4 フリードリヒの実験
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いつだったか、両親はわたしのDNA検査を行った。わたしがあまりにも出来が悪いから、産院での取り違えか、それに類することがあったのではないか、調べたのだ。曰く、本当に自分たちの子どもならこんなに不出来なはずがないから、きっと社会の底辺の子どもであるに違いないと。
もっと言うなら。
父は、不義の子ではないかとずっと母を責めていた。
元々不仲だった両親の関係はより悪化して、言葉すら交わさない冷戦状態になっていた。
そして、その争いに――あるいは婚姻関係自体に――終止符を打つために、DNA検査で親子関係が調べられたのだ。
もし、わたしが両親の子どもではなかったらどうしよう。そう思っていたけど。
検査の結果、わたしと両親の親子関係は、はっきりと証明された。
よかった、と思った。
わたしはちゃんと、お父さんとお母さんの子どもだったんだ。
だけど。
それを知った瞬間、父はわたしを見た。それは久方ぶりに向けられた視線で――それは、軽蔑の視線だった。
見開かれた父の目は、怒りと嫌悪と、蔑みに満ちていた。
「������」
彼は何かを言った。
だけど、わたしにはわからなかった。聞こえなかったはずないのに。何もわからなかった。
母は、父に嫌味のいくつかを言うと、あとは興味を失ったようにその場を立ち去った。
父はまだ納得がいかないようで、何度も同様の検査を行ったけど、結果は変わらなかった。
もしも、わたしが両親と血がつながっていなかったら、お父さんは喜んでくれただろうか。
わたしはまた、期待に応えられなかったんだ。
「……ごめんなさい」
その声は、やはり誰にも届かなかった。
わたしはどうしようもなく劣っていた。
▶ ▶
わたしは、期待されて生まれてきた。優秀な父と優秀な母。代々名のある
箸の持ち方も、歩き方も姿勢も、仕草のひとつひとつ、一瞬でも言われた通りにできなければ罰を受けた。
勉強も、ピアノも水泳も英会話も習字もそろばんもバレエも、絵を描くことだって全部、やれと言われたからやった。それ以外のこと――遊んだり、お菓子を食べたり、娯楽に耽る時間なんてあってはならなかった。
お父さんやお母さんは、わたしのことを思って厳しく接しているんだ。甘やかしたらわたしが立派な大人になれないから。
悪いのは、その期待に応えられないわたし。
小学校中学年に上がる頃、あれほど厳しかった指導は徐々になくなっていった。わたしにはその労力に値する価値がないと判断されたから。お父さんとお母さんに与えられた最高の環境を活かせず、絵以外は一番になれないのだから、見放されるのも当然だった。
会話を交わすどころか目を合わせることもなくなり、必要事項は紙として机の上に置かれるようになった。
まるで、わたしと関わることそのものを厭うように。
結局のところ、わたしは努力するしかなかった。
そうしないといけなかった。
今の量で足りないのなら、もっと増やすしかない。時間がないのなら、余分なことを削るだけ。遊ぶ時間は元より、休む時間も、眠る時間も。
自分が劣っている分を埋め合わせるために。
期待に応えられるように。
ほかの人の何百倍も、何千倍も努力し続ければ、いつか一番になれると信じて、
できなかったとしても、わたしにはそれしかないのだから。
だから、もっとたくさん頑張るしかなかった。
⏩ ⏩
スケッチブックに、半円を描く。それに髪の毛を生やし、ぐりぐりと目を描く。お気楽な笑顔を浮かべさせて、完成だ。
いつも公園にやってくる、別に好きでもなんでもない人の絵の出来上がり。
「…………」
何を描いているのだろう。
消しゴムを掛けて、落書きを消す。
人の絵は専門外だ。わたしは風景画しか描かない。
ふと、腕時計に視線が向く。先輩はまだ公園に来ていなかった。
相変わらず、街灯の光を反射して腕時計のベゼルがきらきらと輝いた。
誕生日の、お祝い。
生まれてきておめでとうって、そんな意味の。
「先輩……」
先輩は、いつも楽しそうだ。別に何か面白いことがあるわけでもないだろうに、わたしといるときもずっと笑顔だ。
その顔を見ていると、なんだか、わたしは存在していてもいいような、そんな、気分に――
「瀬名」
突然の声に驚く。見ると、先輩が横に立っていた。
「せ、先輩っ」
慌ててスケッチブックを抱きしめて隠す。またもや描いてしまったお気楽な笑顔が、紙上にある。見られるわけにはいかなかった。しかし、挙動があまりに不自然すぎたのか、先輩は不思議そうにのぞき込んでくる。
「何を描いてたんだ?」
先輩が無遠慮に顔を寄せるから、雲一つない秋の空のような色の瞳が、間近に迫る。その瞳孔も、虹彩も、目の前に。
わたしは、どうすればいいのか、わからなくなる。
「やっ、やめてください……!」
「いつもは見ても何も言わないじゃないか」
「今日は、ダメなんですっ」
どうして先輩はこんなに躊躇いなく近づいてくるのだろう。理解できない。彼にはパーソナルスペースやそれに類するものが存在しないのだろうか。
「わかったよ」
苦笑した先輩は、ぽんとわたしの頭に手を置いてから身体を離す。
もう諦めたらしい。
危ないところだった……。やっぱり先輩なんて嫌いだ。
「瀬名ってよく花の絵を描いてるよな。好きなのか?」
そんなつもりは全くないけど。
言われてみれば確かに、花の絵をよく描いている気がする。
「その……色鮮やかで、綺麗なので。見ていて、楽しいですし」
先輩の空色の瞳。ただ真っ直ぐに、わたしに向けられている。
春に咲く花と同じ色。夏の澄んだ海と同じ色。秋に広がる空と同じ色。冬の凍った池と同じ色。
そんなことを考えていると、わたしの視線に気づいた先輩が微笑みを浮かべる。
もしこの公園で絵を描くことをやめたら、先輩とこうして話すことはなくなるだろう。どうして先輩がいつも来てくれるのかはわからないけど――そんな気がした。
だから、わたしはこの公園から絵の題材を無理に見つけ出していた。『天体の運行』を描き終えた後は、公園の遊具を。その後は、片隅に咲く花を。ときには、三方を切り取られた空を。
きっと、それはするべきではないことだった。何の利にもならない。
だけどわたしは続けていた。
「瀬名のやりたいことって、なんだ?」
やりたいこと?
わたしの?
そんなの……考えたこともない。考える必要もない。
先輩はどうして、そんなことを訊いてくるのだろう。どうして、そんなことを知りたがるのだろう。……わたしに、興味があるから?
「えっと、勉強や――絵をはじめとした習い事や、そういった……ことです」
当たり前のことを言ったつもりだったけど、先輩は少し意外そうな顔をした。
「瀬名は真面目だな。ふつうは勉強も習い事も全部、やりたいことじゃなくて、やらないといけないことだと思うよ」
やらないと、いけないこと。
そう、やらなければならないことだ。
わたしは、そういうことをやりたい。少しでも多くの時間を割いて、結果を残したい。だって、きっと、そうすればいつか――
「もっと息抜きとか、そういう方面でやりたいことはないのか?」
「息抜き?」
「えっと、休憩とか、そういうのだよ」
「それって、準備期間ということですか?」
学校の休憩時間は、次の授業の準備をする時間だ。必要なものを用意して、最後の予習などをする時間。
休憩とは、そういうものだろう。
「そうだな……」
先輩は困ったように空を見上げる。どう説明したものかと考えているようだった。
また何か間違ったことを言ってしまったらしい。迷惑を掛けてしまったらしい。わたしの理解力が足りないのがいけないのだ。彼がそんな顔をする必要はないのに。
「先輩は……何がやりたいんですか?」
話を変えようと、水を向けてみる。
「俺は……そうだな、だらだら昔の本や歌集を読んでいたいし、今はやりかけのゲームをクリアしたいかな」
それが先輩のしたいことなのか。
古典文学に触れることは、学業においてとても有意義だろう。ゲームはどうかと思うけど、先輩が楽しいのなら、それもありだとも思う。
「こうやって瀬名が絵を描いてるところを見ているのも好きだよ。やっぱり上手い人の作業過程は見てて楽しいし、話をするのも楽しい」
「…………」
彼は、見る者全てを明るくさせるような、晴れやかな顔で笑う。わたしにはできない表情だ。
先輩が、わたしと一緒にいて話をするのは楽しいと言ってくれるなら。それなら、わたしも――
「……そうですか」
どう返していいのかわからなくて、うつむく。
わたしもそうだって言えば、先輩は喜んでくれるだろうか? 本当に? その言葉に、彼を喜ばせるだけの価値があるとは思えなかった。むしろ、そう思っていると思われることに、デメリットしかない気がした。
「瀬名だって、やりたいことをやればいいじゃないか」
「え?」
それは、ある種唐突な言葉だった。わたしは虚を突かれて、隣にいる人を見上げる。
「やりたいことをやりたいと言って、したいことをすればいい。一度きりの人生なんだから」
「やりたいこと?」
「ああ。やりたくないことは別にやらなくたっていいんだよ。瀬名だってもっと自由に、自分勝手に生きたって罰は当たらない」
「自分勝手にだなんて……そんなの、いけないことです。皆が皆そんなふうに生きたら、社会は成り立っていきません」
「瀬名は別にいけないことがしたいわけじゃないだろ?」
彼の瞳はまっすぐこちらに向けられていた。
それは、そうだ。わたしは、ただ――
「たまには好きなだけ甘いものを食べるとか、そんなことでいいんだ。それだけで自由なんだよ」
よくわからないけど、それがとても優しい言葉なのだということはわかった。
どうして先輩はそんなにわたしを気に掛けてくれるのだろう。何のメリットもないのに。
きっと、先輩が特別だからだ。
誰にでも優しくて、色んな人をよく見ているから。
人のいいところを見つけるのが得意だった。
いや――いいふうに見ることが、得意なのだろう。
だから、劣っていて何の価値もない人間にも、あたたかく接することができる。
わたしは、目の前の一対の空色の瞳を見る。
この瞳には、世界はどんなふうに映っているのだろう。きっと色鮮やかに、輝かしく見えているに違いない。
こうして先輩の横にいるだけで、彼の視界が少しは垣間見えるようで不思議だった。
空の色も、地面の色も、違って見える。
彼と一緒にいたら、いつか彼の世界の一部になれるような気がした。
きっと小さなことでも楽しく思えたり、色んないいことを見つけられたり、先輩みたいに――楽しく笑ったり。
そうこう話している内に、帰る時間がやってくる。
「瀬名、また明日」
いつもの言葉。
「……また、明日」
その声が震えていないか、気になった。
また明日も、なんて、期待しないようにしていた。
だって、今まで「また明日」があったことなんてなかったから。
わたしの、やりたいこと。甘いお菓子を食べたり、色とりどりの花を眺めたり、絵を描いたり――先輩と。ずっと。
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