7 黒色の実験
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休み時間に、ふらりと学校の図書室に入る。
「……あ」
ざわざわとした喧騒の中、小さな姿を見かけた。瀬名だった。臙脂色のセーラーワンピース――初等部の制服がよく似合っている。
なんかこの頃よく見かけるな……いや、同じ小学校なんだし、このぐらいの頻度で遭遇するのは何らおかしなことじゃない。それに、なんだっけ、カラーバス効果とかいったか。意識するとそればかり目に入るものだ。
彼女は本棚の前で必死に背伸びをしている。棚の一番上の段に目当ての本があるようだが、その手は空を切るばかりだった。
背低いもんな……。
ここで立ち去る理由もない。
「瀬名、この『鏡は横にひび割れて』って本でいいか?」
話しかけると、彼女はこちらを見上げて、わずかに驚いた表情をした。
「ああ、はい」
俺が本に手を伸ばすと、簡単に届く。初等部の本棚だ。それほど高く作られているわけではない。
「……ありがとうございます」
本を受け取る瀬名の表情は、どこか不服そうだった。
「クリスティ、よく読むのか?」
「嗜み程度には。推理小説は嫌いではないです」
相変わらず澄ましたしゃべり方をする子だ。
ふと悪戯心が湧いて、俺は口を開く。
「その本、犯人はメイドのゲートベルだよ」
「え」
瀬名はぽかんと口を開ける。そのあどけない表情は年相応でとてもよく似合っていた。
しかし次の瞬間、真っ赤になって怒る。
「どうして言っちゃうんですか! 犯人を言うだなんてそんな……そんなの! 人としてやってはいけないことです! 許せません! この人でなし!」
すごいまくしたてようである。相当逆鱗に触れたらしい。
「冗談だよ。そもそも俺、その本読んだことないし」
「じょ、冗談?」
瀬名はまたぽかんとして、それから冷ややかな目を向けてくる。
「……最悪ですね」
「ごめんごめん」
「年下をからかって楽しいですか。人としてどうかと思いますよ」
「悪かったって……」
そこまで言うか。
「本読むの、好きなのか?」
「はい。読書は教養のために必要ですから。学校でも奨励されていますし」
「え? ああ――そうだな」
「先輩は……何を借りようとしていたんですか?」
瀬名は、俺が手に持っている本にちらりと目を遣る。
「『無名抄』だよ」
「『無名抄』?」
「鴨長明って聞いたことないか?」
「ええ、『方丈記』の作者でしたっけ」
「ああ。その鴨長明の書いた歌論だよ」
「先輩ってそんな本を読むんですね。意外です」
どういうふうに思われていたんだろうか。
「和歌とか古文とか、そういうのが好きなんだ」
最初は幼馴染の影響だったけど、すぐに自分なりに魅力を見つけ出せるようになった。
「珍しいですね。どんなところが好きなんですか?」
「そうだな……昔の人がどんなふうに生活していたかとか、何を思っていたかとか、そういった息遣いを感じられるのは、歴史書よりも文学が向いてる気がするから」
「へえ……」
「平安文学とかになってくると、今の時代から千年も隔たりがあるけど……それくらい離れているからこそ、見えてくるものがあると思うんだ。いつまでも変わらない、人間に通底する何かが。逆に、現代では当然だと思っていることが、全然当然じゃないんだって分かったり。だから、面白いよ」
瀬名はただこちらの話を聞いている。彼女も古文が嫌いそうには見えないが、どうだろう。そう考えていると、目の前の女の子は口を開く。
「先輩、今日も公園に来るんですか?」
「え? そうだな……」
やはり迷惑だろうか。こちらをじっと見つめてくる少女の表情を、見つめ返してみる。だが、特にそんな様子はなかった。むしろ、行かないと答えるほうがなんだか悪い気がした。
「実は、瀬名の話をもっと聞いてみたいんだ。迷惑じゃないなら、行ってもいいか?」
「…………」
瀬名は何も答えない。やはりこちらを見つめている。穴が空くほどに。そんなに見つめても、俺の顔には何もないと思うが。
やがて、ぷい、とそっぽを向いた。
「……別に、あなたがそんなに暇人だというのなら、好きにすればいいでしょう。公園は公共の場ですし」
前から思っていたが、面白い子だ。特に、この取り澄ましたようなところが。すごくちょっかいを掛けたくなる。
「あ、もう少しで予鈴ですね」
「ああ、そうだな」
時計を見ると、確かにもうそんな時間だった。
小さな女の子は、冷たく言った。
「それではさようなら、先輩」
⏩ ⏩
約束の時間より少し前に、第二民俗学研究室に着いた。尾上の姿が見えない。朝霧もまだ着いていないようだ。
民俗学研究会の学生なのか、それともゼミ生なのか、知らない生徒が訝しむ目をこちらに向けてくる。「尾上と約束していて」と説明すると納得してくれたようだが、それでも居心地が悪いことには変わりない。
定刻になっても、尾上と朝霧は来なかった。ふたりとも携帯電話を持っていないから連絡が取れないし……さて、どうしたものか。
壁のホワイトボードに、恐らく民俗学研究会に所属しているであろう学生たちの予定が書かれていた。そこには、この時間帯、尾上は第四学生実験室にいるとのことだ。
……行ってみるか。
第四学生実験室に入って、俺はぎょっとする。
「な――!?」
部屋の中は、黒一色だった。壁も、床も、天井も。ただ、真ん中に佇んでいる尾上の白衣だけが白い。黒――もちろんラネットである。
「……実験中だと張り紙をしてあっただろう」
「ああ、ごめん」
全く気が付かなかった。
「こんなに容易に侵入を許しては、完全な空間黒化とは言えない」
彼がそう呟き、部屋はすぐ正常な空間に戻る。どういうメカニズムかは分からないが、尾上のコントロール下にあるらしい。
こうして見てみると、部屋の中には極端に物が少ない。無骨な機械はいくつか置かれているが。
実験室、か。
「これを見ろ」
そう言って尾上が指差したホワイトボードには、数字が書かれたマグネットが一から十まで順に貼ってある。
しかし、三と八のマグネットは欠落していた。
「黒化の際に消えたのだ。出力の調整が不完全だったことに他ならない」
尾上はぶつぶつと何事かをつぶやきながら、部屋の中をぐるぐると回る。考え事をしているらしい。
こいつは一体何をしようとしているんだ?
「こんな実験、危険じゃないのか? マグネットだけでなく、お前まで消えてしまうかもしれないんだぞ?」
「空間の内部にいなければ黒化することはない。そのための処置は十全に施してある。安心しろ。研究室の外――果てには大学に波及するような事態にはならない」
答えになっているようでなっていない返答だ。
前に朝霧と話したことが、嫌でも頭を過る。
民俗学研究会が連続失踪事件を起こしている――なんて、いくらなんでも易々と信じたくないが。
「尾上、お前はどうしてラネットについて研究しているんだ?」
白衣の男は、こちらに視線を向ける。
その顔には何の表情も浮かんでいなかった。だが、言うべきか言わないべきか、それを考えているようだった。
「……時間を人為によって永遠に止めることだ」
平坦な声が、部屋の中に響く。
「無論、世界規模の話などしていない。精々――そうだな、一部屋分くらいだ」
だから、こうして実験を?
ラネットについて研究するって言ったって、ただ研究するだけのはずがない。
時間を操作するなんて超常的な能力、そりゃいくらでも利用したいと思うのは当然だった。
「研究室は人がいる。空き教室に移動しよう」
「……ああ、そうだな」
俺は、頷いた。
そして一旦研究室に寄り、既に来ていた朝霧と共に空き教室に向かった。
「これが新たに観測されたラネットの記録だ」
椅子に座るや否や、尾上は紙を出す。
「また増えたのか……」
「ああ、犯人とやらは絶好調らしい」
「ラネット探知機ってラネットしか探知できないのか? たとえば時間移動の痕跡とかは、分からないのか?」
「無理だな。ラネットと時間移動は、メカニズムは似ているが別種のものだ」
探知機を使って秋萩探しのヒントを得られないかと思ったが、できないらしい。
「そういえば――」
尾上は、やけにもったいつけるように口を開く。
「朝霧、お前は過去から来たということは、いつか過去に戻るのか?」
「当たり前じゃない。元の時代の方が居心地がいいわ」
朝霧の目的は、弟を見つけることだ。それが済めば、弟共々元の時代に戻るのだろう。
彼女は、あくまでも旅行者なのだから。
「時間移動にはふたつの方法があると言われている。精神のみが移動する時間転移と、身体ごと移動する時間跳躍だ」
どうやら説明してくれるらしい。尾上は、淡々とした口調で話し始める。
「前者は無論自分が生きている時間にしか移動できない。逆に、後者は自分の顔見知りがいるような時代に移動すると色々面倒ごとが起きかねない。そもそも、同じ時間にひとつの存在がふたつあるというのは、大きな矛盾が起こる。速攻で淘汰が起きるだろうな」
なるほど、確かに俺がイメージするような時間移動も、その二種に大別されるような気がする。
「朝霧は、当然時間跳躍の方法を取ったのだろう。だが、時間跳躍は時間転移よりずっと難易度が高い。時間転移は、所詮地続きの自分という存在の内側を飛び回っているに過ぎないのだから」
時間跳躍というと、やはりドラえもんが乗るようなタイムマシンで移動するイメージが強い。それはなんとも大掛かりで、簡単にはできなさそうだ。
もっとも、朝霧は「意志」の力を使ってこの時代にやってきたようだが。
「何が言いたいの?」
彼女の言葉は単純明快だった。回りくどいのは嫌らしい。尾上は、仕方なく本題に入る。
「大規模な時間跳躍……一体どういったプロセスで実現するんだ?」
結局それが訊きたかったのか。俺も上手くイメージがついていなかったが、尾上からしてみてもそうだったらしい。
「教えないわ。あなたって悪用しそうじゃない」
「するわけがないだろう。単なる知的興味だよ」
「なおのこと性質が悪いわね」
「お前だって分かっているだろう? 時間移動の技を使えば今回の犯人は容易に見つけ出せると」
「…………」
言われてみれば、そうだ。俺たちは、犯行直後の時間と場所を知っている。その少し前に時間移動することができれば、犯行が行われる前にたどり着くことができる。なんだったら、一連の事件が起こる前に行って、全ての事件を防ぐことだってできる。
「残念ながら、我が研究会では実用に足る時間移動の方法を見つけられていない。だが、お前は違う。任意の時間に寸分狂わず跳躍することが可能なんだろう? 事件解決のために、その力をつかう気はないのか?」
「それはできない」
朝霧の明瞭な声。それに、尾上が食って掛かる。
「どうしてだ? 被害者は今も増えているというのに――」
「時間移動には制約も多いの。その最たるものが、『運命』は変えられないってこと」
「『運命』……」
「漠然とした概念でしょ? でも、変えられないものは確かにある。仮に過去に戻って犯人を捕まえても、また別の誰かが同じ行動をする――みたいなことは起き得るのよ。時間移動ですら変えられない世界の大いなる流れ。それが『運命』。時間移動した方が事態がさらに複雑になる可能性は大きい」
「……だが、試してみる価値はあるだろう。まだこの事件が『運命』だと決まったわけではないのだから」
まだ言い募る尾上に、朝霧は淡々と言葉を続ける。
「時間移動は、ラネットよりも大きく世界に負荷を掛ける。ただでさえラネットで人が大量に消され、あたしと弟が時間移動しているこの時間軸上は、均衡が大きくねじれて、相当不安定になっているわ。また時間移動したら、それが世界崩壊のトリガーになるかもしれない。そうなったとき、どうするの?」
「…………」
よく分からないが、時間移動は事件解決の方法として万全ではないし、世界に危険を及ぼす可能性がある以上、行えないということらしい。
「……だったら、引き続き地道に犯人探しをするしかないな」
「ええ、そうね」
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