『未熟なサキュバス』




「ありがとうございました~」


 店員の声を背に店を出た時にはもう外は少々日が傾いて暗くなってしまっていた。時刻は十七時。実に二時間ほども和鼓たぬこは飲んでいたことになるが、顔はシラフだった。さすがに《悪魔》というんだろうか。途中から店員は全然酔った様子の無い和鼓たぬこを少しでも酔わせてあげようと思ったのか、少々強めだという酒を勧めてくるなどしたが、しかしことごとくそれをザルな彼女は打ち負かし続けており、酒を勧めていた店員は途中で肩を落として同僚に笑われていた。それをひづりは隣で見ていてとても可笑しかった。


「ごめんなさい、こんな時間まで」


 駅までの道、立ち並ぶビルのためにもうだいぶ暗がりになった道を歩きながら和鼓たぬこが言った。


「いいえ。私の目的は達成されましたし、私も楽しかったですから」


 目的? と彼女は首を傾げたが、ひづりは「今はまだ内緒です」と笑顔で返しておいた。


 いずれ天井花イナリにも同じように美味しい稲荷寿司を食べてもらって、お金を使う、得るという感覚への欲を持ってもらうのだ、とひづりは決意を新たにした。


「……ひづりさんは、優しいです」


 隣の和鼓たぬこがしみじみと、照れくさそうに足元を見ながら言った。そんな可愛らしい横顔を至近距離で見せられ、ひづりまで恥ずかしくなってしまった。


「い、いやぁそんなことはありませんよ。これも目的、私の計画なんですから」


 そんな風に、がらにもなく悪役ぶってみせた。それがまた可笑しくて二人でふふ、と笑った。


「次は、イナリちゃんとも来たい、な……」


 和鼓たぬこはぼんやりとそんな事を言った。


「行けますよ。天井花さんの好きな稲荷寿司のお店めぐりだって」


 ひづりが言うと和鼓たぬこは振り返って、ふにゃりと崩れた笑顔になった。


「ああ、それは、それはとっても素敵なことです……!」


 ――ああ、そうです。そうなんですよ、和鼓さん。お給料があれば、毎週の定休日に、その時は私じゃなく天井花さんと一緒にお出かけが出来るんです。食べ物だけじゃない、遊ぶところにだって、綺麗な景色の場所へだって――。


 ひづりがそう言おうとしたところで、にわかに和鼓たぬこが口を開いた。


「イナリちゃんと私は、幼馴染、なんです。……子供の頃は、いっぱい一緒に遊んでて――」


 唐突な身の上話に、ひづりは言おうとしていた事がすべて頭から抜け落ちてしまった。


 幼馴染。天井花イナリと和鼓たぬこが。その三文字の言葉を頭に浮かべた途端、ひづりは急に腑に落ちた。二人の関係だ。


 幼馴染。姉と妹でも、母と娘でもない、と感じていた二人の関係。とても親しげで、きっとその縁は切れる事はないのだろう、と不思議とそう思わせる、天井花イナリと和鼓たぬこのお似合いの姿。


 仲良しの幼馴染。そういうことだったのか、と納得すると同時に、ひづりは首を傾げた。


 それを察したのか和鼓たぬこは続けた。


「幼馴染は幼馴染でも、イナリちゃんはとっても優秀だったんです。《悪魔》は生まれてしばらく経つとその角の成長が止まるので、それで《悪魔》としての強さが分かって、分類がされるんです」


 角。そう言われてひづりはちらりと和鼓たぬこの角を見た。丸っこい、気持ち尖っているばかりの、横から見ると葉っぱのような小さな角。同時に天井花イナリの角を思い出す。よくよく観察して分かったが、あの角は彼女の背骨との境目辺りにある頭蓋骨の一部が根になっており、それが二股に割れ、両頬を覆う形で顎先まで湾曲した、かなりの長さと太さの物だったのである。


「《悪魔》にとって角の大きさはその《魔性》の強さをそのまま現しています。イナリちゃんの角はとても大きかった。しかも今と違って額にもう一本あって、誰の眼にも、次の《七二柱の悪魔》の誰かになるだろう、って言われていました」


 ひづりは驚いた。今でも充分巨大な角を有していながら、かつてはその額から更にもう一本、彼女には大きな角が生えていたのだという。今は《契約》による変化でそれが類似した狐の耳に置き換わってしまっているだけで、あれは本物の狐耳ではなく、存在を挿げ替えられただけの、もう一本の角であるのだと。


 ちよこから聞いた話をひづりは思い出した。《ソロモン王の七二柱の悪魔》は常に七十二という数を維持している、という話だった。偉い《悪魔》でも、寿命は長くて二千年ほどで、その命が尽きると、その《悪魔》が持っていた《名前》と《能力》と《思い出》の三つが、それを引き継ぐにふさわしい若い優秀な《悪魔》に譲られるのだと。


「だから、イナリちゃんが生まれて千年ほどした頃、《名前》のある《悪魔》の方が亡くなられて、その全てがイナリちゃんに譲られて、イナリちゃんは周りの予想通り、《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱になりました」


 それを、和鼓たぬこの横顔は誇らしげに語った。


 しかしその後、彼女は少し暗い顔になって、続けた。


「……私の角は、ご覧の通りすごく小さくて。角っぽくもなくて、すぐに《下級悪魔》の、人間で言うところの……その、あまり良くない学校……? の様な場所に入れられました。イナリちゃんとは間逆の、出来損ない《下級悪魔》が通う学校、です」


 ひづりは胸がずきん、と痛むのを感じた。ああ、だからなのか、と気づいてしまった。


「イナリちゃんは《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱となってから、それはもうすごかったんです。受け継いだ《名前》と《能力》と数え切れないたくさんの《悪魔》の軍勢を従えて、私達の生まれた一帯の王様として、名のある《悪魔》の一柱として、今までに無いほど優秀だって、誰もが口にしていました」


 興奮した様子で和鼓たぬこは語った。けれどそこにはどこか寂しさが差していた。


「……私は《下級悪魔》の《サキュバス》で、はっきり言って、絶滅寸前の種族に生まれました。《カクゼツの門》というのが、三千年前に起こった、天使と人間と悪魔の戦争で建てられたから、《悪魔》は《魔界》から《人間界》へ自力では来られなくなって、当時《人間界》に残った《悪魔》もみんな殺されてしまったそうなんです」


 三千年前の大戦と《隔絶の門》というのは、少し前に天井花イナリからちらりと聞いたことがあった。自分達《悪魔》が自由に《人間界》に来られないのはそれが建てられたからで、また今《人間界》に《悪魔》が居ないのも、そういうことなのだ、と。


「人間と密着した生活があったから、三千年前の《サキュバス》も簡単に魂を奪えていたらしい、って話なんですけど、その《門》が出来てからは、有名で、よく召喚される、人間の魂を得やすい《ソロモン王の七二柱の悪魔》が、持ち帰った人間の魂を分配してくれることで、私達はどうにかこうにか、生きながらえる事が出来ていました」


 そんな事情があったのか、とひづりは納得した。《魔界》ではそういった貧困がその三千年前から続いているという一方で、《魔界》と繋がりを絶った《人間界》は、それからこうして地上で栄える事が出来た、ということなのだろう。


 人間としてのひづりにとっては、《人間界》の発展は直接自身の生活の向上に繋がるため良い事として受け入れるし、突然《悪魔》が目の前に現れて殺されるような世界も嫌だと思うが、しかし今、こうして和鼓たぬこの話を聞くと、《悪魔》とすでに知人になってしまったひづりには、複雑な心境をもたらす以外に無かった。


「そんな中でも上下関係というのはやっぱりあって。《ソロモン王の七二柱の悪魔》のようなちゃんとした《名前》を持たない《下級悪魔》の《サキュバス》であっても、現代でも呼び出す人間は居て。私は一度も召喚されたこともないし、学校でも成績がよくなくて、それも特に下の方で……。配られる魂の量も少なくて。仕方ないんですけど……あのままだったらきっと、数十年後には飢え死にしていたと思います」


「そんな」


 そこまでだったのか。《魔界》にも弱肉強食があるのだろうことは想像していた。だが、そこまで現実的にではなかった。


 《魔界》も実は《人間界》と同じなのだとひづりは思い知らされた。稼ぎ口が見つけられない者は、実力の無い者は淘汰される。当然と言えば当然だが、しかしそれは悲しい社会構造の姿に他ならない。


「でも、当時、私はそれでも良いって思ってました」


 和鼓たぬこがにわかに言った。彼女の顔を振り返る。ほのかに暖かい色がそこに浮かんでいた。


「だって、王様と幼馴染だったんですよ? 仮に、その後学校も違っちゃって、私は底辺で、イナリちゃんは王様になったとしても、以前はそうだったんだ、っていう思い出は、私の中でずっと暖かかったんです。その思い出だけが、私の支えで、何より大切なものでした」


 胸の前で手を握って、彼女は笑顔をこぼした。


 ひづりは何と言っていいかわからなかった。するとそれに気づいたのか、和鼓たぬこは立ち止まり、ひづりの顔を見つめた。


「ひづりさんは知っていますか。《召喚魔術》って、とても些細に《魔界》に干渉しているものなんです」


「些細?」


 突然の話題の転換にひづりは戸惑った。


「はい。私もあまり詳しくは知らないんですけど……人間の誰かが《グリモワール》……《召喚魔術》の書物を手に取った瞬間、伝令、みたいなものが、《魔界》全体に響き渡るんです」


 それは初耳だった。人間が、その《召喚魔術》のための本に触れた、ただそれだけで、嘘みたいな話だが、《魔界》にそういう伝令が走るのだという。


「はい。その後、その人間が開いたページに記されている《悪魔》、そしてその召喚のための記事などをその人間が探したり、材料を揃え始めると、おもむろに、《魔界》の一番高い所にある名簿板、と言えば良いのでしょうか。《ソロモン王の七二柱の悪魔》の、七十二の名前が記されている石碑の中から、召喚されようとしている《悪魔》の名前が燃えるように光るんです」


 初耳の連続で意識が追いつかなかったが、つまり、《召喚魔術》というのは、《悪魔》にとって急に呼び出されるものではないということらしかった。召喚しよう、という意思を持った人間がその召喚準備を始めると、その人物が求めている《悪魔》のその名前がもう《魔界》では事前に発表される、ということらしいのだ。


 そうして指名を受け、召喚される気になった《悪魔》だけが、《召喚魔術》に応じ、《人間界》へ現れるのだという。


 それが《悪魔》側から見た《召喚魔術》なのだと、和鼓たぬこは説明した。


 通りを行き交う車のヘッドライトが、少しうつむいた和鼓たぬこの横顔を照らしては過ぎていく。そこには複雑そうでありながら、確かに喜びの輝きが湛えられていた。


「二年前のあの日、イナリちゃんは官舎万里子さんに召喚される事が決定しました」


 ひづりはどきり、とした。母が天井花イナリと和鼓たぬこを召喚したその日の話を彼女はしようとしてくれているのだ。ひづりも心の準備をした。


「《呼ばれた》のは当然、《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱の、イナリちゃんだけでした。万里子さんはイナリちゃんを求めて、宝石や供物、召喚の知識、そして自分の命を捧げる《契約》の覚悟をして、《召喚魔術》を行いました。そして《魔界》では、以前から名簿に名前が出ていて、こっちも準備が済んでいたイナリちゃんが、ついに召喚のための《魔方陣》に包まれて……」


 にわかに和鼓たぬこの鼻と目元が赤らんでいくのをひづりは見た。


「イナリちゃんは、私達がイナリちゃんの召喚を見届ける中いきなり走り出して、《魔方陣》に包まれたまま軍勢の中に飛び込んで、そして私の手を掴んで叫んだんです」






『わしとしたことがここへ来て忘れ物をした! 仕方がないので、代替品として召し使いを一人連れていく! では皆の者、しばしの別れ、成果を期待せよ!!』






「ざわつく軍勢の声が、私に聞こえた最後の《魔界》の音でした。イナリちゃんと一緒に《魔方陣》の光に包まれながら、イナリちゃんの腕に抱え込まれるようにして、私は、イナリちゃんと《人間界》に召喚されました」


 和鼓たぬこは泣いていた。ぼろぼろと、こらえきれないという風に、そしてそれはとても、どこまでも嬉しそうに。


 ひづりも涙が抑えられなかった。そんな和鼓たぬこから視線を逸らせないまま。


 ああ、そうなのですね。天井花イナリさん。あなたは、あなたという《悪魔》は――。


「《ソロモン王の七二柱の悪魔》の《悪魔》が、召喚の時に、他の《悪魔》を連れて行くなんて、本来ならあってはならないことなんです。違反、に近いんです。それなのに」


 天井花イナリは分かっていたのだろう。和鼓たぬこが、幼馴染が、今にも飢え死にしそうなほど、《魔界》にあって貧困にあえいでいた事を。


 どの世界であろうと、きっと「えこひいき」だと非難される行為に違いなかった。誰の眼にも明らかな、彼女自身の完全なエゴだった。


 それでも彼女はそのエゴを、違反を、意志を貫いた。誰からも召喚されず生涯を終えようとしていた幼馴染に、ただ一度で終えるかもしれないとしても、自身が千年にわたって築いてきた《ソロモン王の七二柱の悪魔》としての立場が危うくなるかもしれないとしても。


 幼馴染の彼女に、人間の魂を得るただ一度のチャンスを与えるためだけに、彼女は走ったのだ。和鼓たぬこの手を掴むために。


 忘れてなど居ない、と。


 かつて《魔界》にあって二人は幼馴染であったが、けれど《悪魔》としての差が彼女達を裂いた。片や死期の近い《下級悪魔》と、片や最上位の《ソロモン王》の《悪魔》。


 今の《和菓子屋たぬきつね》の環境は、官舎万里子の召喚や、その死など、数奇な運命を辿って、こうして成り立っている。そこでその二人の《悪魔》は、かつて子供の頃と同じように、同じ立場で、同じ職場で、一つの仕事に従事して毎日一緒に暮らせるようになった。


 だから今日の昼間、和鼓たぬこは言ったのだ。


『私は、《和菓子屋たぬきつね》に来られて、幸せですよ』


 と。その理由がひづりは今ようやく理解出来ていた。


「ああ、ひづりさん、駄目ですよ、そんな、お顔が腫れてしまいます」


 和鼓たぬこは我に返った様子でひづりのそばに寄ると自分の袖でひづりの泣き顔を隠すように優しく拭った。


「いえ、いいんです、大丈夫です、それより和鼓さんだって」


 ひづりはハンカチを取り出して和鼓たぬこの頬を拭ってあげた。


 自分が何かするでもなく、彼女達はすでに幸せだったのだ。それが分かって、ひづりは思い違いをしていた恥ずかしさと、そして安堵に包まれていた。


 けれどそれとこれとは別の話だ、とひづりは思う。給料と充分な休暇。それがあれば、尚更この二人は《人間界》での生活を楽しむ事が出来る。そのためにはまずやはり姉に――。


「何ふたり、女の子同士で手つないじゃって、可愛い~」


 にわかに声が掛けられた。


 あまりに予想外の事に一瞬反応が遅れたが、振り返ったひづりは涙が一度に引っ込むようだった。


 見知らぬ、三十代ほどの男性三人組だった。軽薄そうな衣装に、酒でも入っているのかという薄ら笑い。よくない事が起こる予感、危険、敵意、それらが一度に、ひづりの経験を以って叫びを上げた。


「泣いてるじゃん。どっか行く? 良い店知ってんだけどどう? 行くでしょ?」


 ちくしょう、なんということだ、とひづりは眉根を寄せた。自分一人ならともかく、よりによってこんな時に。和鼓さんが一緒の時に。ひづりは背後の和鼓たぬこに意識を向けた。


「ねぇ黙ってないでさぁ」


「ひっ……」


 男らとの間に立つひづりの背後で、小さかったが、確かに和鼓たぬこの悲鳴らしきものが聞こえた。彼らは間違いなく《人間の大人》だ。この暗い時間帯、初めて来る場所、三人もの《人間の大人》からの突然の干渉。和鼓たぬこが恐れを抱かない訳がない。


 ひづりは己のうかつさを悔いた。が、それより怒りの感情の方が勝った。


「悪いんですけど、よそ当たってくださいよ。こっちはもう帰るとこなんで」


 低く、強く拒絶するようにひづりは胸を張って言った。


 一歩前に出たひづりに、しかし男らは動揺もしなかった。


「ガキは黙ってろよ。後ろのべっぴんさんに用があるわけ、俺らは」


「っていうかマジかわい~。ハーフ? だよね? 超おっぱい大きいし」


 そう言いながら男の一人が脇に回り込もうとした。彼の手が和鼓たぬこに伸びて――。


「帰れってんのが聞こえねぇのか!! その耳は飾りで付いてんのか!? ああ!?」


 反射的に男の襟首を掴み上げて引き寄せるとひづりはそんな爆発するような声で怒鳴りつけた。その迫力たるや、およそ一般的な女子高生のものではなかった。ひづりが元々そういうタチだったのと、つい最近、強力な本物の《悪魔》による啖呵の切り方などを見てしまったからだろう。


 効果はかなりだったらしく、今度こそその男の顔には戸惑いを超えて、怯えの色さえ浮かんでいたようだった。


 自身の体重の移動、低い身長を活かして自分より背の高い相手の重心を奪い、一気に屈ませる方法。ここしばらくは問題も起こさず大人しく高校生活を送っていたが、相手の性別も年齢も問わず暴れていた時期が、実はひづりにはあった。中学の頃、得体の知れない胸の衝動に駆られ、理不尽さをぶつけてくる相手なら誰だろうと噛みつき続けては反撃を受けてひどい痣を作り、今でも体中にその痕が残っている。


 経験というのはそうそう忘れられるものではなく、特にこういった暴力に関する事というのは驚くほどすぐ頭と体に蘇るものらしい、とひづりは実感していた。


「黙ってんじゃねぇよクソ坊主!!」


 相手の腰を折らせた姿勢のまま、ひづりは彼を正面に居た二人の方へと突き飛ばした。


「いって……」


「ちょぉマジ何なん? はぁ?」


 十いくつの女に投げ飛ばされたとあって自尊心が傷ついたのか、三人は急に肩を揃えてひづり達に迫った。


「失せろっつってんだ!! 帰れ!!」


 ひづりは再び圧のある声で吼えた。が、しかし三対二の男と女という自信と、仲間がコケにされた怒りからか、三人は止まらなかった。


 多少周囲には人通りがあったが、ひづりたちの諍いを目撃すると関わるまいと踵を返す者、わざわざ路肩に避けて通って行く者、と、助けてくれる善人など夕刻の新宿に居るはずもなかった。


 ひづりは覚悟を決めざるを得なかった。体中の傷の原因の一つ一つなどもう憶えてもいない。理不尽に所有物を壊された回数、盗まれた回数も。


 だからこそひづりはそのまま堂々と睨み返した。


 後ろに居るこの同僚にだけは手を出させない。それだけは絶対にさせない。天井花さんの大切な幼馴染を傷つけさせる事だけは、何があっても絶対にさせない。


 そして覚悟とは別に、勝算はないが、切り抜ける算段はあった。幸いなことにここは街中で、止めに入る善人は居なくても、通行人は頻繁に居る。交番も通りを挟んだすぐ向こうのわき道へ入った所にある。


 自分がこいつらにいくらか殴られてでもいれば、すぐに人だかりが出来るだろう。人間の視線とは、それに関わろうとするか否かは別として、日常と少々違うものには非常に敏感で、また好奇心を抱くものなのだ。そうなれば警官が来るまで十分、いや五分も掛からない――。


「……だめ」


 険しい表情をした先頭の男の手がひづりの髪を掴もうと伸び、ついに触れそうになった時だった。ひづりの背後で不意に小さな声がこぼれて落ち――。


「だめぇー!!」


 今まで聞いた事もないほど大声が、和鼓たぬこの口から発せられた。


 驚いて振り返ったひづりは、彼女の周囲の空間がぐにゃりと不自然に曲がっているのを見た。夏場の蜃気楼のような、幻のような何かが彼女の体から滲み出て、彼女の背景に流れる映像を非現実的な有り様にしていた。


 見開かれた彼女の明るいエメラルドのような瞳が、逢魔時の中でらんらんと輝いているようにひづりには見えた。


 不意に香った甘い匂いにひづりは嗅覚に集中した。しかしそこですぐに、違う、と気づいた。


 嗅覚ではなく、外から、頭の外側から、髪と頭蓋骨を貫いて、脳に直接甘い砂糖水や蜂蜜のような何かが垂らされて広がっていくような、背徳的で心地良い不気味な感覚が背筋に至るまで走っていた。


 快感。そう呼ぶのが一番近い気がした。


「あ、ああ、え、あ、み」


 目の前の男達も異変に気づいた様だったが、ひづりのそれとはずいぶんと違う様子だった。


「女神さまぁ!! あぁ!! 私めの!! 愛して!! 愛!!」


 三人揃って意味不明な言葉を喚きながら、なんと彼らはにわかに脱衣し始めた。


 奇妙な感覚に囚われながらも正気であったひづりは警戒しながら一歩下がって和鼓たぬこのそばへ寄った。


 男達はめいめい、一人は着ていたシャツを乱暴に脱ごうとしてそれが肘と首にひっかかって動けなくなり、あとの二人は大慌てでベルトを外して下着ごとズボンをずらしたがスニーカーの部分で両足が引っかかり、うちの一人はすっころんだ。


「キャアー!」


 当然、見て見ぬフリをしていた周囲から悲鳴が上がる。ひづりは「今だ」と捉えた。


「和鼓さん!」


 彼女の手をとり、ひづりは出来始めた人垣を乱暴に突き飛ばすように掻き分けてなるべく明るい方へと走った。


 数十メートル走り、わき道に少し入った所で二人は立ち止まって息を整えた。さきほどまで二人が居た辺りへ向かってパトカーのサイレンが移動していた。


「わ、和鼓さん、大丈夫、ですか」


 息を切らしながら訊ねると、和鼓たぬこは無言ながらも、うん、うん、とうなずいてみせた。


 けれど彼女は泣いていた。ぼろぼろと泣いていた。


 ああ、いけない。怖がらせてしまった。こんなのはもういけないとわかっていたのに。


「大丈夫です。もう大丈夫ですよ。怖い事はもう何も無いですよ。もう家に帰れますよ」


 ひづりは正面に立つと少しつま先を立て、彼女の頭を抱え込むようにして抱きしめながらその頭を撫でた。大丈夫、大丈夫、と何度も落ち着かせるように。


「違うんです、そうではないんです」


 べそを掻きながらだったが、彼女はひづりに抱きしめられたままゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「使っちゃダメって言われてたんです……。万里子さんに、ちよこさんに、絶対、《サキュバス》の《力》は使っちゃダメだって……どうしよう……私のせいで……イナリちゃんまで怒られちゃったら……ひづりさんまで巻き込んでしまって……」


 誘惑とか魅了、という効果を持つものなのだろう、その《サキュバス》の《力》というのは。おそらくそれであの男達はおかしくなったに違いないのだ。


 けど、ああ。そんな事で泣いていたのか。この娘は、自分が《契約者》の言いつけを破ったせいで天井花イナリや私に迷惑が掛かってしまうと、そんな心配をして泣いていたのか。


 ひづりまで眼と鼻が赤くなってしまった。


「そんなことありませんよ。きっと、姉さんは怒ったりしませんよ。だって、私のこと守ろうとしてくれたんですから。それに、私は天井花さんと和鼓さんの味方ですから、絶対、姉さんに怒らせたりなんか、しませんから。もし怒られても、ちゃんと一緒ですから、私も一緒に怒られてあげますから……」


 すると和鼓たぬこはひづりの体をぎゅっと抱きしめて「本当に? 大丈夫……? 本当に……?」と泣いた。


 ひづりもずびずびと鼻をすすりながら、「ええ、大丈夫です。大丈夫ですとも」と、またしばらく彼女の頭を撫で続けていた。










「たぬことの《でぇと》はどうじゃった。恙無かったかの?」


 翌日出勤すると、すでに仕事着の和服メイドエプロンに着替えていた天井花イナリが休憩室の椅子に掛けたまま厳かに、しかしやはりどこか気になっているという様子で、ひづりが三角巾を頭にかぶせたぐらいのタイミングで訊ねてきた。


 ひづりはそれがどうにも愛おしく思えてしまってつい、


「天井花さんのせいで二回くらい泣きました」


 と少しいじわるに答えた。「な、なんじゃ?」と彼女は少し戸惑っていたが、ひづりは笑顔のまま三角巾の端を結び終えた。開店まで少し時間があったので、ひづりは昨日の事の顛末を彼女に語って聞かせた。


「――ほぉ、なるほどのぅ。たぬこめ、そんなことまで話したか。いや、構わぬ。いずれわしから話す必要もあろうと、思うてはおった。うむ」


 天井花イナリはいつものように尊大な王様のように振舞ったが、明らかに照れている様子だった。幼馴染の事が大事すぎて、ルールを破ってまで《人間界》へ攫って来た、というのだ。当然だろうと思いつつ、ひづりは気づいていないフリに努めた。


「……しかし、まぁ、不運よな。不運、不運、ただただそれに尽きる……」


 少し間を置いて出た天井花イナリの独り言のようなそれに、何だ? とひづりは首を傾げた。それに気づいてか気づかずか、天井花イナリは窓のほうを見つめたまま言った。


「きゃつらは『女神様』と言うたのじゃな? ふふ、なら、まっこと、不運のその一言よ」


「えと、ごめんなさい、一体何を言っているのか……」


 訊ねると、天井花イナリはわずかに顔を傾け、愉快そうに歪められたそのゾクリと背筋が凍るような笑顔で答えた。


「《サキュバス》の食事とはな、ニワトリの料理に似ておるのじゃ」


 ニワトリ? って、あの鳥の? 突然の話にひづりは面食らいつつもあの白く頭の赤い鳥を連想した。


「さよう。仮にひづり、お主が今夜、鶏肉のシチューを作ろうと思い、ニワトリを捌いたとする。しかしその後途中で心変わりして、夕飯を別の料理にしようとしたところで、ニワトリは生き返るかの?」


「いえ、そりゃあ、もう食べる用に捌いちゃったんだから……」


 と自分で言ったところで、ひづりはハッとなって冷や汗が出た。


「そういうものなのじゃ。食べるために、まず人間の脳を殺す。そうして脳が性欲求にしか向かなくなり、やがて体力の限界、心臓が止まった時、《サキュバス》はその魂を頂く。もちろん、それを加減する方法もあるし、解除する方法も、それなりに優秀な《サキュバス》なら可能であろうが、困った事にうちのたぬこはあまり優秀ではないのでな」


 天井花イナリはニタリと笑った。愉快、これこそ愉悦、とでも言わんばかりに。


「《悪魔》に連なる者に楯突いた愚か者の順当なる末路よ。きゃつらの脳はもう元には戻るまい。初めて《人間界》に来た、力の加減の出来ない《サキュバス》に、怒りのあまり全力の《魅了》をぶつけられたのじゃ。奴ら自身、あるいはその知人に魔術師でも居らん限り、奴らは永久にたぬこに見た《理想の女神の姿》を夢想し、際限なく性欲に肉体と時間の全てをささげ、遠くないうちにその心臓は活動停止するじゃろう」


 不運。確かにそうだった。あの場で、得体の知れない男性三人に囲まれたひづり達の不運と、男達は相手が力加減の知らない《サキュバス》だと知らなかった不運。ただただそれだけ、ただの事故のようなものだ。


 天井花イナリの口調に、「お主が心を痛める必要など無い」というような意図はそこには一つも無いようだった。ただ、その不運を被って死ぬのが、こちら側に害をなそうとした連中であることをただ愉快に思うべきだ、という主張が込められた笑みだった。


 敵の死を笑え。《悪魔》にとっては、きっとそれは《悪魔》同士でも同じなのだろう。


 おぞましい事かもしれない。一般的な道徳から言って、人間的な情から言って残酷な思想かもしれない。けど、ひづりは特に何も思わなかった。どちらでも良いと感じた。


 そしてそれは、《悪魔》と関わってしまったひづりにとっては、重要で、成長であった。


 きっと、《人間》と《悪魔》という、我々が違う生き物として存在するただそれだけの現実を、自分は受け入れるべきなのだ、とひづりは思った。


 理解し合う必要はない。第一、人間同士だって理解し合えているというのは、ただの小さな一箇所の共通点を、似ているね、と言って、同じだと思い込んでいるに過ぎない。悪い事でも良い事でもない、ただの現象なのだ。


 それなら、違う存在で良いのだ。理解し合えなくても良いのだ。そして自分が《悪魔》と関わって生きていくなら、それに対する物の考え方が変わる事だって、自然に受け入れるべきなのだと、そうひづりは感じていた。


 こうして笑う天井花さんを、あの時泣いた和鼓さんを、「これで良い」と思うから。いつかさようならをする日が来ても、きっと同じように私は泣くから。


 違うことも、同じ事も、分からないことも、分かり合えない事も、時間が許してくれる間に叶うのなら、ずっとそれらを互いに話し合っていきたい。違う相手とでも、ただ知るというだけで変わるものもあると、和鼓たぬこさんとの《でぇと》が教えてくれたのだから。


 だからひづりは己を幸せだと思うのだ。私がそう思って生きる事をきっと許してくれる人たちが、この世にはこんなにも居る。それが分かったのだから。


 幼馴染。その存在の大切さを、ああして共感出来たのだから――。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る