『最高のデート』





 渡されていた雑誌に記載されていたのと類似するキャンプ道具の購入を済ませ、ちよこに指定されていた期日に輸送してもらうところまでも完遂すると、ようやくひづりは片方、肩の荷が下りたように感じて大きなため息をついた。


 そうして思考に余裕が出来たところでふと、ひづりは思いついた。それから和鼓たぬこを振り返って少々思案したが、首を傾げた彼女のいつもの少し困ったような顔を見つめていたらやがてその決意も固まった。


 それが良いと思ったなら、叶えてしまえ。きっと上手くいく。


「和鼓さん、この後ってすぐ帰らないといけないって、姉さんとか天井花さん、言ってましたか?」


「あ、え? や、いいえ……?」


 答えを聞くと、ひづりはおもむろに和鼓たぬこの手を引いて歩き出した。


 え、あれ、ええ、と困ったように連れられ始めた彼女に、歩きながらひづりは振り返ってみせた。


「和鼓さん。ちょっとだけ、悪い子になりましょうか」


 ひづりはニッ、と笑顔になった。少しだけ悪い事を企んでいる時の、少々スレた雰囲気のあるひづりには珍しい、子供っぽい笑顔だった。








 ここか、と、目的地を正面に見据えて、ひづりはしかし自分で決意したとは言え少々気後れするようだった。第一、確かにひづりと同年代でも《それ》を経験したことのある女学生は一定数居るのだろうが、ひづりは全くの未経験で体感したことすらないのだから、仕方が無い。


「あの、ひづりさん、ここ、あの」


 隣のたぬこが顔を赤らめ、ひづりの腕を掴んだまませわしなく体を揺らしていた。こんな彼女を見るのも初めてなのでひづりも思わず笑顔になってしまう。


「ええ。ここみたいですよ、和鼓さん」


 彼女の顔は、その店の立て看板に釘付けになっていた。ひづりもそれを見る。


『全国の日本酒 飲み比べ専門店』


 ちよこの夫、吉備サトオは結構飲む男だった。だから店に日本酒が常備してあるのは単にたぬこの食料としてでなく、彼の分でもあるのだ。そんな彼が以前ひづりと店で会った際に言っていたのだ。


「新宿駅東に、日本酒の飲み比べ専門店が最近出来てさぁ。友達と行って来たんだが、あれはすごいな。一日中、入り浸ってしまいそうだ」


 と、それもとても楽しそうな顔で。それをひづりは思い出したのだった。


 聞いていた通り、料金もそんなに高くは無い。とはいえ女子高生にほいほい出せる額ではないが、今はちよこから預かっているお金があった。


「入りましょ、和鼓さん」


 握ったままの手を引いて、ひづりは入店した。


「え、は、はい!」


 わくわくしている。それが彼女の声の弾み方ですぐに分かった。


 これは計画だ。《和菓子屋たぬきつね》に於いて現在、稲荷寿司とお酒だけで天井花イナリと和鼓たぬこは働かされている。それは《悪魔》であろうと、従業員であればあってはならない重大な労働法違反だ。ひづりも同僚として胸が苦しい。


 だから改善する。意識の改革をさせる。現在ちよこから貰えていないそのお給料というものがもらえたら、こういうお金の使い方が出来るのだ、と。いつだって天井花イナリに連れて来てもらって、二人でこういう店を満喫出来るのだ、と。お給料というのは、そういう、良いもんなんだぜ、という事を、まずはこの和鼓たぬこに知ってもらわなければならない。


 寄り道をするなとは言われてない。和鼓たぬこに、お金の使い道を教えるなとも言われていない。だからひづりは堂々と店の扉をくぐった。


「あら、学生はダメですよ」


 入り口でばったり眼が合った店員に出会い頭そう言われた。が、それを見越してあらかじめ言葉を用意していたひづりは堂々と返した。


「いえ! 飲むのも食べるのも、こっちのお姉さんだけなので!」


 ひづりはいま学生服姿で、その自覚があった。だからこそ、ただ今日、二人で新宿へ買い物に来たついでに、お酒が好きな年上の友人の付き添いでここへ来ただけである、ということを、それをやや大きめの声で店員に強く強調し、また自身は酒瓶にもコップにも触れない事を、胸を張って宣言した。


「そういうことなら、まぁ……」


 了承しかけた店員に、ひづりは鞄を片手に提げたままにわかに和鼓たぬこを振り返りその両手を握って笑顔を作った。


「やったね! OKだって! よかったよかった!」


 やけっぱちで、ちょっとわざとらしかったかもしれないが、それで良いのだ。ひづりは内心にやりとした。


 和鼓たぬこは背が高く、フィンランドとか、スウェーデンとか、そういう所の顔立ちをしている。日本の酒を扱う店の人間に、国外の女性が日本酒に興味を持って来てくれたのだ、と思わせ、そして未成年のひづりがそのお酒に一切手を出さない、という条件を出したのならば、多少の逡巡はあろうが――。


「ウェルカム。いらっしゃいませ。どうぞ奥へ。店のシステムを説明いたします」


 先ほどから話せてない欧州人の和鼓たぬこにも英語で挨拶をしつつ、店員はにこやかに二人を案内し始めた。


 勝利を確信したひづりはすかさず、


「はい! あと彼女、あまり日本語上手じゃないのと、少し足が悪いので、出来ればカウンターの近くに席をお願い出来ますか?」


 と付け加えた。足が悪い、は嘘だった。ひづりに常にくっついているのは《人間の大人恐怖症》が出てしまうからだったが、けれどこれは席指定の言い訳に大いに使えた。


 その指定する席が、店員の眼の届くカウンター近くであれば、尚更未成年であるひづりの事を警戒しなくても済むからだ。そういった安心感を店側に与えられる。


「そうですか。承知しました。ではこちらで」


 そう返した店員の顔は先ほどより少々穏やかであった。よかった、効果があったか、とひづりは判断し、入り口からほんの数歩の所にあるカウンターそばの席を確保した。平日のまだ三時なので客足が少ないことも幸いした。


 そこからはもう、和鼓たぬこの表情と視線の移り変わりようと言ったらなかった。彼女が指差す酒瓶をひづりが店員に声を掛けて開けてもらい、店員による日本酒の説明をひづりはさもそれを英語に翻訳しているかのように彼女の耳元でこそこそと説明したフリをする。その嘘のやり取りを気に入ったらしく、和鼓たぬこもこそこそとひづりに耳打ちで返す。注文のたびにそれを目撃する店員らの顔にもまた明るい色が浮かんでいた。


 和鼓たぬこの食料は酒だが、彼女がほとんど酔わないということはすでに聞いていた。適度に節度を以ってひづりと和鼓たぬこはこの時間を過ごす事に努め、そして楽しんだ。


 ひづりは和鼓たぬこに金銭感覚というもの、給与を得られればどういうことが出来るのかということを実感させるためにここへ連れて来たわけなのだが、それにしても、それはそれとしても、ひづりは美味しそうにさまざまな日本酒を舐める和鼓たぬこの姿には、やはりただただ嬉しくなってしまうのだった。


 大成功。そう言う以外に無い、最高のデートとなった。




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