『商店街の名物』




 昼休憩が終わると予定通り午後の営業時間には店の扉が開かれ、ついにひづりの初接客が始まった。


 初めはやはり緊張したが、けれど何かあるたび、午前中を使って天井花イナリに言われた事がそのつど思い出され、自分でも思っていた以上に順調に仕事をこなせるため、大変に忙しくも、ひづりは思わず嬉しくなってしまうのだった。


 気を抜くことなくこの調子で勤めよう。まずは天井花イナリさんが少しでも楽が出来るように。ひづりは額の汗を拭いながらまたお客の注文をメモ帳に走り書いた。


 しかし姉、吉備ちよこに対しての印象は驚きが勝った。ちよこは本当に仕事をしないのだ。昼休憩がどうこう言っていたが、午後の業務が始まっても彼女は休憩室から一歩も出て来ず、たまに暇そうにのそりと顔を出しては常連さんの席へ行って世間話に花を咲かせていた。おそらく近隣の情報収集が目的なのだろうが、しかし客にはずいぶん喜ばれているようで、ちよこが顔を出すたびにお呼びが掛かっていた。


 知らないとは幸福なことなのだな、と、ちよこと楽しげに話をする客一同を眺めながらひづりは思った。自分達がちよこの前で楽しげに口にしているその「学校で息子の成績が」とか「会社で工面してもらった物が」とか「どこそこの奥さんが浮気してるみたいで」といった話が、いずれちよこによって利用される《弱み》になると彼ら彼女らが知ることは、今後もない、あるいはずっと先の事なのだろうから。


 ちよこには愛嬌がある。ひづりとは輪郭こそ似ているが、その眼はやや垂れ気味のいわゆる糸目で、化粧でほんのり赤らんだ頬と優しげな眉の角度は、おだやかで優しい品のある女性を思わせる。笑顔も柔らかく、うなずかれると何でも話してしまいそうな、そんな聞き上手の雰囲気がある。


 加えてちよこは、ひづりも最近気づいた事だが、彼女はいつも何か喋りたくてしょうがない中年、初老辺りの女性への接し方というものを驚くほど完璧に心得ているようなのだ。一番情報が引き出しやすくて、またそういったよく喋る女ほどその《弱み》を多く持つ事に、人生の比較的早い段階で気づいたのだろう。




「あら○○さんのところの息子くんじゃない。聞いたよ、成績下がって悩んでるって。私の知り合いがやってる家庭教師がね――」




「○○さんのところの会社、最近社内の物が少し減ってたりしません? もしかしてなんですけど――」




「どこそこの奥さんが浮気してるって話、そういえば誰から聞いたんでしたっけ?――」




 おそらくそんな具合に、今からもう既に今後そんな具合に使うタイミングを頭の中で形にしていっているに違いないのだ。犯罪取引の現場を見ているような気持ちになってあまり良い気がしないため、ひづりはなるべく視界に入れない事に決めた。


「お待たせしました。わらび餅と草大福です。ごゆっくりどうぞ」


「ああ、今日も美味しそうだ」


「なぁ少し分け合わないか」


 テーブルを離れる時、背後で聞こえてきたその二人組みの客の会話にひづりはまた何となく嬉しくなった。


 天井花イナリが信じられない効率とコミュニケーションで接客を果たしているのも驚愕だったが、和鼓たぬこも話に聞いていたとおり、信じられないような速度の手作業で和菓子を生産し続けていた。まさしく悪魔的な生産速度だった。しかもその味はこの店のかつて和菓子作り担当だった、現在は修行時代の友人が開店したばかりだという和菓子屋でその手伝いをしているらしい吉備サトオの菓子とほとんど味に差がないのだという。


 友人の店が人手不足と知った際、丁度和鼓たぬこという手先の器用さがとりえの《悪魔》が来た事で「ではもののためしに」と、店のお品書きにある和菓子を全て作って見せたところ、なんとそれらを和鼓たぬこは全て記憶し、完全に再現して見せたとかで、サトオは心置きなく友人の店の手伝いに行けるようになったのと同時に、和菓子職人としてはさすがにずいぶん肩を落としていたと聞く。ちょっとだけ可愛そうだな、とは思うが、早いとこ彼には帰って来てもらって、和鼓たぬこさんの負担を減らしてあげてもらいたいとひづりは思うのだった。


「ひづりちゃん? お茶、おかわり貰えるかしら」


 ふと呼び止められ、入り口近くの席に居た三人組の老女の元へ向かった。


「はい、ただいま」


「ひづりちゃんは偉いねぇ。今日が初日なんだって? まだ高校生なのに、立派にしてるじゃない」


「本当よぉ。ちよこちゃんは爪の垢でも煎じて飲むべきだわねぇ」


 ちよこへの悪口に関しては「いいぞ、もっと言え」と思いながら、ひづりは「いえ、仕事の説明をしてくれた天井花さんのおかげですよ」と笑顔で返した。どちらも本心だった。


 テーブルの去り際に、高校生、と言われた事を思い出して、ひづりはふと視線を落とした。ひづりの今の格好は、天井花イナリや和鼓たぬこ、そして吉備ちよこが纏っている、店の雰囲気に合った和服ではなかった。学校で着ているブラウスとスカート、それに三角巾と、キッチンで身につけるような標準的なエプロン、といういでたちだった。こちらは和鼓たぬこと同じ、猫だか狸だか分からない妙なキャラクターが描いてあるが、メイドエプロンよりは遥かに耐えられる代物だった。


 ひづり自身、和服が似合わない事を自覚していて、また少々気にしていた。だから姉が和服を正式な従業員服にしている訳ではなかった事には感謝したが、


「女子高生がぁ、接客のお仕事するならぁ、制服にぃ、三角巾とエプロン以外ぃ、有り得ないでしょぉ……」


 とちよこが主張し、激しく主張し、さもなくば天井花イナリと同じふりふりのメイドエプロンを着させる、と言い出したために、今の姿に落ち着いたのだった。


「看板娘がまた一人増えたねぇ」


 なんて冗談を客に言って貰えるのは嬉しくもあるが、あの仕事が出来て美しくて凛とした大人の女性の雰囲気を放つ天井花イナリさんと比べられるのはあまりにも差がありすぎて言葉の返しようが無く、少々困るのであった。


「ちょっと何よこれは!!」


 そんな少し浮かれていたひづりの耳に、思いがけない声量の怒号が貫いた。


 何事かと思い見ると、先ほど奥の方の席に通し、注文をとって大福を出していた緑色の上着を着た中年女性の客が、険しい表情で視線を従業員室やひづりの方にぐらぐらと投げつけるように向けていた。


「どうかしましたか?」


 ひづりが駆け寄って訊ねると「どうかしたかじゃないわよ!」と彼女はこれまた大きな声で喚いた。


「何なのよ、この菓子は!!」


 出された大福の片方を食べ終えたその皿を彼女は指差し、ひづりもそちらに視線を向ける。


 見たところ何もおかしな所はない。綺麗に形を整えられ、豆の位置もまばらで丁寧な作りの和鼓たぬこ製豆大福だ。


「何か?」


 見た目で問題のありそうな箇所が分からなかったためひづりは背筋を伸ばしたまま問うた。相手が怒っているからといってへりくだる必要がない事を知っていたし、ひづり自身も元々そうする気はなかった。


 話し合って、悪いところが判明してから謝罪すればいい。ただそれだけのことなのだ。


「ひづり、何かの?」


 騒ぎを聞きつけて天井花イナリが来た。その朱色の瞳が、ひづりと、客とを見比べる。


「甘過ぎるのよ! こんな、血糖値が上がったらどうしてくれるのよ!! 味も形も悪いし、甘けりゃ良いとでも思っているんでしょ!!」


 そばまで歩いてきた天井花イナリをほとんど無視し、ひづりに対してその客はそうまくし立てた。


 形が悪い? どこが? 甘過ぎる? サトオさんの和菓子を完璧に再現している和鼓たぬこさんの菓子が? ひづりはカチンと来た。


「――なんじゃと?」


 しかし物申そうとしたひづりは、かたわらでにわかに響いた低い声に思わず体が固まった。


 聞き覚えのある低さと含みのある問いかけ。以前これと同じ物を聞いた。面接の日に、うかつにも失礼な事を言ってしまって、殺されるとまで感じさせるほどの本物の殺気を向けられた、あの時の声だった。


 まずい、と思った。姉さん、稲荷寿司、という単語がひづりの頭に浮かんだ時には、しかしもう遅かった。


「うぇ!?」


 天井花イナリは左手で女の胸倉を掴むとそのまま床に引きずり倒した。その小さな体の一体どこにそんな筋力があるのか、彼女は緑の上着の客を事も無げにずるずると廊下を引きずると、玄関入り口の扉をすぱんと開けてそのまま表に放り投げた。


 あまりに潤滑に行われたその一瞬の出来事にひづりは立ち尽くしたまま置いていかれてしまい、我に返るなり慌てて追いかけた。店内がざわついていたが、それどころではない。


「痛いじゃないの! 客に向かって何よ!」


 入り口まで追いつくと、商店街の中央に投げ出され転がった緑の上着の中年女が、一メートルほどの距離に立って見下ろす天井花イナリを見上げて喚いていた。当然、商店街を歩いていた面々も、お向かいの古本屋に居た客も、足を止めてこの事態を見つめていた。


「お主、今、何と言うたのか?」


 地べたに転がった女を前に、ひづりを背に、《和菓子屋たぬきつね》の入り口で仁王立ちした格好で天井花イナリは問うた。


「うちの可愛いたぬこがこさえた菓子を、その品も質も知らぬなめくじの様な舌で、よもや出来が悪い、マズいなどと抜かしおったのか。ほほおう……」


 あの時の黒い殺気のような物が、誰も近寄る事が叶わない恐怖の塊の様な雰囲気が、すでに天井花イナリの体から滲み出していた。


「遠慮も代も要らん。その魂のみ置いて逝くがよい」


 次の瞬間、シャリン、と軽いかすかな音がして、天井花イナリの右手に、自身の身長ほどもありそうな一振りの剣が現れた。それは突然、本当にまるで手品のように突然、その場所に出現した。


 さすがに見惚れている訳にはいかなかったひづりは慌てて天井花イナリの右腕にしがみついた。


「待って待って待ってください天井花さん!? 何やってるんですか!!」


 人生でこれほど取り乱した事があっただろうか、とひづりは思った。見ると、天井花イナリは本気のまなざしで、ひづりの事など一瞥もせず、地べたに転がるその女を見下ろしていた。


「邪魔をするなひづり。殺しはせん。二度と甘味を味わえぬ体にしてやるだけじゃ!」


 ひづりは慌てて腕に力を込めた。しかし彼女の細い腕は、小さいはずの体はびくともせず、自分は石像か何かにしがみついているのかと錯覚するほどだった。


「だ、駄目! 駄目ですって! っていうかいつの間に、何ですかその、剣!? それしまってください! 早く!」


 いきなり何も無い空間から現れたこともそうだったが、その剣の形にひづりはとにかく度肝を抜かれていた。和服に身を包む天井花イナリが手にするにはあまりに異質性を宿した物体だったのだ。


 作りはどう見ても日本刀の類ではなく、かと言って西洋の甲冑騎士が持つような輝かしい装飾のそれでもない。さながら、というより他の誰でも無い、ゲームや物語の中に登場する悪魔だとか魔王だとか、そういった類の存在がその剛腕に握っていそうな、強いて言うならば暗褐色の毒蛇を思わせるような禍々しい装飾で纏められた、非常に切れ味のよさそうな一振りだったのだ。


 こんな物持っているのを見られたら、どんな誤魔化しの《魔術》とやらが利いていようと《悪魔》だという事がバレてしまうのではないのか!?


「ならん!!」


 天井花イナリはその禍々しい剣の切っ先をゆっくりと女に向けた。「ひっ」という悲鳴が、腰を抜かしたのか、転がったままでいる彼女の口から漏れた。


「このような輩を客扱いすれば 店に来る他の客の信用を失うことになろう! それにこやつは以前にも一度うちに来て同じような戯言を垂らしておったのじゃ! あの時はちよこめが言いくるめたが今度ばかりは堪忍袋の緒が切れた!!」


 その言葉にひづりはハッとした。それはそうだ。この女は客としては来たが、明らかに問題のない店の商品に言いがかりをつけてきた。しかもいま天井花イナリが言った通りならば彼女がこうした問題を起こしたのはこれで二回目なのだと言う。


 こういった大声で迷惑を撒き散らす人間を客として受け入れてしまう店は、いずれ客層も悪くなって繁盛しなくなるのだ、という話をひづりは聞いた事があった。それまで来てくれていた善良な客がその店を「感じの悪い店だ」と思い、いずれ来なくなってしまうからなのだという。


 効果は無かったが、思わずひづりの制止する腕から力が弱まっていた。


「何より! たぬこの作った菓子をまずいなどと言いよった!! それが何をしても許せん!!」


 しかし。改めてひづりは思い直すと腕にぎゅうと力を込めた。


「だ、だとしても刃物は駄目ですよぉ!」


 圧倒的な油圧や電力で駆動する機械のように人間の筋力ではどうする事も出来ない絶対的な動きをする天井花イナリの体に、ひづりは諦めずまた渾身の力を込めた。


「う……」


 にわかに足元で声が聞こえた。


「うわあああああ」


 と同時に緑の上着の中年女が立ち上がり、商店街を転がりそうになりながら走って逃げて行った。


「あ」


「ぬ!」


 ほとんど同時に、ひづりの口からは安堵の声が、天井花イナリの口からは舌打ちのような一言が漏れた。


 剣を握っているイナリの腕から力が弱まり、ひづりも体から力が抜けてへたりこんでしまった。


「行った?」


 と、不意に背後でちよこの声がした。見ると彼女は女が走り去った商店街の《濃》の方を見つめて立っていた。


 今更出て来てこの、とひづりは思ったが、彼女はにわかにそこから数歩前に出ると、女が走り去った方角に向かって、左手に抱えていた塩の袋に手を突っ込みそれを思い切り宙へぶちまけて叫んだ。


「おらー! 一昨日来やがれってんだーぃ!」


「!?」


 何やってんだこいつ。とひづりが驚いていると、にわかに商店街がワッと沸いた。


「いいぞ和菓子屋の姉ちゃんたち!」


「やれい! あっははは!」


 立ち止まって事の顛末を見ていたはずの通行人達がそろってそんな歓声を上げたのだ。更に続いて店の中から様子を見ていた客も入り口から数人顔を出して拍手し、「あらまぁちよこちゃんったら」と笑顔すら見せた。


 え、えええ……。付いていけず、ひづりはへたりこんだまま縋る様な思いで隣の天井花イナリを見上げた。彼女の手からは、現れた時同様にいつの間にかあの悪魔めいた剣は消えておりその両手は帯の前で組まれ、顔はさも「しかたあるまい」という風で、周囲の喝采を甘んじて受け止めるように佇んでいた。


 何なんだこれは。一体全体、何がどうして……。


「こんにちは。いやまた、今度は何の騒ぎですか」


 困惑するひづりのかたわら、丁寧な、しかしちょっと愉快そうな声が掛けられた。振り返ると、なんと警察官だった。


 何もまとまらない頭のまま「銃刀法違反。まずい、まずいぞ」とひづりはあわあわと焦った。


「あらおまわりさん。ごめんなさいまた騒がしくしてしまって」


 するとたった今まで商店街の真ん中で拍手喝采を受けていたちよこがそそくさと品のある、まるで小町のような歩き方で警官の前まで駆け寄った。さも恥ずかしげに塩の袋を背中に隠しながら。


「少し、迷惑なお客さんが居らしてね。ご存知ありませんか、あの藤山さんっていう、よく緑の上着を着てらっしゃる方なんですけどぉ……。ええそうなんです……。ええ、いつもごめんなさいね。困っちゃうんです、うちばっかりこんな縁ばかり、ええまったくいやなことですわ……」


 ちよこの物言いは、そして相対する警官の態度は、まるで世間話でもするかのような感じだった。完全に顔なじみで、いつもお世話になっています、みたいな、そういう。


「分かりました。それではまた何かありましたら。ほら皆さんもー、集まらないでー」


 商店街でざわついていた面々に注意を促しながら、警察官は乗ってきた自転車にまたがって帰ってしまった。


 いや本当に普通に、彼は帰ってしまった。


「……姉さん」


 騒ぎは収まり、《和菓子屋たぬきつね》の周囲はいつも通りの《淡》の雰囲気に戻り、店内も多少騒がしくなりつつも先ほどの調子に戻っていた。


 入り口の前でようやく天井花イナリに手を引いてもらって立ち上がれたひづりは姉のちよこにそっと訊ねてみた。


「もしかして、《魔術》っていうの、使ってる……?」


 去る警察官の背中をしばらく眺めたまま、ちよこはひづりの問いに答えた。


「ええ、もちろん」


 さも当然のように、軽い口調で。


「やっぱり……」


 店の奥から中々出てこなかった理由がようやく分かった。彼女はおそらく、休憩室の中から外の様子を見つつ、使っていたのだ。


 例の《認識阻害魔術》という種類のそれを。


「イナリちゃんが剣、持ってたでしょ? あれを、この周囲一帯の人からは、《丸めた新聞紙にしか見えない》ようにしていたの。もちろんあの女だけは例外だけど」


 あはは、なるほどそれで。だったら、そりゃあ痛快でしょうな。普段から商店街であの中年女は煙たがられていたようだった。それを、幼い少女の姿のイナリが丸めた新聞紙でこてんぱんに叩きのめして、店主のちよこが塩をぶちまいたとなれば、拍手の十や二十は上がろうというものだ。


 実際は滅茶苦茶に凶悪な見た目の長くてよく切れそうな悪魔っぽい剣だったわけだけども、彼ら彼女らの中では丸めた新聞紙だったのだ。では、問題にはならない。事件にもならない。ただのちょっとした、商店街での気分の良い一悶着。


「急だったから準備に少し時間掛かっちゃったけどね、やっぱり頻繁にこういうこともあろうかと、あらゆる問題、強盗、泥棒対策の《魔術》は一通り用意してあるの!」


 そうちよこは自慢げに胸を張った。そのやる気を《和菓子屋たぬきつね》の仕事の一つにも向けて欲しい、とひづりは思ったが、今回の事はとにかく彼女のおかげで事無く収まった訳だから、何も言わない事にした。


「人一人死んだくらいなら、塵ひとつ残さず隠滅してみせるわ」


 ちよこはそっとひづりの耳に口を寄せて言った。それは冗談めかして言っているようではあったが、かつて二年前にちよこが行ったある事件を不意に思い出させる響きがあり、ひづりは何も返せなくなった。


 《魔術》と《悪魔》があるから、人一人くらい殺しても隠し通せる? それは嘘だ。ちよこの今の言葉が嘘である事をひづりは知っていた。そしてそれは「出来っこない」という意味ではなく「《悪魔》など居なくても出来るくせに」という意味だった。


 その実績があるくせに――。


「それに、イナリちゃんには《特別な力》があってね」


 胸が凍るようだったひづりに、ちよこは隣の天井花イナリに駆け寄ってその細い肩に両手を置いた。


「《悪魔》の力で、《今と過去と未来》が見えるらしいの」


 そう言われて、ひづりは特に驚くことも無く「そうなん、ですか」と返した。先ほどの、どこからとも無く現れた禍々しい剣。怒りに触れた際に湧き出る殺意のようなもの。もはや「出来る」と言われて疑う気持ちなど、ひづりの中からほとんど消え失せてしまっていた。


「普段は、『何もかも見えていたら、せっかく《人間界》に来たのにつまらないから』って使ってないみたいだけどー。今回みたいな時は使って《未来》を見て行動してくれてるみたいなの。だからイナリちゃんが動くときは大体、店にとって悪いようにはならないのよ。ねー。……と、説明したし、じゃあ今後似たような事があってもひづりはもう驚かず、慌てずに済むね!」


 いやぁそれはどうでしょう。ここ、《和菓子屋たぬきつね》で勤め始めてからひづりにとってはまさに驚きの連続なのだから。


「でも」


 と、不意にちよこが胸に手を当てて息を吸った。急な調子の変化にひづりは彼女の顔を見た。


 若干顔が青ざめて、よく見ると脂汗が今更滲み出ていた。


「イナリちゃん、たぬこちゃんの事となるとひどく冷静さを失っちゃうから、今回はあまりに急すぎてさすがに肝を冷やしたわ」


 ドッキドッキという心臓の音が聞こえて来そうなほど彼女は珍しく引きつった笑顔をしていた。


「……隠匿、お疲れさまです」


 もしかして、いつでもこういう対応出来るようにするために、普段サボっているのか? とひづりはちょっとそんな風に考えかけた。


「ちよこ、ひづり。人も散った。仕事に戻ろうぞ」


 にわかに、だいぶ下のほうの位置から声がした。天井花イナリだ。彼女はちよことひづりの腰を手の甲で軽く叩いて店の入り口へ向かい始めた。


 彼女はつい先ほどまでずっと黙ってた。待っていてくれたのだ、とひづりは気づいた。自分の《力》と、ちよこがそれをどんな風に支えているのか、という今の説明のおおよそが、官舎ひづりに伝えられるまで。


「は、はい!」


「はぁーい」


 二人で返事をし、彼女の白い小さな背を追いかける。


「イナリちゃん、ありがとうございました」


 隣に並んだちよこがお礼を言う。


「構わぬ。痴れ者を弾き、《契約者》の身の回りを良くする事もまた、《契約》の内なれば、の」


 それにイナリは尊大な態度でそのように返す。


 最後に戸を閉めたひづりは、その場で少し考え込んでしまった。


 すごいな、と、素直にそう思った。


 確かに片方は《悪魔》で、姉のちよこも悪魔のような女だけれど、こういった問題に対して、たった二人で瞬く間に、それも良い結果を残すような方法で完璧な解決を示してしまった。


 それがさも当たり前のように、何も難しく無い事のように。きっと自分ではそうはいかなかったろう。自分は気が短いタチだから、こんなスマートな解決にはならなかったろう、と、ひづりには苦い確信すらある。


 天井花イナリという先輩従業員にも、吉備ちよこという姉にも、実は自分はまだ全然追いつけていない。非常に遠い存在なのだと感じた。


 ふと、廊下正面に見える従業員室の一角で、戻ってきた天井花イナリを前に半べそを掻いた和鼓たぬこの姿が見えた。あ、とひづりは思った。自分も、ちよこも、そして天井花イナリも店から出ていたさっきまでの間、《人間の大人恐怖症》だという和鼓たぬこは、一人で従業員室に隠れていたのだろう。


 彼女もすごいのだ。あの吉備サトオさんの美味しい和菓子を完璧に模造して見せ、またそれを瞬時に大量生産出来る、人智を超えた優秀な和菓子職人。だが、こういう弱点もある。天井花イナリの顔を見て安堵したように泣く和鼓たぬこの頭を、つま先を伸ばして天井花イナリが撫でてあげていた。


 先ほど、ちよこは言っていた。


『イナリちゃん、たぬこちゃんの事となるとひどく冷静さを失っちゃうから、今回はあまりに急すぎてさすがに肝を冷やしたわ』


 和鼓たぬこの頭を撫でる天井花イナリの横顔をひづりは見つめた。そこには愛情の色があった。よいよい、心配を掛けたな、もう大丈夫じゃぞ。そんな会話が聞こえてきそうな、そんな優しい顔をしていた。


 支えあっているのだ。とひづりは改めて思った。二人の《悪魔》を救ってあげなくてはならない、と一心に思って《和菓子屋たぬきつね》での勤務を決意したが、そんなこの店内にあっても、暴虐な吉備ちよこの元にあっても、それでも彼女達はうまくやってきたのだろう。


 単純な話では済まないかもしれない。それを噛み締めつつ、けれど今日、自分はそれを知る事が出来たのだ、とひづりは深呼吸した。


 自分もこの輪の中に入ろう。そうして、あの三人にとっての本当の幸いが何なのかを、改めて考え、話し合うべきなのだ、と。








 母さんが残したこの環境を、私は父さんに誇れるものにしたいと思います。






 敬具。






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