6 齟齬するキャンバス


 結局わたしは自分の部屋に戻った。

 それ以外に行くところなんてないから。


 別に、わたしはひとりきりでも生きていける。

 今までそうしてきたように。

 そう思うと、黒く染まっていたわたしの両手が元に戻っていた。


 先輩と長く一緒にいすぎたから、どうかしていたんだ。

 元から、わたしの世界にはわたししかいない。他にあるものといえば、絵だけ。

 それで上手くやってきたのだ。

 だから、何もいらない。


 大きなビニール袋を用意した。そこに、腕時計も、犬のぬいぐるみも、先輩に関わるもの全てを捨て入れる。

 それから、口を固く縛る。二度と解けないように、強く。

 「先輩」を全部全部切り離さないと、気が済まなかった。欠片も残さず、全て。


 いつの間にか窓からは朝日が差し込んでいた。




 � �




 どんなに疎ましくても部活には行かないといけない。

 いつもの定位置、美術室の隅でキャンバスに向かう。


 視界の端に、焦がしたキャラメル色の髪の人がいた。

 左手首には、昨日神庭みたきから贈られた腕時計。見せびらかすように着けている。


 そう思っていると、彼は近づいてきた。

「瀬名、ちょっと話したいことがあるんだけど、部活の後にいいか?」

 部活の後。きっと、あの公園で、ということだろう。


「えっと、わたし、その、今日は用事があって……」

「そうか、じゃあまた今度な」

 先輩は特に気に留めた様子もなく、去っていく。


 嘘を吐いてしまった。嘘を吐くなんていけないことなのに。

 でも、きっとこうするのが一番だから。


 先輩にとって一番重要なのは、神庭みたきと一緒にいる時間だった。




 � �




 家に帰った後は、早めに食事を摂る。

 父と母は、今日も不在だった。大体外食か、あるいは家で食事を摂るときも、わたしと時間をずらされる。


 白いテーブルの周りには四つの白い椅子が置かれている。だけど、これが全部使われることなどなかった。見栄えのために観葉植物を置くように、この椅子はインテリアのためにあった。


 その中のひとつに腰掛けると――お父さんとお母さんが普段使っている椅子には座れなかった――お手伝いさんがわたしの目の前に料理を並べてくれる。

 専属の料理人が用意した食事。

 見栄え良く盛り付けられ、栄養価もきっちり計算されているという。


 これを三食口にしているのに、どうしてわたしの身長はあんまり伸びないんだろう。不思議だった。

 白いナイフとフォークで料理を口に入れるが、味がしない。


 無論料理に問題があるのではなく、わたしの舌がどうかしてしまったのだろう。しかし出されたものを残すわけにはいかない。

 舌触りしか感じないものを手早く食べて、席を立つ。




 � �




 今日は学習塾があった。

 顔しか知らない生徒たちに囲まれながら、塾講師の板書をノートに写す。


 先輩は今頃何をしているのだろうか。

 神庭みたきの家にいるのだろうか。

 きっと、先輩はその人と一緒にいる方が楽しいから。


 だけど、わたしには関係ない。

 先輩がどこで何をしていようと。

 これまでそうだったように、これからも、何ひとつ関係ない。




 � �




 家に戻っても、することはなかった。

 申し訳程度に復習を済ませ、わたしはまた机に突っ伏す。

 到底絵を描く気にはなれなかった。


 いつもはあの公園にいる時間だ。

 先輩と、話している時間だ。

 先輩なんかに関わらなければ、こんなにも自由な時間があるのか。なんて素晴らしいんだろう。


 ……先輩に出会う前は、この時間、何をしていたんだろう。思い出せなかった。色々なことをしていたはずなのに、今は何もない。

 どうしてわからないんだろう。


 もっと早くに先輩と関わりを断ち切っておけばよかった。遅すぎたくらいだ。

 でも、今更そんなことどうだっていい。わたしは解放されたのだから。もう彼に関わることもないだろう。


 だって、わたしは先輩と出会うまで、これまでこういうふうにして生きてきたはずだ。ただ、その頃に戻るだけ。何も特別なことではない。


 そういえば――先輩から頼まれていた絵があったんだ。結婚式のウェルカムボード。

「…………」

 そんなもの、描きたくなかった。しかし、受けた仕事はきちんと完遂しなければならない。そして、なるべく早急に。


 わたしは画材部屋に移って、早速絵を描こうとする。

 だが、絵筆を持つ手が止まった。


 なんだろう。

 いつもと違う。

 何が違うのかはわからないけど、決定的に何かが違っていた。

 服の前後を間違えて着たときのような、そんな違和感。


「あれ?」

 ああ、そうか。集中できていないんだ。

 でも、それだけで最初に筆を走らせる場所がわからなくなるものだろうか。こんなこと、今までなかったのに。


 強引に描き始めるものの、違和感は消えるどころかどんどん膨れ上がっていく。

 花の形が崩れている。

 色が濁っている。


 塗りがはみ出て、筆ムラがひどくて、普段ならすぐ済むような工程も倍以上の時間がかかる。

 今まで感覚で掴んでいたことが全て抜け落ちてしまったかのようで、全然上手くいかない。


 色が、わからない。

 視界がぐらぐらと歪んで、彩度が零れ落ちていく。

 まず空色が消えて、黄色も消えて、赤紫色が消える。キャンバスに白と黒だけが残る。


 焦りだけが広がって、より彩度の高い色で強引に塗り重ねていく。

 完成させないと。

 これは課せられた仕事なのだから。


 ……わたしの絵なんて――誰が求めているのだろう?

 こんなものを贈ったって、本当に喜んでもらえるのだろうか。


 誰も必要としていない。

 誰も望んでいない。

 わかりきった、事実。


 いや、違う。

 これは頼まれていた絵だ。


 だから、描かないと。

 期待に応えられるように。

 不出来なものを出すわけにはいかない。

 わたしに頼んだ先輩の顔にまで泥を塗ってしまう。


 気づいたら、キャンバスの上には毒々しい色が広がっていた。

 直さないと。

 どうにかして。


 わたしは、さらに絵の具を塗りたくる。

 いつしかキャンバスは真っ黒になっていた。

 そうだ、黒は、全ての色を混ぜたとき出来上がるんだった。


「……描き直さないと」

 こんな失敗作、処分するしかない。

 これは大事な贈り物なんだから。


 新しいキャンバスを、イーゼルに乗せる。

 でも、もう手が動かなかった。


「あれ?」

 わたしは今まで、どうやって絵を描いてきたのだろう。

 何を思って、どういうふうに描いてきたのだろう。

 わからなかった。




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 放課後。美術部。

「瀬名」

 昨日と同じように、先輩は話しかけてくる。


「今日は部活の後、大丈夫か?」

「あ、わたし……」


 そう、断ればいい。

 何度も連続して断れば、いくら鈍い先輩でも避けられていることに気付く。

 そうすれば彼は二度とわたしを誘っては来ないだろう。話しかけてくることすらなくなるはずだ。


 もう夜ごとに先輩に会うことも、話すこともなくなる。一緒に出かけたり、甘いものを食べることも。また以前のように、絵を描いているだけの日々に戻れる。

 なんて望ましいのだろう。わたしはやっと解放されるのだ。

 いや、どうせだったら取り付く島もないほど、きっぱりと拒絶の意志を明確にしよう。

 ちゃんと、はっきりと、確実に。


「先輩――」

 しかし、口を開く前に先輩は行ってしまった。




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 つい早めに公園に来てしまった。

 当然先輩はまだいない。どうせ今頃神庭みたきの家にでもいるのだろう。あの日見たときのように、楽しく、過ごしているのだろう。


「…………」

 今の内に、置手紙でも用意しておこう。先輩に会いたくないし、話したくもないのだから。


 文面は、どんなものにしよう。

 生ぬるいものじゃ、きっといけない。わたしの気持ちが伝わるくらい、はっきりと書かないと。

 だけど……どうしよう。どう書けばいいんだろう。


 考え込んでいると、聞き慣れた声がする。

「瀬名!」

「あ、先輩……」


 しまった、もう来てしまったのか。

 わたしは書きかけの手紙をしまい込む。こんな中途半端なものを渡すわけにはいかない。また次の機会にでも渡そう。


「今日はキャンバスもスケッチブックも持ってきてないんだな」

「ああ……はい」

 すぐに立ち去るつもりだったから。


「その、わたしだって絵を描かない日くらいあります」

「そうか」


 先輩はいつも通りお気楽な顔をしている。

 話していて楽しいのだろうか。わたしと。

 もし神庭みたきがいなかったら、彼はこうして毎日のように会いに来てくれたのだろうか。


 彼が話したい内容というのは、岡崎先生への贈り物に関する連絡事項だった。

 それが済んでからは、また雑談を始める。


「あはは、瀬名はすごいな」

 ぽん、と。

 頭に手を置かれる。

 少しだけ無骨な手が、わたしの髪を撫でた。


「…………」

 何も言わないわたしを見て、先輩は不思議そうな顔をした。そして、すぐに手をどかす。

「――――」


「じゃあそろそろ帰ろうか」

「……はい」


「また明日な」

 そう言って、先輩はこちらに背を向ける。帰ろうと、する。

「――――」


 口を開こうとしている自分がいた。

 何かを言おうとしている自分がいた。

 何を?

 何を言えばいい?

 何も話すことなんてない。わたしには何もない。


 先輩の姿が遠ざかっていく。

 わたしはただそれを見つめていた。見えなくなるまで、ずっと。ずっとずっとずっと。


 先輩は神庭みたきに会いに行ったついでに、わたしのところに来ていたにすぎないのだ。

 単なるついででしかない。

 神庭みたきとの話が長引けば後回しにされる。だって、ついでなのだから。


 でも、別にそんなのどうだっていい。わたしはただ絵を描くためにこの公園に来ているのであって、わたしにとっても先輩はおまけなのだ。彼がどんな優先順位を持っていたとしても、何も関係ない。なんだったら先輩が明日突然来なくなっても、何も、変わらないのだ。


 いや、違う。

 わたしは先輩のことが好きじゃないのだから、むしろ顔を見ずに済めばそれが一番だ。

 会わずに、話さずに、いられるのなら、こんなにうれしいことはない。清々する。

 やっぱり、早く伝えないと、先輩に。もう二度と話しかけてこないように。




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 家に帰っても、絵は上手く描けなかった。

 デッサンもパースも狂っている。


 結婚式のウェルカムボード。

 もうすぐ式なのに。

 完成させないといけないのに。

 このペースだと間に合わない。


 ひどい絵だった。

 ばきり、と。

 絵筆が折れた。


 こんなものを完成品として出すわけにはいかない。

 ちゃんと責任を持って、それ相応の域に達したものを出さないと……。

 描き直そう。

 人目に耐え得る出来になるまで。


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