『偶発』              3/6




 二日後の水曜日、都内のとても大きな式場で葬儀は行われた。開始一時間前の時点でもう参列者でいっぱいになった式場は、社長という立場だけでない、市郎の温かい人柄を物語るようだった。


 永らく付き合いの希薄だった官舎家には月曜日に初めて会った市郎の兄弟家族くらいしか知人が居なかったため、ひづり達はかなり早めに来ていながらも他の参列者らとの会話はほとんどなく、千登勢に挨拶をした後は邪魔にならないようホールの隅の方に集まっていた。


「ひづりさん、幸辰さん」


 開始時刻が近づき式の参列者も集まりきったことだろう、というところで、俄に聞き慣れた声がひづり達に掛けられた。幼い娘を二人連れた、喪服姿の凍原坂春路だった。


「凍原坂さん。来て下さってありがとうございます」


 ひづりは父と姉、サトオ共々頭を下げた。凍原坂は市郎の訃報を聞くなり、自分達も会葬させて貰えませんか、と言ってくれたのだった。


「いいえ、こちらこそ、お願いを聞いて頂いて……。……心より、お悔やみ申し上げます」


 寝ている《フラウ》を背負ったままお辞儀をする凍原坂の隣で、《火庫》もまた少し暗い顔をしていた。彼女は凍原坂ほど市郎と会話をした訳ではなかったはずだが、それでも凍原坂やこちらの気持ちを思い量ってくれている様子だった。


 やがて式の開始が告げられひづり達も席に着き、喪主である千登勢や花札の親族、そして僧侶が揃ったところで告別式は厳かに始められた。










 あっという間の事だった、と感じるのは、やはりあれからまだ三日も経っていないからなのだろう。僧侶の読経と、集まった参列者のすすり泣く声ばかりが聞こえる斎場で、ひづりはそんな事を思った。


 きっとこの場に居る誰もが、一週間前には花札市郎の葬儀に参列している自分なんて想像もしなかったはずだ。先週会ったばかりだという人も多いのだろう。秋の行楽を約束していた人も居たかもしれない。冬には温泉旅行だって行くつもりだったかもしれない。


 祭壇の手前に置かれたあの白く細長い棺に、もう言葉を交わしてもくれなければ笑顔を向けてもくれない、冷え切った市郎の遺体が納められている。火葬され骨だけになってやがて人だった頃の面影を失うまで、もう半日の時間も無い。


 母の時もそうだった。あの時もひづりは大き過ぎる喪失感に心が追いつかないでいた。死は、何の覚悟もしていない遺族の身と心に突きつけられるものらしい、と改めて思い知らされた。


 ふと、ひづりは三つほど前の席に座る千登勢の後ろ頭を見た。喪主としてしっかりしようとしていたのだろう、先ほど受け付けをしていた時は背筋を伸ばしてひづりたち参列者の相手をしていたが、しかし今その背中は小さくなって頼り無げに震えていた。


 ひづりは昨日の出来事を思い出していた。昼頃、『父の遺言状開封手続きが終わりましたので、良かったら来て頂けませんか』と千登勢から電話があり、ひづり達は再び花札家へ集まったのだ。


 開封された遺言状には、遺産相続に関する文と、それから親族や親しかった友人らへと宛てられた大量の手紙が纏められていた。


 千登勢曰く、恐らくこれらの文は最近になって認められた物だと思います、との事だった。市郎は九月の頭頃から度々一人部屋に閉じこもっては長い間何かを書いており、先週書き終えたのか千登勢にその保管場所だけを伝えて来たという。


 手紙はひづりに宛てられた物もあり、その場で千登勢たちと一緒に読んだ。


 ──万里子の娘をしてくれてありがとう。千登勢と仲良くしてくれてありがとう。私たちを親族と思ってくれてありがとう。生まれて来てくれてありがとう。あの時、千登勢を立派に育ててくれてありがとうと言ってくれて、ありがとう──。あの夜以降に書かれたと分かるそんな感謝の言葉ばかりがそこには綴られていた。


 顔を上げ、ひづりは祭壇に飾られた市郎の遺影を見た。優しい笑顔を写したその一枚にひづりはまた眼の奥がぎゅうと熱くなった。


 逝かないで欲しかった。もっともっと時間が欲しかった。何十年という時間は無理でも、それでもお互い孫と祖父という関係を何の違和感も無く受け入れられるようになるまでのそんな時間くらいは、せめて……。


 もう叶わないのだ。近場で良いから一緒にどこか遊びに行きましょうと言ったあの日の約束も、来年の母の誕生日祝いも、高校の卒業式に来てもらう事も、何もかもが永遠に有り得ない未来になってしまった。


 加えて、ひづりはこの日を迎えて尚、日曜日に彼と話した『母が昔語ってくれたはずの花の話』を未だ思い出せずにいた。一緒に暮らす事が出来ず、たまに会えても互いにあまり話が出来なかった市郎にとって、生前の長女の話なんてどんな事だって聞きたかったはずなのだ。どんな事でもただ憶えてさえいればよかった事を、話してあげられれば彼にとって何かの幸いになったかもしれないそれを、自分は最期まで思い出してあげられなかった。それがひづりは悔しかった。


 うつむいて零れた涙を拭っていると、隣のちよこが優しく背中をさすってくれた。










 友人らによる弔辞が捧げられた後、僧侶や千登勢ら親族が焼香をあげ、やがてひづり達の番になった。幸辰、サトオ、ちよこと順番に席を立ち、最後にひづりも焼香台の前へ進んで焼香を行った。


 凍原坂たちと入れ替わりに席へと戻ったひづりは一度すんと鼻を啜ってから顔を上げ、市郎の納められている白い棺をもう一度じっと見つめながらこれからの事を胸に決めた。


 市郎おじいちゃんの代わりに、今度は私達が千登勢さんを支える。そのためにも《天界》なんて訳の分からないところからの悪意になんて負けていられない。今まで以上に頑張ろう。日本で暮らしていくために図書館司書の勉強を頑張って、立派な《魔術師》にもなって、そして母さんよりも市郎おじいちゃんよりも長生きをする。


 それが、最期まで孫らしい事を何もしてあげられなかった自分に出来るせめてもの──。










  がたんっ。










 斎場に一瞬、静寂が響いた。すすり泣く声も、聞き取れないようなささやかな話し声も、出し抜けにふっと消え去った。


 ひづりも目を見開いて硬直した。頭の中が真っ白になっていた。


「……え?」


 それから俄に、一斉にざわざわと喧騒が沸いた。


「えっ、え?」


 ちょうど娘二人を連れて焼香をしていた凍原坂がその異常事態に困惑して周囲をきょろきょろと見回した。傍らの僧侶や千登勢らも各々体を強張らせて互いに顔を見合わせていた。


 やがて誰かが言った。


「……今、棺が……?」


 それは要領を得ない一言だったが、しかし同意する声が周囲で次々に上がった。驚きで言葉にならなかったが、ひづりも同じ様に思っていた。


 揺れた。確かに揺れた。祭壇に飾られていた白い棺が先ほど突然、がたり、と大きな音を立てて。


 まるで、中で人が暴れたかのように。


「少々、少々お待ちください!!」


 葬儀社の人達が血相を変えて祭壇周辺へと集まり、棺の前に居た僧侶と何やら小声で話し合ったり、棺の小窓を開けたりと、そのまま数分間忙しなく動き回った。


 もしかしたら、と棺が開けられ、ひづり達も皆固唾を呑んでその様子を見守っていたが、しかし市郎は穏やかに両目を閉じたままで、息を吹き返して暴れた、という様な形跡は見られず、しばらくして葬儀場に駆け付けた医師の診断でもやはり彼は正しく亡くなっているとの結果が示された。


 その瞬間に関東で地震が起きていた、といった報道も無いらしく、しばらく参列席では様々な憶測が飛び交ったが、しかし医師によって市郎の死亡が確認されるとそれ以上の興味本位な発言は不謹慎だろうと判断したようで、結局『祭壇のどこか立て付けが悪くて、それで棺が揺れた様に見えたのではないか。ただ念のため、火葬のみ明日に延ばそう』という形で話は収められた。


 以降この件に関しては誰も話題にせず、葬儀は予定通りに進行し、終了した。










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