第8話 『犬』             1/7




 今日は官舎ひづりが走りに来るらしい。アサカとアインと官舎ひづりの散歩は大体いつも月末に差し掛かった辺りで行われていたが、アサカ曰く、ここ数日官舎ひづりは親族周りが随分慌しかったとの事で、そのため毎月恒例の散歩ももう十月に入ろうという今日までどうしても延びてしまったのだそうだ。


 この官舎ひづりを伴ったアインの散歩の日、アサカはいつも幸せそうにする。散歩の予定が決まるとその日からすっかり舞い上がってよく喋り、アインにも官舎ひづりの事を話して聞かせたりする。今回も、散歩の予定を決めたという木曜日からアサカはずっとニコニコしていて、昨夜など官舎ひづりと走る日だけ着る特別なスポーツウェアを一月ぶりにタンスから取り出し、アインの前で着て見せたりしていた。ここしばらく表情に陰りが増えていたアサカのその元気な笑顔はやはり俺にとっても喜ばしかった。


 ただ一つ気になる事があった。先日アサカは「今回の散歩にはひぃちゃんの職場の人が二人参加するんだ」とアインに話していた。この散歩にアサカや官舎ひづりの両親以外の人間が参加するのは初めての事だった。


 アサカはその職場の人間とやらとそこそこ親しい様子で、「ひぃちゃんと二人きりじゃないのは残念だけど、でも二人とも良い人達だから、吠えたりしちゃダメだからね」と念を押して来たので、アインもきっと大人しくはするだろうが、けれど気になるのはそこだけではない。


 もし俺の予想が正しいなら、その《二人》というのは──。






 ──ピンポーン。






「あっ、ひぃちゃんかな!?」


 アインの顔を揉んで遊んでいたアサカは俄にぱっと立ち上がるとそのまま部屋を飛び出した。アインも彼女に続いて階段を駆け下りる。


 アサカは廊下に出て来ていた父親に「私が出るから!」と言って追い抜き、すばやく三和土に降りて草履につま先を通し鍵を外して玄関の扉を開けた。


「や。おはよ」


 扉の向こうに居たのはやはり官舎ひづりだった。彼女は昔から変わらない笑顔でアサカに挨拶をした。


「おは、おはようひぃちゃん。えへへ……。あ、天井花さんと和鼓さんも、おはようございます。どうぞ上がって下さい」


 アサカは扉をいっぱいに開けて、官舎ひづりの背後に立っていた件の同僚らしき《二人》にも会釈をした。


「ああ、今日は世話になる」


「よろしくお願いします。おじゃまします」


 《二人》も挨拶をし、官舎ひづりに続いて玄関に入った。


「ほう、これがアインか?」


 《二人》のうちの片方、頭から朱色の《角》を生やした白髪の少女がこちらを見て微かに目を細めた。


「あ、そうです。ジャーマンシェパードのアインです。お二人は初めてでしたよね。アイン、天井花さんと和鼓さんだよ~。今日は一緒に散歩に行ってくれるんだよ。やったねぇ!」


 アサカはそう言いながらアインのそばにしゃがんでまた顔をむにむにと揉んだ。






『……ずいぶんと良い格好ではないか、《ナベリウス》』






 その時、頭の中で声が響いた。ひどく懐かしい、《交信》による思念の送信だった。


 アサカに撫でられながらこちらも《交信》を行い、言葉を返した。






『お前こそ珍しいなりだな。だがその《角》、その顔、見間違えようが無い。……あぁ、元気なようで何よりだ、《ボティス》』






 数百年ぶりに再会した知己は記憶より些か縦にも横にも縮んでいて、また肌や《角》の色も異なっていたが、けれど──本人はきっと今も無自覚なのであろうが──その意地悪そうに浮かべる微笑みは相変わらず童の様な愛嬌を伴ったままだった。








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