『母の遺産』





「さて。次の話に移る前に、一つ預かり物についてを済ませておきましょう。先ほどの話の中でまだ一つ、気になっていることがあると思うのですが……甘夏、そろそろそれを訊ねてくれても構いませんよ」


 ひづりの腕の中で甘夏がどうにか落ち着きを取り戻した頃、見計らった様にラウラは言った。伯母は一つ鼻を啜ってから顔を上げ、ひづりと共に彼女を振り返った。


「気になっている……事……?」


 甘夏の問いにラウラはにわかに眼を丸くして、それから肩を竦めた。


「ああ、あまりに昔の事過ぎて忘れてしまいましたか。《過去視》が出来る者と出来ない者……あと寿命の差でしょうか。であれば仕方ありません」


 軽く頭を振ってからラウラは一つ咳払いをした。


「甘夏、あなたが計画に踏み切ってからおよそ一年後……都内での暴力団規制運動の結果、《猿舞組》も《犬祭組》も壊滅状態に陥った、という話は、あきる野市周辺ではかなり大きく取り上げられましたね。何せ地元の話ですからね。警察や暴力団の内情はおろか半沢の行方も知ることが出来なかった当時のあなたが、はっきりと得る事の叶った情報の一つだったはずです。……その時、あなたは疑問に思ったことが一つあったはずですよ」


 ラウラは唇の前で立てた人差し指を倒し、そのまま甘夏を指差して見せた。


「あ……」


 零した声の後、甘夏は何かを考え込む様子で虚空を見つめた。そして再びラウラに視線を戻すと彼女はひづりの手をやんわりと解き、しっかりと自力で立ち上がってから答えた。


「思い出しました。確かに、あの時不思議に思っていました。あまりに上手く行き過ぎてる、って……。私の考えた嘘の噂が扇家周辺で流れていたり、雑誌社がそれを記事にしたからって、暴力団二組が揃って、そんな真偽も分からない話をそこまで本気にしてくれるなんて……成功の確率はかなり低いと考えていましたから……」


 その口調には『もし流した半沢の嘘の噂を二つの組が信じずそちらに人員を割かなかった場合は他の手も考えてあった』という響きがあったが、ひづりは今は触れない事にした。甘夏への愛情はこれからもどんなことがあろうと変わらないが、依然として彼女が二十一歳でその様な計画を企てて実行に移した、という話に対しては少々辟易する気持ちが拭えていなかった。優しくて賢くて綺麗、そして実際的でもある、とひづりはこの十七年の付き合いで官舎甘夏という女性の人物像を捉えていたが、よもやそこまでの事をやるとはさすがに思っていなかった。なので未だに先ほどの話の三割くらいは現実の事として受け入れられない部分があった。ただ、今一番戸惑っているのは甘夏本人であろうから、ひづりは自身のどうあってもぶれない部分だけを顔に出すことに決めていた。


「ええ、まさにそこです」


 甘夏の答えにラウラが嬉しそうな顔をして頷いた。


「何故、《猿舞組》が噂を信じて北海道に構成員を送り込み続けたのか? 答えは一つです。彼らは噂を信じたのではないのです。それはきっかけに過ぎませんでした。……あの頃、別口で信用できる情報が彼らにはあったのです」


 ラウラは眼を細め、唇は三日月に歪めて言った。


「二十七年前のあの日、万里子が扇家から保護された後、扇家の資産は実際に全て綺麗さっぱり消え去っていたのですよ」


 理解が追いつかず呆気にとられたのはひづりだけではないらしく、甘夏も、父や千登勢らも言葉を失っていた。


「それは……どういう……?」


 甘夏が少し前のめりになって訊ねると、まるで友人らの前で手品の種明かしをする様な調子でラウラは語った。


「扇家専属の給仕係に玉縄妙子という女がいました。彼女は優秀な給仕長で億恵にも兆にも信頼されていましたが、しかし実際は《猿舞組》の幹部と個人的にやりとりをし、扇家とのその関係に於いて《猿舞組》が常に優位になるための情報を内通するべく忍び込んでいた諜報員でした。彼女は扇家で働きながら、近日中に億恵が《猿舞組》に依頼をする事を知れば、すぐさまそれを幹部連中に伝え、《猿舞組》が万全以上の状態で力を誇示出来るよう、毎回補助していた訳です。しかし後期にはほぼ、扇家の財産が残りどの程度であるか、見切り時はいつ頃になりそうか、といった話の報告ばかりになっていました。扇家が潰れた後の次の勤め先の斡旋なども《猿舞組》から約束されていたようですね」


 業績が振るわず没落していく中にあってもやはり扇家内部は一枚岩ではなかったらしい。そして今ラウラがやけに嬉しそうなのは、どうも扇家が失墜するに至ったそういう汚れ部分を語れるかららしい、とひづりは気づいた。


「当主である億恵と前当主の兆が警察に拘束されて混乱する扇家の中、これを見限るタイミングと判断した玉縄妙子は日頃億恵から管理を任されていた扇家の金庫に手をつけようとしました。そこで彼女は腰を抜かした訳です。金庫のチェックは億恵から毎日行うように言われていました。ですが、昨日確認した時点で確かに数十億円分の金塊があったはずのそこはものの見事にすっからかん、がらんどう、びた一文残されていなかったのです。どうです? 妙子の青ざめた顔、観ますか? 観れますよ。ふふふ……」


「あ、いや、それより話を先に進めて、ラウラ?」


 ひづりが言うと楽しげにしていたラウラは眉尻を下げて「……そうですか?」と酷く残念そうにした。


「《ヒガンバナ》、と言いましたね、千登勢の《悪魔》?」


 するとラウラはおもむろに《ヒガンバナ》を振り返った。突然名指しされ彼は微かに困惑の仕草を見せたがすぐに頭を下げた。


「はい。わたくしが《ヒガンバナ》でございます、《グラシャ・ラボラス》様」


「あなた、千登勢と相性が良いようですね? 千登勢もあなたも《転移魔術》が得意でしょう? だからあなたはほとんど《魔力》の消費無しに、常に《転移魔術》の《魔方陣》の中に隠れていられる……そうですね?」


 突然何の話が始まったのだろう、とひづりはラウラと《ヒガンバナ》を交互に見た。傍らの千登勢も戸惑っている様子だった。


「おっしゃる通りに御座います。千登勢様は万里子様と同じく《魔術師》としての才覚があり、特に《転移魔術》に関しては、かつてわたくしから説明させて頂いたのみでありながら、現在はほぼ完全なものとして習得されております。そのためわたくしの《転移魔術》も非常に効率の良いものに――」


「ああそっちの細かい話は良いです。分かりやすく例え話として欲しかっただけですから」


 うやうやしく説明をする《ヒガンバナ》の言葉を遮ってラウラは両手をふらりと伸ばした。


「つまるところは、《ボティス》の部下の《ヒガンバナ》……彼は普段、《転移魔術》の《蔵》の中に隠れている訳です。姿を見えなくする《魔術》だけでは、《人間界》で暮らすのにその体はあまりに邪魔になりますからね」


 広場の視線が身長二メートル、横幅約百三十センチほどもある《ヒガンバナ》に向けられた。確かに、彼はその体の大きさから普段は《魔方陣》の中に隠れている、とひづりは最初に千登勢から説明を受けていた。


 ……《蔵》?


「あ」


 ひづりは思わず声を漏らした。そしてそれを見逃さなかったらしくラウラはまた眼を細めた。


「ええ、ひづり、気づきましたか」


 ぱん、と軽くその両手を合わせて彼女は笑った。


「万里子はその人生で四度、《悪魔》を召喚しました。うち一体はそこの《ヒガンバナ》……《下級悪魔》故に安上がりでしたが……他の三体はグラシャ・ラボラス、《フラウロス》、そして《ボティス》、と、《ソロモン王の七二柱の悪魔》でした。《悪魔の王》の召喚には必ず希少な供物や莫大な奉納金が必要となります。いずれもそうそう一介の人間が手を出せる額のものではありません。ましてその人生で三柱も、なんて、普通ではありません。ひづりも常々不思議に思っていたのでしょう? そんな大金を、そもそもイギリスで何十年も生活していくだけの資金を、何故万里子が持っていたのか……? その答えがこれという訳です」


 ラウラが眼を伏せると、その背後に巨大な《転移魔術》の《魔方陣》が現れた。


 《魔方陣》の中央部分は丸く抜き取られており、トンネルの様な風体のその内側には思わず口を開けてしまう様な、それこそひづりには絵本や漫画などでしか見たことが無いような金塊と宝石の山が収められていた。


「万里子は保護された直後、夜中の内に《転移魔術》を用いて扇家の金庫へと侵入し、自身の《転移魔術》の《蔵》の中へこれらの金品を全て詰め込み、そしてその後は何事も無かった様な顔をして引き続き児童養護施設に保護されていました。これは万里子が死後、私に譲ったその残高です」


 《魔方陣》の中に片手を入れてラウラはジャラリと宝石類を持ち上げて見せた。


「なるほど預かり物っていうのはそれの話なのね? で、それは私が貰って良いのよね? 長女の私が相続するべき物よね?」


「姉さんちょっと黙って、止まって」


 大金に眼が眩んで早口にまくし立てながらふらふらとラウラの方へ歩き出したちよこをひづりは父と共に捕まえた。


「残念ですがちよこ、普通の人間にとって多すぎる金員は身を滅ぼす毒です。特にあなたはお金に関して汚いですからね。故に万里子は最期までこの《蔵》については幸辰にすら教えませんでした。……ただ、状況はあの頃とずいぶん変わりました。《ボティス》、これはあなたが引き継いでください」


「む?」


 にわかに視線を向けられ、天井花イナリは片眉を上げた。


「人間にとってお金の魔力は凄まじいものです。しっかり者のひづりであっても、これら全てを直接渡すのは悩みどころです。ですから《ボティス》、ひづりから信頼されているあなたが持っていてください。本当に必要になった時に、ひづりのために使ってあげてください。万里子もそれを望んでいるでしょうから」


「ああ、そういうことか。それなら構わんが」


 二柱の《悪魔》がそれだけ言葉を交わすと、その金銀財宝が収められた《魔方陣》はゆっくりと天井花イナリの元へと移動し、消えた。


「イナリちゃん。一個だけ。金塊、一個だけ後でちょうだい。一個だけでいいから」


「父さん、姉さんをちょっと黙らせて。話が進まない」


「ちよこ。怪我してるんだから大人しくしなさい」


「お金があれば怪我なんてすぐ治るわよぉ!!」


 もう治りかけとは言え、凄まじい剣幕でちよこは吼えた。駄目だこの姉……。千登勢や《ヒガンバナ》の手前、ひづりは羞恥心に思わず顔が熱くなるようだった。


「話を戻しますね。甘夏、あなたが抱いた疑問の答えはつまりこういったことなのです」


 ラウラはちよこを無視して説明を再開した。


「扇家に金がある限り、《猿舞組》は扇家の手足であり続ける。では、それが無くなれば? 高校生でも分かる、とても単純な理屈ですね。万里子は将来的にその資産を存分に《悪魔》の召喚に用いる事になりましたが、あの頃は扇家と《猿舞組》から官舎家を守る、ただそのためだけに扇家の財産を盗み、《魔術》を知らない人間には見つけようのない《魔方陣》という隠し場所にしまい込みました。その結果、裏切り者である玉縄妙子は隠し資産の消失を《猿舞組》に伝え、それによって甘夏が流した噂を本当だと思い込んだ彼らは半沢を探して北海道に手を伸ばし、《犬祭組》もそれに釣られた、という訳です」


 甘夏が流した嘘の噂と、万里子が隠した扇家の資産。二人は互いの行動を承知していなかったにも関わらず、それによって得られた効果は端無くも相乗し、官舎家を守る未来をより確実なものとした。たとえ偶然であってもその幸運にひづりは感謝する他無かった。


 甘夏がその企てた計画を実行に移さず、万里子が扇家の金を隠さず、そして顔も知らないがその玉縄という女が居なければ、もしかしたら姉も自分も生まれて来てすら居なかったかもしれないのだから。


 恐ろしい人殺しの計画が、金銭のめぐりが、裏切りが、自分が生きる未来を作っていた。けれどそれを知ってもひづりは特にショックを受けたりといった事は無かった。母や、尊敬する甘夏が当時命を懸けて行った事であるなら、それを否定する気など微塵も起きない。何より自分は父を初めとした親族から充分過ぎるほどに愛されて生まれ、育てられてきた。それを知っている。それに先ほどひづり自身が甘夏に語った様に、官舎ひづりは既に《悪魔》と深い交友関係にあるのだ。汚いのも間違っているのも、所詮今更だった。


「では本題に戻りましょう。万里子が私を召喚した理由、そして私との《契約内容》についてです」


 ラウラは一つ頷いて、それからひづりを見つめた。どきり、と思わず心臓が跳ねた。


 ラウラ・グラーシャと官舎ひづりの間にあって、きっとひづりが一番知りたかった過去の話。それを分かっていてだろう、彼女は先ほどの少しふざけた態度を消し去った神妙な面持ちで語り始めた。


「まずは、かつて《召喚魔術師》だった、語るも聴くも、少しも面白くない、とある男の話から始めなくてはなりません」


 そう前置きするとラウラは一つ息を吸ってから一人の男の名前を挙げた。





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