5 交差する調査
⏪ ⏪
教室の中には、モチーフを囲んでイーゼルが所狭しと並べられ、否が応でも窮屈に感じられる。多くの人間がキャンバスに向かっている中、一際目立つ少女がいた。
韮沢瀬名だ。
その小さな体躯の分だけ、キャンバスが大きく見える。
筆を止めることも、よそ見をすることもなく、一心に絵を描いている。
通い慣れた絵画教室。だが、先日公園で出会ってから、彼女を見かけるのはこれが初めてだ。
話しかけたいが、瀬名はなんとも近づきがたいオーラを放っていた。
明らかに鬱陶しがられていたし、話しかけるのは憚られるが、あのまま不審者だと思われ続けるのはさすがに放置できない。そして、誤解を解くなら早い方がよかった。
「瀬名ちゃん」
俺は意を決して声を掛けた。
「ああ……あなたは、この前の」
さすがに覚えられていたらしい。瀬名は筆を置く。
「なんですか? 何か、用でも?」
「いや、こないだ明らかに不審者だと思われてたみたいだから、潔白証明をしようと思って。同じ絵画教室だったろ?」
「……おかしな人ですね」
彼女は冷ややかに言った。
「別に、あなたが不審者であろうがなかろうが、わたしには関係のないことです」
いっそ清々しいほど歯に衣着せぬ子だ。
彼女は、こちらの話が大したことないと判断したのか、再び筆を持ってスケッチに戻る。迷いのない線で、キャンバスに絵が生まれていく。
「難しい題材なのに、すらすら描けてすごいな」
そう言うと、
「先輩、描けないんですか?」
「え、ああ、まぁ……」
なんとも直球である。
「バランスがなんか取りづらくてさ……」
「方眼紙のグリッドに沿って描けばいいじゃないですか」
「え? キャンバスは別に方眼紙じゃないだろ?」
「それはそうですけど、意識すれば方眼をイメージできるでしょう? 題材を見るときも同様です。両方のグリッドを照らし合わせて描けば、可能な限り題材に忠実に描けます」
「…………」
よくわからないが、別次元の話をしているようだ。
「いや……俺にはそういうのは無理だよ」
「どうしてですか?」
瀬名はなおも不思議そうな顔をしている。なるほど、できる人間というのはできない人間のことがわからないらしい。
「えっと……イメージできないんだ。その、方眼紙のグリッドっていうのが」
「え?」
少女は、目を丸くしている。ぽかんと口を少し開けて。本気で驚かれてしまった。
「それは……確かに描けないかもしれませんね。うーん……」
考え込んでいる。余程衝撃だったようだ。
「や、ややこしいこと訊いちゃってごめん、もう大丈夫だよ」
そう言うと、瀬名はむっとする。
「別にややこしくありません。きちんと説明できます。先輩のイーゼルはどこですか?」
ムキにさせてしまったらしい。
瀬名は俺の描いた絵を見て、あれやこれやと修正点を出す。
最終的には全面的に手直しされた。
完成したスケッチは、まぁ上出来な絵だったが、俺の絵かと言われれば全くそんなことはなかった。
「先輩、わかりましたか?」
しかし、俺をじっと見つめてくる後輩を前に、わからないと言うのも躊躇われた。
「ああ、なんとなくわかったよ。ありがとうな」
そう言うと、瀬名はそうですかとだけ言って、俺に背を向けた。
警戒されていると思っていたが、親切に絵について教えてくれる辺り、それほど身構えられているわけではないらしい。
▶ ▶
今夜も、彼女は公園にいるのだろうか。
そう思うと、自然と俺の足は公園に向かった。
瀬名は、やはり丸い屋根つきのベンチに腰掛けていた。
とても丁寧に絵を描き込んでいる。『天体の運行』の後ろに立ち並ぶ木々の葉を、一枚一枚しっかりと表現していた。
ただでさえ油絵は描くのに時間を要するのに、これは一朝一夕では完成しないだろう。油彩が乾くのを待つ時間も必要だし。
彼女は、近づいてきた俺に目を遣る。
「先輩、何をしに来たんですか?」
「いや、今日も瀬名がいるのか気になって」
「……暇なんですね」
相変わらず辛辣な物言いをする子である。
「見世物ではありませんよ」
「ああ、ごめん」
言葉の割に、彼女は大してこちらを追い払おうとはしない。気に留めず絵を描き続けている。俺が横に座っても、何も言わない。
相変わらず、見ていて気持ちがいい筆さばきだ。迷いがない。ふと、瀬名の表情を伺ってみる。真剣なまなざしで、キャンバスに向き合っていた。
その一対の瞳は、光に照らされて輝いた。
虹彩が澄んだ空色になり、宝石さながらにきらめく。まるで彼女が描き出す絵の世界のように、透き通っていて眩しい。触れたら崩れる水面の景色を想起させる。人を石にしてしまう眼があるとすれば、きっとこんな瞳なのだろう。
「先輩?」
こちらの視線に気づいたのだろう、瀬名は不思議そうにこちらを見る。
「あ、いや……なんでもないよ」
彼女の瞳には、世界はどのように見えているのだろうか。
こんなに綺麗なレンズを通せば、そりゃこのキャンバスに写しだされたもののように見えるだろう。
「絵を描くときは、雑念を排さないといけないんです」
瀬名は、キャンバスに目を向けたまま話し始めた。どうやら、俺が絵の参考にするためにやってきたと思っているらしい。
「別に修行僧のようなことを言っているわけではありません。ですが、そもそも絵を描くときに必要なものなんて、限られています。画材とか、そういうことを言っているわけではないですよ? 心持ちの話です」
口数の少ない少女だが、絵のこととなるといくらか話してくれるらしい。確かに、これくらいの腕前になると一家言のひとつやふたつ、ありそうだ。
「ただキャンバスとモチーフだけを認識するんです。絵を描くのに、それ以外の何が必要ですか? 余計なことを考えていても、見えてくるのは絵以外のものです。そして、それは邪魔にしかなりません」
瀬名は、普段そうやって絵を描いているのか。
言われてみれば、彼女の絵は写実的なものばかりだ。もっとも、見えたそのままを描くにしても、彼女の視点から映し出された景色は独特の色使いで、とても魅力的なのだが。
「邪魔なものは削ぎ落とすべきです。たまに、わたしにどうして賞を取れるか訊いてくる人がいますが――毎日遊びだのなんだのにかまけて、そんなことをしているから賞が取れないんです」
「なるほど……」
含蓄のある言葉だ。
俺が感心して頷くと、瀬名はこちらをじーっと見つめる。
「ん? どうかした?」
「……いえ」
ぷい、とそっぽを向く。
「瀬名はそれだけ真摯にキャンバスに向き合ってるんだな」
「……まぁ、そうですね」
彼女の一端が垣間見えたような気がする。もっと話を聞いていたかったが、瀬名は唐突に筆を置いた。
「わたし、帰ります」
「え、ああ、ごめん、迷惑だったか?」
「……別に、あなたの存在なんて取るに足りません。ただ帰りたいから帰るだけです」
彼女は、てきぱきと荷物をまとめると、
「さようなら」
細く透き通った声を残して、行ってしまった。
⏩ ⏩
俺と朝霧は、ラネットの痕跡を追っていた。
といっても、やり方はシンプルである。朝霧が「嫌な予感」を覚えたら、そこに向かうだけ。
まるで人間レーダーね、と若菖蒲の髪の少女は笑う。
しかし、たった数日で二回も現場に遭遇するなんて。こんなに高い頻度で起きているとは思わなかった。
行方不明という性質上、早々に行方不明になったと断定するのは容易ではない。一人暮らしの大学生は少なくない数存在するだろうが、そんな人間が突然いなくなっても、すぐに気づかれるものだろうか。だから、行方不明者は実際に報道されている人数よりもずっと多いのかもしれなかった。
今日も目の前に広がる暗闇を見ながら、俺は思う。
今回も犯人は立ち去った後だった。大した痕跡は残っていない。
ラネットの痕跡があるということは、既に犯行が終わった後である。どうやっても未然には防げない。このやり方は、あまり芳しくなかった。
「でも、消された大体の場所と時間が分かるということは、犯人像を突き止めるのに役立つかもしれない」
「そうね。とはいえ――大学周辺が多いのは、あたしが感知できる範囲がそれほど広くないからかもしれないし、時間帯も同様だわ」
確かに、夜中に犯行が行われても、この方法じゃ察知しづらい。とはいえ少なくとも日中に犯行が起きたのは確かで、この時間に他人を消す余裕がある人間は、いくらか絞れそうだった。といっても、できるのはおおまかなカテゴリレベルの話だけで、それも多そうだが。
この近辺の監視カメラ映像などを確認できれば何か掴めるかもしれないが、警察関係者でもないのに簡単に見せてもらえるものなのだろうか。
やってみるにしても、相当周到に作戦を練らないと、警戒されるだけで終わりのような気がした。
「ん?」
一面に広がる黒の中に、紙が一枚落ちている。完全に黒色に侵される前に、書いてある内容がちらりと見えた。
そこには、「忽に三途のやみにむかはむ時」と書かれていたのだ。
「これは――」
「おい」
突然、後ろで声が響いた。
振り向くと、男がひとり立っている。
「お前は……」
知った顔だった。
汚れなき白衣を身に着けた、長身で痩せぎすの男。センター分けした黒髪は目にかかるほど長く、どこか陰鬱な雰囲気を漂わせている。
詳しくは知らないが、民俗学研究会に所属しているらしい。
「お前たちはここで何をしている?」
尾上のその言葉には、詰問じみた響きが含まれていた。朝霧は、それに怯んだ様子もなく答える。
「気持ちは分かるけど、いきなりそんなに敵対心をむき出しにしなくてもいいじゃない。あたしたちはこの事件を追っていたのよ。あなたは?」
「お前たちの言葉を鵜呑みにするのなら、私も同じ目的だ」
尾上は腕を組む。
「お前は……確か鴇野、だったか。あの古文オタクの」
随分な覚えられようだった。
「今回の一連の事件は、お前の興味を刺激するものではないように思うが」
「……色々あるんだよ」
放っておいてくれ。
尾上は全く自己紹介しようとしないので、俺は仕方なく朝霧に説明する。
「こいつは大学の同期なんだよ。名前は尾上靄。文化人類学科に所属してて、専門分野は民俗学」
「へえ……民俗学。じゃあ橘教授のお弟子さんってわけ?」
「……いや、私は渡良瀬教授に師事している。橘教授とは確か渡良瀬教授の師の葦原教授のさらに師の名だったはずだが。どうしてお前がその名前を知っている? 見たところうちの大学の人間ではないだろう。何者だ?」
「……あたしは、朝霧。過去から来たの」
「そうか」
この冷酷無比そうな男でも、さすがに動揺せざるを得ないようだ。
もしかして、朝霧は過去から来たことを隠すのがわりと下手なのだろうか。旧札を堂々と使っているところからも伺えるが。
しかし、尾上のこの反応。この男の性格なら、荒唐無稽な話だと一笑に付していそうなのに、そんな素振りは一切ない。むしろ、真剣に考え込んでいるようだ。
「犯行現場」に来たというところからも鑑みるに、こいつも何かを知っているのか? ラネットに関する何らかを。
「あなたはどうしてこの事件を追ってるの?」
「連日の事件については教授も憂慮している。そこで私が遣わされたというわけだ。面倒なことにな」
「こんな大事件、教授本人が出向いてもおかしくなさそうだけど」
朝霧の言葉に、尾上は返答する。
「教授なんてのは忙しい生きものだ。しかも、別件で火急の問題があって、そちらに人員が取られている」
「問題ってなんだよ?」
「お前たちには一生関わりのない話だ。忘れろ」
やはり尾上、そして朝霧の口ぶりには引っ掛かるものがある。
「尾上、もしかして知っているのか? その、今起きている連続失踪事件が、人智を超える力で起きているって」
「知っているも何も、私の研究テーマはまさしくそれ――ラネットだよ。もっとも、到底表沙汰にはできないから、表向きは別のテーマを扱っているが」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます