2 アイスクリームの硬度




 ⏪ ⏪




 その日、ピアノのコンクールがあった。

 東日本ジュニアピアノコンクール。それなりの規模を誇り、地区予選やエリア予選もある。それらを通過し、いよいよ本選。わたしは、会場のある東京まで来ていた。

 両親はいなかった。仕事で忙しいのだから、仕方がない。


 世界的なピアニストの子息に、海外からもその才能を嘱望されている天才。そのほか、たくさんの才能が集まっている。入賞できるのは三位まで。わたしの入る隙なんてないように思えた。


 だけど、それではいけない。どうにかして、入賞だけはしないと。お父さんやお母さんに見てもらえない。

 今日のために、たくさん練習したのだから。

 ほかの習い事がある時間以外は全てピアノに向かって、


 否が応でも手が震える。賞を取れなかったらどうしよう。お父さんとお母さんにどうやって顔向けできよう。

 ダメだ、震えを抑えないと。これじゃピアノが弾けない。賞以前の問題だ。コンクールの本選で演奏できなくて終わりだなんて体たらくを晒したら、一体どれだけ見放されてしまうのか。きっともう必要としてもらえなくなるだろう。


 わたしは、成果を残さないといけない。

 お父さんとお母さんがわたしに支払ったコストや労力に足るだけの結果を出さないと。


「頑張らないと、もっともっと頑張らないと……」

 必死に自分に言い聞かせる。


 何がなんでも、やるしかないんだ。結果を出すしかないんだ。

 それしか、お父さんとお母さんに見てもらえる方法はない。

 もう死ぬ気でやるしかない。

 失敗したら全て終わりなんだから。


 手の震えが止まった。

 大丈夫。お父さんやお母さんの期待に応えさえすれば、喜んでもらえる。また見てもらえる。

「頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、頑張らなきゃ……」




 ▶ ▶




 コンクールの結果が発表される。

 二位だった。


 銀色の表彰楯。

 しっかりとした重み。

 よかった、これで――




 ▶ ▶




 表彰楯は、床に叩きつけられた。

 表面のガラスに、ひびが入っている。

 わたしは顔を上げることもできず、じっとそれを見ていた。


 両親に、コンクールの結果を伝えた。

 そして、その結果が、これ。

 求められているのは、一位だけだった。


「……ごめんなさい」

 そんなわたしの声が届いているのかもわからなかった。すぐに立ち去ってしまったから。


 二歳のときから、実績がある名の通った先生を付けて指導してもらっているのに。

 海外の老舗トップメーカーの、最高品質のグランドピアノを買い与えたのに。

 防音設備が万全に施されたピアノルームも、プロによる綿密なバックアップも。

 教育も環境も、最高のものを与えているのに。


 それで一位も取れないなんて。なんの結果も残せないなんて。

 どれだけ――劣っているのだろう。

 いくら投資したって、その対象が見込みのない落伍者では、全てドブに捨てているようなもの。


 それが、わたしに下された評価だった。

「…………」

 表彰楯を拾い上げる。そのままにしておくわけにもいかなかったから。これはもう、処分するしかなかった。だって、期待に応えられなかった証なのだから。両親の目に触れれば、気分を害させてしまう。


 そこまで考えたところで、気づく。きっとわたしの存在自体も、彼らにとってはこの表彰楯と同じなのだろう、と。だから視界に入れたくないんだ。

 どうして準優秀賞なんかで喜んでしまったのだろう。こんなもの、何の価値も持たないというのに。望まれてなどいないというのに。


 お父さんとお母さんは、わたしに期待してくれているんだ。

 悪いのは、それに応えられないわたし。

「ごめんなさい……」

 わたしは、もう一度そう言った。


 もっと頑張らないと。もっともっと、もっと。

 わたしにできる限りの最善を尽くして。

 望まれた結果を残さないと。


 そうじゃないと、期待に応えられない。見てもらえない。

 まだまだ努力の余地があったはずだ。改善できる余地も。


「頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、頑張らなきゃ……」

 わたしは、もっとたくさん頑張らないといけない。

 それ以外、ないから。




 ⏩ ⏩




 ピアノを弾く指を止める。

 壁時計を見ると、午前二時を過ぎていた。そろそろ寝る支度をしないと。

 部屋の防音はしっかりしているため、夜中まで演奏していても一切問題がない。おかげで、いくらでも練習できる。

 コンクールが近いから、もっと練習の量を増やさないと。


 よく手入れされたグランドピアノは、曇りなく真っ白だった。

 白い鍵盤に白いカバーを掛け、蓋と大屋根を閉める。


 ピアノルームを出て、自室に戻る。

 明日は――もう日付が変わっているけど――午前七時に起きる。

 春休み中だからって、怠けることは許されない。周りと差がつくのはこういうときなのだ。


「…………」

 まだ、足りない気がした。

 やっぱり、明日は午前六時に起きよう。その方が、もっとたくさん練習できるから。


 白いウォークインクローゼットに入る。

 やたら広々としているが、それほど服があるわけでもない。

 両脇に、白い衣服や白い肌着などが掛けられている。


 それらの奥に、人目につかないように犬のぬいぐるみをしまってある。誰にも見られたくなかったから。お手伝いさんにも。

 これも、いつか先輩からもらったものだった。ぬいぐるみなんて初めてだ。


 カラメル色のダックスフンド。

 垂れた耳。丸くて黒い瞳。逆三角の鼻。どこかとぼけた表情だけど、それもまた愛らしい。

 わたしは犬のぬいぐるみの首に、ギフト袋についてきた赤いリボンを結ぶ。まるであつらえたようにぴったりだった。


 なんとなく、枕元に置いてみる。ぬいぐるみとは、こう使うものらしいから。

 ベッドに横たわると、傍らのもふもふしたものが気になる。


 試しに、ぎゅっと抱きしめてみる。

 ふかふかの毛並み。やわらかくて、あたたかい。

「……先輩」


 先輩にはいつも、もらってばかりいるような気がする。わたしも何か、お返しできればいいけど。でも、何をすればいいのかわからない。

 どうすれば先輩は喜んでくれるのだろう?




 ⏩ ⏩




 中等部に進んでから、しばらく経った。

 別に、初等部までと大して変化はなかった。エスカレーター式だから敷地も見る顔もほとんど同じだし。


 美術室からは、同世代の話し声や笑い声が漏れ出していた。引き戸に手を掛けて、中に入る。

 見慣れた顔が、固まって工作椅子に腰掛けていた。いつも先んじて部活動に来る面々。


 わたしは机と机の間――話し声と話し声の間を通って、自分の定位置に向かう。教室の片隅の、イーゼルに。慣れた手順を踏んで絵を描く仕度を済ませると、絵筆を手に取った。描きかけの絵を少しでも進めたかった。


 また、誰かが笑う声が聞こえた。輪唱のように、広がっていく。思わず、目がそちらに向いた。だけど、すぐにキャンバスに戻す。

 この部室で、わたしに声を掛ける人間はいなかった。部室だけではない。教室でも。まるでそこにいないかのように。


 わたしと、今和気藹々と談笑している彼女たち。一体何が違うのだろう。

 それは、わたしが――

 思考の方向が芳しくなかったので、考えを断ち切る。

 今すべきなのは、絵を描くこと。大事なのは、キャンバスに集中すること。

 大丈夫。すぐに何も聞こえなくなる。何も見えなくなる。必要のないものは、全部。


 そうやって、ただ白い帆布だけを見つめて筆を走らせる。

 時間を忘れて、ずっと。


「瀬名」

 静寂に、飛び込んでくる声。

 わたしは、すぐにそちらを向いた。

 先輩だった。

 ただ一人の例外。


 先輩は、笑顔を向けてくる。

 彼の声は、色で例えるとカドミウムオレンジのようだ、と思った。

 黄色が強くて、発色がよくて、すごくあたたかい色。


 わたしは、顔を彼に向けたまま、右手でそっと左手首の腕時計に触れた。

「なんですか?」

「今度の体育祭で使う横断幕なんだけどさ――」


 話の内容は、部活の細々とした連絡事項だった。美術部が横断幕などを手分けして作ることになったから、仕事の分担について。

 それほど長い会話ではなく、先輩はすぐに去っていく。


「…………」

 体育祭か。そんなの、参加したことがない。

 わたしは、行事ごとのほとんどには参加しない。文化祭も、遠足も、校外学習も、修学旅行も。合唱祭だって、伴奏にすら関わらない。


 両親が、そんな暇はないと言ったから。

 わたしの家は学校に多額の寄付をしているらしいから。

 多少の要望は簡単に通るようだった。


 遠ざかった先輩の姿に、再び焦点を合わせる。細い身体に、夜臼坂学園の制服を着ている。

 公園や絵画教室で見ることは多いけど、こうして学校の中で先輩と同じ教室にいるのは不思議な気分だった。


「鴇野先輩、私筆箱変えたんですよ。どうですか?」

「へえ、かわいいな」

 先輩が下級生の女生徒に絡まれていた。


 彼は、部活の色んな人間とよく話す。そりゃ、わたしにさえ声を掛けるのだから、ほかの人間ともそうだろう。


「じゃあ今度一緒に行きましょうよ! 私、先輩とも遊びに行きたいです!」

「そうだなぁ、じゃあ次の日曜に――」

 なんだかいつもより浮かれているように見える。


 やっぱり、ああいう明るくて素直そうなタイプの方が、かわいげがあって話していて楽しいのだろうか。

 ……それも当たり前か。

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