『最後の交渉』    3/5



 ひづりは目じりを肩にこすりつけて涙を拭い、右腕の《防衛魔方陣術式》越しに遠くの《指揮》を見た。《指揮》の口唇は《檻》に響くその音声とぴったり同期していた。辺りに音響機器と思しき物は見当たらず、どうやら《天使》固有の通信手段か何かを用いてこちらに声を届けているらしかった。


 《指揮》は続けた。






『だが、お前のその努力は無意味だ。痛みに耐えるのも、希望を見るのもな。分かっているんだよ。お前達が凍原坂を蘇生させた先に、《フラウロス王》再召喚の図を見ている事はな』






 眼が合い、ひづりは思わず息を呑んだ。やはりもうバレている。凍原坂の《契約印》がまだ再稼動の可能性を持っており、蘇生さえ叶えば《フラウロス》を呼び戻せるかもしれない、という、こちら側に残された唯一の手の内が。






『確かに《フラウロス王》を呼び戻せるなら一発逆転を狙えるだろうな。歴史的に非常に稀有で、纏まった情報が遺されていない《連関召喚》が、再召喚時一体どのように作用するのか……《天使》である我々にとってはあまりに未知数だ。現状最も警戒すべき不安要素には違いないだろう。しかし……お前がそれに賭けるのは賢い判断なのか? さっきあれだけ痛めつけたんだ。再召喚された《フラウロス王》は本当に戦える状態なのか? そもそも凍原坂を蘇生出来たとして、そのとき《契約印》は本当に再稼動するのか? 何より、《ボティス王》が凍原坂を蘇生させられないなら……結局全ては取らぬ狸の皮算用というやつではないか? 見ろ、お前の《悪魔》を』






 《指揮》はひづりの後ろ、天井花イナリを顎で指した。






『大腿と心臓に矢を受け、今はもう《弓弩兵》たちの弾幕を防ぐので手一杯だ。《治癒》の進捗は牛歩と言って良い。人間が心肺停止から復活出来るまでのタイムリミットを知っているだろう? 凍原坂の心停止から今すでに五分が経過している。残り半分だ。《ボティス王》に聞いてみろよ。今どれくらい治せていますか、貴方が《剣》で切り裂いた凍原坂の傷は一体どれだけ塞がっていますか、ってな。良い答えが返って来て欲しいもんだなぁ? くくく……!』






 短く笑った後、《指揮》はゆっくりとした動作でひづりを見下ろすようにふんぞり返った。






『だから、提案なんだよ、官舎ひづり。これはお前にとっても良い話だ。今すぐ《ボティス王》を差し出し、我々の側につけ。そうすればこれまでのお前の反抗的な行動や発言を全部水に流して、お前と地上に居るお前の親族全員、見逃してやっても良い』






「……っ!」


 ひづりは一瞬気持ちが揺らいだ。夜不寝リコの様にこの場に連れ出されてこそ居ないが、《火庫》同様ひづりも依然として父や姉、紅葉たちを盾にされている身だった。


 《指揮》は椅子に深く掛けたまま悠々と語った。






『五分後、凍原坂は今度こそ本当の意味で絶命する。そうなれば《フラウロス王》の再召喚は望めず、お前らに残される手札はその《防衛魔方陣術式》一枚と、《檻》から脱出不能で手も足も出ない《ボティス王》の短い《剣》と髪だけになる。それでも防御に専念していれば直ちに死ぬ事はないだろうが、しかしそんなところまで追い詰められて一体お前達にどんな希望があると言うんだ? お前の《防衛魔方陣術式》は確かに実に精巧で濃い紫色をしている。健気なことだ、この二ヶ月、絶えず描画の練習を続けて来たのだろう。称賛に値する出来だ。《神性施条弩砲》を以ってしても貫けるかどうか正直怪しい。……だが」






 肘掛けに頬を乗せ、《指揮》は口角を上げた。






『明日もお前の《盾》はそこにあるのかな? お前はこれから毎日二十四時間、我々の矢を防ぎ続けられるのか? 《ボティス王》から《魔力》を譲り受けているという話だから《魔力》に困ることはないだろうが、しかし人間であるお前が眠らず、集中力を切らさず、そうして《防衛魔方陣術式》を張っていられるのはいつまでだ? 明日くらいまでなら大丈夫か? しかし明後日にはどうだ? 明々後日は? 一週間後は? 我々は最初から《ボティス王》攻略に対しては少々過ぎるほどの用意をさせてもらっていてな。《弓弩兵》と《弩砲兵》の矢は軽く見積もっても一か月分の備えがある。言っている意味、分かるだろう? お前の《防衛魔方陣術式》がある限りお前も《ボティス王》もしばらくの間は悪あがき出来るだろうが、しかしお前が眠気と疲労に負け、その《防衛魔方陣術式》が揺らいだ瞬間、我々の《神性施条弩砲》の矢がお前と《ボティス王》の体を一瞬で原型も留めない挽き肉にするのだ』






 背筋が冷え、ひづりは思わず《神性施条弩砲》の方を見た。陣形が包囲陣に換わった直後、遠くにあった二門の《神性施条弩砲》も《弓弩兵》と《槍盾兵》たちのすぐ背後まで引っ張り出されて来ており、《指揮》を正面としてそれぞれ二時と十時の座標に配置され、重々しい鋼鉄の矢尻をじっとこの《封聖の鳥篭》へ向けていた。






『《詰み》だと分かっただろう? あがきたい気持ちも分からないではないが、大人になった方がよほど身のためだ。早めに降伏するなら待遇も保証する。お前の家族もひっくるめてだ。吹き飛ばした左腕も後でちゃんと繋ぎ合わせてやろう』






 《指揮》は胸を張り両腕を広げ寛大そうな態度を見せた。


「…………」


 凍原坂に発破を掛ける直前、天井花イナリは『最後の手段ではあるが主天使を敗北させる形の解決方法はある』と言っていた。『敗北させる』。それは痛み分けでも無ければ持ち越しでも無い。彼女の心の全てまでは理解しようが無いが、それでも自身の《契約者》の近親者を犠牲にする事を彼女はきっと《勝利》とは言わないだろう。これまで彼女の《契約者》として過ごしてきたひづりにはそんな確信があった。


 だから当然まだ諦めるつもりは無かった。ここで諦めてしまったら凍原坂は確実に死んでしまうし、天井花イナリを見捨てれば彼女達の責任を持つと言ったあの日の自分の言葉が嘘になってしまう。


 とは言えこのまま工夫も無く《指揮》に対しただ「お断りだ」と返す訳にもいかなかった。何故なら交渉が決裂すればきっと《指揮》はすぐにでも《弓弩兵》たちに攻撃を中断させ、そして再び《不可視の矢》を用いて来るに違いないからだ。それで右腕の《防衛魔方陣術式》まで破壊されてしまったら天井花イナリは再び防御しか出来なくなって《治癒》が止まり、凍原坂の蘇生も絶望的となる。


 官舎ひづりは今、天井花イナリが凍原坂の《治癒》と蘇生を果たせるまで、どうにか上手く時間稼ぎをやってみせなくてはならないのだ。話術は不得手だったがそんな事を言っていられる状況ではなかった。


 痛みが思考の半分を占める頭を必死に働かせ、ひづりは口を開いた。


「どう、かな……。交渉なんてものをするには、まだ、こっちに分があると思うけど……」


 《指揮》は片眉を上げて見せた。






『おかしな事を言うな? 一体お前らのどこに分なんてものがある?』






 ひづりは出来る限り背筋を伸ばし、姿勢を良い様に見せた。


「あなたは何だか、ずいぶんその《神性施条弩砲》ってのを脅しに使ってくるけど……普通脅しなら、一回撃って、威嚇くらいはするものなんじゃないの……? さっきまでは、てっきり、私の《盾》が二枚あるから無駄だと思って撃って来ないんだと思ってたけど……でも《盾》が一枚きりになった今も撃って来ないで、こんなおしゃべりをしてる……。って事は……本当は撃たないんじゃなくて、撃てない理由があるんじゃないの……?」


 距離があり、また微かな変化ではあったが、それでも《指揮》の目元に苛立ちの影が差したのをひづりは見逃さなかった。


 これまで考えていた事を頭の中で整え、指摘した。


「あの大きな矢……当たったら、きっと私も、天井花さんも、本当に一瞬で死んじゃうんだろうね……。でもそれって、この《檻》ごと撃つ、って事だ……。あの《弩砲》でも《檻》は壊せないなら、そもそも脅しにも何もならないけど……でもあなたの口ぶりだと、あの《弩砲》の大きな矢なら、この《檻》ごと私達を貫ける……そう聞こえるよ。この《檻》、ひょっとして外側からなら……《檻に囚われてない存在》なら、《神性》を持ってる攻撃でも壊せる……って事なんじゃないの? だとしたら慎重にもなるよね。もし狙いが外れて、天井花さんに当たらず、《檻》だけ壊れてしまったら……そっちとしては想像もしたくない事態だよね……。ってことは、《檻》を壊してまで《神性施条弩砲》の矢を撃つってのは危ない橋で……あなた達としても積極的にとりたい手じゃ、ないんじゃないの……? 脅しは脅しであって……実際に使える手駒では、無いんだ……。安全に、確実に天井花さんを討ちたいなら、あなた達は結局、《弓弩兵》たちで持久戦をするしか無い……。でもその途中でうっかり私の頭や心臓に流れ弾の矢が当たってしまったら……あなた達はそれを恐れてる。あなたがあの《弩砲》を使わないのも、こうして私に交渉なんてして来てるのも……ぐっ……そういう理由から、なんでしょう……? はは……生憎だけど……凍原坂さんの《治癒》も順調だ……。わざわざ降伏する理由なんて、ないね……」


 言い終わったひづりは歯を食いしばってゆっくりと浅い呼吸をした。話している最中息を吸い込むたびに肺から繋がる左腕の神経が容赦なくぎしぎしと痛み何度か意識が途絶えそうになった。長い時間稼ぎは難しいかもしれなかった。


 《指揮》はすぐには返事をしなかったが、しばらくすると溜め息の音が《檻》の中に響いた。






『……そうか、思ったよりまだ頭が働いたか。ああ、正解だ。お前の言う通り《神性施条弩砲》は正直言ってあまり使いたい手ではない。実際、追い詰められた《ボティス王》が《魔界》に戻るためにお前を殺そうとした瞬間お前が完全に息絶える前に《ボティス王》を殺すべく発射する……くらいしか使い道はないだろう。本当に困らされているよ。《ボティス王》がお前を同じ《檻》に引き込まなければこんな苦労は無かったんだがな』






 実に参った、という風に《指揮》は自身の額に触れて見せた。相変わらず演技っぽい仕草だった。






『とは言えだ。手駒の数で言えば依然こちらが上である事に変わりはない。さっきお前の左腕を吹き飛ばした矢、気付いている通り、あれは《弓弩兵》による物じゃない。我々が予め《封聖の鳥篭》の周囲に配置しておいた《不可視化した弓兵》によるものだ。この《神のてのひら》の上限定ではあるが、《上級悪魔》の眼さえ欺く《認識阻害》を付与され、完璧に姿を隠している。《主天使》の我々にそんな高位の《認識阻害魔術》が扱えるなんて信じられないか? だが事実だ。不人気ゆえに召喚が低頻度で《人間界》の情勢すら疎い《ボティス王》では入って来る情報も少ないだろうから知らないのも無理はないが、《天界》では彼の大戦以降も《天界固有の魔術》の研究は続けられていてな。この《神のてのひら》も、《封聖の鳥篭》も、そして《天使の不可視化》も、もはや《上級天使だけが使える高位の魔術》では無くなっているんだよ。《封聖の鳥篭》と《天使の不可視化》は発動と維持の《魔力》コストが高いが、しかしこの《神のてのひら》は《擬似的に神性を持つ場所を再現する魔術》だからな、ここに居る限り当分の間は《魔力》に困る事も無い。用意した矢を《弓弩兵》たちが撃ち切ってもまだ持続するだろう、と《技術屋》は言っていたよ』






 ひづりは無言で奥歯を噛み締めた。やはりこちらが知らない《不可視化の魔術》を使われていたらしかった。


 天井花イナリの髪や《剣》が《弓弩兵》たちの矢を目視しないままに叩き落とせているのは、彼女の持つ《熱や魔力を感知する能力》が十メートル向こうで弓を構える《天使》たちの動きを精確に捕捉しているからだった。飛んで来る矢の順番、速度、それらが分かるから彼女は今も《弓弩兵》たちの弾幕にどうにか対応出来ている。


 だが《指揮》が言ったこの《不可視の矢》は。天井花イナリの感知を逃れた状態で放たれ、見えないまま空を切り、そして《檻》の中に入った瞬間ようやく姿を現す。自身から一メートル半とない場所に最大速度で突然現れる、しかもどの角度から来るか分からない矢の対応など、どれだけ反射神経の優れた生物であろうと出来るはずがない。こちらがどうする事も出来ないとわかっているから《指揮》もこうして種明かしをしたのだろう。






『《不可視弓兵》の矢は私の号令一つでお前の右腕を吹っ飛ばして、残りの《防衛魔方陣術式》を使用不能に出来る。その後はゆっくり、安全に、確実に、《弓弩兵》と《不可視弓兵》の攻撃で《ボティス王》を蜂の巣にしていく。さぁ、もうお前たちに分など無く、どうあっても勝ち目が無い事は理解出来たな? では改めて提案だ。我々の側につけ、官舎ひづり。そうすればお前は《不可視弓兵》の矢で右腕を失う事もないし、お前自身の身も、家族の命も保障される。それにただ助けてやるというだけではないぞ。お前は《ボティス王》の配下だった、その経歴があるからな。我々が計画している今後の活動でお前は良いシンパになれる』






「シンパ……?」


 ひづりが眉を顰めると《指揮》は頷いた。






『我々は《天界》の命で日本に配属された、《七十二体の主天使》だ。七十二だよ、官舎ひづり。いつの時代でも数字は大きな意味を持つ。全てはこの日のためだったんだ。《七十二体の主天使》である我々が、《ソロモン王の七二柱の悪魔》を打ち倒す。臆病風に吹かれ《魔界》への侵攻をやめた連中に代わって我々が再び立ち上がり、今日の戦いを歴史的な境の日とするのだ。《魔族》を根絶やしにし、そうして《魔界》を手に入れれば、《ソロモン王の悪魔》に飾られた《七十二》という数字も、いずれは我らを表す数字となる』






 恍惚とした表情で《指揮》は語り、そして改めてひづりを見た。






『官舎ひづり、我々につくなら、この聖戦を後世に語り継ぐ名誉をお前に与える。《ボティス王》に騙され操られていたお前は我々と言葉を交わし、《天使》の威光を前に正気を取り戻した。そしてその後は我々に従軍し、《悪魔》打倒のため人と《天使》を取り持つ役割を果たす……。かつて愚かにも《ソロモン王》が放棄したその使命を、今こそお前が果たすのだ』






 イカレてるのか? とつい返しそうになったが、ひづりは引き続き時間稼ぎのために問うた。


「……もし、それを断ったら?」






『《ボティス王》を殺した後、お前を地上に居る我々のシンパ共の慰み者にする。東洋の女は若く見えるとかで人気があるらしいからな、お前のような口の利き方も知らない小娘でも手足を切って大人しくさせてから渡せばどんな趣味の人間からでも歓迎されるだろう。親族や友人もそうだ、見つかる限り捕らえ、反逆者としてお前と同じ目に遭わせる。最後は一人ずつお前の目の前で皮を剥ぎ、海水に浸して干した後、豚小屋の餌箱に押し込んで生きたまま汚らしく食われる様をじっくりと眺めさせてやる』






 ひづりは左目の下瞼が軽く引き攣った。《指揮》の語ったそのおぞましい拷問と大切な家族や友達の姿が頭の中で重なり、俄に足元が抜けた様な不安に駆られた。






『あくまでお前が従わないなら、の話だ。怖がる必要は無い。我々は《ボティス王》さえ殺せればそれで良いんだ。お前はただ提案を受け入れるだけで良い。そうすればこれから先、お前はほんの少しだって痛い思いなどしなくて済むし、家族の安全も保障される。お前は我々の提案に頷き、その左腕の傷を癒し、無事に家へ帰る。暖かい風呂に入り、ベッドでゆっくり休めばいい……。何も難しくはないだろう、官舎ひづり? それともまだ《ボティス王》を信じて時間稼ぎをするか? だが凍原坂の心停止からもう八分が過ぎた。期待していた《ボティス王》の《治癒》はやはり間に合わなさそうだぞ? それにだ。冷静になって考えてもみろ。《ボティス王》の《剣》は凍原坂の肝臓と心臓と左肺、人間の生命維持に重要な臓器を三つも両断していた。今はそうして必死に蘇生をしてみせているが、本当に蘇生させるつもりがあったのか? 万全の状態の《ボティス王》だってそんな傷治せたかどうか怪しいぞ。本当は分かっているんだろう? この状況で自分達だけは生還出来る方法なんて、そんな都合の良いものある訳がない、と……。さっきも言ったが、いずれ我々の攻撃を前に万策が尽きた時、そいつはお前を殺して《魔界》へ逃げるつもりだぞ。お前を同じ《檻》の中に引き込んだのは、殺されそうになった時の最終的な脱出手段としてお前の命をいつでも奪える状態にしておきたかったからだ。よく、よく考えろ。お前はどうしてその《悪魔》を信じられるんだ? お前と家族が助かる最後のチャンスをふいにするだけの価値が、本当にそいつにあるのか?』






 ひづりは天井花イナリと凍原坂を振り返った。《指揮》の言う通り傷の完治にはまだ程遠い様子だった。時間稼ぎに会話を引き伸ばそうとしていたのもバレているとなってはもう出来る足掻きは無いだろう。いよいよ覚悟を決めなくてはいけないようだった。


 眼を閉じ、傷が痛まないよう気をつけながら、ひづりはゆっくりと一つ深呼吸をした。


 そして答えた。


「……確かに、そうするのが賢い判断かもしれない」


 《指揮》は嬉しそうに叫んだ。






『そうだろう!! ならば行動しろ! この後我々はお前達への攻撃を一旦中断する! それに合わせてお前は《防衛魔方陣術式》を翻し、《ボティス王》へと向けろ! その行動で以って我々はお前に協力の意思があると判断する!!』






「…………」


 ひづりと《指揮》の問答の間、天井花イナリは黙っていた。ひづりに背を向けたまま《弓弩兵》たちの矢を弾きながら今も凍原坂の傷の《治癒》を続けていた。


 少し前からひづりは自身の心が弱りつつあるのを感じていた。右腕の《盾》を消せば間違いなく数秒以内に死がやってくる。こんな苦しい思いをしなくても良い、全部を終わらせてくれる楽な死が……。そんな考えが繰り返し頭をよぎっていた。左腕を切断された後も右腕の《防衛魔方陣術式》を支えていられたのは、そんな訳にはいくか、という意地ゆえだったが、しかし《指揮》の言う通り、明日や明後日になってもまだその生きる意志が続くかどうか、ひづりには正直分からなかった。それくらい痛く、苦しく、怖かった。


 逃げ出すならきっともう今しかなかった。


「……でもね」






『あ?』






 ふらつきながらではあったがひづりは両足に力を込めてしっかりと立ち上がった。


「あの時……姉さんの《契約印》が《ベリアル》に壊された時……あのまま《契約印》を引き継いだ私が殺されてたら、きっと天井花さん達は《魔界》に戻れてた……。同じ《ソロモン王の七二柱の悪魔》の《ベリアル》と戦う必要も、《ソロモン王》から譲り受けたっていう大切な物を失う危険からも、逃れられたんだ……。なのに、戻って来てくれた。私が戻って来てって言ったら、戻って来てくれたんだ……。約束だから、って……。期待してるから、って……」


 ひづりは痛みも恐怖も振り切って大きく息を吸い、叫んだ。


「あんた達なんか怖くない! 怖いもんか……! 天井花さんが『信じろ』って言ったんだ。凍原坂さんが《火庫》さん達を信じた気持ちも、今は私の肩に掛かってる! 私は、いつだって大切な人たちの気持ちに応えられるような、そういう人間になりたいんだ! 天井花さんがまだ諦めてないなら、こんな痛みくらいなんだ! 舐めるなよ! 《ベリアル》より下のあんた達なんかに、頭下げられたって負けてやるもんか!!」


 《指揮》を煽り、次の《不可視の矢》を天井花イナリではなく確実に自分の右腕に撃たせるための挑発。官舎ひづりに出来る最後の時間稼ぎだった。


 声は響かず消え、しん、と静寂が満ちた。






『……お前の親は一族を不幸にする愚か者を産んだな』






 《指揮》が右手を挙げた。包囲している《弓弩兵》たちの矢の攻撃がぴたりと止み、ひづりは全身の産毛が逆立つのを感じた。


 来る、あの《見えない矢》が……! 天井花イナリが《治癒》を中断して顔を上げ、ひづりも周囲のありとあらゆる動きに神経を尖らせた。


「──ッ!!」


 すぐそばで発した風を切る音と、衝撃音。広げられていた天井花イナリの髪の一房が飛来した《不可視の矢》を弾いて飛ばした。


 しかし。


「うあああああ……っ!!」


 今度の《矢》は三本、全く同じタイミングで《檻》の中に出現した。天井花イナリの髪と《剣》の間をすり抜けた残りの二本はひづりの右腕前腕を切断する様に撃ち抜き、最後の《防衛魔方陣術式》を消滅させた。切断された右腕は転がって《檻》の柱にぶつかって止まったが、柱の間から伸びてきた恐らくその《不可視弓兵》のものと思われる手に素早く拾われ靄の中へと消えてしまった。激痛にひづりは再び倒れ込み身悶えた。


「継続射撃再開ッ!!」


 《指揮》が叫ぶ。「待て」をされていた《弓弩兵》たちの弓矢が嬉しそうにひづり達へ向けて鋭い鳴き声を上げた。


「今治す!! 動くな!!」


 天井花イナリは凍原坂へ向けていた左の掌をひづりの損壊し出血する右腕へと移した。《弓弩兵》たちの雨の様な矢が《檻》に着弾し始め、天井花イナリの髪と《剣》も忙しなく防御挙動を再開した。


 痛すぎて思考が乱れ、考えがそこら中に散らばっていってしまうようだったが、ひづりはどうにか首を横に振って見せた。


「駄、目です……凍原坂さんにはもう時間が……凍原坂さんの《治癒》を、続けてください……信じて……いますから……」


 痛みのせいで上手く呼吸が出来ず、言葉と意志がちゃんと伝わるかどうか不安だった。しかし天井花イナリは目を見開いて一瞬躊躇う様子を見せた後、すぐに《治癒魔術の魔方陣》を凍原坂の体へと戻してくれた。束の間ひづりは安堵した。


「……すまぬ」


 それだけ言って彼女はひづりに背を向けた。お願いします、とひづりは心の中で思った。


「ぐっ、う……」


 弾幕の勢いが先程より増していた。一本、また一本と、髪と《剣》の防御を越えた矢が天井花イナリの体を貫き始め、凍原坂の傷を癒す《治癒魔術の魔方陣》がほつれる様に揺らいでいく。何人居るのかわからないが、官舎ひづりの《盾》を破壊する、という任務を終えた《不可視弓兵》たちも《弓弩兵》の弾幕攻撃に参加したのかもしれなかった。


 やっぱり、駄目なのか……とひづりは横たわったまま瞼を閉じ嘆いた。蘇生までのタイムリミットはきっともうあと一分と無い。凍原坂の命が終わってしまう。そうなれば《フラウロス》の再召喚も無くなり、彼女を抑え込むための人質として捕まえたままにしてあった夜不寝リコも《主天使》たちにとっては無価値となり、きっと用済みとして殺される。


 天井花イナリは凍原坂に発破を掛ける直前、『自分達だけなら切り抜けられる』と言ったが、まだその準備が整わないのか、依然その方法を実行に移そうとはしない。もしかしたら本当に《指揮》の言う通りそんなものは無く、最初から全員で生還するための道だけを彼女は信じてくれていたのかもしれない。


「……ごめんなさい……」


 ひづりはどうにか声を絞り出して凍原坂に謝った。あのダメ人間の母をきっとこの世で唯一尊敬してくれたあなたに、私はこんな、あまりに残酷な今日という日を招いてしまった。あなたの優しさに甘えて、何もかもを台無しにしてしまった……。


 もしやり直せるなら、許されるなら、《悪魔》と生きていく事を決めたあの二ヶ月前の日に戻って、全てを投げ打ってでも《魔術》を死ぬ気で学んで、この場の誰一人傷つかないで済む、平穏無事であったかもしれない今日を引き寄せたい。こんな暴力に晒されないで済んだはずの、ただ《和菓子屋たぬきつね》で皆が笑い合ったりちょっとぎくしゃくしたりしながら働く、そんな今日を……。


「う、うぅう、ううう……」


 情けなく両目からぼろぼろと涙を零してひづりは泣いた。


 助けて欲しい。誰か、誰か、お願いだから、誰か──。






 ──ドッ!






 鈍い音が近くで鳴り、ひづりは何かに背を押される様に目を開けた。


 《檻》の柱にぶつかったのか、それとも天井花イナリに弾かれたのか、《天使》たちの矢の一本が《檻》のすぐ傍の地面に突き刺さり、その反動で何かをぱっと宙に巻き上げていた。


 それは土くれの様だった。ひづりには何故かその土の動きが酷く遅く見え、じっと目で追ってしまった。


 どうして、ここに土が……? そう考えてから、その周りを一緒に飛ぶ細長い物にも気付いた。千切れた葉と、数厘の小さな花だった。


 そういえば、とひづりは蚕陰神社の様子を思い出した。蚕陰神社の境内にはそこら中に雑草と花が咲いていた。《主天使》たちが《転移魔術》を使った時、この花たちも一緒にここまで運ばれて来たのかもしれなかった。


 よく見ると舞い上がった花はイモカタバミだった。何の因果だろう、とひづりは市郎の事を思い出した。


 その時だった。








『──ひづり、花っていうのはね──』








 どくん、と心臓が熱く跳ね上がった。イモカタバミの一輪が風に煽られ、ひづりの右腕が作った血だまりの中にぴちょんと落ちた。石化した様にひづりの眼はその花弁を凝視した。


「母……さん……?」


 荒く速まる鼓動の中、十年以上前の記憶がひづりの中に蘇り始めた。










  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る