルではない。光を一切反射しない漆黒がただ広がっている。立体感すら見失うほどに。
思わず取り落としたペットボトルがその黒色に触れた途端、霧散する。闇に飲み込まれるように。
俺は後ずさった。
「その黒色に絶対に触れないで。あなたという人間はたちまち消えてしまうから」
「き、消えるって……」
「にしても……まさか本当に起きていたとはね」
朝霧は、冷静に呟いた。
「誰かが悪用しているのよ。時間を操る力を。今この街で起きている連続行方不明事件は、明らかに人為によるものだわ」
「え……?」
どういうことだ? 今起きていることの全てが理解できない。
彼女はこんなことを予期していたのか?
「このままだと、世界にガタが出る」
全ては俺を置き去りにして、非日常が始まっていた。
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