『滋養付与型治癒魔術』




「おそらく凍原坂に必要なのは《滋養付与型》と呼ばれる種類の《治癒魔術》じゃ」


 昨日、天井花イナリは改装に伴って店内に配置されていたブラックボードを一つ畳部屋へ運んで来るなりひづり達にそう言った。


「《火庫》。お主はあの旅行の後に凍原坂が体調を崩した事で、原因が《ベリアル》との接触ではないかと考え、対処法を《レメゲトン》やわしらの知恵に期待したな。良い考えではあるが、しかし当てをつけた原因の方は外れじゃ。先にはっきりさせておこう。いくら《悪魔の王》に謁見したからと言うて、それだけで呪われるというような事はまず無い。《ベリアル》はあの通り直接的な暴力しか知らんし、第一お主の言うような呪いの類があるとするなら、まず《フラウロス》やわしと会った時点で……という話になろう。じゃから原因はそこではない」


 カッカッカッ、と彼女の手が素早くチョークを滑らせてブラックボードに簡略化した《ベリアル》や凍原坂の相関図を描いていく。まだまだ《魔術》に疎いひづりをはじめ、紅葉や《火庫》への配慮だと分かったが、しかし初めて見る天井花イナリのその絵は思いのほか可愛らしくて、ひづりは平常心を繋ぎ止めるのに少々気を張ることになった。


「次に『他の者はどうであったのか』であるが、ひづりも千登勢も、そしてちよこもサトオも、あれよりこれといった体の不調を起こしてはおらぬ。そもそも、もし後遺症を気にするというなら、本来大怪我をしたひづりやちよこじゃ。あの場に居った人間のうち凍原坂と千登勢とサトオは怪我らしい怪我をせんかった三人じゃからの。その上で凍原坂の体に問題が起こったとするなら、それは『あの時あやつが魔術を使い過ぎたから』であろうな」


 あの時《魔術》を使ったことが、凍原坂さんが体調を崩した原因……? ひづりは首を傾げた。


 すると《火庫》はまるで体からまったく血が抜けてしまったかのように顔を青くした。


「まさか……わっちたちの傷を治そうとしたあれが、凍原坂のお体に、あのような負担を……?」


 正確にはちよこの傷も、であるが、己を責める様に《火庫》はか細い声を出した。


 天井花イナリはちょっとめんどくさそうな顔をしたが、続けた。


「話は最後まで聞け。よいか、まず、『凍原坂は魔術師ではない』。自力で《魔力》を補えぬし、あの時使って見せた《治癒魔術》も、事前に急ごしらえでちよこから教わった程度のものであったがゆえに、素人の《魔術》としても基準には届いておらんかった」


 そう聞いてひづりは不意に思い出した。姉の傷を治せると分かりあの時は安堵ばかりしたが、確かに今思えば凍原坂の作った《魔方陣》は形が少々歪で、最初から揺らぎ、また色も薄い桃色をしていた。


「何故ちよこめが前もって凍原坂に《治癒魔術》だけを教えたのか、大体の予想はつくがな。一つに、《治癒魔術》を教えてやった、という恩が売れる。二つに、自分やひづりを守る手段として《治癒魔術》が扱える者は近くに一人でも多いほうが良いと考えた。三つ、もし今後自分と敵対する事になっても《治癒魔術》しか扱えないなら凍原坂は脅威にならない。……といったところであろう。まぁそれは良い。問題は凍原坂がちよこに仕込まれて、あの時体力の限界までその稚拙な《治癒魔術》を行使したことじゃ」


 ブラックボードに、おそらくひづりらしい少女の絵が描かれた。


「わしらの様に、《悪魔》が《契約者》に《魔力》を譲渡して《魔術》を使わせる場合、必ずこの右肩にある《契約印》が中継地点となる。わしの《魔力》を、この《契約印》を通してひづりの体内に送り込むのじゃ。そうすることで、ひづりは自前で《魔力》が用意出来ずとも術式さえ習得しておれば《魔術》を発動出来る。凍原坂が《治癒魔術》を用いた際も同じ方法であったはずじゃ。《フラウ》と《火庫》双方にある《フラウロスの魔力》が、凍原坂の右肩の《契約印》へ流れ込む、そうして以ってあやつはちよこの傷をどうにか治す事が出来た。しかしあやつはちよこに教えられて一度《魔方陣》の精製をしたばかりで、治癒自体に成功したのは白蛇神社でのあれが初めてじゃった。その上、《魔方陣》は《魔術師》としての適正の低さを表す、薄い桃色と来た」


 そこで一旦区切るように天井花イナリはひづり達の方を振り返った。


「あの時、ひづりはわしを再召喚するために生まれて初めて《魔術》を用いた。ちよこは致命傷を負いながら、己の体内に貯めておった《魔力》で《防衛魔方陣術式》を限界まで維持した。千登勢も《ヒガンバナ》を治そうと、あまり得手ではない《治癒魔術》に砕身した。しかし三人とも、《火庫》の言う凍原坂のような症状は出ておらん。となれば、原因はその《血筋》と考えるのが妥当じゃろう」


 あ、とひづりもそこで気づいた。天井花イナリはひづりを横目にそのまま続けた。


「ひづりとちよこの曽祖父であり、万里子と千登勢にとっては祖父であるエドガー・メレルズという男は、どうも《魔術師》の家系の人間だったらしくての。何世代にも亘って《魔術》に触れ続けた《魔術師の血》を持っておった。そこが今回、あの岩国の神社で《魔術》を用いた人間四人の中で症状が出たか出なかったかの違いなのであろう」


 実感は湧かなかったがしかしなるほどとひづりは腑にだけは落ちていた。最近になって知らされた話ではあるが、自分や姉、母や千登勢さんは、どうもメレルズ家という《魔術》に長けた祖先の血を希薄ながらも持っているのだという。


 つまり今回、七月に自分達が《魔術》を行使しても体に負担が掛からなかったのはそのメレルズ家の血筋によるもので、一方《魔術》に関わりの無い純粋な日本人であった凍原坂は慣れない《魔術》の酷使によって体に不調を来たした……という、そういう事らしい。


「《魔術血管》という言葉がある。人でも《魔族》でも、《魔術》を用いる際に《魔力》は必ずその体内の《魔術血管》を経由するが、《魔族》の場合は元からその《魔術血管》が備わっており、人の場合は《魔術》の訓練を積むことで後天的に血管を《魔術血管》へと変化させる。ひづりや千登勢のような《魔術師》の家系の者は、そうでない人間よりもその《魔術血管》への変化が比較的潤滑なのであろう。ではここで凍原坂の話に戻るが」


 天井花イナリは改めてブラックボードに向き直ると、先ほど描いた凍原坂の絵の左右に黒猫と白猫を描き足した。


「お主らはおそらく現代の《召喚》の中でもかなり珍しい部類の形態で落ち着いておった。《悪魔》と《妖怪》を混ぜ合わせ、そこから更に二体に分裂、そして人間と《契約印》で繋がり、それぞれが《魔力》を共有しておる。わしがひづりの体へ一方通行に《魔力》を送っておるのとは違い、お主ら三人の体は制御を失った膨大な《フラウロスの魔力》が常にぐるぐると循環しておるのじゃ。それ自体は問題なかった。むしろ良い事と言える。昔から《人間界》の生物に於いて《魔力》の受容はあらゆる滋養を凌ぐと言われておるからな。凍原坂はこの十四年、お主や《フラウ》の世話をしながら大学で講師を務め続けておるのであろう? 楽な日常ではないはずじゃ。特に今の《フラウロス》の相手はな。それでも凍原坂がその忙しない日々に耐えられておったのは、そもそもの原因でもあるが、その有り余る《フラウロスの魔力》による継続的な滋養付与のおかげだったのであろう」


「……!」


 気づいた、という様子で《火庫》が目を見開いた。ひづりも同じく、天井花イナリの話が一つに繋がったのを理解した。


「これまで《フラウの魔力》のおかげわっちも凍原坂さまも健康でいられた……でもあの時、《治癒魔術》を無理に何度も使ったせいで、凍原坂さまの《魔術血管》には傷がついて……凍原坂さまは《フラウの魔力》を、栄養を得られなくなってしまった……ということですか」


 《火庫》が訊ねると天井花イナリは満足した様子で頷いた。


「そういう事じゃ。今、お主らの《魔力》は《フラウ》と《火庫》、二人だけで循環しておる。そんな中で今まで通りの生活をすれば……凍原坂ももう若いとは言えん、積み重なった疲労などもあろう。それが一気に来た、という事じゃ。それと《火庫》、『魔術血管に傷がついた』という言い方は、厳密には間違いじゃ。あれは『変化するもの』と言うたであろう。つまり一度しかない変化の時に酷使された凍原坂の《魔術血管》は歪な形となり《魔力》の循環が出来なくなってそのまま、という事なのじゃ。七月にあの境内でわしが掛けた広範囲の《治癒魔術》、あれは《促進型治癒魔術》と言うてな、対象となった生物の本来持つ治癒機能を《魔術》で活性化させて傷を癒すものであった。あれでは治らん。変化そのものを巻き戻す《時空観測術》に連なる上位の《治癒魔術》があるが、あれは残念ながらわしも《フラウロス》も扱えん。故に今回は別の案で行く」


 最後に天井花イナリは締めくくる様にはっきりと言った。


「わしは明日より、ひづりに《滋養付与型治癒魔術》を教える。難易度は低く、見習いの《魔術師》でも数日で覚えられる程度のものじゃ。これを用いれば、《フラウロスの魔力》を《魔術血管》を用いずにこれまで通り凍原坂の体へ送り込む事が出来る。わしらの側についた事を後悔はさせん。期待して待っておれよ、《火庫》」






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