『彼女はそう幸せそうに言った』




 《ビッシロ》には服や家電購入の目的で来た事はあったが、このキャンプ用品が並ぶ最上階に来たのは初めてだったため、初めて見る内装の小奇麗さに意表を突かれたり、またその内装を埋め尽くさんばかりに商品が並べられている事やそれらの値段に驚かされながらも、ひづりは和鼓たぬこと店内を歩き回った。メモ帳代わりに付箋を貼り付けられたキャンプ雑誌を何度も開きつつ、赤ペンで囲われた類似品を探していく。大きいものもあるので、それらは家、つまり《和菓子屋たぬきつね》まで郵送のサービスをしてもらう。


 ここまででもはやお察しの通り、吉備ちよこは、大体二、三ヵ月後に控えているこの秋に、夫のサトオと秋キャンプを目論んでいるという。若いカップルにしては少々渋い趣味かもしれないと思いつつも、サトオの「色んな刺激が芸術の材料になるから」という和菓子作りに対する人生の姿勢から、行った事の無い場所、したことのない旅行、というのを心がけているそう、なの、だが。


 買う物リストこそ持たされはしたが、キャンプなんてろくにしたことがない自分と和鼓たぬこにキャンプ道具を揃えて来い、というのはあまりにもどうかしているんじゃないかと、ひづりは思うのである。実際、一つ一つそれが何に使うものなのか確認し、本に書いてある通りの物であると分からない限り、どうにも買い物籠に入れられないという不安ばかりが常に胸にあった。


 これは明らかに何か裏の理由があるな、とひづりは察していた。まぁ、さすがにこれで人が死ぬようなことはないだろうと思い、とりあえずの罪悪感を晴らすのにこれで良いなら、と出掛けるに至った訳なのではあったのだが、どうにも多少神経質な自分には荷が重いように思えた。


 加えて問題はそれだけではなかった。むしろこっちの方が大きいと言えた。


 同伴している和鼓たぬこが、とにかく近いのだ。常にひづりの腕にしがみついて、視線を足元の辺りに落としている。今日一日限りではあったが、彼女にはちよこによって《認識阻害魔術》が行使されていて、一時的にだが《人間の大人恐怖症》が解消されているという。だが見えているもの自体は変わらないということなのだろう、とにかくひづりのそばを離れず、また他者に近づこうとしない。しかし、かと思うと不意に視線を上げて興味が湧いたものを注視してしまい、つい足元がおぼつかなくなってつまずく、という行為をこれまでも何度か繰り返していた。


 もしこんなのが迷子になってしまったらどうなってしまうのだ、と不安になればこそ、ひづりも彼女の服のすそを離さないようここまでずっと掴んでいた訳だが、道のり、そして何よりこの店内における店員さん達の視線がやたらに暖かいのには、さすがのひづりも顔が熱くなるのを抑えられなかった。


 和鼓たぬこはスタイルが良い。背は高く、本来押さえ込む効果がある和服にあって隠し切れないほどに出るとこは出ており、逆に出ないところはしっかりと引っ込んでいる。




『《悪魔》は階級によって、人間で言うところの精神年齢の成長速度に極端な差が出る。わしは《名のある悪魔》じゃからそれが速く、成熟もしておるが、《下級悪魔》のたぬこはかなり遅ぅてのう……そうじゃな、人間で言うと大体五歳くらいではないかの』




 いつだったか、天井花イナリがしれっとそんな事を言っていたのをひづりは思い出した。


 五歳!? あの手際で和菓子を大量生産しておいて!? 五歳!? あのおっぱいで!? と当時ひづりはあまりの驚愕に逆立ちしそうになったが、彼女のスタイルに関しては《サキュバスは召喚者の望む姿に化ける》との事だったので、おそらく《人間界》にたぬこを呼んだ際にあの体格にしたのは他でもないひづりの母親であり、それはつまり母の性癖を垣間見る事にもなり、合わさって少々応えたのだった。


 そしてスタイルもそうなのだが、加えて和鼓たぬこは他の人間には金髪に見えているというふわふわとした長髪に、欧州人のかわいらしい顔立ち。ただそれだけでも眼を引くというのに、彼女はずっとひづり、つまり日本の女学生の腕にずっと掴まって怯えるように歩いているのだ。


 今日は平日で、ひづりは昼で終わった学校の帰りだったために、この和装の欧州人と日本の学生服を来た女学生の組み合わせはあまりにも目立ち、また微笑ましい光景でもあった。


 しかし会話というものがほとんど無かった。ひづりから話しかける事も、また和鼓たぬこの方からもだ。


 最初ひづりは、せっかくの機会だし何か話せれば、と思っていたのだ。天井花イナリのこととか、今の職場での扱いに関してどう思っているのか、とか。そういった話を。しかしそれが中々口から出てこない。


 顔を上げればすぐそこにある可愛らしい横顔に、更には常に押し付けられているその豊満なバストに平常心を奪われているのもあるのだが……自分で思っていた以上にひづりは人見知りだったらしい。その、《悪魔》に対して。


 キャンプ用品店を一通り巡り終わり、目的の商品らしきものをすべてチェックした頃には、丁度昼食の時間が近づいていた。時間的にも、昼食を摂ってから戻り、チェックした商品をまとめて店員さんに会計して貰う方が良いだろうと思い、ひづりは一度店を出る事にした。同伴の和鼓たぬこは別にひづりのように何か命じられていた訳ではないため、その意見に反対する様子は無かった。


 せっかくのお出かけではあったが、お相手の主食がお酒であるため、喫茶店やバーガーショップではその役目を果たさず、逆に酒屋などでは、控えめな彼女と未成年の自分では入る度胸がいささか足りなかった。


 おとなしく、酒類も出るチェーンのファミリーレストランを選んで座った。お酒であればワインでも大丈夫ならしくひづりは安心したが、彼女は初めて来たのであろう、庶民派の部類のレストランではあったが、普段働く場所は完全に和の内装なのである。その眼に映る全てが目新しくて煌びやかに見えるのだろう、ドキドキと緊張している様子だった。その様がまた可愛らしくて、向かいに座ったひづりは食べ物の味が少し分からなくなる程度に和んでしまうのだった。


 だがふと、食料、という言葉には思い出す事があり、ひづりはその度にぼんやりとしてしまった。


 理由は、昨日ちよこと話した内容だった。








「そりゃぁまぁ、自分の夫と同じ空間に、《サキュバス》をそのままの状態で置いておくわけないじゃない?」


 《サキュバス》についての説明の後、ちよこはそんな話をひづりにした。


 ひづりは気づいて、我ながら子供っぽい、想像力の至らなさを少々恥じた。サトオは確かに日中は友人の店で働いてはいるが、夕刻には業務を終えて《和菓子屋たぬきつね》に帰って来ており、寝食はちゃんと店の二階にあるちよことの夫婦部屋で過ごしていた。天井花イナリと和鼓たぬこは建て直し時に増築した三階で寝ているらしい。


 ひづりは夕食の支度をするために早めに仕事を上がるのでまだ勤務開始から数回、すれ違う程度にしか顔を合わせていないが、たしかに吉備サトオは《和菓子屋たぬきつね》の家屋で生活している。


 そう、彼、だ。


 天井花イナリは元《悪魔》だが、日本で《神性》に囚われたために神様の使いとなり、どちらかというと神様寄りの、無害どころか人間に幸福をもたらす存在になってしまった。


 しかし和鼓たぬこは違うのだ。強力な《魔性》ゆえに土着の信仰によってそれが無理やり《神性》に捻じ曲げられ、神の使いにされた天井花イナリと違い、彼女は強力な《悪魔》ではなく、ただ日本の昔話の風潮に縛られ、人間の大人が怖くなってしまっただけの、実はまだ《悪魔》で、《サキュバス》なのだ。


 《サキュバス》は人間を誘惑し、その者が望む美しくも艶やかな姿へと化け、性行為に及び、その魂を奪うのだとちよこは説明してくれた。少々無駄にいかがわしい説明内容だったが。とにかくそんな存在と自分の夫を同居させる女が居る訳が無いのだが、実際に和鼓たぬこと吉備サトオは同じ家で暮らしている。


 そんな中で和鼓たぬこが魂を求めて吉備サトオを襲うことが無いのは、やはりその《人間の大人恐怖症》があってこそなのだ。彼女はちよこ以外だと男女問わず人間の成体、二十歳以上の存在に五メートル以上近づけないのだという。それ以上接近すると恐怖のあまり意識の糸が切れ、狸の姿になってしまうのだという。狸の姿になってしまう、と聞いたときは「ちょっと見てみたいな」とひづりは思ったが、怖がる和鼓たぬこの顔を想像すると哀れの一言に尽きるので想像で我慢しておいた。


 過去に一度だけ、和鼓たぬこに《認識阻害魔術》を掛ける事でその恐怖症を一時的に無効化し、今の姿のままで吉備サトオと接近した事があるが、それこそが彼から和菓子の技術を学んだときの話であり、当時は当然、かたわらでちよこが和鼓たぬこに睨みを利かせていたという。


 《悪魔》は何をするかわからない。母はそう言っていたらしい。《上級悪魔》は人間に近い理性があるが、《下級悪魔》は動物に近い、と。子供の頃から懐いていたのに、ある日突然、世話係の人間を踏み殺す動物園の象や牛のような物だと思え、と。


 それもそうかもしれない。和鼓たぬこら、いわく《悪魔》である彼女らにとって、人間など寿司屋の水槽で泳いでいる魚と変わらないのだ。守る義理もないし、飢えれば食う。ただそれだけのこと。


 だからちよこは和鼓たぬこに掛かっている《人間の大人恐怖症》を解いてやろうとしない。それを無効化出来る《認識阻害魔術》を今日の様な必要な時にしか掛けてあげない。それは同時に、和鼓たぬこが不意に人間を殺さないように、彼女が《人間界》で無事暮らしていけるように、という配慮でもあるのだ、とひづりは理解する事にしていた。


 彼女達は、自分たち人間とは違う生き物なのだ。二人がどんなに良い《悪魔》であれ、それはきっとこの先も忘れてはならず、そしてまさにそれこそが二人と一緒に暮らしていく上でとても重要であることに他ならないのだ、と。








「ひづりさんは、優しいですね」


 レストランを出た時、にわかに、自発的に和鼓たぬこが言葉を発した。これまではひづりのぎこちない質問にぎこちなく返すばかりだったのだが、だからこそひづりは驚いてパッと彼女の顔を見上げてしまった。


「あ、え、どうしました」


 実に、心の底から嬉しくなってしまったがために、ひづりはつい珍しく笑顔になって訊ねてしまった。おとなしい子供に懐かれたような、まさにそんな心境だったのだ。


 和鼓たぬこは照れくさそうに視線を地面に落とすと、言いにくそうに、けれど口にした。


「あの、ちよこさんの妹さんだって聞いていたから……私には、妹って、よく分からないんですけど、たぶんちよこさんが二人になるんだな、って思ってたから、だから……」


 あの女。こんな良い子にこんな不安そうな顔をさせて。ひづりはぐらぐらと怒りの炎が胸に宿った。


「ひづりさんが優しい人で、私、よかった」


 いつもの困ったようにしている彼女の眉毛がかすかに上げられ、そのまるで天使のような笑みが至近距離でひづりの顔面に降り注いだ。


 これだけが理由ではないのだろうが、天井花イナリが和鼓たぬこに優しくする理由の一端が分かったような気がした。


「人間自体まぁそんな良いものばかりでもないですけど、私の姉夫婦は特に邪悪なんです……。ごめんなさい。本当に、不幸だわ、あなたたちは。あんな女と《契約》で結ばれてしまうなんて」


 ひづりは微笑んで赤らんだ和鼓たぬこの頬に掛かった髪をひとふさ指で退けてあげながら謝った。


 吉備ちよこの悪行を知っているのは、おそらくそうは居ない。自分と、父と、夫のサトオ、あとは天井花イナリくらいのものだろう。永久に罪として裁かれず、人からも咎められない。そういう計画的な犯行を繰り返す女の元に囚われるなんて、仮にそれが《悪魔》だとしてもやっていいことと悪い事がある。


 しかし、和鼓たぬこはひづりの謝罪に対し「でも」と返した。


「私は、《和菓子屋たぬきつね》に来られて、幸せですよ」


 それは子供の幼さによる無知でも、また脅されて言わされているのでもなく、彼女が彼女自身の意思で紡いだ言葉の響きを纏っていた。


 予想外の返答にひづりは驚いてそのまま彼女の可愛らしくもしっかりとした意思の伺える笑顔をしばらく見つめ返してしまった。








「幸せ……幸せって何だ……」


 店の外にあったトイレの鏡の前で一人ひづりは呟いていた。周りに人が居ないからこそではあったが、居たら完全にひづりは少しアレな人だった。


 和鼓たぬこは幸せだと言った。あの悪魔のような女の許で働かされていながら、幸せだと。


 どういうことなのだろう。天井花イナリと一緒に働ける事が、そうだというのか?


 ちよこも天井花イナリも、和鼓たぬこを《下級悪魔》と呼んでいた。そして天井花イナリはそのずっと上に居るのであるという事も、言外に。


 片や、何冊もの書籍に、内容こそ不揃いではあるがその名を以って記されている、歴史上活躍したとされているほどの《悪魔》。


 片や、《サキュバス》という種族としての名前こそあれど官舎万里子に名づけられるまでは個人名というものが無く、腕力も人間程度しか無く、人間の性欲を刺激することでしか魂を奪えない、秀でているといえばとても手先が器用なだけの《悪魔》。


 仲良しである理由が、和鼓たぬこが天井花イナリを愛している理由が、天井花イナリが《下級悪魔》を大切にしている理由が、ひづりにはまだ分からないのだった。


「やっぱり、当人たちに聞くしかないことだ、これは」


 鏡に映る自分に言うとひづりは踵を返し、トイレの入り口で周りにびくつきながらも「一人の時間が少し欲しい」と申し出たひづりのお願いを聞いて待っていてくれていた和鼓たぬこの元へと戻った。



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