後編
14 肖像に灯る華燭
「あっ、鴇野くん、はろはろ~!」
フィリピンのかき氷デザートの名前を高らかに言いながら、上木美伽さんは声を掛けてくる。
最早お馴染みとなった山の洋館に、俺は来ていた。研究会員がそれぞれ環境を整えているし、それこそ人が暮らすための設備は整っているので、居心地は悪くない。
ここまで来るのに、車で送ってもらわないといけないという点はネックだが。
「最近学校はどう? 勉強は?」
「特に困ってることはないですね。高一はまだまだ気楽ですから」
俺は二周目なのだから、ほかの人よりもアドバンテージがあるし。
「そっかそっか。仮に困ってても、あたしじゃ教えられないんだけど! バカだからさ。困ったときは、研究会に塾講のバイトしてる人とかもいるから、そっちに訊いてね」
「あはは、ありがとうございます」
「鴇野くん、聞いた? 最近捕まえた信者から出てきた情報。今度こそ本気で全てを終わらせるやばい計画を立ててるって」
「ええ、まぁ……」
あのライブハウスでの虐殺未遂以降、それに比肩するほどの計画は起きていなかった。そろそろ何か妙なことを企んでもおかしくないと思っていたが、それが現実になってしまったようだ。
「でも、その信者は詳しいことはなんにも知らなくって、肝心な情報は出てこないし、
「そうですね……もっと情報を集める必要があります」
だが信者も警戒心を強めて、誘拐するのが難しくなっている。解放した人間から情報が漏れ、俺たちの手口がバレた可能性もある。
みたきも、シンパにさえ情報を明かすのは控えているようだ。
多少時間は掛かるが、慎重に探っていくしかない。
人命を奪うことも、世界を終わらせることも、絶対に阻止しなければならないから。
▶ ▶
みたきの家の前の張り込みや、信者の誘拐、尋問。研究会の人間と一緒に、地道な作業を重ねていく。
とはいえ、日常生活も並行して行う必要があった。
絵画教室の中は、イーゼルとキャンバスで埋め尽くされていた。
今日の課題は、ペアを作ってお互いの肖像画を描こう、という試み。俺も、友人とペアを組んで向かい合う。
その輪から、瀬名は外れていた。彼女はただ、教室の片隅でひとり絵を描いている。
部員が奇数だった、というのもあるが。
「韮沢さんはコンクールで忙しいから」
「韮沢さんは人物画を描かないから」
「韮沢さんはそんなことしなくても完成されているから」
漂う空気を文章化すると、こうだろう。
講師ですら何も言わない。
瀬名はイーゼルの前に座って、コンクールに出す作品の続きに取り組んでいる。
話しかけようかと思った。一緒にトリオを組もう、と。
しかし、彼女が築き上げた周囲との高い壁――砦を崩す行為になってしまいそうだった。
そして、彼女自身それを望んでいないこともわかっていた。あれは瀬名を守るものでもあるのだ。他人に踏み込まれるには、不安定すぎるから。
結局俺は何もしなかった。
それに、わざわざ彼女をおびやかすようなことをしなくても、ほかに方法があるのだった。
▶ ▶
その日の夜の公園。
後輩を見ながら、こう切り出した。
「俺、瀬名を描いてみたいんだ。いいかな?」
「え?」
彼女はぽかんとした顔をする。
「わたしを、ですか?」
「ああ」
ひとりくらいは、韮沢瀬名を描く人間がいてもいいだろう。
「わたし、その、絵の対象になったことがないんです」
意外だった。教室で似たような活動は何度かあったのに。だが、言われてみれば瀬名が誰かに描かれているところは、見たことがない。
「恰好だって、その……題材にされるようなものでは……」
「その水色のスカート、かわいいじゃないか。似合ってるよ」
「そ、それは……」
本当に照れ屋な女の子だ。
とはいえ、本当に嫌がっているわけではないことは読み取れる。ただ恥ずかしがっているだけなのだ。
「そのイーゼル、ちょっと貸してくれないか? スケッチブックは持ってきたから」
「は、はい……」
イーゼルの先に座ると、彼女の表情が一気に冷たくなる。視線をこちらから外して、どこか遠くを見ている。
「瀬名」
そう声を掛けてみると、少しやわらいだ顔になる。
「こっち向いてくれないか?」
「そ、そんな……見つめ合っているの、緊張しませんか?」
「普段目を合わせて話してるじゃないか」
「それは、その……」
またしても顔を赤くしてうつむいてしまう。
こんなに表情豊かな子なのに、他人の前では表情を消してしまうのが惜しく感じられた。雑談をして、気を紛らわせるか。
「瀬名は、ほかの人を描いてみたいって思ったりしないか?」
「わたしは……そもそも風景画専門なので」
「モデルと見つめ合うのが恥ずかしいから?」
「そ、そういうわけではないです。その……なんだか、悪い気がして」
スケッチブックの上に、彼女のアタリをとる。やっぱり、全てのパーツが繊細に作られている。
「悪い? 肖像画を描くことが?」
「わたしが、その、ほかの人を象って絵を描くのはいけない気がして……絵を描くって自分勝手な部分があると思うので。その人にとって失礼にならないように描かなきゃとか考えてしまって……。わたしが誰かを対象にするのは、きっとよくないことです」
小さな顔に、細い肩。しなやかで華奢な身体。そして全てのバランスが整っていた。身に纏っている服までもが、韮沢瀬名という作品の一部として調和している。その均衡を崩さずに紙上に写し取るのは、骨が折れた。
「そんなに遠慮することないと思うけど。瀬名は俺に描かれるの、嫌か?」
「嫌では、ないです。少し落ち着かないですが……。先輩にどんなふうに見られているんだろうとか、そういうことを意識してしまうと、その……ちょっと、恥ずかしいです」
ちょっとどころではなさそうだが。そんなにりんごみたいに赤くなっているのに。
「でも、その……先輩以外の人だったら、きっと嫌でした。こんなふうにふたりきりになることも、ずっと見つめられることも。早く終わらないかな、なんてことばかり考えていたはずです。完成した絵なんて、見たくもありません。だって、その人の目から見えたわたしの姿があるんですから。苦しいことばかりだったと思います」
それは、きっと彼女が自分のことをあまり見つめたくないと思っているからだろう。だから他人にその対象とされることも嫌がる。
やはり、部活で声を掛けなくてよかった。他人を描くことも、他人に描かれることも、こんなに苦手としているのだから。
「俺は、こうして話をしながら瀬名を描くの、楽しいよ。新たな発見もあるし、こうして過ごす時間自体が楽しい」
紙上に、目の前の少女の姿を浮かび上がらせていく。
「た、楽しい、ですか?」
「そうだな、コミュニケーションみたいなものかな」
「コミュニケーション……」
紙上で、彼女の頬を鉛筆でなぞる。やわらかさを残した輪郭。その感触を、俺は知っていた。髪も、指先も、体温も。
「いつか絵を見返したら、こんなこともあったなって懐かしく思う日が来るよ」
「そう、ですね」
俺は鉛筆を走らせて、彼女のやわらかな黒髪の一本一本を描いていく。
「それは、いいことかもしれないです」
その表情が、やっとほころんだ。
筆を動かしながら、普段の瀬名の笑顔を思い起こしてみる。
無邪気で、見ているだけで胸が暖かくなるような表情。
目の前にいる瀬名はまだ硬さが残る表情をしているが、キャンバス上では笑顔を浮かべさせる。見慣れたものだ、描くのは簡単だった。
「絵って不思議だよな」
白い紙の上に、自分が思う通りの世界を広げていく。模写をしようとしても、必ず描き手の主観が交じる。色の見え方すら、人によって異なるのだから。
笑わない少女を、微笑ませることができる。
現実の人間を対象としている分、余計に性質が悪い。
瀬名の言った通り、確かに自分勝手な行為かもしれない。
それは写真を撮ることよりも余程掌握的だった。
出来上がった絵を見て、瀬名は目を丸くした。
「わ、わたし、こんな表情してましたか?」
「いつもはしてるよ。こっちの方が好きだから」
「もう、先輩ったら……」
くすぐったそうにしている。
「先輩から見えるわたしは、こんなふうなんですね」
自分の中の印象を完全に表現し切るほどの画力がないのが、惜しいが。
「あれ?」
首をかしげる瀬名。
「この髪飾りは?」
彼女が指差したのは、紙上の少女が髪に着けた六弁の白い花だった。
「ああ、似合うと思って」
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