後編 黒

10 恒常的関係



 朝食を口に運ぶ。

 プロ謹製の料理は、風味豊かな味がした。


 ……そう、味がする。

 このところ味覚を失って久しかったけど、取り戻すことができた。

 相変わらず大して眠れないことに変わりはないが、元々睡眠時間が長い方ではないし。




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 早朝の下駄箱。人気ひとけは全くないが、女生徒ふたりが下駄箱の前で何やらこそこそしている。あれは見間違えるはずもない。先輩の下駄箱だ。

 微かだが、彼女たちの声が聞こえる。


「でも、私……」

「大丈夫だって! こないだ脈ありげな感じだったじゃん! あんなに優しくしてくれるなんて、絶対気があるんだよ。部活引退してからじゃ遅いんだよ?」

 わたしは別の下駄箱の陰に身を潜めて、会話に耳をそばだてる。


「それは、そうだけど……でも、もし断られたら」

「もうっ、もっと自信を持ってよ!」

 つまらない会話。なおも尻込みする少女を、横の少女が励ます。やがて踏ん切りがついたのか、下駄箱を開ける音がしてから、女生徒たちは去っていった。


 姿が見えなくなったことを確認してから、わたしは陰から身を出し、鴇野孝太郎という名札のついた下駄箱を開ける。すると案の定、先輩の上靴にパステルカラーの封筒が乗せられている。封を切って中の便箋を読むと、なんとも芸のない文章が書かれていた。


 自分の悩みを親身になって聞いてくれたことがうれしかったこと。解決まで手伝ってくれて感動したこと。以下、お決まりの定型句。文末には差出人の学年と組と名前も記されている。二年生らしい。


「…………」

 今から後を追って、彼女たちをまとめて消してしまおうか。

 ……いや、それは避けるべきだ。


 神庭みたきは元々素行不良だったため行方不明になっても大事には至っていないようだが、あまり行方不明になる生徒が増えれば足がつきかねない。それに、わざわざそんなことをする必要もないのだった。


 わたしは便箋を細かくびりびりに破いて、一つの紙切れも余さず封筒に入れる。それから封筒をぐしゃぐしゃに握りつぶして、ねじって、滅茶苦茶にする。そして、差出人の下駄箱を探して、その手紙を入れた。


 ここまですれば彼女はもうこんなふざけたことはしないだろうし、なんだったら先輩のことを嫌うだろう。

 偶然この手紙を入れるところを目撃することができてよかった。先輩が幸せになるなんて許されないのだから。


 これからは毎日先輩の下駄箱を確認しよう。いや、別に告白の方法はこんな古典的なものに限ったことではないのだ。ちゃんと監視して、しっかりチャンスを奪わなきゃ。先輩を不幸にするために。




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 部活の時間になったが、相変わらず絵は描けなかった。

 わたしは、モチーフの資料に目を落として誤魔化す。


 先輩が下級生の女生徒と話をしていた。相変わらず楽しそうだ。

 あの人も、あの人も、みんなみんな消してしまおうか。

 いや、そんなことをしたら、最終的にこの学校から全ての生徒が消えるだろう。そんなの、さすがに問題になる。


 別に、わざわざ消す必要もないのだった。

 どうせ先輩はもう少しで引退だ。


 それよりも、先輩を苦しめるためには何をすればいいのだろう。

 わたしはこんなに先輩のことを憎んでいるのに、先輩にとってわたしは代替可能な存在だなんて、そんなの許せなかった。


「あの――」

 わたしは近くにいた女生徒に声を掛けた。




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 初めて、同じ部活の女学生たちと下校していた。

 中身のない会話をしていたら、帰り道も共にすることになったのだ。


「瀬名ちゃんって深窓の令嬢って感じで話しかけづらかったんだけど、こんなことならもっと早く仲良くなっておけば良かったな」

 上辺だけの愛想で定型文を発していれば、こんなに難なく接近できるものなのか。


 こんな人たちなんて心底どうでもよかった。ただ先輩を苦しめることに役立つのならそれでいい。

 だから取り入るために、いくらでも調子のいいことが言えたし、思ってもいない言葉もいくらでも出てきた。


「瀬名ちゃんって鴇野先輩と仲がいいの?」

「え?」

「ほかの人とは距離を取ってるのに、鴇野先輩とはときどき話してるから」


 仲がいい? そんなこと、あるはずなかった。わたしは先輩のことが大嫌いだから。

「いえ、むしろ付きまとわれて困っているんです」

 そんな言葉が、自然と口をついて出て来た。


 わたしはでまかせを並べて、普段から先輩がしつこくて迷惑を掛けられていると話す。

 先輩に対して悪い印象を抱かせるように。

 先輩を好きになる人間なんていなくなるように。

 だって、そんなもの必要ないから。


「ええ……それは、困るね」

「瀬名ちゃんかわいいから、きっと狙われてるんだよ」

「鴇野先輩ってそんな人だったんだ……。全然見えないけどなぁ」


「私達ががつんと言うよ!」

「いえ……それは、なんだか気の毒なので。先輩もあと数か月で引退ですし、大丈夫、です」

「瀬名ちゃん……」


「瀬名ちゃん、何か困ったことがあったら私達に言うんだよ。ひとりで抱え込まないでね」

「ありがとうございます」

 わたしは形だけの感謝を口にする。


 この調子で、どんどん悪い噂を流そう。

 誰も先輩に近づかなくなるように。交際するなんてもってのほかだ。

 



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 いつもの公園で、わたしと先輩はいつものようにベンチに並んで座っていた。

「みたきは本当にどこに行ったんだろう……」

 横に座っている人が、そんな声を漏らす。


 神庭みたきのことなんてどうだっていいのに、まだ気にしているのか。

 早く忘れてくれればいいのに。彼女はもうこの世にいないのだから。


 ……そう、消えた人間とはもう付き合っていることにはならないだろう。

 でも、先輩がそんなふうに考えているとは限らなかった。まだ関係は継続中だと思っているのかもしれない。


「ごめんな、瀬名にも色々手伝ってもらってるのに」

「ふふ、これくらい大したことではありませんよ」

 いくら聞き込みをしても、チラシを配っても、足取りはつかめない。

 当たり前だ。彼女は自分の家の蔵で忽然と消えたのだから。


「先輩にはこれまで色々とお世話になっていますから。たまにはわたしのことも頼ってください」

 そっと先輩の手に自分の手を重ねる。


「ありがとう」

 彼が笑いかけてくるので、仕方なくこちらも微笑み返す。

 神庭みたきの話なんて、これ以上続ける意義も見いだせなかった。わたしは違う話題を切り出す。


「先輩は、高等部に行っても美術部を続けるんですか?」

「いや、高校では同好会を作ろうと思うんだ」

「作る、ですか?」


「ああ。古典文学同好会を作ろうと思ってて」

「へえ……いいですね」


 夜臼坂学園は自由な校風ではないが、それでも規定の手順を踏めば同好会を設立できる。先輩がそう言うのだから、ある程度目処がついているのだろう。たとえば、設立に必要な頭数などは。


 ……誰かと一緒に同好会を作って、誰かと一緒に活動して、きっと充実した時間になるはずだ。わたしは先輩のことが大嫌いだから、そんなことは看過できない。

 でも、古文に打ち込むのは先輩の夢で、同好会もその一歩だろう。やめるはずなどない。

 一体どうしよう。




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 わたしは部活動の顧問に呼び出された。

 理由は簡単だった。

 コンクールに白紙のキャンバスを出展したからだ。


 結局部活動は辞めることとなった。

 どうせこんな有様じゃ長くは続かなかっただろう。むしろよく保った方だ。先輩が引退するまでは部活を続けられたのだから。


 当然この話は親にも伝わり、久々に色々なことを言われたけど全て頭には入ってこなかった。何を言っているのかもわからなかった。

 聞き流している内に、わたしは習い事を全て辞めることになっていた。


 唯一学習塾だけは例外だったけど、それ以外は全部終わり。

 本当にくだらない時間だった。今まで何のために続けてきたのだろう。

 でもそんなこと、もうどうだってよかった。

 これで先輩を苦しめることに専念できるのだから。




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「瀬名、部活辞めたんだって?」

 公園の街灯に照らされながら、先輩は訊いてくる。


「ええ……はい。両親の、方針で」

 詮索されたくないので、そう言って誤魔化す。

「これまでが忙しすぎたので、もっと自由になる時間を設けられたんです。習い事も、減りました」


「絵画教室も辞めたみたいだけど……しばらく絵はお休みするのか?」

 先輩の顔はどこか残念そうだった。わたしの絵になんて何の価値もないことは自明の理なのに。

 絵はもう二度と描けないだろう。しかし、そんなことは些事だった。

「そうですね。お休みです」


「じゃあ、空いた時間が出来た分、これからはもっと遊べるな」

「はい」

 わたしは笑みを浮かべてみせる。


「みたきさん探しにも、これまで以上に邁進できます」

「ああ……そうだな。でも折角だし、どこかに行こうよ。瀬名の、行きたいところにでも」

「付き合ってくれるんですか?」

「え? ああ、うん。瀬名には色々と手伝ってもらったしな。そのお礼……ってほどでもないけど」


「でしたら、また一緒にショッピングモールにでも行きませんか?」

「ああ、いいよ」


「ふふ、うれしいです。誘ってもらえて。わたし、楽しみにしていますね」

 次はどうやって先輩を不幸にしよう。

 何をすれば、一番効果的だろう。

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