『娘をおねがいします』




 天井花イナリと共に山梨の紅葉の作業場へ向かうより、およそ二時間前。


 ひづりは学校が終わるなり寄り道せず真っ直ぐ、またやや足早に《和菓子屋たぬきつね》へと向かっていた。木曜日は店の定休日なのでバイトは無かったが、今日は官舎ひづりとして非常に大切な仕事があった。


 他でもない、姉への説教である。


 今朝になってようやくちよこからひづりの携帯に連絡が入ったのだ。まさか日を跨ぐと思っていなかったため、昨夜は段々「姉さんの身に何かあったのでは……?」と心配になってあまりよく眠れなかった。一応二十一時頃にサトオから電話があって、『ちよちゃん今日は知り合いの家に泊まるみたいだよ。さっき電話を掛けて来たんだ。通話を終えたらすぐまた繋がらなくなっちゃったけど』と教えられていたが、しかし昔から後ろ暗い人付き合いばかりしている姉を思えばひづりは手放しで安心など出来なかった。


 店の急な改装だとか、紅葉を山梨から呼びつけてタダ働きさせた事とか、百合川に学校をサボらせて改装を手伝わせた事とか、夜不寝リコの勤務初日に店を留守にした事とか、勿論それらも最初から叱るつもりだったのだが、そこへ今日に至り『昨日から一日何の音沙汰も無かった事』も加えられたとあって、ひづりの怒りは昨日より実によく燃え上がっていたのであった。


『十六時。店に居てね。話があります』


 登校前に短く書き込んで送信したメッセージは昨日と打って変わってちゃんとちよこに届き、承諾の返事もすぐに来た。


 十八時前には天井花イナリと共に紅葉の元へ向かう約束になっており、説教にあてられる時間は予め二時間も無いと分かっていたため、ひづりはなるべく簡潔に、かつしっかり叱り飛ばさなくてはと気を引き締めていた。


 学校を出ていつも通りの道順で《和菓子屋たぬきつね》に到着し戸を開けるとちよこは約束通りちゃんと店内でひづりを待っていた。


 何故昨日急にあんな勝手な事ばかりしたのか。二人向かい合った畳部屋でひづりはまずそれについて訊ねた。昨日は話せなかっただけで、もしこちらが納得出来るまっとうな理由があるのなら、最初にそれを聞き出さなくてはならないと思った。


 しかしちよこは話が始まるなり目元を赤くしてめそめそと泣き始めた。ごめんね、駄目なおねえちゃんでごめんね、と言うばかりで、ひづりの質問にはろくに答えようとしなかった。


 当然の如く、ひづりは苛立ちが増した。


「昨日どれだけ大変だったか分かってないの!?」


 店を閉める頃には和鼓たぬこはもう倒れる寸前だった。増した客足と着慣れないメイド服で朝から晩まで駆け回ったせいで《火庫》も明らかに疲れた顔をしていた。夜不寝リコも初日にしてはよくやっていたが、それでもその働きぶりを評価してくれるはずの店主がまさかの不在という事実にはやはり戸惑いを隠せない様子だった。九月二十日は、店主を除いて《和菓子屋たぬきつね》の誰もが大変な一日だった。


 しかしタチの悪い事に、そうした店主としての不誠実さを示していても現状何も問題ないとちよこは理解しているらしかった。どんな過酷な業務を押し付けても和鼓たぬこは天井花イナリと暮らせるこの《和菓子屋たぬきつね》から離れたりしないし、《火庫》は凍原坂の望む『官舎万里子への恩返しがしたい』という願いを叶えてあげたい。夜不寝リコもそんな凍原坂や《火庫》を見守ると自分で言い出した。


 吉備ちよこはそんな彼女たちの心を利用する事に一切の罪悪感が無い。どこまでも足元を見て、どこまでも毟り取ろうとする。


 何か店にとって重要な事があって、そのために姉は昨日あんな行動に出たのではないか、と、ひづりは心のどこかでそんな夢を見ていた。姉がどんな人間かは分かっていたが、それでもここまで酷い行いはそうそう無かった。だから自分達が納得出来る理由がどうかそこにあってくれたらば、と願わずにいられなかった。


 だがやはりそれは浅はかな望みだった。姉はどこまでも姉だった。自分勝手で、自分本位で、人の気持ちが分からない。


 ひづりはもう我慢の限界だと立ち上がって声を荒げようとした。


 しかしその時だった。


「──ごめんください」


 定休日の札が提げてあるはずの戸口の方から、やや歳のいった女性の声がひづりたちを呼んだ。


 なんだこの大事なときに、とひづりが振り返ると、向かいのちよこは俄にいきおいよくその腰を上げて襖に飛びつき、そのまま「はあい! 今行きます!」と声を張り草履を履いてフロアの方へと駆けて行った。その素早い事と言ったらなく、まるで、待っていました、という風で、ひづりは嫌な予感がしてすぐに姉を追いかけた。


 戸を開けると、そこにはひづりと同じく学校が終わってすぐに来たのだろう制服姿のままの夜不寝リコと、それから上品な佇まいの背の低い中年女性が並んで立っていた。


 女性は夜不寝一恵と名乗った。夜不寝リコの養母で、血縁で言えば彼女の伯母に当たるという話だったが、夜不寝リコが三歳の時から母親の位置に居た人だからだろう、二人並び立っている姿は疑いようも無く母子のそれであるように見えた。少し遅れたが今日はリコのバイト先に挨拶に来た、という事らしかった。


 二人をそのまま畳部屋へ上げ、お茶と菓子など出して腰を据えまた話し出したところでひづりはようやく気づいた。


 今朝、ひづりは『十六時に店に居ろ』と姉にメールを入れていた。今は十六時三十分。ひづりがちよこを叱る事が出来たのはほんの十五分ばかり。


 姉はおそらく今朝ひづりから説教の時間を指定された後、夜不寝の二人にこの時間に店へ来るよう連絡したのだ。そうすればこの通りひづりは説教を一旦中断しなくてはならなくなるから。


 確実に叱り飛ばすために時間指定したのを、見事に逆手に取られてしまっていた。どうもおかしいと思ったのだ。ちよこは今日ひづりに怒られると分かっていながらやけに素直に店に居て、また定休日なのに化粧をしっかりして着物も綺麗に着ていた。


「リコさんは初日からとってもよく働いてくれていたみたいで。残念ながら私は昨日急な用事で店を空けなくてはいけなくて見てあげられなかったんですけど、その時はひづりが一緒に働いていまして、それでさっきもお話を聞いていたんですよ。ね、ひづり?」


 屈託の無い笑顔でちよこはひづりに話を振った。下瞼が痙攣するような気分だったがひづりはここでキレてもどうしようもないので、ええリコさんはしっかり働いてくれていましたよ、と受け答えなどした。


 陽気によく喋る養母と違い、今日の夜不寝リコは静かだった。保護者同伴で人に会うというのは往々にして気が重かったりばつが悪かったりするものなので最初は特に気にしていなかったのだが、しかし段々ひづりは違和感を覚え始めた。


 それは夜不寝リコのちよこを見る眼差しだった。何と例えたものか的確な言葉が浮かばないが、それでも強いて言うなら、それは『信じられないものを見るような眼』だった。いや確かに自身で引き入れた従業員の勤務初日に店をあんな有り様にしてサボタージュする店主など信じられないと言えばまさにその通りなのだが。とにかく彼女はそんな眼差しを諸々の話が終わってそして帰るまで、ずっとちよこに向けていた。単純にようやく彼女もちよこという女のヤバさに気づき、働くと言った事を盛大に後悔し、いつ辞めたいと切り出すかタイミングを見ているのかもしれない。《火庫》の方の問題が解決しそうな段階に入っていたため、夜不寝リコの方も自主的に辞めると判断してくれるならひづりとしては正直なところ嬉しかった。


「ひづり、すごく怒ってる割に、何だかどうでもいいみたいな顔してる。何か良いことでもあったの?」


 十七時半頃に夜不寝の二人が帰って「ああやはり時間的に今日はもう説教の続きなど出来そうにないな」と諦めていると、ちよこはおもむろにひづりの顔を覗き込むようにしてそう言った。


「そっ……そんな訳ないでしょう。っていうか、話はまだ終わってないんだからね」


 ひづりが咄嗟に繕ってそう返したところ、丁度外出の準備を終えた天井花イナリと和鼓たぬこが三階から降りて来た。ひづりは内心胸を撫で下ろした。


「あら、そういえばこの後三人でお出かけするんだっけ? どこへ行くの?」


 自分もついて行きたいな、という顔でちよこは天井花イナリの隣へ来た。


 天井花イナリは鼻で笑った。


「定休日を姉への説教だけで潰すほど、ひづりも暇ではないという事じゃ。それにお主、店の掃除がまだ終わっておらんようではないか? お主が紅葉に命じた通り、昨日を以ってこの店の内装は実に掃除しづらい事この上ない有様となった。明日は営業日じゃぞ。夜通しの掃除にならなければいいのう? わしらは手伝わぬぞ」


 昨日天井花イナリと共に戸締りこそしたが、テーブルクロスの洗濯だとかレジスターの整備だとか食器洗いだとかはもう丸ごと残したままにしていた。七月より《和菓子屋たぬきつね》定休日の店内大掃除はちよこの仕事となっている。余裕ぶっているが、サトオは平常通り知人の和菓子屋の手伝いに出ているし、はっきり言って今日ちよこは遊んでいる場合ではないのだ。


 ちよこは一瞬不愉快そうな顔をしたが、すぐに顎を上げて得意げに声を高めた。


「ふーん、そう。いいよ三人で楽しくお出かけしてきたら! 私は独り寂しくお店のお掃除してるから~!」


 出て行け出て行け、という風にちよこは掃除用の布巾を振り回した。周りに人が居ると何かと口実をつけて人任せにしようとするが、逆にやる人間が自分しか居ないと結構効率よく仕事を済ませてしまう、という妙なところが昔からあったので、とりあえず明日掃除が終わっていなくて店を開けられないということはないだろうと思い、ひづりは「行ってきます」とだけ言って店を出た。






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