閑話(解答編) 夢見る処刑台

前編 白

1 1:1.414の世界




あかねさす君にみあひておもひそめ かくもうつろふ身こそけしけれ




 ▶ ▶




 絵を描いているとき、世界はモチーフとキャンバスだけになる。

 自分の部屋の白い壁も、あるいは油絵具の独特な匂いも、時間すらも、何もかもが消えていく。


 いや、それだけじゃない。自分自身の存在すらも希薄になって、ただキャンバスしか見えなくなる。

 その不思議な没入感が、わたしは好きだった。

 煩わしいものから全て解放されて、自由になれるから。


 わたしはただモチーフとキャンバスを見比べて、いかに自分の筆で写し取るかを考えた。

 写すことばかりが絵ではないけど、それ以外絵の描き方を知らなかったのだ。それに、わたしの描くものは、写実という言葉からはあまりに逸脱している。


 風景を、自分というフィルターを通して濾過するのだ。そうして出来上がるのが、わたしにとっての絵なのである。

 その結果出来上がるのが、澄んで清められたもの――なんて言い切るのは、到底無理だった。むしろ、必要なものまでなくしてしまっているかもしれない。


 こうした作業は楽ではなかったけど、楽しくはあった。

 それに、絵を描いている分には何も言われないから。

 だから飽きもせず毎日筆を取っては、絵らしきものをつらつらと描いていた。




 ▶ ▶




 春休み中でも、わたしは変わらず絵を描いていた。

 いくら小さな公園とはいえ、誰もいないとがらんとしているように感じる。筆を走らせて、公園の桃の木を紙上に写し取る。


 吹き抜ける風はまだ冷たいが、棘のように突き刺さる感覚は和らいだ。

 もうすぐ春が来る。

 桜が咲く。

 白一色だった世界が、鮮やかに色づいていく。

 それは、少し楽しみだった。


「先輩……」

 ふと視線をキャンバスから外すと、道の向こうから彼が歩いてくるのが見える。

 二つ上の上級生で、同じ絵画教室に通っている人。そして二年ほど前から、なぜかよく公園に来るようになった人。

 名前は、鴇野孝太郎。


 髪の色は焦がしたキャラメル。瞳の色はスカイブルー。細身で、人畜無害そうな顔をしている。なよなよっとしていて、うだつの上がらなさそうな人だ。

 だから、こちらに警戒心を抱かせないような。

 そんな雰囲気を漂わせていて。


「先輩……こんばんは」

「ああ、こんばんは」

 彼は缶飲料を差し出してきた。


「なんですか? これ」

「ホットココアだよ。まだ肌寒いだろ?」

 仕方なく筆を置いて受け取ると、あたたかい。冷えた指先に熱が伝わる。買ってきたばかりのようだ。


 別に、こんなものいらないのに。変に気を遣ってくれなくてもいいのに。

 返そうかとも思ったけど、肝心の渡し主は、同じく買ってきたのであろう缶コーヒーを傾けている。これではココアを渡しづらい。第一、先輩はコーヒーなのに、わたしはどうしてココアなのだろう。やっぱり納得がいかない。確かに、コーヒーは……苦手だけど。


 プルタブに指を掛ける。

 ……固い。開かない。

「あはは、ちょっと貸してくれ」

 先輩は、それまで持っていた缶コーヒーをベンチに置くと、すっと缶を取る。あっという間に開けてしまった。再びわたしの手中にココアが戻ってくる。


「……ありがとうございます」

 また子どもだと思われただろうか。飲みものが開けられないとか、高いところのものが取れないとか、そんなことで子どもだと思われるのはひどく理不尽だった。ただそれだけのことで、わたしの言動全てが児戯だと捉えられる。


 ココアを口に運んでみる。

 あたたかい。それに、甘くておいしい。胸の奥まで、温度を持った甘さが落ちてくる。

 素直においしいと言うのは憚られたけど。でも、もらったものだし。


「おいしい、です」

 そう言うと、先輩はうれしそうに笑った。

「そうか、よかった」


 何をそんなにうれしそうにすることがあるのだろう。わからなかった。ココアがおいしくても、彼に利することは何ひとつないだろうに。

 そもそも、どうしてこの人は飽きもせずいつもやってくるのだろう。絵を描く上で技術を盗みたくて見に来ているのかと思ったけど、そうでもなさそうだし。


 ココアを飲み終えて絵に戻っても、先輩は帰らない。他愛ない話をしている。

 ……絵に集中できない。


 どうせすぐどこかに行くと思っていたけど。

 わたしは特別面白い返答ができるわけでもない。それ以前に、娯楽についてさっぱりわからないから、ついていける話も少ない。同年代の人間がよく行っている、意味もなくはしゃいだり騒いだりするコミュニケーションの仕方にもついていけない。自由に遊んだりする時間もほとんどない。


 だけど、先輩はわたしがわからない話は決してしなかった。話題のテレビ番組の話や、最近旬の芸能人、昨日のスポーツの試合の結果などは、全く。

 わたしの些細な言葉に一々うれしそうにするし、わずかな隙を見つけては街に連れ出す。


 彼にとって、何が楽しいのだろう。何が楽しくて、いつもこうやって足を運んでくるのだろう。きっと、どこか変なんだ。

 このあけすけな厚意が、わたしは苦手だった。どう対処すればいいのかわからないから。鬱陶しいくらいの世話焼きぶりも、親しげな振る舞いも、全て同じ。

 わたしは先輩のことが苦手だった。


「瀬名ももうすぐ中学生だな」

 そう思われていることにも気づかずに、彼は気さくに話しかけてくる。

「月日が流れるのは早いもんだな。ついこないだまでこんなに小さかったのに」

「……先輩、なんだか言っていることがお年寄りじみています」

 彼はいつもわたしを子ども扱いする。それが、なんとも腑に落ちない。


「やっぱり美術部に入るのか?」

「ええ。先輩も美術部なんですよね?」

「ああ。ほかに入りたい部活もなかったしな」


「古文部があれば、入っていました?」

「そうだな」

 先輩は笑みを浮かべる。別に何か面白いことがあったわけでもないのに。

 とにかく太陽のようによく笑う人だった。なりたいとは思わないけど、世界にはこういう人も必要だろう。


「瀬名の絵は、年々輝いていくな」

 わたしの絵を見ながら、彼は話す。

「昔は、現実に存在する風景から普遍性を取り去って、神秘的で崇高な姿を照射したところが魅力的だったけど、冷たくて触れ難い感じがあったんだ。でも、今はあたたかみがあって、好きだ」


「…………」

 よくもまぁそんな台詞がぽんぽん出てくるものだ。

 わたしの絵が、先輩の言葉に値するほどの代物には、とても見えなかった。

 自分で描いた絵なのだから、当然白いキャンバスの状態から一筆一筆絶えず見続けている。何も新鮮味がなくて、色褪せて見える。


 それに。これ﹅﹅は、わたしの中にあるものだから。普遍性とか、神秘的だとか、そんな言葉で称される次元にすら存在しない。ただ、ずっとそこにあるだけのもの。ずっとはそこにないものの方が素敵だ。


 わたしも褒め返した方がいいかと思うものの、うまく言葉が出てこない。どう言ってもわざとらしくなってしまうような気がして。変なふうに、思われてしまう気がして。


 先輩の絵は、なんだかやわらかくて、好きだ。粗削りだけど、素朴で、あたたかみがある。部活で、同じモチーフで絵を描いていても、わたしには絶対に描けないと思うような絵を描く。彼の筆だと、石膏の胸像でさえ生き生きとして見える。だから、とても素敵だ。


 頭の中に浮かんだことを声に出そうとして、でも、とげのある言い方にならないか心配で、どう伝えれば良いのかわからなくて、そう考えているうちに、先輩は言葉を継ぐ。

「瀬名は、なんでもできてすごいなぁ」


 その言葉に、ちくりと胸が痛んだ。

 釣り合わない言葉は、刃物のようだった。


「……別にそんなことありません。絵以外の習い事では、ぱっとしませんし」

「そうか? よく習字や水泳やピアノで表彰されてるじゃないか」

「習っているんですから、それくらいの結果を出すのは当然です」

 その程度じゃ、褒められるには値しない。一番でないと、ダメなんだ。


「へえ、瀬名って自分に厳しいんだな」

 彼はなおも感心したような声で言う。

「でも、すごいことだよ」

「…………」

 この人はどういう意図でこんなことを言うのだろう。反応に窮してしまう。


「そうだ、瀬名、これ受け取ってくれ」

 彼が差し出してきたのは、ライトブルーのギフト袋だった。赤いリボンでぎゅっと結ばれていて、とてもかわいらしい。


「なんですか? これ」

「今日、三月二十六日だろ? 瀬名の誕生日じゃないか」

「…………」


 わたしは、手の中の袋を見つめる。

 そういえば、確かに今日はわたしの誕生日だった。

 だけど……だけど、誕生日プレゼントなんて、そんなの、今まで一度も、誰からも――


 促されるままに袋を開けると、中に入っていたのは腕時計だった。

 等間隔に並んだローマ数字が円を描いている。文字盤の色はプラチナゴールドで、ベルト部の革はスカイブルー。

 落ち着いているけどかわいらしいデザインだ。


 ……わたしに合わせて選んでくれたのだろうか。

「その……あ、ありがとうございます。うれしくなくも、ないです」

「あはは、誕生日おめでとう」

 先輩はそう言って、わたしの頭に手を乗せた。ぽんぽんと、まるで子ども扱いだ。


「な、何をしているんですか! やめてください!」

 どうにか跳ね除けようとするが、如何せん高低差があって難しい。

「悪い悪い」

 先輩はにやにやしながら手を離した。


「ぐ……」

 面白がられている。

 わたしももう中学生になるのに、やっぱり二歳も年齢が離れていると子どもに見えるのだろうか。


「それ、着けてみてくれよ」

「腕時計、ですか?」

「ああ」

 言われた通り、プレゼントを手首に巻き付けてみる。わたしの左手首に、しっくりとはまる。軽くて、でもしっかりとしたつくり。


「やっぱり。瀬名に似合うと思ったんだ」

「…………」

 途端に恥ずかしくなって、所在がなくなる。カステラの皮みたいな色の髪をしたこの人は、きっと自分の言葉がどれだけ後輩を動揺させ得るかわかっていないのだ。


「今日はもうケーキ食べたのか?」

「…………」

 そんなもの、食べるはずがなかった。

「……バースデーケーキなんて必要ありません」


 その後もいくらか会話をして、先輩と別れる。

「じゃあな、瀬名」


 また明日、と口に出そうとして、できなかった。

「……さようなら」


 だって、明日も会えるかどうかはわからないのだから。




 ▶ ▶




 鍵を使って自宅に入る。

 車寄せのスペースに、父の白い車が止まっている。

 名前は知らないが、それが外国の高級な車なのだということはなんとなく読み取れた。


「ただいま」

 返事はなかった。いつものことだ。

 だけど、挨拶はしなくてはならない。そういうものだから。言う通りにしないと、怒られてしまう。


 室内は壁も天井も床も、全て白。それも、アイボリーともオフホワイトとも違う、混じりけのないホワイト。

 調度まで全てその色で統一されていた。一切のくすみもない。なぜなら定期的に業者の手が入り、清掃されているからだ。


 わたしはキャンバスとイーゼルを持ったまま、四階に上がる。画材置き場は四階にあるから、そこまで運ばないといけない。エレベーターはあるけど、わたしは使用許可が与えられていなかった。以前期待に応えられなかったときの罰として。


 食事は家を出る前に摂ったから、あとは特に用事もない。

 明日の予習をして、少しピアノの練習をしよう。


 全ての扉ももちろん白。ドアノブや蝶番に至るまで一切の容赦なく白い。

 わたしは自分の部屋に入った。


 壁と床は当然のように一面の白。

 白い机。白い椅子。白い引き出し。白いスタンドライト。白いカーペット。

 白いベッド。白いシーツ。白い布団。白い枕。白いカバー。白いナイトテーブル。白いティッシュボックス。


 白いくずかご。白いエアコン。白いヘアピン。白いスリッパ。白いフットカバー。白いカーディガン。

 白い窓枠。白いカーテン。白いクローゼット。白い本棚。白い背表紙。白い栞。白いランドセル。


 白い鉛筆。白いペン。白いノート。白い教本。白い消しゴム。白い定規。白いペンケース。白い鉛筆削り。白い修正ペン。白いコンパス。白い分度器。白い下敷き。白い鞄。

 白い鋏。白い楽譜。白いそろばん。白い習字セット。白いすずり。白い筆。白い文鎮。白いスイミングセット。


 白い花瓶。白い造花。

 白いスケッチブック。

 白い時計。


 ルービックキューブまで、白い。

 壁には白い額縁の中に白いパズルと白い絵が飾られている。


 わたしは白い壁ボタンを押す。すると、白い照明が部屋の中を真白く照らした。陰影がなければ、ともすれば何もない部屋にすら見える。それくらい全て同じ色で統一されている。


 白。

 全ての光を反射し、拒絶する色。

 再度ボタンを押して、電気を消した。

 白い部屋の中に夜の影が戻り、全ての白が青みがかる。


 白い椅子に座って白い勉強机に上半身を預ける。

 すると、先輩からもらった腕時計の、ひかえめで規則的に秒針が時を刻む音が聞こえる。

 一分間に六十回。一時間で三千六百回。一日で八万六千四百回。

 心臓の拍動のように、途切れることはない。


 腕時計をまじまじと見つめる。

 ベルトのスカイブルーの色や、文字盤のプラチナの色。

 窓から差し込んでくる街灯の明かりにかざすと、文字盤の縁がプリズムのようにきらきらと光った。

 綺麗だ。


 これが、誕生日プレゼント。

 わたしが生まれてきた日の、お祝い。

 先輩が選んでくれた。わたしのために。


 お祝い……わたしに?

 なんだか不思議な感覚だった。

 先輩は、わたしが生まれた日をお祝いしてくれるんだ……。

 絵を描くときに、汚さないようにしなきゃ。

 アームカバーの内側に入れておけば、大丈夫かな?


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