『母と、父方の叔母の事』




「うふふ。嬉しいなぁ。嬉しいなぁ」


 ハンドルを握ったまま、数分前とは打って変わった上機嫌な様子で紅葉は歌うようにその体をふらふらと左右に揺らしていた。


 佳代秋は少し驚いた様子ではあったが『送り火は明日だから今日そこまで急いで帰る必要は無いし……。一時間程度のドライブでみーちゃんの気持ちが落ち着くのなら……うん、構わないよ』と、ひづりのその急な提案を受け入れてくれた。


 しかし提案の名目としては『帰るのに駄々をこねている紅葉を落ち着かせるため』としたが、実際のところひづりの目的は、彼女から母について聞くことだった。


 二人きり、誰に茶化される事もなく、誰に隠さねばならない嘘を吐く必要も無い、そんな状態で、彼女から本音を聞き出したい。そして何より、今の自分の気持ちを聞いて欲しい、とひづりはそう思っていた。


 紅葉は幼い頃から七つ上の兄である幸辰にべったりだったという。そして知っての通り今も相変わらずで、しかも姪にまでそれは飛び火している。


 だからこそ、彼女が万里子の事を良く思っているはずがないであろう事は、さすがのひづりも察しがついていた。官舎本家が賑わっていた頃などに母の話題が出ると紅葉はいつも無表情になって視線を逸らしていたし、葬儀には来てくれたが、どちらかというと妻を失って悲しむ兄の精神ケアのためにそばに居てくれたようだった。


 子供を生むなりイギリスに渡って一年中ほとんどそちらで過ごし、愛する兄に寂しい想いをさせ、育児を押し付け、挙句の果てに二十数年でくたばって、酷く悲しませた、そんな女の話を紅葉がしたい訳がない。それは分かっている。


 ひづりには目的こそあるが、しかしやはり紅葉を悲しませたり苦しめたりといったことだけは絶対にしたくなかった。彼女が嫌がる話をこのお盆の別れ際にして、嫌な想いをさせたまま帰らせたくはない。先月、千登勢にしてしまいそうになった事をひづりは充分に反省していた。


 だから今回、ようやく二人きりで話す機会を得たからこそ、ひづりは慎重に言葉を選んで彼女と対話をしなくてはならないと思っていた。


「ひづりちゃん、少し変わったね」


 一時間の猶予、順序立てて話をしなくてはと考えていたひづりに、不意に紅葉は真面目な声音でそんな事を言った。不意を突かれ、ひづりは一瞬反応が遅れた。


「え、そ、そうですか……? あぁ……。そういえば甘夏さんにもそんなこと、言われましたね……」


「……そっか。うん、やっぱりそうだよ。今年の年始や、それから万里子さんのお葬式で会った時はそうでもなかった。……でもこの間、家にお邪魔した時にひづりちゃんの顔を見た時、何ていうか、面構え? っていうのかな。とても大人びて、かっこよくなってた。万里子さんの葬式からこの三ヶ月、何かがあったんだろうな、って、すぐに分かった」


 ドキリ、と心臓が跳ね、ひづりは思わず息を呑んだ。


 酔っておらず、余計な第三者が近くにいない。そんな時に真面目な声音で語る際の彼女の雰囲気というのはとても色濃い気迫があり、それこそまるで別人のように感じられるのだった。ひづりは今まで数回ばかりだが《これ》を味わったことがあり、だからその久々の感覚に思わず胸の鼓動が早まり、手から汗が噴出すのを止められなかった。


 山梨の楓屋家に嫁いで十七年ほど。多少店舗やマンションなどの改築がところどころで行われたとは言え、それでもあきる野市は幸辰や甘夏と同じく紅葉にとっても勝手知ったる故郷ふるさとだった。彼女は交通量の少ない幅広の道路脇に車を停めると一つ浅い呼吸をしてから厳かな声音でひづりに訊ねた。


「彼氏、出来たんでしょ……?」


「出来てません」


 数秒ほど互いに真剣な眼差しで見つめ合った後、紅葉はおもむろに視線を正面に戻し、それから両手で顔を覆ってうつむいた。


「……良かったあ~……!」


「別にか無いですが」


 考えがバレたのかと思っていたせいで、その鋭さを見当違いの方角に向けていた紅葉のことがつい可笑しく思え、ひづりは苦笑を零してしまった。


「しかし勘違いだったかぁ。おかしいなぁ~」


 しばらく車内に二人のくすくす笑いが続いたが、やがて紅葉は笑い疲れた様子で窓のところに頬杖をつくと眉を八の字に曲げた。


「どうして、私に恋人が出来たなんて?」


 ひづりも久々にずいぶんよく笑ったなと思いながら訊ね返すと、紅葉はちらりとこちらに視線をやってから、また徐にフロントガラスの向こうを見て、言った。


「顔がさ。顔の雰囲気がさ、万里子さんに似て来てたから」


 ぱちくりと瞬きをして、それからひづりは硬直した。


「……思い違いだったかぁ。あの人、最初に見た時と、それから兄貴と結婚した後の顔、全然違ったからさ。今のひづりちゃん、兄貴と結婚した万里子さんにちょっと似てるんだ。顔の作りの話じゃないよ。雰囲気の話」


 彼女はそう零しながら、ハンドルにもたれかかるようにしてひづりに柔らかい笑みを向けた。


「だから、ひづりちゃん、好きな人が出来たのかな~って思ったの。それだけ」


 それから彼女はニッコリと笑顔を浮かべた。


 狙いはズレている。しかし、彼女のその鋭い観察眼は真っ直ぐな軌跡を描いていた。


 ひづりには自身の雰囲気の変化など、当然分かるよしも無い。しかしもし甘夏や紅葉が言うような変化があったとするなら、それはもちろん恋愛ではない。


 《悪魔》と関わった故のことだ。天井花イナリ、和鼓たぬこ、《フラウ》、《火庫》、《ヒガンバナ》……。彼女達と触れ合ったこの一ヶ月ほどが、おそらくひづりのその雰囲気というものを大きく変えたのだろう。


 そして紅葉いわくの、その母の雰囲気が父と結婚してから変わったというそれも、おそらくは恋愛によるものではなく、《悪魔》との関わりを始めたが故の変化だったのではないか。


 紅葉の観察眼の矢は狙った的を外しこそしたが、別の的のド真ん中に見事命中していた。


 けれど。今の紅葉の語り様でなんとなくだが、彼女が母に対し、官舎万里子という女に対し、如何に思っているのか。それが少しだけひづりには分かった気がした。


「……紅葉さん、母さんの事、嫌いだったでしょう」


 ひづりがもはや何も隠すこと無く問うと、紅葉は笑顔をにわかに解いて目を丸くし視線を背け、それから口角を少し上げて頷いた。


「……うん。嫌いだった。兄貴に悲しい想いさせやがって、って、ずっと思ってたし」


 だろうな。訊ねるべくもないことだったが、やはり改めて明言されるとひづりは胸の痞えが取れるようだった。


「でもね」


 紅葉はにわかに顔を上げてひづりの眼を見つめると少し声を張るようにして続けた。


「万里子さんと兄貴の結婚を否定する気も無いんだ。おかげでひづりちゃんが生まれて来てくれた訳だしね。万里子さんのことは、きっとこれからも好きにはなれない。でも、私はそれでも兄貴があの人と結婚して幸せだったってことはちゃんと分かってるし、ひづりちゃんはとっても可愛い。それが私はとっても嬉しいんだ。それはね、本当なんだよ」


 彼女はそう真摯な眼差しで、けれどその声色に微かな悲しみを溶かしつつ、ひづりの両手をきゅっと握りしめて来た。


 ……優しい人だ。ちょっとばかり子供っぽいけど、強くて、とても優しい人だ、私の父方の叔母は……。


 ひづりはその手を握り返した。そしてはっきりと、その口で自らの本音の言葉をそこに並べた。


「ありがとうございます。でも私は、紅葉さんが私の母さんのことを好きになれないその気持ち、決して責めたりはしません。それはきっとこれからもずっと変わりません。実際、私の母は良い母親ではありませんでしたし。私も、もし姉の夫のサトオさんが不誠実な男性なら、決してその結婚を良く思うことなんて出来なかったと思います。それに私は堪忍袋の緒が細い性質たちなので、紅葉さんよりもずっと正直に、『嫌いだ』っていう気持ち、顔と声に出ていたことと思います。何なら手と足も出ていたかもしれません。……ふふ。ですから、紅葉さんはそのままで良いんだと思います。私の母さんのこと、好きになれなくても、きっとそれで良いんですよ」


 彼女は兄が選んだ女性を否定しなかった。折り合いをつけ、そして変わらず兄を愛し、そのうえ姪である自分の事も愛してくれた。


「紅葉さんは立派な叔母で居てくれました。私の父さんを愛していてくれました。それは、親戚の間で陰口を言われ続けていた父にとって、きっと大きな支えだったことと思います。どうか誇りに思ってください。そしてこれからも父さんの事、いっぱい構ってあげてください」


 そう伝え終える頃にはもう紅葉は鼻も眼も真っ赤になっていた。やがて彼女は両手でその顔を覆い、「ありがとう。ごめんね。ありがとう……」と呟きながら泣き出してしまった。


 ひづりはハンカチを差し出すと紅葉の服のすそを軽く摘んでその嗚咽に付き添った。


 二人はしばらくそうして過ごし、約束の時間には官舎本家の中庭へと戻った。


 すっかり大人しくなった妹の姿を見るなり「一体どうやって言いくるめたんだい?」と父が訊ねて来たので、ひづりは「紅葉さんをしっかり甘やかしてあげたら教えてあげる」と伝え、その背中を押して紅葉に押し付けた。


 紅葉は無言で兄に抱きついた。父はひづりをちらりと振り返ってからもう一度妹に向き直るとそっと抱きしめ、反対の手でその頭を撫でてあげていた。


 結局、父方の叔母も泣かせてしまった。けれど、それでも最善の対話ではあった、と、ひづりはそう確信していた。


 『紅葉さんは私の母の事を無理に好きにならなくても良いんです。父の事を愛してくれてありがとうございます。これからもどうかお願いします』。それを彼女に伝えられたのは、自分にとってもきっととても大きな前進に違いないから。





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