5 普通の1/365でも1/6318でもない日


 出来上がった絵を、イーゼルから外す。

 紙上の澄み渡る空は、朝焼けと青空と夕焼けと夜空の色のグラデーションとなっている。


 今まで一度も描いたことがなかった、写実﹅﹅ではない絵。

 モデルとなった風景も、モチーフも存在しない。

 完全に想像で描いた。


 わたしはそっとキャンバスに触れる。

 今日は七月十三日。

 先輩の誕生日らしい。


 別に何の興味もないけど、偶然知ってしまったし、以前彼から誕生日プレゼントをもらったのだから、こちらからも何か送らないと不義理だろう。

 煩わしいけど、仕方のないことだ。


 全く、最初から贈らないでいてくれれば、こんな面倒にかかずらう必要なんてなかったのに。あんなもの、もらっても全然うれしくないのだし。

 先輩の前で描くわけには当然いかないから、時間を捻出するのに苦労した。


 喜んでくれるだろうか、先輩は。

 いつもみたいに、素敵な絵だって、綺麗な絵だって、言ってくれるだろうか。

 喜んでくれたら――きっといいことだと思う。


 先輩が生まれてきてくれた日なんだから、ちゃんとお祝いしないと。でも、わたしは誕生日のお祝いの仕方なんてわからない。ケーキを食べるらしいということしか知らない。だから、できることといえば、絵を描くことくらいだ。


 パーチメント紙でキャンバスの全体を覆ってから、白い包装紙でぐるぐる巻く。できるだけプレゼントらしくなるよう、丁寧に。


 わたしはいつものように公園に行き、ブランコに腰掛ける。

 ここからなら、先輩が向こうの道からやってくる姿がより見やすくなる。そちらに視線を遣って、今度は腕時計に目を落とす。先輩からもらった、腕時計に。


 彼がやってくる時間は、いつもまちまちだった。だから具体的にあとどれくらいで来るかはわからなかったけど、おおよその時間は推定できる。今までの経験で。この様子なら、あと三十分ほどで来るのではないだろうか。


 先輩に、なんと言って切り出そう。「誕生日おめでとうございます」? いや、そもそもなんで誕生日を知っているのか、怪訝に思われたりしないだろうか。先輩本人から教えてもらったことはなかったし。


 ただ、部活動で先輩の誕生日について話している会話が聞こえたから。念のため、隙を見て彼の教室に確認しに行ったら、廊下に掲示されてある自己紹介シートにも、しっかり七月十三日だと書かれていた。だから、間違いはないだろう。


 ……そんなふうに聞き耳を立てていたなんて、先輩に知られたら変に思われそうだ。わざわざ教室まで行ったなんて、思い返してみればちょっと逸脱している気がする。どうしよう。先輩に言ってはいけない。


 別に、言わなければいいんだ。先輩だって、そこまで深掘りしてこないだろう。「先輩、今日は誕生日だそうですね」くらいの、軽い感じで構わない。

 「先輩、今日は誕生日だそうですね」――その後は、なんて言おう。なんて言って、この絵を渡そう。「だから、プレゼントを持って来ました」? うーん、何かしっくりこない。


 プレゼントにわざわざ絵を描いて持ってきたなんて、まるでわたしが先輩のことをすごく気にしているみたいだ。そんなことはないのに。彼から誕生日プレゼントをもらったのだから、そのお返しに用意しただけなのに。


 そうだ、これで行こう。「先輩、以前わたしに誕生日プレゼントをくれましたよね。だから、わたしもお返しに持って来ました」――これなら、きっと自然だ。礼儀として用意したんだから、先輩が好きとか嫌いとか、そんなことは関係ない。彼にもわかってもらえるはずだ。


 よし、方向性が定まってきた。あくまでも、他意はないということを強調して――




 ▶ ▶




 そんなこんなで、一時間が過ぎた。

 ……遅い。

 いつもならもうとっくに来ている時間なのに、先輩は姿を見せない。

 何かあったのだろうか。少し心配になる。


 やっぱり誕生日だから、こんな時間に出歩かないのだろうか。今頃家でパーティにでも興じているのだろうか。

 いや、でも先輩は「また明日」と言った。だから、きっと来るはずだ。




 ▶ ▶




 腕時計に目を落とす。

 さらに一時間が経った。

 そろそろ帰らないと、さすがに親に怒られてしまう。


「…………」

 わたしはキャンバスを抱える腕に力を込める。

 どうしよう。


 これはきっと、今日渡さないと意味がないものだ。だけど、先輩が来ないのではどうしようもない。

 また明日なんて、あんな言葉、所詮決まり文句に過ぎない。額面通りに受け取ったわたしが愚かだっただけだ。

 とはいえ、こんなに重いもの、持って帰っても仕方がないし。


 空を見上げると、三方を建物で切り取られた夜空には星ひとつなかった。市街地なのだから、当たり前だ。

 しかし、月さえも見えない。ただただ、真っ暗な空間が広がっている。

 手を伸ばせば、落ちていきそうな空だった。




 ▶ ▶




 さらに二時間が過ぎた。

 結局いくら待っても先輩は来なかった。


 さすがに、今日はもう来ないのだろう。

 わたしは諦めて、家に帰ることにする。


 ……ひとりで帰るのは久々だ。

 早く帰らないといけない。怒られてしまう。

 しかし足を速めようとしてもキャンバスを抱えたままでは限界がある。


 大きくて歴史のありそうな日本家屋の前を差し掛かったところで、見慣れた姿が目に入る。

「あ」


 見間違えるはずがない。先輩の姿があった。

 よかった、これで今日渡せる。

 これで、今日――


「せんぱ――」

 声を掛けようとしたわたしの口は凍る。

 先輩はひとりじゃなかった。


 横に、彼と同い年程度だと思われる女性が立っている。薄い色の髪を二つ結びにしている、落ち着いた雰囲気の人。夏なのに妙に厚着で、すらりとしていて、わたしとは正反対の。

 先輩は、赤い包装紙で覆われた箱を手に持っている。リボンでラッピングされた、いかにもなプレゼント。


 先輩は傍らの少女に笑顔を向ける。

 会話の内容は聞こえないが、とても楽しそうだ。

 わたしと話しているときよりも、ずっとずっと。


 ずっと一緒にいたのだろうか、その人と。

 わたしがあの公園でひとりきりで待っている間、ずっと。わたしのことも忘れて。


 二人の影が重なる。

 ゆっくりと、しかし、確実に。

 顔が触れそうなほど近く、いや、実際に触れて――


 あれは――

 たとえば、将来を誓い合うときにするような。

 そんな、こと。


 わたしは、抱えていたキャンバスを取り落としていた。硬いものが硬いものにぶつかる不快な音がした。そして、倒れる。

 拾わないといけない、落としたものは。


 慌てて拾い上げようとするけど、うまくいかなかった。何度つかもうとしても、手から落ちていく。

 指先に力が入らなかった。腕の先が、全てなくなってしまったようだった。

 何度も地面に落ちたキャンバスの白い包装紙は、だんだん黒く汚れていく。


 先輩に特別な人がいたなんて。

 知らなかった。

 今までずっと。

 わたしは何も知らなかった。


 知らないまま、ずっと、バカみたいに、浮かれて、夢見てたんだ。

 両腕で挟み込んで、ようやくキャンバスを持ち上げる。

 よかった。こんなところに残しておくわけにはいかない。ゴミになってしまうから。


 右足を前に出す。

 家に帰らないと。

 いけない。

 早く、帰らないと。


 左足を前に出す。

 なぜだか、足に力が入らなくて。

 足元がふらついて。

 沼に沈んでいくような。

 そんな感触さえして。


 倒れる前に。

 急いで、右足を前に出す。

 家に帰らないと。

 家に帰らないと。

 一歩進んで。

 二歩進んで。

 乾いたアスファルトの地面を。

 確かに踏みしめる。


 大丈夫。

 歩ける。

 ちゃんと歩ける。

 何も問題はない。

 家に帰らないと。


 でも。

 そのとき。

 先輩がこちらを向いた。


 傍らの少女は、既にどこかに去っていた。

 しまった、と思った。

 わたしには身を隠す猶予すらなく、ただ先輩と顔を合わせてしまう。


「瀬名!」

 彼は目を丸くして駆け寄ってくる。

「ごめんな、遅くなって。今から公園行こうと思ってたんだけど」


「いえ、別に……」

 わたしは、どうにか口を動かす。

 話しかけられたら、答えないといけない。


 平静を、装わなければならない。

 子どものように感情を表してはいけない。

 だって、そうしないといけないから。そうするよう、言われたから。


「気にして、いませんから」

 なおも謝罪の言葉を言い募ろうとする先輩の姿が――どうしても耐えられなくて。わたしは、そんな言葉を発する。


「……先輩、さっきの人は、誰ですか?」

「え、ああ、見てたのか?」

 彼は気恥ずかしそうに頭を掻く。


「あいつは、神庭みたき。俺の幼馴染で、付き合ってるんだ」

「…………っ」

 付き合って、いる。

 そりゃそうだ。恋人でもない人と、あんなこと、するはずがない。


「どんな、人なんですか?」

 訊いてはいけない、と思うのに、なぜか口をついて出てきたのはそんな言葉だった。


「あいつ、家に籠りがちな奴でな。しかも偏屈だから、放課後いつも俺がプリントを届けに行ってるんだ」

「……いつも、ですか」

「ああ、それこそ毎日のようにな」

 毎日。


 やっと分かった。どうして先輩がいつも遅くまで出歩いていたのか。

 彼は放課後はいつも神庭みたきの家に行って、彼女と散々話し込んでから帰路に就くのだ。そして、その後に公園に寄っていたんだ。たまたま、わたしにそこがいただけ。帰り道に野良犬に餌をあげるような気まぐれで。きっと恋人と過ごす時間が楽しかったから、気が大きくなって余計に何かに親切にしたくなったのだろう。


 別に先輩はわざわざわたしに会いに来ていたわけではない。

 単なる、もののついで。

 仮に、わたしがあの公園にいてもいなくても。

 彼にとっては些事に過ぎない。


 わたしがこれまで公園で先輩と会ってきた日は、全て神庭みたきと会っていた日でもある。

 本当に重要なのは、神庭みたきの存在だけ。

 わたしと最初に公園で出会った日も。

 そして、今日も同じ。


 彼女に盛大に誕生日を祝われて。

 先輩にとっては、それ以上のことはなくて。

 ほかの誰がどうしようと、意識の外。

 わたしはそれも知らずに、ずっと、ずっとずっと先輩のことを待っていたのだ。なんて――愚かしいのだろう。


「変わった奴だけど、悪い奴じゃないよ。いっつも家の庭にある土蔵に籠ってて、古い書物とかを読み漁ってるんだ。俺が古文好きになったきっかけは、みたきなんだ」

 彼の物言いは。

 親しみが込められていて。

 本当にその人を思っているんだということが。

 伝わってきた。


 そうか。

 先輩の世界に、わたしはいないんだ。

 最初から。

 ずっと。


「先輩、それ……」

 わたしは、先輩が持っている赤いプレゼントボックスを指差す。

「ああ、これ、プレゼントだよ。みたきからもらったんだ」


 彼は、包装紙を外して中を取り出す。

 入っていたのは、高級ブランドの腕時計だった。


「あいつ、こんなのどうやって……」

「…………っ」


 途端に、わたしが今抱えているものの価値が霧散する。

 そうだ、こんな子どもの落書きなんてもらったって、何も使い道がないじゃないか。

 どうしてそれに気づかなかったのだろう。


 何も実用性がないし、かさばるし、あげたところでどうせ捨てられる。

 それなら渡さない方がいい。

 包装紙だって随分汚れてしまったし。


 そりゃ、立派な腕時計をもらった方がうれしいに決まっている。

 どうしてそれに気づかなかったんだろう。


「あ、瀬名、そのキャンバス、持つよ」

「……いいえ、自分で持てますから」

 わたしは、一歩後ろに下がった。


「わざわざ送ってくれなくても大丈夫です。きっと家でご両親が帰りを待っていますよ。早く帰った方がいいです」

 そして、小さくつぶやく。

「さようなら、先輩」




 � �




 じめじめと湿った生ぬるい空気が全身にまとわりついてくる。振り払っても離れない、そんな不快で仕方がないものが。

 夏だというのに、わたしの身体からは温度が失われていた。


 いつもは先輩と一緒に歩く道をひとりで歩いて、わたしは家に帰る。先輩に渡すはずだった重いキャンバスを持って、家に帰る。

 どうしよう。怒られてしまう。こんな時間に帰ってしまったのだ。


 恐る恐る扉を開ける。

 家の中は、冷房が過剰なまでに効いていた。

 乾ききった冷たい空気は、吸い込むたびに胸を刺す。


「……ただいま」

 いつも通り、返事はなかった。

 何も。

 何ひとつ。

 こんな時間まで外を出歩いていたことを咎める言葉すら、なかった。


 きっと……きっと、あの人たちは、わたしが出かけていたことにすら、気づいていない。たぶんわたしが帰って来なくても、気にも留めないのだろう。

 わたしは、何を気にしていたのだろう。愚かしい。


 汚れた包装紙を捨てる。

 本当は、キャンバスごとゴミ箱に放り込みたかった。

 だけど、そんなことをしてはならない。

 そもそも、キャンバスは粗大ゴミなのだった。




 � �




 白い部屋。白い部屋。白い部屋。

 自分の部屋に入った瞬間、キャンバスを床に叩きつけていた。

 硬い木材の音が部屋に響く。


 ダメだ、こんなことをしてはいけない。

 物はこんなふうに扱ってはいけない。

「…………」


 どうしてこんなもの描いてしまったんだろう。

 こんな、無意味なものを。

 必要とされていないものを。

 こんなもの描くべきではなかった。


 先輩は別に、いつもわたしの絵を見に来ていたわけじゃないのに。全部全部、ただのついでだったのに。

 彼にとっての特別が……一番が。誰なのか。

 わたしはもう、知ってしまったから。


 拾い上げようとして、わたしの手がキャンバスに触れた瞬間、そこから表面の色彩が黒く濁っていく。

「え……?」


 慌てて手を離しても黒色は消えず、広がって、すぐにキャンバス全体を覆った。

 そして、キャンバスは灰となって消えた。

 跡形もなく。


 何が起きたのかわからない。

 キャンバスのあったところに手を伸ばしてみても、空を切るばかりだ。

 いや、それどころではない。


 両手が真っ黒に染まっている。

「あれ?」

 なに、これ?

 いつから? 全く記憶にない。


 その異様な浸食は、明らかに常軌を逸していて。

 じわりじわりと、広がっていく。


 怖い。

 恐ろしい。

 本能的な恐怖がわたしを支配する。


「た、たすけ――」

 気付くと部屋を飛び出していた。


 廊下を走って、階段を降りて、廊下を走って、階段を降りる。

 壁は、わたしが手をついたところから黒く染まっていく。

 誰か、誰か、わたしを――


 足が止まる。

 でも、誰に縋ればいいというのだろう。

 一体誰が助けてくれるというのだろう。

 わたしが仮にここで死んだとしても、きっと誰も気に留めない。誰も、気づかない。

 それだけの、ことだった。

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