4 歪みゆく世界
眼前に広がるのは、おびただしいほどの黒色に浸食された世界。
俺は、何が起きているのか全く飲み込めなかった。
「恐らく、今ここで誰かが
「え?」
「でも、もう犯人はいないようね。遅かったわ」
さっきから朝霧は何を言っているんだ?
「……ごめん、状況がちっとも分からないんだけど」
「ああ、そうね。じゃあ説明しましょうか。込み入ったものになるけど」
不思議な髪色をした少女は、重々しく口を開く。
「さっきも言ったけど、今この街で起きている連続失踪事件は、時間を操作する力を悪用しているのかもしれないの」
朝霧は、『ラネット』と呼ばれる力、あるいは現象について説明してくれた。
時間とは、世界に存在するものとは別に、元々個々人それぞれに独立して存在するものだ。自分の持っている《時間》は、自身の強い思いで変えることができる。
この皆原市という土地は、神話の時代から《時間》の影響を受けやすい特性を持っていた。《時間》が世界の時間に影響を及ぼし得ることすらあるのだという。朝霧は原理について詳しく説明しなかったが――易々と漏らしてはいけない情報なのだろう――《時間》を操る術を卓越させると、時間跳躍すらも可能となるらしい。
――孝太郎くん。今私たちが当たり前のように受け入れている「時間」という概念はね、ある種の共同幻想なのよ。
昔、幼馴染が言っていた言葉が頭をよぎる。
「もちろん、普通の人間がそこまで時間を動かすことはできない。精々時間の進みが早く感じられたり、遅く感じられたり――あくまで自分の《時間》が変わる程度。でもあまりにも強い意志や感情を持つと、時間を歪めてしまうことがある。特に、この皆原という地では」
歳を取ると時間の流れが遅くなる……とか、そういうレベルの話ならまだ理解できる。しかし、人の意志だけでそこまで時間を変えられるというのは、やはり不思議というか、上手く想像できなかった。
「人間はね、心の底から絶望すると、世界を拒絶して――自分の《時間》を止めてしまうことがあるの。もちろん誰でもできるわけじゃないわ。元々親和性が高くないとダメ。今からやってみせるわね」
朝霧は、ひらひらと右手を振る。すると、瞬く間に手が、腕が、真っ黒に染まっていく。今目の前に広がっている光景と同じように。
「絶望して《時間》を止めた人間は、これ――ラネットと呼ばれる状態になるの。正確には、世界の時間と断絶した《時間》は、傍から見るとこういう風に黒くなるっていうわけ。ああ、あたしは慣れているから今は任意で起こしているんだけど、ふつうはこうはいかないわ。絶望っていうのはコントロールできないものだし」
「な、なるほど……」
分かったような分からないような。
「そして、この絶望は伝播できる」
朝霧は、黒い右手で壁に触れる。そこは黒く侵食されていない普通のコンクリ壁だったのに、触れた途端に黒色が広がった。まるで水に墨を垂らしたかのように、壁が黒く染まっていく。
「う、うわっ」
「こういうふうに、《時間》で他のものにまで影響を及ぼせるっていうわけ」
時間が止まっている? この壁が?
「だけどね、時間は本来世界が持つ理。人が立ち入ってはいけない領域なの。だから、世界は《時間》による時間の操作を嫌う。淘汰し、世界の秩序を取り戻そうとする。人体が、身体についた傷を自動で修復しようとするように。その結果、こうして黒く染まったものは――
「……消える?」
「文字通りよ。消えて、世界からいなくなるの。身体の一部分だけ、とかそういう話ではないわ。人間丸ごと、ね。さっきあなたが取り落したペットボトルみたいに」
確かに、先ほど黒色に触れたペットボトルは、欠片も残さずに消えてしまった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。朝霧の右手って今まずい状況なんじゃないか?」
俺は真っ黒になった彼女の手を見る。
「あはは、大丈夫よ。そんな危険なことするわけないじゃない。見てて」
朝霧はまた右手を振る。瞬く間に元の白い肌に戻っていった。
「へえ……すごいな」
「慣れればこれくらいなんてことないし、時間跳躍なんてしても世界の淘汰をかいくぐることができるけど、ふつうの人ではこうはいかないわ」
見ると、いつの間にか先ほど彼女が触れた壁も、元の色に戻っている。
「よほど濃い絶望でなければ、世界から淘汰されることはそうそうないの。少しすれば元に戻るだけ。世界って丈夫なのよ。でもね、あまりにも強い絶望は本当に色々なものを消してしまう。今ここに広がっているラネットのように」
なるほど、一口に黒色と言っても、強度に違いがあるのか。そんなの、傍から見ても区別がつかないが。
「つまりね、これを応用すれば、他人を消してしまうことすらも可能だってこと」
「……え?」
先ほど、朝霧が壁に触れて黒く染めたように。
誰かに触れるだけでラネット化させることができるのなら。つまりは、触れた相手を消すことも可能だということだ。
「もちろんラネットに熟知していないと、強い絶望で自分自身すら消えてしまう恐れがあるけど……誰かがそれをやっているのかもしれない」
少しずつ話が見えてきた。
それが、時間を操る力を使って他人を消す方法か。
「十人以上もの人間が、何の痕跡も残さず、しかもバラバラに行方不明になるなんて、ふつうはありえない。でも、ラネットによって消されたとしたら?」
人為的な行方不明――つまり拉致に類するような行為では、色々足がつく可能性がある。ましてや、町中に防犯カメラがあふれかえるこの時代では。
しかし触れるだけで相手を消せるのなら、可能、かもしれない。
たとえば、人通りのない道ですれ違った瞬間。少し触れられただけで消えてしまったら。痕跡なんて残らない。
簡単にまとめると、時間はある程度任意に操れるが、世界はその歪み――人間には黒色に見える――を排除しようと働き、黒色になった物ごと消してしまう。そして、その消失する現象を悪用して、他人を消して回っている人間がいる、と?
なんとも想像を絶するような話だが、俺はどこかで納得もしていた。
――孝太郎くん、知ってる?
――時間は人の意志で操れるのよ。
もしかしたら、あいつも――
「でも、だとすると状況は芳しくないわ」
朝霧は腕を組む。その表情は険しかった。
「……消えた人間は、どうなるんだ?」
「文字通り消えていなくなって――死とほとんど等しい状態になる。いえ、身体が残らない分それよりひどいわね」
「そんな……」
行方不明者は全員亡くなった。そんな事実が、重く胸に突き刺さる。中には同期もいたのに。
「このままじゃ、連続失踪事件は終わらない。しかも、警察や一般人がいくら頑張ったって、犯人は恐らく捕まらないわ」
そりゃ、そうだろう。まさか、触れるだけで誰かを消せる人間が存在するとは思わないだろうから。ほとんど完全犯罪だった。
「もしかして、秋萩の行おうとしている禁忌って、それなのか?」
「いいえ、違うわ。さすがにあいつに未来の時代でこんなことをする理由はない」
秋萩が犯人だという可能性はないようだ。
「ラネットはね、世界にとって歪みなの。だから淘汰されるけど……あまりにも歪みが増えすぎると、いずれ世界にガタが来る。既に十人以上が消えているというのなら、歪みはかなり深刻なものになっているわ」
よく分からないが、確かにラネットは世界にとって負担になりそうだ。道理を捻じ曲げているのだから。存在を消す、というのも、だいぶ最終手段といった感があるし。
「タイミングが悪かったわ。あたしと秋萩が時間跳躍を行ったこともあって、この時間軸上の均衡はさらに不安定になってる。もしかしたら、一刻を争う事態なのかもしれない」
「そんな……」
ガタが来る、というのはつまり。世界の秩序そのものが壊されるということだろう。
その結果どうなるかは想像すらできないが、壊れた機械が止まって動かなくなるように、世界そのものが終わることもあり得る。
「あたしにも責任の一端はあるわ。もしこの予想通りの事態になっているのだとしたら、犯人を止めないといけない」
「でも、止めるって言ったって――どうやって?」
「そうなのよね……この皆原市から秋萩ひとり見つけられないのに、顔も見たことのない犯人を捕まえるなんて、無理がある」
確かにそれは、簡単にはいかなさそうだった。
「ただ、あたしは少しだけどラネットの
よく分からないが、慣れると第六感で察知できるのだろう。
「もちろん秋萩はそれを知っているから、尻尾を掴まれるようなことはしないだろうけど――この行方不明事件の犯人なら、追えるかもしれない」
「秋萩探しはいいのか?」
「うーん、どうせ行き詰まっちゃったし……それに、さすがに世界の危機の方が急務だわ。うろついている間に、あの暗号を解くヒントが得られれば儲けものだし」
朝霧は、きっと気のいい人間なのだろう、と思った。
自分の目的よりも、その時代の事件の解決を優先する。当然といえば当然だが、それをしない人間もいるのだし。
▶ ▶
状況が状況なだけに、結局俺は朝霧をホテルまで送った。
着いた先は、若い女性ひとりが泊まるにしては随分と値が張るところだ。あの札束トランクを見るに、朝霧は随分羽振りがいいらしい。
「あたしの来た時代から存在してるから、なじみ深いのよ、ここ」
「へえ……確かに歴史がありそうだしな」
一体朝霧はいつの時代から来たのだろう。彼女は話したがらないし、余計な詮索は良くないが。
「わざわざ送ってくれなくても良かったのに」
「さすがに心配だから」
「ふふ、平気よ。あたし、実は柔道黒帯なの」
「そ、それはすごいな……」
とはいえ、それは暴漢相手には効力を発揮しそうだが、ラネット相手にはどうなんだ?
「ごめんなさいね、あたし、あなたをとんでもないことに巻き込んでしまったみたい」
「いいよ、全然。非常事態なんだったら、俺も力になりたいし」
世界云々の話になってくると、俺に何ができるのかさっぱり分からなかったが。
「あのさ、朝霧」
「なに?」
「今から五年前――中三のとき、俺の幼馴染が行方不明になったんだ。今も見つかってない」
彼女は、ある日突然消えてしまった。
今街で起きている失踪事件のように。
「名前は、
「神庭……」
「彼女が、朝霧と同じことを言ってたんだよ」
「同じこと?」
「ほら、時間は人の意志でどうこうっていう」
「ああ、あれね」
朝霧の表情からは、何の手がかりも伺えなかった。
「そうね、何か関係があるかもしれないわね」
にしても、ちょっとした人探しの手伝いをするだけのつもりが、まさか世界規模の話になるとは。
あれだけ瀬名に危ないことはするなと言われていたというのに、俺はどんどん事件に足を踏み入れていた。
▶ ▶
大学を終えて家に帰ると、瀬名は既に帰っていた。
正座をして、シャツにアイロンをかけている。
ぴんと伸ばした背筋に、綺麗な形でそろえられた膝。白く細い指がシャツを撫でると、皺が伸びる。そこに、さっとアイロンを滑らせる。白いワイシャツが瞬く間にぱりっとしていく。
しかし、俺が見ていたのはシャツではなく、瀬名の方だった。
夕日が、黒い髪と白い肌を橙色に照らす。目を伏せると、長い睫毛が際立つ。彼女は、さっと髪をかき上げた。白い花の髪飾りがかすかに揺れる。
思わず見とれていた。
単なる日常のワンシーンも、異常に絵になる。
「先輩? どうしたんですか?」
「あ、いいや、なんでもないよ」
さすがに視線に気取られたらしい。
「そうだ、瀬名は秋萩っていう男、聞いたことないか?」
「秋萩?」
彼女は首をかしげる。
「知らないと思いますけど……どんな方なんですか?」
「それが、俺も分からないんだ。知り合い――朝霧っていう人が探しているらしいんだけど、名前しか知らないらしくて」
俺は、朝霧から聞いた秋萩の人となりを話す。
「へえ……それでは探すの大変そうですね。わたしも学校の友達に訊いてみますよ」
「ああ、ありがとう」
世界がどうこうなんて、瀬名に伝えるようなことではないと思った。混乱させてしまうだけだろうし。
五年前、幼馴染が行方不明になったとき、俺は彼女を探した。だが、上手くは行かなかった。彼女は、ある日の夜自分の家で忽然と姿を消してしまったのだという。
知らない間にどこかに出かけたのかもしれない。だが、痕跡も目撃者もなかった。
みたきの両親すらも、彼女を探すことを厭うていた。まるで関わること自体を拒むかのように。
俺はいつしか、みたきを探すこともやめていた。
しかし、今回の事件はなんだ?
あまりにも神庭みたきとの関連性がありすぎる。
この事件を追っていけば、みたきの失踪の真相に辿り着くことができる。
そんな確信めいた予感があった。
それに、他人を消して回っている人間がいるなんて、そんなものは絶対に止めなくてはならない。
人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきだから。
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