7 夜離れの季節




 気がつくと、わたしは知らない場所に立っていた。

 足元には白く乾いた地面が広がっている。昼間なのか太陽の光がやけに眩しくて、辺りは何も見えない。だけど暑いわけではなく、空気はひんやりとしていた。


 白く丸い机の周りに、椅子がふたつ置かれている。日よけの傘も白く、テーブルに影を落としている。まるでオープンカフェのようなつくり。

 そして、椅子の片方に、先輩が腰掛けていた。顔はなんだかぼやけていてよく見えないけど、すぐに先輩だとわかった。そのシルエットも、髪の色も、確かに紛れもなく先輩だった。


「先輩……」

「��」

 彼が、わたしの名前を呼ぶのがわかった。彼はハンドジェスチャで、もう片方の椅子に座るように示す。


 わたしは言われた通りに腰を下ろして、先輩と向かい合う。

 いつの間にかテーブルの上には紅茶とケーキのセットがふたつ並んでいた。わたしの前には、苺が乗った白いショートケーキ。先輩の前には、色とりどりの果物が乗ったフルーツタルト。


「食べても、いいんですか?」

「������。�����������」

 構わないらしい。

 それならば遠慮する意味もない。フォークで、ケーキを口に運ぶ。


 味はわからなかった。ないのかもしれなかった。だけど、それは何も不思議ではなかった。至極当然のことだった。わたしは、おいしいと思った。

 ケーキはあっという間になくなってしまう。苺も味はしなかったけど、とてもおいしかった。満足感があった。


 先輩は笑ったのだと、そんな気がした。顔は相変わらずよく見えないままだけど、きっといつも通りの表情を浮かべているのだろう。

「���、����������?」

「え?」


「������」

「そんな……申し訳ないですよ」

 彼は、気を遣うなという旨のことを言った。気がした。


「えっと、じゃあお言葉に甘えて……。わたしは、その、さくらんぼが、好きです」

 先輩はタルトを一口切り分けると、わたしの皿の上に置く。きちんとさくらんぼも乗っていた。


 ……口に運ぶと、おいしい。

「������������」

 また先輩が微笑んだことがわかった。

 どうしてだろう。顔も見えないし声も聞こえないのになんだかすごく……。

 その表情も、声の響きも、全部はっきり伝わってくる。彼の瞳の色も、言葉も、全部。


「�������。����������」

 先輩は他愛もない話をする。最近あったこととか、最近関心のある古典文学とか、そんな話を。わたしは、特に気が利いているわけでもない相槌を打って、たまにカップを口に運ぶ。

 紅茶は、熱いのか冷たいのか判別がつかなかった。そもそも紅茶であるのかもわからなかった。香りも味もしないのだから。単なる水かもしれない。どうでもよかった。


 どのくらい時間が経ったのか不明だけど、わたしと先輩はずっとそうやって話をした。

 日が傾く気配はなかった。時計なんて必要なかった。カップの中身がなくなることはなかった。世界には、ただテーブルと椅子と、日よけと、一対の皿とカップと、先輩とわたしだけがいた。


「���、�����?」

「え、わたしは……」

 ずっとお話をしていると、気が緩んで、色んなことを話してもいいような気がして、だんだん口が滑り始める。

 取り立てて着地点があるわけでも、面白いわけでもない、わたしの日頃思ったことや感じたことまで、話してしまう。


 昨日見かけた、道端に咲いていた花が綺麗だったこと。読んだ本が面白かったこと。数学の先生は授業中無駄話が多いこと。以前通りがかったお店のお菓子がすごくおいしそうで、行ってみたいこと。

 全部、くだらない話だ。


 それから、昔先輩に上手く伝わらなかった言葉は、本当はこういうことが伝えたかったのだということ。話そうと思って話せなかったこと。少し胸に引っかかっていたことも、全て、話してしまう。

 先輩は全部笑顔で聞いてくれた。


 ああ、こんなことなら、もっと早く話しておけばよかった。そうすれば、家に帰ってからあんなに考え込むこともなかったのに。

 そうだ、今度はあれを訊こう。

 わたしの、一番気になっていることを。

 ずっと訊きたかったことを。聞きたかったことを。


「先輩は、その――」

 縺薙≧縺励※縺?※縲∵・ス縺励>縺ァ縺吶°?

 今度は自分が何を言ったのか、はっきりしなかった。水の中に沈んだかのように、耳の奥に音が鈍く重く響いた。何かを訊ねたらしいが、何を訊ねたかは不明瞭だ。

 だけど、先輩には伝わったみたいで、彼は口を開く。


「讌ス縺励>繧」

「本当、ですか?」

「縺ゅ≠縲ゅ★縺」縺ィ荳?邱偵↓縺?h縺?↑」

 その言葉は、とても信じられなくて、だけどずっと待っていたものだったかもしれない。


 わたしは、うれしくて、すごくうれしくて、ずっと先霈ゥと荳?邱に縺?i繧後◆繧って思って縺?◆縺九i、だから縺吶#縺上≧繧後@縺上※、もう縺薙l縺九i縺ッ何も蠢??縺る蠢?ヲ√′縺ェ縺?s縺?縺」縺ヲ、蜈郁シゥは繧上◆縺励→荳?邱偵↓縺?※縺上l繧九°繧、縺壹▲縺ィ縺薙≧縺励※縺?※縺上l繧九°繧、莉悶?莠コ縺ョ縺ィ縺薙m縺ォ陦後▲縺溘j繧ゅ@縺ェ縺?@、神庭みたき縺ェ繧薙※螂ウ繧ゅb縺?ソ?ヲ√↑縺。驍ェ鬲斐↑繧ゅ?縺ェ繧薙※縺薙%縺ォ縺ッ縺ェ縺??ゅ★縺」縺ィ縺壹▲縺ィ蜈郁シゥ縺ィ荳?邱偵?ゅ%縺?d縺」縺ヲ豌ク驕?縺ォ縺オ縺溘j縺ァ縺願ゥア繧偵@縺ヲ縲√◎縺?d縺」縺ヲ驕弱#縺吶s縺?縲ゅ↑繧薙※蟷ク縺帙↑繧薙□繧阪≧縲


 だってこれは夢なのだから。




 � �




 夢を見ていたことに気付いたのは、目覚めてすぐのことだった。

 荒唐無稽な光景は当然一瞬でかき消えた。目の前にあるのは、眠る前と一切変わらない見飽きた部屋だけ。


 湿度の高い空気は疎ましく、その割に天気は優れず曇っていた。部屋の中が灰色に包まれている。これで雨でも降ったら手に負えない。

 わたしは緩慢に上体を起こす。


 枕元の時計は、アラームを設定した時間よりも随分早い時刻を示していた。

 眠れなくて、でも眠らないわけにもいかないから、とりあえず横になったのだった。どうにか眠ることはできたけど、その時間は精々数十分程度。

 頭が痛い。眠らないよりは少しでもいいから眠った方がマシだと聞くけど、本当だろうか。


「……気持ち悪い」

 こんなことなら勉強でもしていた方が余程有意義だった。




 � �




 遅い。

 今日もわたしは公園でひとりきりだった。


 先輩は、今神庭みたきとどんな話をしているのだろう。どんな顔で話しているのだろう。

 だけど、そんなこと全部関係なかった。

 今、彼の世界には神庭みたきしかいないのだろう。


 しばらく待っていると、ようやく先輩がやってくる。

「ごめんな、遅くなって」

「いえ……」


 また神庭みたきと盛り上がっていたのだろうか。

 そんなに彼女といるのが楽しいのなら、わざわざ来なければいいのに。わたしは先輩なんかに会いたくないんだから、その方がずっといい。


 先輩は屈託のない笑顔を向けてくる。

 楽しそうにとりとめもない話をし始める。


 今、彼の世界を、わたしが占めているのだろうか。

 視線も、関心も、全てわたしに向けられているのだろうか。

 いや、そんなはずはない。




 � �




 家まで送られた後、いつものように先輩の背が遠ざかろうとする。

 だが。

 気づくと、わたしは先輩の服の裾をつかんでいた。


「瀬名?」

「あ、いえ、これは……」

 慌てて手を離すが、遅かった。先輩は振り返って不思議そうにこちらを見遣る。


「なんでもないんです、本当に……何もありません」

 何をしているんだろう。


 彼の顔も見たくないのに、こんな、引き留めるような真似――

 これでは、まるでわたしが先輩から離れたくないみたいじゃないか。全くそんなことはないのに。むしろ先輩に付きまとわれて困っているのに。


 先輩なんてすぐどこかに行ってしまえばいいんだ。

 振り返ったりしないで、ただ帰ってしまえばいい。


「そうだ、俺、絵の具買いに行かないといけないんだ。瀬名、付き合ってくれるか?」

「……はい」

 その後、先輩と画材屋に行った。


 いっそ、わたしのことなんて嫌いになってくれればいいのに。

 先輩は神庭みたきが一番特別だろうに、どうしてわたしのことも特別みたいに接してくるんだろう。

 わたしのことなんて、どうとも思っていないくせに。


 わたしだって先輩なんてどうだっていい。先輩がどこで何をしていたって全く関係ないし、誰と何を話していようが全く気にならない。別に毎日会いに来てくれなくたっていいし、先輩の顔を見なくったって、話さなくたって、どうもしない。

 だから先輩もわたしを放っておいてくれればいいのに。


「そうだ、暑いし、よかったら飲んでくれ」

 先輩は自動販売機で清涼飲料水を買うと、左手で差し出してくる。

 まるでその腕時計を見せびらかすかのように。

 もし――もし今ここで、拒絶されるなんて露ほども思っていないであろう彼の手を払ったら、どうなるのだろう。


 その容器の中身を一滴残らずぶちまけて、プラスチックを押しつぶし、ひしゃげ、全て粉々の破片になるまで壊したら――どうなるのだろう。

 きっとなんの意味もない。


「瀬名?」

 いつまでもわたしが受け取らないから、先輩は不可解そうに首をかしげる。

「いえ……なんでもないです」

 ペットボトルを受け取りながら、わたしは答えた。

 結局それは一切口を付けずに捨てた。




 � �




 もう絵筆を持っても、何も描けなかった。

 わたしはウォークインクローゼットに入る。

 そこには服と一緒に、以前先輩に関するものを詰め込んだビニール袋をしまい込んでいた。


 ビニール袋を鋏で破き、中身を取り出す。

 腕時計や犬のぬいぐるみといったものが、変わらずに押し込められていた。


 ぬいぐるみ。それに鋏を突き刺す。柔らかな布には簡単に切れ目が入った。

 だけどこれだけじゃ足りない。

 ピンクッションに針を突き刺すように、わたしは鋏を振り下ろす。


 何度も何度も。

 ざくざく、と。

 ずたずたにする。


 先輩なんて嫌いだ。

 鋏を振り下ろす。

 他の誰よりも、誰よりも、嫌いで嫌いで仕方がない。


 先輩がどこで何をしていようが、関係ない。全く興味なんてない。

 鋏を振り下ろす。

 大嫌い、大嫌い、大嫌いだ。


 先輩に名前を呼ばれてもうれしくない。褒められてもうれしくない。頭を撫でられてもうれしくない。

 こんなぬいぐるみなんて欲しくなかった。プレゼントされたときも苦痛で仕方がなくて、すぐに返したかった。


 ぬいぐるみに触れるたびに寒気が走った。

 その感触も、毛並みも、とぼけた表情も。

 全部全部嫌いだった。


 中の白い真綿を全て抉り出して、空っぽにする。

 ぬいぐるみはすぐにその形を失った。

 ふかふかの生地を切り刻んで、全てぼろ切れに変える。


 先輩に会いたくない。

 一緒にいたくないし、話したくもないし、顔も見たくない。

 見つめられるだけで吐き気がする。


 先輩の代わりなんていくらでもいる。

 先輩なんてほかの人と一緒だし、何の違いもない。


 先輩の全てが嫌いだ、全て、全て、全て。

 彼が笑っている顔なんて大嫌いだし、声も、手のひらも、雲ひとつない空のような瞳も、全部全部大嫌いだ。

 先輩なんて必要ない。

 先輩がいなくても生きていけるから。


 跡形もなくなるように、無秩序に鋏を入れていった。

 床にはブラウンの布の断片と、綿が散乱している。


 最後に、わたしはぬいぐるみの瞳だったものに、金槌を振り下ろした。

 ひしゃげて、歪んで、壊れるまで。

 この残骸を見ても、最早誰もぬいぐるみだったとは思わないだろう。


 わたしは次に腕時計を手に取る。

 袋に入れるときどこかにぶつけたのか、針は止まっていた。でも、これはこれで都合がいい。壊す手間が一つ省けたのだから。


 腕時計に金槌を思い切り打ち付ける。

 何度も何度も、執拗に。


 中には歯車等の細かいパーツがぎゅうぎゅうに詰められていた。

 わたしはその部品全てを分解する。


 これまで先輩と過ごした時間なんて全て無意味だったし、苦痛だったし、早く終わってしまえばいいといつも考えていた。

 色んな場所に出かけたり、甘いお菓子を食べたりなんか、したくなかった。


 先輩と話した内容なんてすぐに忘れるし、とりとめもない世間話なんてなおさらだ。全く思い返さないし、先輩の言葉ひとつひとつがわたしにとって無意味だった。


 そして、ひとつひとつ丁寧に工具で捻じ曲げて、真っ二つにする。

 決して元に戻らないように。


 ベルト部分も、細かく断ち切る。

 細切れになった部品が、足元に散乱していた。


 いや、だめだ。まだ足りない。

 もっともっと壊さなければいけない。


 誕生日プレゼントなんていらなかった。

 わたしのことなんて考えなくてもよかった。


 こんなものなんて全然うれしくなかったし、ましてや身に着けるなんて拷問のようだった。

 いらない。いらない。必要ない。

 先輩なんて。

 わたしには。

 必要ない。


 いつの間にか朝になっていた。

 そろそろ学校に行く支度をしないと……。



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