8 軋み崩れる時間
夏休みに入った。
授業がなくなったというだけで、何が変わるというわけでもない。
それに、部活動はきちんとあるのだった。
もう部活になんて行きたくない。やめてしまいたい。
そうしないと先輩を切り離せない。
だけど、そんなこと許されるはずがない。
嫌いな先輩がいるから部活をやめるなんて……そんなこと。
美術室に入ると、壁際に置かれた白い石膏の彫刻が目に入る。
顔だけの胸像もあれば、顔も腕も脚もないものもある。
人間を模すにしては、随分と不完全だ。
だが、石膏はこれでいいのだろう。
必要な部分は揃っているのだろう。
それ以外の全ては邪魔で、削ぎ落とされて然るべきなのだ。
「先輩、これ、ありがとうございます」
部員の声が聞こえてくる。
見ると、後輩の女生徒と先輩が話している。
「誕生日だからな」
先輩は、その人に笑いかける。どうやら、今日が誕生日の生徒にプレゼントを渡しているらしい。
「…………」
彼は、誰にでも誕生日プレゼントをあげているのだろう。そこに何の含意もない。
誕生日だから贈るという、ただそれだけのこと。
話を終え、先輩が近づいてくる。
「先輩、彼女と仲がいいんですね」
先程の女生徒を見ながら、わたしは言う。
「え? ああ、大事な後輩だよ」
大事な、後輩。
先輩にとって、わたしとはなんなのだろう。
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結局、結婚式のウェルカムボードの仕事は断って、ほかの人に任せた。
最初からこうするべきだったのだ。
伝えると、先輩は申し訳なさそうな顔をする。
「そうか、ごめんな、無理言って」
「…………」
そうだ、元はといえば先輩が頼んできたからこうなったんだ。
「岡崎先生にハートドロップスを渡したら、すごく喜んでてさ、披露宴にみんなを招待してくれたんだ。瀬名も来ないか?」
……そんなの、全く行きたくなかった。
だけど、誘われたのなら断るわけにはいかない。
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結婚式。
そこには幸福が満ちていた。
岡崎先生の花嫁姿は麗しく、横にいる新郎とときどき笑顔を交わし合う。
本当に愛し合っていることが伝わってくる。
彼女の左手の薬指できらめく、白金の指輪。
環指を縛る約束。
過剰なまでの照明が、わたしを苛んでいた。
頭がずきずきするけど、これはただ単に最近ろくに眠っていないからという理由かもしれなかった。
永遠の愛がたとえこの世にあったところで、わたしにそれが与えられることは未来永劫ないのだろう。
そう思えて、ならなかった。
いつか先輩もこの舞台で主役となるのだろう。
神庭みたきと。あるいはそうでない他の誰かと。
真夏だというのに、あの日以来、身体が芯から冷え切って、体温をどこかに置き忘れたかのようだ。
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描けない。
描けない。描けない。
キャンバスは真っ白のまま、全ての色を弾いていた。
わたしの中から絵を描く技術全てが抜け落ちてしまったようだ。
いや、それどころか気を抜くと筆が真っ黒に染まっていく。
部活中なのに、何も進まない。
「……スケッチしに、行ってきます」
スケッチブックを片手に、わたしは美術室を出る。
だが行く当てなどなく、結局人目から逃れるように校舎裏にしゃがみ込む。
絵筆の代わりに鉛筆を握っても、何も変わらなかった。じわじわと、芯の先まで黒くなっていく。鉛筆はすぐに消えてしまった。授業中に持っても何も起きないのに。絵を描こうとすると、こうなる。
真っ白な紙。
何もない。
何も。
校庭からは運動部の練習の声が聞こえ、校舎からは吹奏楽部の演奏が聞こえる。
その全てからわたしは取り残されていた。
部活を休むなんていけないし、辞めるなんてもっての外だ。そんなの、許されない。
だけど、もう何も描けなかった。
どうしよう。
いつまでもこんな調子では、怒られてしまう。もうすぐコンクールだってあるのに。ちゃんと最優秀賞を取らないと、余計に見放されてしまう。
……いや、どうせもう、何をやっても無駄か。
わたしは空を見上げる。
晴れ渡った夏の青空には雲ひとつなく、まるで一面スカイブルーのペンキをぶち撒けたかのように清々しい。
こんなにも絶好の描画日和なのに。
わたしはこうして無価値に時間を浪費している。
いつまでも。いつまでも。
急速に空が遠くなっていく感覚がして、まるで、自分がどこかに落ちていくようだった。
くらくらして、ふらふらして、身体から力が抜けて、地面に沈み込む。乾ききってひび割れた土の感触が鬱陶しい。
どうしてこうなってしまったんだろう。
何がいけなかったんだろう。
絵をはじめとして、習い事にも勉強にも全く身が入らなかった。
何を食べても味がしないし、ろくに眠れないし、上手くいくことがひとつもない。
全ての歯車が狂って、軋んで、嫌な音を立てている。
理由ははっきりしていた。
先輩だ。
先輩さえいなければ、こんなことにはならなかったんだ。先輩さえいなければ、わたしはずっと何も変わらずにいられたんだ。
先輩さえいなければ。
先輩さえ。
その言葉だけが頭の中をぐるぐる回る。
「あ、瀬名、ここにいたか」
突然声がした。視線を向けなくても、誰だかわかる。
「……先輩」
何をしに来たんだろう。
一体これ以上何をしに。
「もう部活の終了時間だぞ?」
彼は、普段と変わりなく温和な表情を見せる。
「そう、ですね」
「瀬名、どうしたんだ?」
「え?」
「そのスケッチブック、真っ白じゃないか」
「これは、その、怠けていたわけでは……」
「わかってるよ。瀬名は真面目だもんな。具合でも悪いのか?」
先輩はしゃがむと、気安くわたしの額に触れる。その温度が、伝わってくる。
「…………」
彼に触れられたところから、膿んで腐り落ちていきそうだった。
わたしのことなんてなんとも思っていないくせに、善人ぶって……こんなことをすれば喜ぶとでも思っているのだろうか。
どれだけわたしをバカにすれば気が済むんだろう。
この人さえ、いなければ。
手を伸ばせば、その首に届く距離だ。
今なら、その首に手を掛けて、気管を塞いで、呼吸を止められる。
いや、無理だ。
自分に、年上の男性を死に至らしめるほどの腕力があるとは思えない。抵抗されて未遂に終わるのが関の山だろう。
やるならもっと確実に、もっと――
そこで、我に返る。
わたしは今何を考えていたというのだろう。
わたしは、先輩のことを――
「むしろひんやりしてるな」
先輩は手を離す。
「あんまり無理せず、しっかり休んでくれよ? 瀬名は溜めこみすぎるところがあるから」
「…………」
嫌悪感が全身を駆け巡る。
どうして、どうしてこの人はそんなことを言えるのだろう。
知ったような口を利かないで欲しかった。この人が一体わたしの何を知っているというのだろう。一体、何を。
先輩は何も知らない。
わたしが先輩のことを嫌いで嫌いで仕方がないことも、先輩のせいで何もかもがうまくいかないことも、全て知らない。
「瀬名はいつも真面目で、何にも手を抜かないから、ときどきちゃんと休みを取ってるか心配になるんだ。たまには肩の力を抜いて――」
「大丈夫です」
これ以上聞きたくなくて、無理に言葉を挟む。
「でも……」
彼は不安そうな目をわたしに向けてくる。心配でたまらないとでも言いたげに。
わたしの感情は煮えたぎってどうしようもなくなる。
もう一秒たりとも同じ空間にいたくなかった。同じ空気を吸いたくなかった。
離れなければ、本当にどうにかなってしまう。
言うべきだ。
もうわたしに関わらないでください、と。
あなたのことが嫌いです、と。
「先輩……その、わたし、わたしは、先輩が――」
なぜだかうまく言葉が出てこなかった。
きっと嫌いなんてシンプルな言葉では足りないから。わたしの気持ちを伝えるには、この程度の言葉では――
「先輩は――もうすぐ、引退ですよね」
気づけば、そんなことを言っていた。
「ん? ああ、部活のことか?」
夜臼坂学園は小中高一貫教育だが、中学三年生の一学期で部活は引退となり、二学期からは高等部の部活に移行する。
だから、先輩はもうすぐ引退する。
「大丈夫だよ。部活を引退したとしても、瀬名はずっと俺の大事な後輩だから」
大事な後輩。
彼はその言葉を、美術部のほかの下級生にも言っていた。
「ずっと……ですか?」
「ああ」
彼は微笑んだ。
屈託なく。
「……わかりました」
わたしは、そう言う。
もう終わりだ、と思った。
これ以上は、もう、どうしようもなかった。
こんなに――こんなに人を憎いと思ったのは、初めてだ。
殺すだけでは足りない。死ぬ以上の苦しみを味わわせてやりたい。全てを、滅茶苦茶にしてやりたい。
「そうだ、瀬名。みたきが今度瀬名に会いたいって言っててさ」
「……え?」
「瀬名がいいなら、放課後あの公園にみたきを連れて行っていいか?」
神庭みたきが?
あの公園に?
奪われる?
わたしの時間が?
これまでずっと、あの公園にはわたしと先輩だけだったのに。
「――――」
わたしは、この人を絶望に突き落とすためにはどんなことだってしよう。手段は選ばない。
この人を苦しめて苦しめて苦しめて、最後に殺してしまおう。
そう決意した瞬間、ここ最近わたしを苛んでいたものがようやく消えていく感覚がした。
わたしは笑顔を作ってみせた。
「みたきさんに会えるなんて、すごく楽しみです」
「よかった」
「え?」
「瀬名、最近元気なかっただろ? だから心配してたんだ。でもその様子だと大丈夫そうだな」
ああ――
わからないだろう。この人には。死ぬまで。
「はい」
わたしは笑顔のままで頷いた。
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