光屈性の夏
韮沢瀬名さんが小学五年生のときの話です。
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扉絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16818093082317353782)
質素なつくりのプラットホームには、夕暮れの陰が落ちているばかりで、誰もいなかった。
俺と瀬名のふたりだけが、立ち尽くしていた。
中学校の夏休み中の今日は、絵画教室の活動で自然の風景をスケッチしようと、かなりの郊外まで来ていた。
引率の先生はいるが、各自好きなように分かれて、モチーフを探した。
あまり遠くに行かないよう言い含められたが。
しかし、瀬名とふたりで話しながらスケッチしていたら、ついつい帰りの集合時間に遅れてしまった。
乗る予定だった電車は既に発車した後で、先生まで、俺たちがいないことに気づかずに電車に乗ったのだという。
遅れた俺たちが悪いが、先生もおざなりだった。
夏の生ぬるい風が、人のいないホームを通り抜ける。
一日に利用するのは数百人程度という駅で、次の電車までには一時間以上ある。
横――瀬名の様子をちらと伺う。
小学五年生にしては、平均よりも随分低い身長。
白いワンピースに、つば広の真っ白な帽子。夏のお嬢さんといった恰好だった。
スケッチブックをぎゅっと抱きしめて、深刻そうな表情をしている。この事態に、困惑しているようだ。
「電車、行っちゃったな」
「……そうですね」
こうやって立ち尽くしていても仕方がない。急いで、先生に電話する。
「あ、はい……はい、すいません……ああ、瀬名は横にいますよ。俺が責任を持って送り届けるので……」
電話越しの詰問の声を受け止めて、先生とのやり取りを終える。液晶に浮かぶ赤いボタンを押すと、横にいた瀬名が口を開いた。
「もう、先輩ったら……不測の事態にも備えられるよう、常に五分前行動を心がけるのは、当然ですよ?」
「ごめん……」
次の電車を待つにしても、随分時間がある。
横に立つ女の子を見ると、こんなうら寂しいところに放り出されて、少し心細そうにしている。
「大丈夫だよ。俺が、ちゃんと瀬名を家まで帰すから。瀬名は何も心配しなくていいんだよ」
そう言うと、彼女は大きな瞳を、じっとこちらに向ける。その虹彩は、あまりにも澄んだ色を湛えていた。
「そうだ、次の電車まで時間があるし、駅から出て、この辺をもうちょっと散策しないか? 折角こんなに遠くまで来たんだし」
「駅から出るなんて……もしまた電車に乗り遅れたら……」
躊躇する瀬名。
しかし彼女は、今日ずっと周囲や風景を興味津々そうに見ていたし、帰るときも名残惜しそうにしていた。
本当は、もっと見たいところがあるのではないだろうか。
「今度こそ余裕を持って行動すれば大丈夫だよ。一時間以上、ずっとホームで待ってる方がもったいないよ。瀬名は、もうちょっと見たいところとか、なかったか?」
「その……歩く途中で見かけた向日葵畑がすごく綺麗で……少しスケッチしたいなと……」
「いいじゃないか! 善は急げだ、すぐ行こう」
▶ ▶
遠くに見える陽は、かなり傾いていた。
瀬名は俺の後ろを、とことことついてくる。俺は少し歩調を落として、彼女と並んで歩く。
国道から少し脇に逸れると、田んぼがずっと広がっており、点々と民家がある程度だ。
海沿いの街で、見渡せば様々な作物が実っていて、飾らない牧歌的な風景を楽しめる。
絵の題材になる、といえば確かにそうだった。皆原駅から電車一本で来られるし。
辺りは
まるで世界に、俺と瀬名しかいないかのようだ。
横を歩く女の子は、人の姿も見えない場所に放り出されて、あてどなさそうにしている。
韮沢瀬名。
二歳下の、毛並みのいい小動物のような女の子。
彼女とよく話すようになってから一年くらい経つが、全く心を開いてくれない。向こうから俺に声を掛けてくることはないし。
いや、他人と接するときの態度はさらによそよそしいのだから、まだ心を開いてくれている方なのかもしれない。
もっと彼女と仲良くなれたらいいのだが。
この子が心を開いたら、どんな感じなのだろう。
――人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきなんだ。
人間の、価値の所在。
他人を尊重し、さも価値を感じているかのように接していれば、いつか俺も彼女と同じものが見られるだろうか。
そう考えていると、ふと西からの陽光に目が眩んだ。
日が傾いてきたとはいえ、まだまだ日差しがきつい。
「瀬名、のど渇いてないか?」
「大丈夫です。きちんとスポーツ飲料を携行していますから」
相変わらずの澄ました口調。
とはいえ、その顔には少し疲れが滲んでいた。今日一日、炎天下で歩き回ったり絵を描いていたから、当然だ。
どこかに休めそうな場所はないかと道の先を見ると、個人経営の小さな商店があった。
店先にはアイスケースの平台が置かれており、ガラスの蓋越しに霜とアイスのパッケージが見える。
「瀬名、アイスでも食べないか?」
「……そんなの、必要ありません。だいいち、寄り道じゃないですか」
口ではそう言っているものの、明らかに食べたそうにしている。
「この暑い中、ひんやりしたアイスを食べたら、きっとすごくおいしいぞ」
そう言ってみると、瀬名の瞳が輝き出す。
「そうだ、今回の件のお詫びとして、俺がおごるよ」
「そ、そんな……先輩に買ってもらうわけには……」
こう提案すれば、「俺の金で買うか」「瀬名の金で買うか」の二択になり、端から「買わない」という選択肢はなくなる。これも、彼女の幸福を最大化するための手段だった。彼女が何を望んでいるかなんて、明白だから。
「いいからいいから。瀬名は何が食べたい?」
「……もう、仕方がないですね」
瀬名はソーダ味のアイスバーを選んだ。
俺は、大福の皮に包まれたアイスが二個入った商品を選ぶ。
購入を終えたら、商店の前のベンチに二人で腰掛ける。ちょうどよく日陰になっており、いくらか涼を取れた。
横の女の子は、小さな口で夢中になって水色のアイスをなめている。
「瀬名、こっちのアイスも一個食べるか?」
そう問いかけると、彼女は目を丸くした。
「え、一個って半分じゃないですか……。それに、その……ピック、一つしかないじゃないですか」
確かに、容器の中にはアイス用の楊枝が一本しか入っていない。
「ああ。でも、アイスを食べるには充分じゃないか」
そう言うと、なぜだか瀬名は顔を真っ赤にした。
「わっ、わたし、大丈夫ですから……っ」
「そうか」
遠慮しなくてもいいのに。
アイスを一個、口の中に入れる。もっちりとした羽二重粉の皮でコーティングされたバニラアイスが溶け出す。ひんやりとした感触が心地よい。
俺がアイスを一個食べて生じる感情より、彼女が食べて生じる喜びの方が、きっと何十倍も多いだろう。だったら、瀬名が食べた方が世の中の幸福の総量が増えて有益だ。
「もう、先輩ったら……」
つば広の白い帽子を被った女の子は、頬を染めたままソーダアイスを食べていた。
▶ ▶
八ヘクタールに広がる、三百万本の満開の向日葵は圧巻だった。
駅から歩いて十数分程度。
この地の向日葵畑は有名で、遠くから観光客が来るほどのロケーションだった。
「わあ……!」
瀬名は無邪気な声を漏らすと、とことこと向日葵畑の中に駆け寄って入っていく。
大きく咲いた花はどれも瀬名の背よりも高く、小さな少女の姿は、あっという間に隠れてしまった。
迷子にならなければいいが。
下手に俺が後を追うより、動かずにここにいた方がすれ違いにならずに済むだろう。
そう判断して、足を止めた。
ちょうど、自分の顔の高さくらいの向日葵を見つめる。
筒状花の配列や、夕焼けに染まって赤みを増した花弁。
綺麗だとは思うが、この光景を見て、絵を描きたいとか、インスピレーションが湧いてくるとか、そういうことはない。
現在の状況で完成されているから、絵にしたいわけではないのだ。
俺には芸術的素養はないんだろうな、と感じる。
でも――向日葵畑の前に立つ、白いワンピースの女の子が画になるのは分かる。
ごそごそと、花畑の方から音がして、俺はそちらに目を遣った。
「あ……っ」
瀬名が今にも泣き出しそうな表情で、向日葵の間から出てくる。
「せんぱいっ」
俺の姿を見るや否や、ぱあっと表情を輝かせてうれしそうに駆け寄ってくる。花畑の中で俺を見失って、心細かったらしい。
その姿は、なんとも小動物的だった。
ふと誘惑に駆られて、帽子越しに小さな頭を撫でる。
「わ、わたしを撫でて楽しいですか?」
「楽しいよ」
「…………」
彼女はうつむいた。つば広帽のせいで、その顔は一切見えなくなる。
「……先輩なんて好きじゃないです」
帽子で隔たれていても、その小さくて丸い頭の感触は伝わってきた。
「この向日葵畑、綺麗だよな」
「そう、ですね」
こくりと頷いた瀬名は、近くにあった石ボラードに腰掛けて、黙々とスケッチを始める。
夕日のせいか、暑さのせいか、彼女の顔は真っ赤になっていた。
▶ ▶
やっと来た電車も、人はまばらだった。
今度こそ電車の時間に遅れないように余裕を持って駅に戻ったから、慌てることはなかった。
俺たちはいそいそと車内に乗り込む。冷房の風が肌を撫でた。当然のように、座席には易々と座れる。
少しずつ滑るように、電車は走り出した。
夕焼けの橙色に染まった風景が、横に流れていく。
茹だった空気から解放されて、モケット生地の座席に腰を落ち着けて、自然と一息つく。炎天下で体力がだいぶ奪われたのか、どっと疲れがこみ上げてきた。
「一時はどうなるかと思いましたが……無事に帰路に就けて、よかったですね」
「ああ。むしろ、色々寄り道ができて楽しかったよ」
「…………」
俺の言葉に、瀬名はなぜだか黙り込んだ。
「わたしが歩くのが遅いから……それで、電車に乗り遅れてしまったんです」
車窓から差し込む夕焼けが、夜の暗闇に変わっていく。
その影が、瀬名の横顔を黒く染める。
「……先輩が怒られる謂れは、ないのに。今日も電話口で先生に怒られていましたし、みんなのところに戻った後も、きっと……」
目を伏せて、自分の指先を見つめている。
今回のことに、責任を感じているらしい。
「元はと言えば、俺がちんたらしてたからだろ? 多少小言を言われたって、俺はそんな気にしないよ。それ以上に今日は楽しかったし。買い食いとかできたし」
「買い食い……」
この様子じゃ、これまで買い食いしたことなさそうだ。
「そういえば、今日の習い事は大丈夫か? 時間、間に合わなくなったりしてないか?」
話題を変えたくて、質問してみる。瀬名がいつも習い事に追われているのは、知っていた。
「今日は、元々絵画教室のために他の習い事はお休みにしていたので……大丈夫、です」
「そうか、それはよかった」
一日中炎天下で過ごした後でも、習い事があれば行っていただろう。なんとも難儀なものだが、今日は休めるなら重畳だった。
「そうだ、今日描いてた絵、ちょっと見せてくれないか?」
試しに訊いてみると、彼女は恐る恐るスケッチブックを開く。
目に飛び込んできたのは、予想だにしない色彩だった。
青い鉛筆一本で描き出された世界。
夕暮れも向日葵も、全てが青い濃淡だった。
俺は横にいたから実際の情景が分かるが、何も知らなければ青空の下にしか見えないだろう。
……いや、影の長さや光の向きで、ある程度推測できるが、それもよく見て初めて気づくことだ。
「すごい、色遣いだな」
それは感嘆の声だった。
別に彼女は、青色の鉛筆しか持っていなかったわけではない。わざわざその色を選んだのだ。
「空色、だったので」
瀬名はぽつりと呟く。
空色?
あの、燃えるような橙色の世界が、彼女の瞳には、そんなふうに映っていたのだろうか。
確かに――と思う。
彼女の大きな瞳に浮かんだ、透き通るような水色。
この綺麗なレンズ越しなら、そう見えるのかもしれない。
「この絵が見られたなら、今日の課外活動の甲斐もあったかもな」
俺の言葉に、隣に座る女の子はこちらをじっと見つめた。
「甲斐、ですか……それがあれば、何よりですが……」
その表情があまりにも無防備で、どこか寂しそうだったので、俺は続けて声をかけた。
「またどこかに行こうな。絵画教室以外でも、休みのときにでも。今日、すごく楽しかったから」
「……はい。また、一緒に……」
涼やかな声は、そう言った。
「先輩、その、わたしも……今日は楽しかった、です」
瀬名は、少し笑顔を見せた。
こうして、ある夏の一日は終わった。
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