第3話 『和鼓たぬこの居場所』




「来てしまった……」


 思わずひづりの口から露骨に疲労の混じった声が漏れた。視線は高く角度を持ちつつも、その大きな白い建物の全容を一度に収めるには、人類であるひづりの視角はあまりに狭かった。


 大型家電専門店と、有名な大量生産安価洋服販売店が合体した巨大なショップモールが一軒、ひづりたちの生活圏内にあった。その名前は《ビッシロ》。大型家電専門店も安価洋服販売店もそれ自体はそこら中にあるのだが、すでに建物自体が十階近くもあり、加えて合体の後に欲張って最上階にキャンプ用品店なるものまで構えたのがこの《ビッシロ》であるため、観光客も多い新宿にあっては平日であっても多種多様な国の、そして様々な目的の人々が常にごったがえしているのも無理はないのであった。だからこうして今、ひづりは入店前から肩を落としているのだ。ひづりは騒がしいところが大の苦手だったから。


 一応、個人的には服屋の階層に用事が無いでもないひづりだったが、今回の任務はそこの最上階にあるキャンプ用品店へ和鼓たぬこと二人で訪れる事だったため、あまりに気が乗らないとしても、実に私情だの油断だのと言ったものは一切許されない状態にあった。


 官舎ひづりと和鼓たぬこ。職場では活動場所が違うため、注文後の商品の受け渡しと休憩時間に顔を合わす程度で、働き始めてもう二週間ほどになるが、天井花イナリとは打ち解けていく一方、彼女とは未だにほとんど会話が出来ていなかった。


 そんな彼女とひづりが、何故わざわざ新宿のど真ん中にある巨大ショップモールまで二人きりでデートする羽目になったのかと言うと、それはまぁ姉の吉備ちよこが悪いとも言えるし、ひづりが悪いとも言えた。








 今回、事の発端は分かりやすく言うと、実に以下の通りだった。


 まず、ひづりが学校の図書室で天井花イナリについて調べた事が、およそ原因の一つと言えなくもない。


 天井花イナリは以前「我は誇り高き悪魔の一柱」と言っていた。


 《柱》、という数え方をするのは、神にも等しい《悪魔》を指す場合のみらしく、そうしたところで真っ先にひづりの頭には世界史で習った《ソロモン王》の話が浮かんだ。紀元前千年のイスラエルで、かつて王として聖地イェルサレムに君臨し、神から授かった知恵で国を統べ、《悪魔》さえも使役したという伝説の王様の話だ。彼の使役したという《悪魔》を、《ソロモン王の七二柱の悪魔》と呼ぶらしい、ということをひづりは教科書を見返して再確認していた。


 しかし、いざ図書室で手にとって開いてみた関連の書籍と言えば、それがもう調べてみればみるほど書いてあることの適当さと言ったらないのだ。失礼だが、ひづりにはそれらが適当な想像の走り書きにさえ思えてくるほどだった。


 記述によれば似たような力を持つ《悪魔》はいくつも居て、聞いていた《未来と過去が見える》と言った力に関しても、そういった能力を持つ《悪魔》は十ほども居るという話だった。しかもそれを有する有さないは、また本によっても異なっている。


 所詮、紀元前千年の話だ。挿絵の《悪魔》の姿にしたって、そういう人の口で伝わった噂話の風体を、更に後世の画家が勝手気ままに描いたに過ぎないのだろう。


 更にはひづりが一番知りたい天井花イナリに関しては、そもそも姿形が日本の《ウカノミタマの使い》という、こちらも今回調べて正式に名前を知った存在ではあるが、やはり稲荷神社の白狐の姿そのものとなっていて、《悪魔》の本の内容の矛盾や挿絵のあまりの無意味さに、ひづりは積み上げた書物に囲まれて少々ノイローゼになりそうだった。


 現在の姿はあてにならず、また正確さに欠ける情報ばかりの《悪魔》についての書は賛否両論どころか五論も十論もある上、しかもそれらが七十二も居るというのだから、始末に終えない。


 こんな事をしなくても現在の《契約者》であるちよこに訊ねてみれば良い話だと思うかもしれないが、しかし彼女はひづりがどんなに訊ねても何故かかたくなに天井花イナリの《悪魔》としての本来の名前を教えてはくれないのだ。


 加えて、天井花イナリ自身に訊ねてみたが、その時も何故か彼女は本当の名前を教えてくれなかった。


 本当の《契約者》でなくてはその名前を知ってはいけない、ということなのだろうか、とひづりは解釈し、けれどやはり気になるから、こうしてこんな調べ物を――。


「官舎? 何やってんだ?」


 本に囲まれて図書委員の机に伏せていたひづりに、同じクラスで図書委員の百合川が声を掛けた。別の委員も掛け持ちしている彼は大体遅れて来る事が多かった。


「……ちょっと、紀元前の膨大かつ不明瞭な情報に直面した際の現代人の反応について調べていてな……」


 などとひづりはぼやいたが、ふと思い立って顔を上げた。百合川の顔を見る。偏見ではあるが、男の子の方が《悪魔》とかそういう話は詳しいような気がしたのだ。


「《悪魔》か。あぁ、だったら俺、最近そっち系の話を題材にしたゲームしているから少し分かるかもよ」


 ひづりが訊ねると彼はそのように快く話を聞いてくれた。持つべきものは図書委員の男子クラスメイトだ、と思ったが、しかし彼がプレイしているというソーシャルゲームに登場する《悪魔》も史実どころかオリジナリティの強いキャラクターデザインが施されており、書物の情報との乖離が酷かった。


「……いや、なんか、役に立てなくてすまんな?」


「いいや良いんだ、ありがとう……」


 ひづりはこんなのではらちも明くまいと諦め、掻き集めていた関連書籍を纏めて戻す準備に入った。


「……あぁでも、《剣》と《未来と今と過去が見える》で検索したら、一つ出てきたよ」


 すると不意に、先ほどからスマートフォンを手に何やら操作していた百合川が唐突に言った。剣。確かにそれも検索の条件に出してみたが、剣なんて当時の武器の代表の一つであるし、あまり期待していなかったため、検索結果が一つに絞られたというのはひづりにとってはあまりに意外だった。


 ここで補足しておくと、別にひづりがスマートフォンの扱いに疎い訳ではない。ただ図書委員で、図書室に居て、また自身、本が好きだったため、出来れば本で知りたいと思っただけで。ただそれがよもやこんなにも難航するとは思っておらず、またこうして文明の利器によって一発で判明するなどとは、思わなかった訳で。


 《ボティス》。百合川のインターネット検索の結果出てきた名前というのはそれだった。見せてもらった説明欄には、『鋭い剣を持ち、蛇の姿で現れ、人間同士の争いを止め、そして未来と現在と過去を知る』と書かれていた。


 簡素な説明文ではあったが、そうして言われてみると、多少そんな気がしてくるようだった。今の姿はその蛇とやらではなく狐だが、人間同士の争いを止め、という部分を、穏やかで尊大な性格、と捉えるなら、当てはめても良い気がする。ただやはり可能性の一つとしか言いようが無かった。当の本人であるところの天井花イナリが、その答えを教えてくれないのだから。


 そうして一日図書委員の仕事をしつつ調べてみたところで明確に分かったのは、現存の書物で天井花イナリが《悪魔》だった頃どんな《悪魔》だったのかを調べるのは不可能に近い、ということと、今後はきっと自分は同じ質問を彼女に出来ないのだろうな、という実感だけだった。


 もしまた以前のようにうっかり失礼な事を訊いてしまって怒りを買って恐ろしい想いをするのも、またあるいは天井花イナリさんに嫌われるのも、ひづりはやはり嫌だと思った。特に、後者の理由が今はとても強いのであれば。


 しかし、気になる事はもう一つ、というよりもう一人居た。他でもない、天井花イナリと仲が良い《悪魔》、和鼓たぬこの事である。


 《和菓子屋たぬきつね》で働き始めてから一週間ほど経った頃、ひづりはちよこに、天井花イナリと和鼓たぬこの関係性について訊ねてみた事があった。


 見てきた限り、またその実績から、天井花イナリが本当に強い力を有した《悪魔》であったという事は充分に分かった。けれど和鼓たぬこの方はというと、例の《人間の大人恐怖症》が原因か常に人目を避ける傾向があり、いつも従業員室の方に居て、フロア担当であるひづりと接する機会は少なく、彼女の存在自体どういうものかという事すら、ほとんど量れずにいたのだ。


 ただ、彼女が天井花イナリに非常に懐いていて、また天井花イナリも彼女をとても大切に想っている事だけは確かで、実際この間など、とある客として来た女が和鼓たぬこの作った和菓子をけなした事を原因に、商店街のど真ん中で流血沙汰が発生しかけたほどである。


 観察し続けた感じ、姉と妹、というのとは違う気がした。自身、まぁあまり尊敬という概念が生じない間柄ではあるが、一応姉が居るために、それは何となく分かった。


 母と子、というのもまた違う気がした。天井花イナリに対する和鼓たぬこの視線には、強い尊敬と恋慕のようなものが見受けられていた。一方、和鼓たぬこに対する天井花イナリの視線には、幼子を見守る老女のような暖かさが含まれていた。


 結局、元《悪魔》なのだから、人間の人間関係に当てはめようとしたって土台無理な話だろうか、と諦めかけたところで、唯一事情を知る人間が居ることを思い出して、そうして、現在彼女らの《契約者》となっている姉のちよこに訊いてみよう、とひづりは思い立ったのであった。


 まぁ、この判断が今回の大失敗の原因となったのであったのだが。


「じゃあまずは、たぬこちゃんがどういう《悪魔》なのかについて説明しなきゃなんだけどぉ」


 そう切り出した姉の顔はやたらにニヤけていて、ひづりは急速に嫌な予感に包まれたが、もはや断ることは叶わなかった。


「たぬこちゃんはね、なんと元、《サキュバス》なの!」


 そう、ちよこは「やぁん恥ずかしい!」みたいな顔と仕草で言った。


 その様子に少しばかりイラッとしたが、それよりひづりは知らないその単語に首を傾げた。


「《サキュバス》って何?」


 重ねて訊ねると、ちよこは一瞬きょとん、としてから、また一度にいかがわしい表情になって、今度はひづりにずいと顔を近づけその両肩を捕まえると、耳元でねっとりと、吐息混じりに囁きつつ特殊な言葉を選んで説明を開始した。


 その内容の、何たることか。女子高生に話して良いか悪いかで言えば明らかに悪いその説明方法に、特にそちらの話への耐性が低かったひづりはすぐさま顔を真っ赤にして後ずさり、思わず反射的にちよこに平手打ちをしてしまっていた。綺麗な紅葉が彼女の左頬に残るほど、だいぶ強烈に。


 ……結果、「せっかく教えてあげたのにひづりはおねえちゃんをぶつんだ……消えない……叩かれた痕が消えないよぅ……」と被害者ぶった姉によって、店の定休日、和鼓たぬこと買出しに出てくる事を命じられてしまったのだった。


 油断したひづりも悪かった。姉はああいう人間で、利用できそうだと思ったら何でもその場の判断でしてくるのだ。


 ただ、あまり話せていない和鼓たぬこと、――天井花イナリと仲の良い和鼓たぬこと親しくなりたい気持ちがあったのは確かだったので、ひづりも今回の事を受諾したのであった。



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