『与えられた余命の中で』





 エドガー・メレルズ。百年前、日本に於ける魔術活動の発展と推進のため、発足したばかりの日本支部に招かれてその後帰化した《魔術師》の一門、メレルズ家。彼はその末裔で、三兄弟の末っ子だった。日本の高校を卒業した後は《魔術》の勉強のため、兄達も通っていたイギリスの大学へと進学した。


 彼の専攻は《召喚魔術》。三兄弟の中どころか、昨今のメレルズ家にあってエドガーの《魔術師》としての才能は特に秀でており、大学でも「いずれ強力な悪魔を召喚することだろう」と期待され、また妬まれていた。


 しかし卒業を前にした頃だった。エドガーの友人であったゼシカ・マーティンという生徒が《召喚魔術》に失敗し、呼び出した《悪魔》によって焼き殺された。彼女は柔和な雰囲気の女性だったが、その性格は残念ながら《魔術師》向きではなく、在学中成績も振るわなかった。本来であれば《悪魔》の召喚は卒業課題として実施されるものだったが、しかしゼシカは卒業試験を受ける単位が足りていなかった。エドガーに「魔術師として名を残せないなら帰る家が無い」と打ち明けたこともあった。


 しかし追い込まれたゼシカの焦りが招いた悲劇は、彼女だけでなく当時の魔術大学全体を地獄の淵まで追いやった。


 召喚術者を失ったその《悪魔》は《人間界》での滞在権が失われるまでの数分間、ひたすらその炎で周囲を焼いた。《人間界》のものではない、《魔性》より発され、どこまでも際限なく燃やし尽くすその《魔術》の炎は大学を瞬く間に呑み込んでいった。


 爆発音と逃げ惑う各学科の生徒達の悲鳴が響く中、校内に居て、《悪魔》に対抗し得る《魔術》を持つ生徒や教師――《召喚魔術学科》の者達は当然《防衛魔方陣術式》を初めとした《召喚魔術》によってその《悪魔》の封じ込めに駆り出された。しかし残念ながら大学に招かれた《悪魔》は《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱で、まだまだ未熟な彼らの《魔術の盾》は飴細工の様に砕かれ、皆ゼシカ同様まるで油に浸した布切れの様に燃やされていった。


 その場に居合わせるも幸いエドガーは在学中の生徒としては最も優れた《召喚魔術師》だったため、その濃い紫色の《防衛魔方陣術式》はどうにか劫火を防ぎ、《悪魔》が消え去るまでの時間を生き長らえる事が出来た。本体の《魔界》への退去と共に、燃え盛っていた炎も全て鎮火した。


 ゼシカが召喚した《悪魔》の名は《フラウロス》。《ソロモン王の七二柱の悪魔》の中でも特に凶暴な王と記されていて、ここ数十年は少なくとも召喚されたという記録の無い《悪魔》だった。ゼシカがやけを起こした事は誰の眼にも明白で、あまりに身分知らずな召喚儀式だった。


 大学の被害は燦燦たるものだった。建物は全壊、構内に居た生徒と教師の四割が形も残らない灰となっていた。兄弟は事件当時大学に居らず無事だったのだが、この一件でエドガーの人生は大きく変わることとなってしまった。


 紫苑の炎の中で絶えず煌めき揺れる、二つの大きなイエローダイヤモンド。それに睨まれたあらゆる物が、人が、一瞬で爆発するように燃え、次にはただの真っ黒な炭になって崩れ落ちた。友人が何人も何人もそうやって溶け、消えた。悲鳴も無く、何を遺すでもなく、慌てて展開した《防衛魔方陣術式》と共に、しかしそれが砕かれた事に驚く間もなく、ただ灰に成って消えていった。


 エドガーはそれ以来《魔術》が使えなくなってしまった。精神的なショックだと診断されしばらく治療を受けるも改善の兆候は無く、大学に居場所を失った彼は卒業する事も出来ず日本に帰国させられた。


 優秀な《召喚魔術師》として名を馳せると期待されていただけに両親の失望は大きかった。最初は「いずれ治るわ」と言ってくれた母も、しかしそれが五年も経てば変わり、父親と揃ってエドガーを厄介者扱いする様になった。


 《魔術》の世界から離れ、静かに普通に人間として働くようになっていたエドガーはやがて三十歳を目前にした頃、両親によって扇家の長女、扇兆と婚約させられることとなる。


 兄二人は《魔術師》としては平凡で、卒業後はイギリスの魔術大学でたいして給料も出ない講師見習いとして勤めていたがそれでも《魔術師》であることに変わりは無く、脱落者のエドガーと違って他の《魔術師》の一門との婚姻が決まっていた。メレルズ家の将来のため、健康なだけが取り柄となってしまった、そして《魔術師》としての成長が期待出来そうに無いエドガーを両親は金持ちの家へ売り払う判断をした、ということだった。婿養子として送られたエドガーはその後扇家の決まり事に締め付けられ、メレルズ家ともほぼ絶縁に近い状態となった。


 メレルズ家、《魔術》との関わりを絶たれた事でエドガーは《悪魔》から命を狙われる恐怖から完全に解き放たれる事となったが、しかし今度は自分の意見を言う事も許されない扇家の環境に酷く苦しめられる事となる。


 己の妻、扇兆がその母親から虐待を受けていたことに何を口出しすることも出来ず、やがて生まれた自分の娘に妻が、そして娘が孫に暴力を振るうようになっても、エドガーはただそこで見ていることしか出来なかった。きっと優秀な《魔術師》になるであろうと誉めそやされたにも関わらず、呆気なくその期待を裏切って両親に失望を抱かせた三男に出来る事など、こうして墓石の様に無言で従い、扇家から僅かでもメレルズ家に資金援助をしてもらうくらいしかなかった。


 けれどそんな最早枯れ逝くだけの余生を送っていたエドガーにある日、一つの光が射した。


 冬の朝のことだった。日曜日で、二日前に少しばかり降った雪が塀や庭木の隅に残っていた。裏庭の古ぼけた蔵の掃除だけが唯一の仕事となっていたエドガーはその日も一人赴いて、しかしその閂がいつもと違うはめ込み方をされている事に気付き、首を傾げた。


 そっと扉を開けたエドガーは眼を見開いて言葉を失った。


 四角くくりぬかれた小さな窓から朝陽が微かに射し込むだけの暗い通路の一角に、なんと所狭しと小さな紫色の炎が無数に浮かび、明るく光っていたのだ。


『……んん』


 衣擦れの音と、子供の小さな唸り声。炎はそれを取り囲むように揺れていた。


 孫の万里子だった。暖房器具などあるはずもないその冬の早朝の蔵の中で、彼女は三十を超える《ウィルオウィスプ》に囲まれて眠っていた。


 エドガーが近づくと炎たちはぴたりと制止して幻の様に消えたが、周囲の空気はまだほんのりと暖かかった。


『お、おじい様……!?』


 火が消えた事で気温が下がったからか、万里子はぱちりと眼を覚まして体を起こした。エドガーと万里子は普段口を利くことが許されていなかったため、彼女は明らかに怯えた様子だった。


 しかしこの時エドガーの頭の中には一つの事しか無かった。


『今のは自分でやったのか!? 誰かに教わったのか!? 怒らないから、教えてくれないか!!』


 万里子の細く小さな肩を掴んでエドガーはまるで懇願する様に訊ねた。


 彼女は酷く戸惑い、蔵の扉の方を何度も気にしながらではあったが、それでもぽつりぽつりと答えてくれた。


 あの《ウィルオウィスプ》は気づいた時には傍に現れるようになったという。ただ《ウィルオウィスプ》という名前自体も知らなかったし、自分が一人の時にしか現れないので誰にも話した事は無いという事だった。


 《魔術》の世界で古くから語り継がれている有名なおとぎ話。魔術師の家系の幼子の周りに現れる《ウィルオウィスプ》の伝承。その炎の色は、子の《魔術師》としての素質を表すという。


 万里子の周りに浮かんでいた《ウィルオウィスプ》のあの美しい紫色。もう長らく離れていた《魔術》の記憶がエドガーの年老いた脳にまるで洪水の様に溢れ、染み渡っていった。


 万里子には《魔術師》の才能がある。自分と同じ、おそらくは《ソロモン王の七二柱の悪魔》からの攻撃すら防ぐほどの《防衛魔方陣術式》を構築出来るだけの《魔術》の才能が。


 その日から扇家の裏庭に閑散と佇む古びた蔵は、エドガーと万里子が夜中にこっそりと《魔術》の修練に励むための隠れ家となった。


 ただそれはエドガーの狂気に他ならなかった。素質があり、そして《魔術》を教えられたからと言って、扇万里子の人生がそれで幸せになるものではない。エドガーには万里子を扇家から救い出すことなど出来ない。そもそも救い出す意思すら無い。そんな孫娘を想う祖父としての感情など、扇家で過ごした日々の中で消え去っていた。


 エドガーは自分から密かに受け継がれていた、その優れた《魔術師》としての素質を持つ万里子に、かつて己が学んだ《魔術》の全てを教えようとした。そこに万里子が《召喚魔術師》になれるかどうかなど関係なく、自分という《魔術師》が存在したこと、ただそれだけを遺すために普通の人間が生涯知り得る事のない知識を彼は孫娘に教え込んだ。万里子にも読めるよう、魔術大学の知人に頼んで翻訳させた《レメゲトン》まで取り寄せて。


『――万里子。イギリスに私の知人が居る。連絡先と住所を記した封筒を渡しておく。いつか必要になった時、彼を頼ると良い――』


 死の直前、エドガーは病床で万里子にそう遺した。扇家内の歪みを正すことも、万里子を助けることもなく、四十年以上前の《召喚魔術》を断片的に教えるだけ教えて、彼はこの世を去った。


「万里子は十一歳の時点ですでに《召喚魔術》に関する知識と技術を八割以上身につけ、あとは召喚の儀式に必要となる資金と、何より彼女本人の願いさえあれば、私達のような《悪魔》の召喚が可能な状態にまで成熟していました」


 ラウラは語る最中も、そして語り終えた後も、その顔に不快感と怒りの色を浮かべていた。声色も少々乱暴だった。


「しかしエドガーは肝心な部分を万里子に教えていませんでした。古い《魔術の書》である《レメゲトン》には書かれているはずがない、《現代召喚魔術》の常識を、です」


 その視線が天井花イナリに向けられた。


「半世紀ほど前から、《召喚魔術》の世界では《悪魔》との契約時、特別な条件を提示することで自身の魂を奪われるのを防ぐ、という手法が一般的になりつつありました。簡単に言えば、言葉遊びで騙して《悪魔》を欺く、というものです。万里子がやっていたのを知っているでしょう。《ヒガンバナ》、《フラウロス》、《ボティス》……その《契約》のいずれに於いても、あの子は自分の魂を取られないよう、《契約内容》を複雑なものにしていました。ですがあれらはエドガーから教わったものではありません。全て、私が教えたものです」


 天井花イナリが眼を細め、微かに顎を上げたのをひづりは見た。


「エドガーが魔術大学に居た頃からそういった手法はすでに普及していましたが、しかし晩年の彼はもはや自分の命さえ軽んじるようになっていました。加えて自身の死期を悟り、残り少ない時間を惜しんだのでしょう、万里子に教えたのは古い《召喚魔術》の知識だけで、自分の命を《悪魔》に取られないための現代的な《召喚魔術》についてはまるで教えなかったのです。あまりにも身勝手が過ぎる、祖父として最低の男でした」


 ラウラの説明を聞いてひづりは腑に落ちていた。《ヒガンバナ》、《フラウロス》、《ボティス》。確かにこの三人の《悪魔》を召喚した時、母は複雑な《契約内容》を言い渡す事で、自分の命を捧げるという《契約の結末》から逃れていた。


 しかしその《身を守る契約内容》の手法をエドガーが教えなかったために、万里子の《最初の召喚》だけは、そうではなかったらしい。


「初めて召喚した《悪魔》……私と《契約》した時、《現代召喚魔術》を知らない万里子はやはり何の対策も取っていませんでした。先ほども語ったように、《召喚魔術》は万里子の人生を運よく良い方向に導きこそしましたが、エドガーのせいであの子は《現代召喚魔術》に於いて最も肝心な『自身の命を守る』という部分を取りこぼしていました。故に、万里子は私との《契約》によってその死が確定しました。万里子が二十一歳の時です。ですが……」


 ちらり、とラウラの視線が幸辰へと移った。


「知っての通り、万里子は四十五歳まで生きました。……ここからがひづり、きっとあなたが知りたかったことです」


 そして彼女はにわかにひづりへ穏やかな眼差しを向けた。


「万里子が二十一歳の年。一九九四年、三月二十四日」


 ひづりはハッとなって振り返り、見た。


 隣に立つ実姉の横顔を。


「そうです。官舎ちよこが生まれた日、万里子が初めて母親になった日です」


 するとちよこは特に表情を変えるでもなくラウラに言った。


「やっぱりそういうことだったのね」


 そしていつもの調子で、何も意外では無いという声音で始めた。


「厳密には、母さんが二十二歳になる年ね。そして母さんが死んだのが、それから二十二年と数ヶ月後。私が生まれた直後に刑務所の中で母さんの母親と祖母と義父が謎の変死。と来れば、母さんが何で突然死なんてしたのか、大体の想像はついたわ」


 広場に集められた親族の視線も気にせず彼女はそう締めくくった。


 ラウラは腕を組んで自身の顎を撫でた。


「やっぱりこういう部分では少しばかりちよこの方が勘は鋭いようですね。ええ、その通りです」


 頷いてラウラは言った。


「ちよこが生まれた直後、万里子は私を召喚し、そして扇億恵、扇兆、飯山直弥を殺す事を《契約内容》としました。その後、《契約》が果たされたのちに魂を奪われ、自分自身が死ぬ事も理解した上で、です」


 ひづりは呆気に取られて思わず呼吸を忘れた。


 死ぬ事を計算に入れていた?


 姉さんを産んだ直後に?


 ……何を。


「何考えてたの、母さん」


 うつむいたひづりの口唇が自然とそう零していた。


 それは娘を産んだ直後に自殺するのと同じことだった。


 娘と夫と妹を遺して、死ぬつもりだったということだ。


 せっかく扇家から解放され、恋人と結婚し、生き別れていた妹と良き関係を築いたというのに。


 全く以って正気ではない。馬鹿だとしか言い様がない。


「……甘夏が家族を守るために行動したように、当時は万里子も独り悩み、暴走していました」


 ひづりの当惑した顔から視線を逸らし、沈んだ声音でラウラは語り始めた。


「祖父のエドガーから《召喚魔術》を教わった当時、幼い万里子が願っていたのは、母と祖母が怒鳴ったり暴力を振るわないようになって、義父が居なくなって、そして父親の市郎が帰って来てくれることでした」


 にわかにじろりと彼女の瞳が市郎を睨みつけた。


「そんな万里子の願いを叶えられる《悪魔》は、確かに居るにはいます。ですが《契約者》となり、その《契約》が果たされた時、自身が死ぬことを万里子はしっかりと理解していました。仮に《悪魔》の力で億恵や兆が優しくなっても、自分が死んでそこに居ないのでは意味がありません。正しく現代の《召喚魔術》を学んでいればその限りではないはずでしたが……やはりそれを知らない万里子は、《召喚魔術師》として十分に成熟していながら、それを自身の人生を幸福に導くために利用する事が出来ずにいました。……しかし」


 ラウラの視線が幸辰と千登勢に向けられた。


「幸辰、そして千登勢。万里子が十八歳の時、あなたたちとの出会いによって万里子の人生は変わりました。万里子が己の人権を知覚出来ないという事を知って尚、幸辰、あなたが彼女を幸せにすると言ったから。そして自分は誰からも愛されてはいけないと思い込んでいた万里子のために、千登勢、あなたが涙を流したから。だから万里子は変わりました。『助けて』と、初めて口にすることが出来ました。一人の人間として覚醒することが出来ました」


 彼女の声音は穏やかだったが、しかしその顔に喜びの色は無かった。


「ただ同時に、それはあの子の《召喚魔術》に対する《願い》がその形を大きく変え、そして実行されるものへと昇華してしまった出来事でもありました。児童養護施設に守られることになり、母と祖母と義理の父は投獄と共に法律によって万里子に接近することが許されなくなりましたが、しかし法に守られたからと言って、また《猿舞組》の視線が他所へ向いたからと言って、万里子にとっては扇本家という場所が存在し、そして扇億恵が生きている限り、心から安心して母親になる、という未来は存在しませんでした。加えて『自分は母親になった時、母や祖母と同じく自分の子供に虐待をするかもしれない』という恐怖は依然として万里子の中から消えずにいました。それでも、幸辰との子供を持つ事を望んだ、人として前に進む事を決めたあの子が選んだのが、この私の《召喚》だったのです。……万里子の《願い》は、『愛する人に愛され、そして子を産み、愛する人達を健全な世界に遺したい』というものにとって代わっていました。ただそれは万里子の場合、『自分に《呪い》を残し、今後も将来生まれてくる我が子に介入してくるであろう母と祖母と義父の抹殺、また《呪い》を受けた自分自身をも殺害し、そして自分が産んだ子を幸辰に任せる』という、あまりにも悲しい未来のイメージでした。万里子は幸辰にも千登勢にも相談せず、ちよこの出産の少し前に私を召喚しました。私を選んだ理由は、私が《レメゲトン》に《殺戮の悪魔》と記されていたからだそうです。実際間違っていません。私には、戦争で勝って、人間や《天使》を解剖するのが楽しかった時期がありましたから。他の《悪魔の王》たち同様、人間を殺すことに何の迷いもありませんでした。ですが」


 徐に天を見上げたラウラの瞳に木々の合間から降り注ぐ月明かりが跳ねた。


「召喚され、初めて万里子と出逢ったあの日。彼女の眼を見た時、私は驚きました。あの歳で、この現代の《人間界》で、あのような眼をした人間を私は見た事がありませんでした。憎悪の炎に心を暗く焦がし、己の死さえ選びながら、しかし願うのは紛れもない《光の未来》……。《召喚魔術師》というのは大抵覚悟の決まった顔立ちをしているものですが、万里子ほど綺麗な眼をした人間を私は知りませんでした。興味が湧いた私は彼女の《過去》を見て、そしてすぐに彼女の事が好きになりました。面白いと感じる《召喚魔術師》にはよく出会いましたが、好きになったのは万里子が久しぶりでした。ですから彼女に召喚され、『私が愛する人との間に元気な子供を無事産んだ時、私の実母扇億恵と、祖母の扇兆、そして義父の飯山直弥を殺して欲しい。そうしてくれたら、私の魂を《グラシャ・ラボラス》、あなたに差し出す』と《契約》を持ちかけられた時、私は受け入れつつも、一つだけアレンジをさせてもらいました。万里子がちよこを出産する日を《未来視》で見た私は事前に刑務所にいた三人を攫い、二週間に亘って拷問に掛け、ちよこ出産の日に併せて殺し、そして最後は傷を全て治して元の場所に戻しました。高度な《認識阻害魔術》が使える私たちにとって、獄中の人間の二週間の行方不明や、三人の死因を突然死に見せかけるのなんて、何も難しい事はありません。億恵たちは生まれてきたことを充分に後悔させてやってから、殺してやりました。しかし重要なのはここからです。万里子は、その日を以って私との《契約》を満了したことになりました。ですが彼女は死にませんでした。それがアレンジです。三人を殺した報告に万里子の元へ戻った私は、産まれたばかりのちよこを抱くあの子にこう伝えました」






『我が《契約者》、官舎万里子。あなたとの《契約》は先ほどすべて果たされました。では、この《契約》が果たされた日を中心として、あなたのこれまでの人生の時間と同じだけの月日を経た後、あなたの命を頂くことにします』






「……とね。万里子は驚いていましたよ。現代の《召喚魔術師》がその自身の命を守るために考え出す複雑な《契約内容》でも無ければ、本来《契約》が完全に果たされたのちに魂を頂くタイミングというのは私たち《悪魔側》に主導権があります。要はいつその魂を貰ってもよく、何なら《契約者》が寿命で死ぬ間際まで待っても良い、というわけです。私は万里子に長生きして欲しかった。こんな安い《契約内容》ですぐに死なせるにはあまりにも惜しい人間だと思ったからです。ですが、万里子の眼の中にあった炎はすでに消えかかっていました。ちよこの無事な出産を以って、自分の魂を私に捧げるつもりでしたから、当然ですね。しかしそこへ魂を奪いに来たはずの《悪魔》から延命を言い渡されたのです。あの子の戸惑った顔、とても面白かったです」


 懐かしそうに視線をどこともない場所へ流しながらラウラは暖かな声音で語った。


「ただ《契約》は《契約》です。《魔界》で国民が私の《悪魔の王》としての成果に期待している以上、万里子の寿命を半世紀も待つことなど出来ません。だから期限を定めました。それに期限があれば、万里子も再び人生に焦り、そして改めて向き合う必要に迫られます。残りの二十二年と数ヶ月、どうやってちよこの母親として前向きに生きていくのか? 勝手に《悪魔》と《契約》してしまったことをどうやって夫に話すのか? などなど。……それにその結果、とても素敵な、新しい《未来》も誕生しました」


 ラウラは優しい微笑みを浮かべると、それをひづりへと向けた。


「ひづり、あなたです。二十二歳で死ぬつもりだった万里子が私によってその人生を引き伸ばされた結果生まれた幸い。この場に居る全員の心の支え。ここまで聞いて分かったでしょう。あなたは、奇跡の様な偶然の連続によって生まれる事が許された存在なのです。幸辰の愛情が、千登勢の心が、甘夏の決意が、そして私に気に入らせるほど美しい眼をしていた万里子のその生涯が、あなたが生まれいずる《未来》を掴み取った。官舎ひづりは、人間からも悪魔からも祝福された存在なのですよ」


 けれどそこでラウラは「ですが」と断ってにわかに表情を消すと視線を移した。


 千登勢の隣で黙り込んでいたひづりの母方の祖父、花札市郎へ。


「繰り返されようとしている悲劇の中にひづりが居るなら、私は《魔界》でのんびりと王をしている場合ではありません」






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