9 致死量の絶望
絵具で彩られたキャンバスが、真っ黒に染まっていく。
火で燃やすよりも無機質に、ゆっくりと消えていく。
後には、ただイーゼルだけが残っていた。
家にあるわたしの絵は、全部こうして消した。
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夜陰の中、自宅を出たわたしの足は、まっすぐ目的地に向かっていた。
場所は覚えている。
すぐ近所だし、あの歴史ある日本家屋は目立つ。予想通り、すぐに着いた。
来るもの全てを拒むような、威厳ある門構え。瓦屋根のついた、木造の扉。掲げられた「神庭」という表札。
正面から入るのは避けたい。鍵が掛かっているだろうし、何より目立ちすぎる。
塀に沿って歩くと、すぐに裏口と思われる扉を見つけた。正門よりいくらかささやかな、小さな木製の扉。試しに手を掛けてみると、簡単に開く。不用心なことに、鍵を掛けていないらしい。鍵を壊すために持ってきた道具は、無用になった。
いや、これはきっと、先輩のために開けてあるのだ。
先輩を迎え入れるために。
わたしは、いとも容易く神庭家の敷地内に踏み入った。
塀の長さから想像できたように、随分広々としていた。庭の木々は青々と繁っており、点々と踏み石が置かれている。人の手が加えられているだろうに、あまりそれを感じさせない質素な美しさは、まさに日本的情緒を感じさせた。そして、隅には手水鉢と水琴窟。涼しげな音を響かせている。
屋敷からは明かりが漏れ出している。縁側には誰もいなかったが、万が一目撃されると面倒だ。木陰を選んで、わたしは進む。
蔵と思われる建物は、敷地の端にあった。
先輩の話では、あの女はいつもそこにいるということだった。
違和感を覚えた。
蔵の周りだけ、雑草が手入れされていない。まるで、近づくことを厭うかのように。
土蔵の重い扉を押し開ける。
中はいやに冷え切っていた。まるで霊安室のように。
埃っぽい空間。
黄色くくたびれた本がぎゅうぎゅうに押し込められた本棚が、天井にまで届いている。しかし、それにも収まりきらないほどの数の本が、辺りに積み重ねられている。
蔵の中央に畳を敷いて、座り込んでいる少女がいた。
「あら、はじめまして」
神庭みたきだった。彼女は突然の闖入者に驚きもしない。ただ、ありふれた言葉を投げ掛けてくる。
こうして直に対面してみると、意外に小柄であることが分かる。といってもわたしより高いことに変わりはないのだが。
そして、いやに細身だった。不健康さすら感じさせる、折れそうなくらい細い腕や脚。
セラミックじみた肌に、攻撃性を湛えた瞳。
その垂れ目は温和さというより妖しさを感じさせる。
本能的に、近づきたくないと思った。
「あなた、韮沢瀬名さんでしょう?」
「…………」
どうしてわたしの名前を――
「孝太郎くんから聞き及んでるわ。かわいい後輩がいるって」
彼女にはわたしのことを話しているのに、どうしてわたしには一言も……。
やっぱり、彼女は邪魔だ。
わたしはポケットから折り畳みナイフを取り出すと、彼女に向けた。銀の刃先は、灯りを反射して鈍く輝いた。
先輩が神庭みたきのことを好きなら、その彼女を殺してしまえばいい。
彼を苦しめるなら一番効果的なはずだ。
どうしてこんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。不思議だ。
それに神庭みたきを殺せば、わたしがどれだけ先輩のことが嫌いか、先輩にもわかるはずだ。
この蔵の出入り口はひとつ。それは、今はわたしが背にして立っている。この厚い土壁では叫んでも外に声が漏れないだろう。
殺せる。
彼女を。
その後どうなろうが、そんなの知ったことではなかった。わたしは今ここで神庭みたきを殺さないといけなかったし、それ以外に何もなかった。
刃物を向けられても、彼女は微動だにしなかった。
「ねえ、韮沢さん」
ぞくり、と。背筋が凍るほど美しい声。濁りのない透き通った声。淀みがない分、自然に頭の中に深く入り込んでくるようだった。人の脳の奥と共振するような、不気味な周波数を持っていた。神話に出てくる、人を惑わし船を難破させる海の怪物は、きっとこんな声をしているのだろう。そう思えてならなかった。
挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330648645816455)
「あなた、孝太郎くんのことが好きなの?」
「好き? そんなわけないじゃないですか。どうしてわたしがあんなろくでもない人のことを好きにならないといけないんですか?」
あんな人、今すぐ殺してやりたいくらいだ。
「へえ、そうなの」
神庭みたきは、こちらの神経を逆なでするような笑みを浮かべて、立ち上がった。
「刺殺も悪くないけど、証拠隠滅が面倒だわ。血も出るし、死体だって残る。それよりも、もっといい方法があるのよ」
「……え?」
「大丈夫、教えてあげる。あなたならすぐにできるようになるわ」
こちらに近づいてくる。
なんだこの女は。何を言っている?
考えが読めない。理解できない。
「……近づかないでください」
「近づかないで、どうやって私を殺そうというの?」
わたしの背が、戸に触れた。
神庭みたきは足を止めない。
「すぐに終わるわ。簡単よ。何も心配はいらない」
わたしが向けたナイフが、彼女の腹部に触れる。しかしそれにも構わずに顔を寄せてくる。
息がかかるほどの距離。
「ほら、その手で私に触れてみて。ありったけの憎悪と嫌悪と絶望を込めて」
からん、と音を立ててナイフが床に落ちた。
「憎いんでしょう? 私のことが。嫌いなんでしょう? 私のことが。殺すしかないくらいに――望みが絶たれているんでしょう? ねえ、やってみせてよ」
「……わたしは」
「だけどあなたも哀れねえ。孝太郎くんに出会わなければこんな色争いに関わることもなかったのに」
神庭みたきはせせら笑う。
「孝太郎くんのことが好きなんでしょう? 彼だけが自分のことを気にかけてくれるから。彼だけが自分のことを見てくれるから。彼がいないと生きていけないほど拠り所にしているんでしょう?」
「ちが――」
「だけど、自分の本心を打ち明けるわけにはいかない。だって、きっと彼は受け入れてくれないから。そんなことになるくらいなら、いつものように興味がないふりをしていた方がマシ。そうすれば、まだ体裁は保てるから。自分は、どうしても欲しいものが手に入らないみじめな存在なんかじゃないって……こんなところかしら?」
この女は何を言っている?
違う。
丸っきり、間違っている。
先輩なんて嫌いだ。
先輩の全部が。
わたしは嫌いだ。
「……かわいそうに」
笑いを含んだ声で、神庭みたきは言う。
「ねぇ、言い当ててあげましょうか。あなたのたったひとつの夢を。かわいいかわいい無菌室の姫君が思い描いた、永遠に叶うことのない夢を」
「……あなたは、少しうるさいですね」
わたしは彼女の首に手を掛けた。
両手に思い切り力を込めて、血管でも気管でもなんでもいいから塞ごうとする。
殺さないといけない。
神庭みたきは。
彼女の身体は一瞬にして黒く染まり、消えた。
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両手に彼女の首の感触が残っている。
神庭みたきはどこに行ったのだろうか。本当に消えてしまったのだろうか。
あっけない。
わたしはナイフを拾い上げてポケットに仕舞う。
試しに、本の山に触れてみる。絶望を込めて。
するとすぐに書物は黒く染まって、消えてしまう。
そのまま、蔵の中の物品を全て消していく。全て全て闇に溶かし込んでいく。
跡形も残さない。
神庭みたきの遺物が少しでも先輩に渡ったらなんて、考えたくもなかった。
そんな中、ひとつだけ消えないものがあった。
暗闇に投じた懐中電灯の光のように、黒色を丸く切り取っている。
その中心に、ひとつの石が転がっていた。
雫を寸胴にしたような、丸い珠。
月長石に似た半透明さを持つ乳白色で、淡い光を放っている。
穴が穿たれており竹紐が通してある。長さから察するに、これは首にかけるためのものらしい。
いくら黒く濁そうとしても、この珠は弾いて染まらない。
これは、邪魔だ。ここに残しておいたら、きっと面倒になる。
そもそもこれがあるのなら、神庭みたきはどうして使おうとしなかったのだろう。
まぁいい。あの女が何を考えていようが、わたしには関係がない。興味もない。大事なのは、今日ここであの女を殺せたという事実だった。
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神庭みたきを殺しても、世界は何も変わらなかった。
何か大きな問題になることもなく、日常が続いていく。
だから、わたしもふつうの生活を続けていくだけだった。
先輩は、公園にいた。
彼がわたしより先に来ているなんて、初めてのことかもしれない。
横に座ると、お決まりの挨拶の後に彼は話し始める。
「……実は、みたきが行方不明なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、わたしはどうしようもなく高揚する。焼け焦げそうなほど、身体が芯から熱くなる。
「そう、なんですか」
感情を顔に出さないようにすることで、精いっぱいだった。
「もう、一週間も姿が見えないらしい」
そりゃそうだろう。わたしが彼女を殺したのは、一週間前なのだから。
先輩は、神庭みたきを探していること、心配していることを告げる。
わたしはもっともらしく顔を伏せる。さもショックを受けているふうに。
でも、自然と口角が上がる。
「あは……」
その声は、きっと先輩には届かなかっただろう。先輩は、何も気づかない。
これで先輩から大切な人を奪えた。
もう先輩は神庭みたきと話したりしないし、神庭みたきに笑いかけたりしない。だって、死んでしまった人間にこれ以上何ができるというのだろう?
こんな――こんなにうれしいことがあるだなんて、初めて知った。
この身がどうにかなってしまいそうなほど、
近頃自分を覆っていた何らかが、全て消え去っていく。
「瀬名も、気をつけてくれよ? 単なる家出かもしれないけど、でも、何か事件に巻き込まれたかもしれないし……」
先輩は、どこか浮かない顔をしていた。
それを見て、またわたしの胸が高鳴る。
「はい。それよりも先輩、みたきさんは大丈夫なんですか?」
空々しい言葉だった。大丈夫ではないことは、わたしが一番よく知っているのに。
「そうだな……あんまり外を出歩くような奴じゃないから、攫われたりするようなことは考えにくいけど……」
彼は、躊躇うように言葉を紡ぐ。
「今のところ全然手がかりがないんだ。みたきがよくいた蔵にも入れてもらえなくて……それにみたきの両親は、どうせ家出だろうから警察にも学校にも言いたくないって……」
「先輩、わたしもみたきさん探しを手伝いますよ」
「瀬名……ありがたいけど、忙しいだろ? 瀬名の手を煩わせるわけにはいかないよ」
「行方不明だなんて一大事、放っておけませんよ」
昂った気持ちが、わたしを饒舌にさせていた。
「大丈夫です、きっと見つかります。だから、そんなに落ち込まないでください」
余計なことが、どんどん口をついて出てくる。
うわべだけの励まし。慰め、鼓舞する、言葉。
「ありがとう、瀬名」
彼は微笑んだ。
わたしも笑い返す。それは、心からの笑顔だった。
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