3 心にもない
「恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった」と。
小説の一文が、目についた。
わたしはぱたんと本を閉じる。
恋?
なんだそれは。
所詮恋愛関係なんて利害の一致によるものに過ぎないプラグマだ。わたしの両親を見ていると、それがよくわかる。
恋心なんてものも、単なるくだらない自己陶酔の錯覚か、あるいは再生産の必要に基づいたものというだけだ。そんなものに惑わされて、終いには身を持ち崩すなんて……どうかしている。
わたしは恋になんて落ちない。
そんなくだらない夢浮橋に現を抜かしている暇などないのだから。
そもそも恋だの愛だのとは一体なんなのだろう。
昔の人は、愛を四種類に区分したという。性愛と、友愛と、家族愛と、無償の愛。だけど、そんなのどれもわからない。また、別の人は恋愛態度を六種類に区分した。ますますもってわからない。
恋なんて結局そんなの、自分に都合のいい人間に抱く感情に過ぎない。
利己的で、くだらない感情。
先輩――たとえば先輩は。どうしてわたしに優しくするのだろう。彼がわたしに向ける感情はどんなものに区分されるのだろう。
それも、わからなかった。
……この本は後で読もう。今は別のものがいいはずだ。
そうやって違う本を読んでいたのに、まためくる指が止まる。
ページの中に、ある文字があった。
「鴇」という、字。
それが鳥の名前だというのは知っている。どんな姿で、どんな色で、どんな学名なのかも、絶滅の危機に瀕していたことも。
でも、今重要なのはそんなことではなかった。
どうして、文字が等間隔に、無数に並ぶこの紙上で、この文字だけがわたしの目を惹きつけ、輝いて見えるのだろう。マーカーが引かれているわけでもないのに、そこだけ色が違うように映るのだろう。その文字を見つけただけで、なぜこんなに不思議な気持ちになるのだろう。
実物を見たことはないけど、きっと綺麗な鳥だ、と思った。
こんなに軽やかな音の響きを持っているんだし、暮れ方の陽光のような優しい色の名前になっているんだし。
でも、それと同時に胸がずきりと痛んだ。
自分のこんな感情が、嫌いだった。
こんな感情を抱いている自分が、自分の何もかもが、嫌いだった。
▶ ▶
日は落ちたけど、まだじっとりとした暑さが残っている。もう夏が始まっているのかもしれない。
公園の「天体の運行」が、光を反射してきらきらと輝いている。それを横目に見ながら、キャンバスに描いていた絵を進める。
「先輩……」
また、視界の端に見慣れた姿を捉える。道の向こうから、こちらに歩いてきている。
「瀬名」
彼はわたしの名前を呼んで、片手を軽く上げる。……今日は部活で後輩とあんなに楽しそうにしていたのに。出かける約束までして。
「今日は先輩、来ないかと思ってました」
「え、なんで?」
「忙しそうだったので」
「そうでもないけどな。そう見えたか?」
先輩はすぐそこにあった自動販売機に硬貨を入れる。
「ほら」
先輩は買ったばかりのスポーツドリンクを手渡してくる。
「顔赤いぞ? 最近暑いから気を付けてくれよ」
「…………っ」
急いで自分の頬に手を当てると、確かに熱が伝わってくる。明らかに夏の温度とは別種の、熱が。
「ぐ……」
風邪でも引いただろうか。夏風邪の、時期だから。
「……どうぞお気遣いなく」
ペットボトルを受け取りながら、わたしは答える。
「やっぱり、瀬名の絵、変わった気がするな」
先輩はわたしの横に腰掛けながら、そう言う。
「変わった?」
わたしの、絵が?
別に、何も変わらない。何も変わっていないのだから。
「瀬名の絵は元々すごいと思ってたけど、どんどん進化していくんだな。これからも楽しみだよ」
これからも、楽しみ――?
そんなの……まるで、ずっとこれからもわたしの絵を見続けたいと言っているようなものだ。
「べ、別に……大したものではないですし。そんなものをありがたがる人の気持ちがわかりませんから――」
そこまで言って、はっとする。
しまった。
これでは先輩をバカにしているみたいだ。
どうしよう。きっと先輩は不愉快に思って、今すぐ帰ってしまうかもしれない。そんなのは嫌だ。見たくない。先輩が帰る前に、わたしが帰らないと――
そっと先輩の顔を窺うと、彼は特に気にした様子もなく、いつも通りのんきな表情をしている。
なんだか無性に胸をなでおろしたい気分になった。
先輩はそんなことしないか。
先輩はわたしが何を言っても、怒ったりしない。つまらなさそうな顔もしない。ただいつも会いに来てくれる。
先輩は、わたしと一緒にいて楽しいのだろうか。
わからない。
でも、いつも会いに来てくれるということは、少なくとも不愉快だと思っているわけではないだろう。きっと。
もし先輩がわたしなんかと一緒にいて楽しいと思ってくれるのなら、それはいいことだと思う。望ましいこと、であるはずだ。
あの女生徒たちが先輩と話すのは、精々部活の間だけだろう。遊びに出かけるのだって、たまにだ。
でも、わたしとはこうして放課後も会ってくれるし、ときどきは一緒に出掛けたりもする。
それはきっと、ほかの人とは違うことだ。
▶ ▶
先輩は古典文学の話をしていた。
すごくレベルが高いことが伝わってきて、勉強になる。
そんなに楽しそうに何かに打ち込めるのは、すごいことだ。わたしにはできない。
「将来は古文について研究しまくりたいなぁ。革新的な発見ができたらすごいけど……。いや、そんな高尚なことがしたいんじゃなくて、なんというか、とことん突き詰めて読みたいんだよな、自分が満足するまで」
そうか、先輩はそんな夢を持っていたのか。
学究の徒らしくて、素敵だと思う。そういった意欲を持って学習に臨むのはいいことだ。
わたしは、横から先輩の瞳を覗き込む。
澄んだ空色の瞳を。
瞳孔を囲む色は、本物の空よりも綺麗に見えた。何しろ、暗くなることも雲が掛かることもなく、ずっと青空なのだから。
不意に、彼がこちらに顔を向けた。視線が交わる。
誰かと目が合うことが、苦手だった。自分の底まで見透かされるようで。
だけど、そのときは彼の瞳を見続けるために目を逸らせなかった。
「瀬名は将来何になりたいんだ?」
先輩はあっけらかんと訊いてくる。
将来。わたしの将来。
そんなこと、今まで考えたこともなかったし、考える必要もなかった。
高等部まで進んで、大学に進学して、それから就職……だろうか。なんだかつまらない感じだ。そういったものは夢とは呼べないだろう。
かといって、やりたいこともないのだった。絵を描くことは好きだけど、生業にしたいわけではないし、親が許すとも思えない。
そう、わたしにはやりたいことなんてない。ただ日々を茫洋に生きている。
「……普通に就職、ですかね。終身雇用が一番です」
「なんか世知辛いな」
先輩は困ったように笑う。
「結婚しないのか?」
「え?」
「瀬名はしっかりしてるし、いいお嫁さんになりそうだけど」
結婚……わたしが? 考えたこともなかった。
確かに親は結婚を求めてくるだろう。自分たちがそうしたように。
わたしは出来損ないだから
「……それは、旧時代の考え方です」
結婚――ほかの誰かと一緒に暮らすなんて、想像できない。
それが楽しいのかも、わからない。
「というか、瀬名は画家になるもんだと思ってたよ」
「画家、ですか……」
大人になっても絵を描き続けられたら、きっと楽しいだろう。でも画家になるなんて両親が許すはずない。
「絵はあくまで教養のために習っているので、仕事にすることはないと思います」
「そうか」
先輩は少し残念そうな顔をした。どうしてだろう。
「俺の母さん、絵本作家をやってるんだけどさ」
「え、そうなんですか?」
「ああ」
そんなの初耳だ。でも、確かに絵本作家なら、子どもに絵画を習わせている理由が見えてくる。
「母さんは、『好きなことを仕事にしてはいけないなんてのは大嘘』って言ってた。もちろん、人に依るんだろうけど……実際、絵本を作ってる母さんはすごくいきいきしてるんだ。そういう選択肢もあるんだって思うよ」
「へえ……そんな人もいるんですね」
好きなことで生きていくのは、きっと楽しいのだろう。
わたしにできるとは思えないけど。
「瀬名の絵ってなんか特別だよな」
「特別?」
「ああ、ただ上手なだけじゃなくて、すごく惹きつけられるっていうか。瀬名の世界観が特別なんだろうな」
「…………」
それはなんとも不思議な解釈だった。そんなこと言われたことがない。
「先輩、適当なことを言っていませんか?」
「あはは、言ってないよ」
特別、か。
わたしの取り柄は、絵くらいだろうか。
絵だけはいつも一番の賞を取れるし、親も何も言わない。
「俺は瀬名の絵、大好きだよ」
「…………」
どうしてこの人は臆面もなくそんなことが言えるんだろう。
「……わたしは先輩なんて好きじゃないです」
そう言うと、先輩は、ひな鳥が初めて歩く姿を見た親鳥のような目をした。なんだかすごくうれしそうだ。
「なんですか?」
「いや、別に」
なんなんだろう、この人は。好きじゃないって言ったのに、どうしてうれしそうにしているんだろう。わけがわからない。ひょっとして変な人なんじゃないだろうか。元々普通じゃないとは思っていたけど。
そんなことを考えていると、先輩は突然わたしの頭に手を置く。
「せ、先輩!?」
彼の手のひらで、頭を撫でられる。
「また――やめてください!」
「あはは、瀬名はかわいいなぁ」
先輩は少しの間撫で続けていたが、やがて飽きたのか手を離す。
「もう、先輩ったら……」
こんなこと、何が楽しいのだろう。わたしの頭なんて撫でても、何にもならないのに。この人の考えることはよくわからない。
「そうだ、瀬名にお願いしたいことがあるんだけどさ」
「何ですか?」
「岡崎先生のお祝いだよ」
「お祝い?」
岡崎先生とは、絵画教室の講師の女性だったはずだ。妙齢で、穏やかな人だ。
「ほら、岡崎先生、今度結婚するだろ? だからみんなでなんかやろうって」
「ああ……そういう、ことですか」
結婚祝い。それは確かに礼儀として行うべきだろう。
「でも、何をするんですか?」
「ほかの先生にも相談して、やっぱり絵画教室だから絵を描くのがいいんじゃないかって話になったんだ。だから、ハートドロップスをみんなで作って、贈ることになると思う」
「なるほど……」
「もしよかったらなんだけど……瀬名、結婚式に使うウェルカムボードを描いてくれないか?」
「え? ……わたし、人物画は描けませんけど。どうしてわたしが……」
「瀬名が一番絵が上手いからだよ。レタリングだって得意だし」
「…………」
「ウェルカムボードは、会場に来た人が一番最初に見ると言っても過言じゃない。だからこそ、瀬名に描いてもらうのがいいんじゃないかって話になったんだ。もちろん、忙しいのはわかってるから、無理にとは言わないけど」
先輩に期待されている。必要とされている。
それは、悪いことではなかった。
だけどこれで期待に応えられなかったら、見捨てられてしまう。そうなるくらいなら、最初から引き受けない方が……でも。もしここで断ったら、先輩は二度とわたしに期待してくれなくなるだろう。先輩の役に立ちたい。
「……描いてもいいですよ、ウェルカムボード」
「本当か!? ありがとう。みんなもきっと喜ぶよ」
うれしそうな先輩の顔。
それが見られたのなら、これでよかったのだろうと思う。
ウェルカムボードの詳細などを聞いている内に、夜も更けてくる。
「また明日な」
「……はい、さようなら」
去っていく先輩の姿を見ながら、先程もらったスポーツドリンクを傾けた。甘ったるくて仕方がない味が、喉を通り抜けて胸にまで広がる。
「……先輩」
青いラベルと相まって、それにはさわやかなイメージが付きまとう。だけど、全然さわやかではなかった。甘くて甘くて、いつまでも残って離れないような飲み物。
わたしは何になりたいんだろう。
▶ ▶
キャンバスに、ウェルカムボードのラフを描き始める。寸法はこれでいいはず。
とどのつまり案内板なのだから、文字が一番目立たないといけない。だけど、絵画教室の教え子が作るのだから、それなりに技巧を凝らした方が先生の顔も立つだろう。
さて、どうしようか。
結婚。
結婚式。
それに一体何の意味があるというのだろう。
わたしは結婚式を思い浮かべてみる。
厳かな教会。
美しい色彩のステンドグラス。
花嫁と花婿。
純白のウェディングドレス。
ふたりは向かい合って、誓う。
病めるときも、健やかなるときも。
永遠の愛を。
花婿はひざまずいて、花嫁の左手を取って、薬指に指輪をはめる。
そしてふたりは誓いのキスを――
……なんてステロタイプだ。自分の貧困な想像力が嫌になる。
そもそも、結婚とはそんな断片的なイベントではないだろう。婚姻関係を結ぶ、半永久的な契約。重要なのは、結婚した後だ。
そう、同じ家に住んで、同じ時間を過ごす。
……結婚がそんなにいいものだとは思えない。わたしの両親みたいになるくらいだったら、最初からしない方がマシだ。なのにどうして人はそれに憧れるんだろう。わからなかった。
わたしはキャンバスにブルースターを咲かせる。
サムシングブルーの象徴。小さくてかわいい、空色の花。
幸せな結婚式になるよう、願いを込めて。
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