『あなたは何を想っていたのですか』 6/6 




「では、私達はこれで。《猫檀家》や、今後の事……お忙しい中色々と教えて下さって、本当に有難う御座いました」


 昼前になって商店街の通りも少々賑やかになって来た頃、仕事のため凍原坂たちは店を後にする事になった。担当する講義まではまだ時間があるそうだったが、お昼を食べて行きませんか、というひづりの提案を彼は『何度もお邪魔しては悪いですから』とやんわり断った。


「いえ、急な呼び出しにも関わらず来て下さったのに、たいしたお構いも出来ず……。大学のお仕事、がんばってください。《火庫》さんも次の出勤で。《フラウ》さん……は、寝てます……ね?」


 ひづりは凍原坂に背負われている《フラウ》の寝顔を名残惜しい気持ちで眺めた。


 凍原坂は嬉しそうに微笑んだ後、それでは失礼致します、と言って頭を下げ、玄関扉の方を向いた。店先までは見送るつもりだったのでひづりも彼らに続こうと一歩前に出た。


 と、そこでだった。凍原坂は戸を開けようとした格好のままぴたりと動きを止め、それからひづり達のほうを振り返った。


「あっ……」


 彼はひづりと天井花イナリの顔を見比べ、かと思うとすぐに視線を落とし、顔を背けた。


「いえ、すみません、何でもありません」


「なんじゃ。そこまで言ったなら最後まで言え。気持ちが悪い」


 やや強めに天井花イナリは急きたてた。ひづりも気になったので凍原坂の言葉の続きを待った。《火庫》は手を繋いだまま父親の顔を見上げて首を傾げていた。


 凍原坂はまだ迷う様にしていたが、やがて気持ちが決まったのか顔を上げてひづりの方を向いた。


「……先ほどの話の続きになるのですが……ひづりさんは、ちよこさんから天井花さんの《契約印》を譲り受ける事に対して、どう思っていたんですか?」


「……え……」


 自分にだけ向けられたその唐突な質問にひづりは少々面食らった。けれどすぐ「……あぁ、なるほど。夜不寝さんに《契約印》を譲渡するとした場合の、彼女の心情みたいなものが気になったのか?」と腑に落ちた。


 ひづりは顎に手を添えて考えた。何せ体験した事も無いような不思議な出来事が短い期間で連続して起きているこの日々の、もう三ヶ月も前の事である。七月の頭、《和菓子屋たぬきつね》で働き始めた直後の自分は、姉が母から譲り受けたという《悪魔》が将来的にもしかしたら自分の許に来るかもしれない、という現実に対し、どう思っていたのだったか。


 隣の天井花イナリの視線がちょっと気になりつつ、ひづりはうーんうーんと悩んで、それからようやく答えらしいものを纏められた。


「私は、働き始めた最初の日に仕事の内容を丁寧に教えてくれた時から、天井花さんの事は尊敬していました。それから和鼓さんと一緒におつかいに出掛けて色々話をしたりして、二人共とても良い人……《悪魔》なんだなぁ、って思って。だから、確かに最初姉さんから『お前は将来悪魔の契約者になるんだぞ』って言われた時は、勝手に人の人生を決めやがってこいつ、って思いましたけど、でも働き始めてからは、お二人の事を知ってからは、全然不満とかは無かったんです。私は夜不寝さんとはちょっと気が合わないので、なんともですけど……でもたぶん、夜不寝さんも《火庫》さんや《フラウ》さんのこと、さよならしたいとかは思ってないと私は思いますよ。《契約印》が移った後、《フラウ》さんも夜不寝さんに呼ばれればきっと再召喚に応じてくれるんじゃないでしょうか。お互い名前を呼び合う間柄である事が、《縁》の再召喚には大切な条件だったみたいですし」


 最後にひづりは隣で見上げてくる天井花イナリの顔を見つめて言った。彼女は少し眉を上げた後、その口元に笑みを浮かべ、ちょっと照れた様子で満足げにそっぽを向いた。


「名前……。……そうなのですね。ありがとうございます、とても勉強になりました」


 夜不寝リコに《契約印》を渡すべきかどうかという悩みの是非はともかく、抱いていた諸々の不安が今のひづりの話で多少は薄れたようで、凍原坂は先ほどよりいくらか明るい顔でそう言った。


 賑わう商店街を駅前へ歩いていく凍原坂たちの背中を見送る間、彼らの役に立てた事が嬉しかったひづりの胸はしばらくぽかぽかと温かかった。










 お昼。ひづりと天井花イナリは稲荷寿司やお酒をお盆に乗せ、三階の寝室で休んでいた和鼓たぬこの元へ持って行って三人で昼食にした。久しぶりに三人きりでの食事とあってか和鼓たぬこは上機嫌で、また体調もずいぶん良い様子だった。


「天井花さん。少しお話ししたい事があります」


 食事を終えたところでひづりは天井花イナリの方を向いてきちっと居住まいを正し言った。


「今私につけて下さっている《魔術》の勉強のペースを、もう少しだけ上げて頂く事は出来ないでしょうか」


 天井花イナリは自身の両膝に乗せた和鼓たぬこの頭を撫でながら小さく首を傾げた。


「ほう? 何か思うところがあるようじゃな。言うてみよ」


 ひづりは今日凍原坂たちとの話が終わったら必ず言おうと決めていた事を彼女に伝えた。


「私は結局、悩んでた進路を自分では決められませんでしたけど、でもこれで良かったって思ってるんです。自分は母とは違う……そういう反抗の気持ちが全く無かったとは言いませんが、それでもやっぱり、千登勢さんを置いて海外へ行くのだけは最初から違うと思っていました。だから、そこに後悔はないんです。でもそうしたなら、魔術大学へは行かないと決めたのなら、私はきっともう今すぐにでも歩き出さなきゃいけない、って、そう思ったんです。天井花さんが私の体の調子を見て勉強の配分を決めてくれているのは分かっているんですが……でも日本に残るなら、やっぱり私は皆に心配を掛けないで済む様に、今よりもっとずっと強くならなくちゃいけないんです」


 天井花イナリは黙ってそれを聞いてくれていた。和鼓たぬこも真面目な話と察してか黙り込んで眼差しだけで天井花イナリとひづりを交互に見ていた。


 やがて天井花イナリは一つ息を吸ってから答えた。


「以前話した通り、お主には魔術大学への進学なぞ不要であろう、とわしは思うておった。それに千登勢のためとしたお主のその決断も決して卑下するようなものではない。立派な理由であるとわしも思う。《魔術》の勉強のペースアップ、それは構わぬ。しかし、お主は若く比較的健康体ではあるが、それでも現状お主が向き合っておる学校の勉学や図書室の務め、店での仕事、幸辰と協力しながらとはいえ日々の家事、そしてわしとの《魔術》の研鑽……これらは決して軽く見て良い負担ではない。故に、ペースアップをすると言うても、まこと現状よりほんの少しばかりであるぞ。休暇を軽んじる事は許さぬし、指示した以上の無理も許さん。そこを今後も履き違えぬというのなら、お主の言う通りペースは上げよう。それでよいか?」


 穏やかに、けれどしっかり言い聞かせる様に彼女はそう言い終えた。


 ひづりはほっと胸を撫で下ろし、正座のまま頭を下げた。


「はい! よろしくお願いします!」


「うむ。……あぁそうじゃ。市郎の葬儀等で忘れておったが、休暇と言えばお主、そろそろアサカと走り込みをする頃合ではないのか?」


 ふと思い出した、という風に天井花イナリは訊ねた。顔を上げ、ひづりも「そういえば……」と壁のカレンダーを見た。


 アサカとの走り込みは中学から続けている習慣で、ひづりが南新宿へ越してからも必ず月一回は行っていた大事な体力作りの日だった。しかし走り込みと言えば聞こえは良いが、実際は千歳烏山から出発するアサカとアインのいつものジョギングコースに、ひづりが体力維持のためお願いして参加させて貰っているだけだった。運動は嫌いではないが一人で走るのはちょっとなぁ、と少々面倒くさがってしまうひづりの健康は、いつも付き合ってくれるその優しい幼馴染のおかげで保たれていた。


 ただ、やはり最近は一緒に走るアインの体が少し気がかりにはなるのだが。


「あぁ……そうですね。明後日は仕事も無いですし、行ってこようかと思います」


「そうか。……時にひづり。お主らさえ良ければその走り込み、わしとたぬこも連れて行ってはくれぬか?」


 ひづりがアサカやアインの事を考えていると俄に天井花イナリが言った。ひづりは驚いた。


「え? それは全然構いませんけど……。でも、和鼓さんは……」


 走るのはさすがに厳しいのでは? という視線を送ると、天井花イナリは「いや」と一度だけ首を横に振った。


「走るのはわしじゃ。近頃はまこと体を動かす機会が無くての、たぬこを背負うて走ろうかと思うのじゃ。確か走った後はいつも近くの温泉へ行くのであろう? そこへ入れてやりたいのじゃ」


「なるほ……ど……?」


 と返事しつつも、ひづりは首を傾げていた。


 天井花イナリがとてつもない膂力を持っているのは知っているので和鼓たぬこを背負って走るくらいは何も問題ないかもしれない……が、しかし欧州人の少女が欧州人の大人の女性を背負って走る姿というのは果たして大丈夫なものなのだろうか。自分やアサカが一緒に隣を走っていればそこまで変に見られたりはしない……かなぁ?


 ただ和鼓たぬこを温泉に入れてあげよう、という部分は大賛成だった。彼女も天井花イナリの膝の上に頭を乗せたまま眼をキラキラと輝かせていた。かわいい。


 しかしその直後ハッと何か気づいた様に瞬きをして彼女は体を起こした。


「ダ、ダメだよイナリちゃん。だって、ひづりさんとアサカさんだもん。邪魔しちゃダメだよ」


 彼女は天井花イナリの隣に正座をして真面目な顔でそう訴えた。


「いえ、全然構わないですよ? 一緒に行きましょう、和鼓さん」


 ひづりが言うと天井花イナリもそれに乗じた。


「ひづりもこう言うておるのじゃ。良いではないか。それにたぬこ、お主以前、ひづりとまた温泉へ行きたい、と言うておったではないか」


「言った、けど……。うううん……」


 和鼓たぬこは両手を胸の前で握り締め両目をぎゅうと閉じしばらく困っていたが、しかし最後には諦めて「分かりました、一緒に行きます……」と肩を落とした。天井花イナリはうむうむと頷いた。


「仕事の方も問題は無かろう。その日のたぬこの代わりはサトオにやらせればよい。知人の店の手伝いばかりで自身の店を省みぬサトオに、急に店の改装をしたかと思えばあれより姿をくらましてばかりのちよこ……。そろそろこちらの文句の一つも通って良い時分であろう。最も忙しい夕方の時間帯までには戻る、と言えばちよこも駄々はこね辛かろうしの」


 天井花イナリは座った格好のまま着物の袖を組んでそう言い、それからまた和鼓たぬこに手招きをして自分の膝の上に彼女を寝転がらせた。


 そんな二人の微笑ましい光景を眺めながら、ひづりも自身の幼馴染の事を想った。


 走り込みの事で電話の口実が出来たのは正直なところかなり幸いだと思っていた。火曜日に登校はしたが、しかしその時ひづりはまだ人と話をする余裕があまり無く、アサカとも上手く会話が出来ないまま帰宅してしまっていた。あの優しくて可愛い幼馴染に心配を掛けたままにはしておきたくなかった。


 ひづりは一階へ降りて食器を片付けた後、学校の休み時間を見計らって早速アサカの携帯に電話をした。彼女は最初驚いていたが、しかしひづりの声音が火曜日から随分明るくなっている事に気づくとそれを喜んでくれた。相談してみると土曜日の走り込みやアインの体調についても大丈夫との事で、ひづりもほっとした。


 途中でハナに電話を替わってもらったり話せる範囲諸々の話をしているとあっという間に授業が始まる時間になってしまったのでひづりは最後に「明日は登校するからその時また話そう」とだけ伝えて電話を切った。久々にハナの元気そうな声を聞いたりアサカとの土曜日の予定が組めた事でひづりは電話をする前よりずっと元気になれた気がした。












 駅のホームで電車を待つ間、凍原坂は先ほど《和菓子屋たぬきつね》で天井花イナリや官舎ひづりと話した事を何度も思い返していた。


 あの後、自分が死んだ後の事なんてものを考えたり憂うなんて一体何年ぶりだったのだろうか、と実は凍原坂自身が一番驚いていた。そして店を出てからしばらくいつもの様に眠る《フラウ》を背負いいつもの様に左手で《火庫》と手を繋いで歩いていたところ、不意にまるで雷に打たれたかのような衝撃と共に気付いた。自分はこの十四年間、何ひとつ変化が無かったのだ、という現実に。


 恋人だった人。西檀越雪乃。今でも彼女の顔ははっきりと思い出せる。笑顔も、怒った顔も、その声も、立ち居振る舞いも、全て。だがそれは、想いの強さ故だとか、果たして本当にそんな美しい理由からだったのだろうか。


 自分は、十四年前のあの日から己の時間を止め続けていただけなのではないか。《フラウ》と《火庫》というまるで歳をとらない存在を常にそばに置いておく事で、無意識に将来の事を考えないようにしていたのではないか。過ぎていく時間から眼を背け、変わらない自分に気づかないフリをして、あの日自ら逃げ込んだ道の異常さをずっと考えないようにしていただけなのではないか。


 《和菓子屋たぬきつね》を出てそれに気付いてからというもの、何も眼に映らず、耳に入らず、凍原坂はその疑問にばかり考えを巡らせていた。


「凍原坂さま……? やはり、どこかお体の具合が良くないのですか……?」


 《火庫》の声に凍原坂はハッと我に返った。見ると《火庫》は心配そうな顔でこちらを見上げていた。


 凍原坂はいつも通り父親の笑顔で彼女に返事をした。


「いや、大丈夫だよ。少し考え事をしていただけなんだ」


「そう……ですか……? 《フラウ》が重ければわっちが背負いますから、ご無理はなさらないでくださいね」


「うん。ありがとう、《火庫》」


 右手で《火庫》の白い頭を撫でてから《フラウ》を背負い直し、凍原坂はまた何を見るでもなく向かいのホームの辺りに視線を戻した。


 『時間はまだ三十年ほどあるはずだ』などと、何故この口は先ほどそんな事が言えたのだろう。自分の死後この世界に遺されるであろう娘達が幸せでいられる未来をこの十四年間でただの一度も考えようとしなかったこんな自分に、あと三十年あるか分からない残り時間で一体何が出来ると言うのか。何を見つけられると言うのか。


 気づけば縋るように亡き恩人の顔を思い出していた。


 確定していた死を目前にした時、万里子さんは一体どんな気持ちだったのだろう。死ぬと分かっていて残された二十数年を、どうしてあんなにも真っ直ぐな瞳で生き続けられたのだろう……。


 残りの三十年で、果たして私はあんな眼が出来る様になるだろうか。《火庫》と《フラウ》のために、義妹のリコちゃんのために、一途に何かを遺してあげられる人間に成れるのだろうか。


 答えの欠片も見つけられないまま、神保町へ向かう電車が駅のホームに到着した。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る