『紫色の送り火』





 楓屋夫妻を見送った翌十五日。少し早めの夕食を終え、少しばかり辺りが暗くなって来たところで三人は送り火を始める事にした。


「姉さん、言われた通り去年と同じく花火二セット買って来たけど……やっぱり量、多くないかい? 去年も三人での送り火で、結構使い切るのに時間掛かったじゃないか?」


 地べたに置かれたランプ式の懐中電灯を中心にひづりと甘夏が花火セットを広げていると、水を汲んだポリバケツを片手に幸辰が戻って来てそんな事を言った。


 確かに、去年はやけに時間が掛かったのをひづりは憶えていた。花火セット二つでも、祖父母が生きていた頃は問題が無かったのだ。当時は彼女らの両親も親族の子供なども集まっていたから、すぐに使い切る事が出来た。


 しかし今はもうひづりと幸辰と甘夏しかいない。三人きりだ。三人きりに花火セット二つは、ちょっとした花火大会に近い。


 すると甘夏はニコニコと機嫌の良さそうな顔でそれがまるで当然の事のように答えた。


「良いじゃない。その分ゆっくり、ひづりちゃんとゆーくんの三人で花火出来るもの。さぁどれから点けようかしら?」


 ……ああ、そういうコトね。父娘は同時に納得した。


 まぁ、確かにそういうことならひづりもまったく以って嫌ではない。


 うん。甘夏さんと花火で遊べるのは、嫌いではない。


 自分と話をしてくれる時や、父と一緒に何かをする時の甘夏さんはいつもとても楽しそうだし、それはひづりにとっても昔から嬉しいことだった。


 ただ、こうして三人で花火に火を点けて遊んでいると、きっと傍目には夫婦とその娘のように映るのだろうな、と客観視をしてしまう。と同時に、そうした客観視をするたびにひづりはいつも思い出すことがあって、今また、その綺麗な花火の光の中で少しばかり思い出に浸ってしまうのだった。








 まだひづりが小学校に上がって間もない頃の話だ。甘夏の事を当時のひづりがまだ『なっちゃんお姉さん』と呼んでいた頃。彼女は月に一、二回ほどの頻度で当時千歳烏山にあった官舎家へと足を運び、ちよこの勉強を見たり、持参した絵本でひづりの相手をしたりと、とてもよく構ってくれていた。


 ひづりはその頃から甘夏の事が大好きで、『今度なっちゃんお姉さんが来るよ』と父から聞けば、その日までうきうきと上機嫌に過ごし、そうして甘夏が家に来てくれると、その帰り際には毎回『帰らないで』と泣いて困らせたりしていた。


 後に中学に上がると《スケバン》、あるいは《バーサーカー文学少女》などという、花の女学生につけられるにはあまりにも強烈なあだ名が陰で用いられるようになったひづりであったが、それよりほんの六年ほど前にはこうした年相応の子供らしい時期があったのだ。あったのである。


 そんな甘夏との日々の中で、ひづりはある時、『なっちゃんお姉さんがお母さんだったら良いのに』と口にした事があった。


 それは必然の発言であった。ほぼ一年中イギリスに居る実母の万里子より、月に数回遊びに来てくれる優しい甘夏にこそひづりが母性を求めるようになるのは無理もない事だった。その時そばには幸辰も居て、複雑そうな顔をしていた。


 甘夏もひづりをとても可愛がってくれていた。『お父さんの言う事をちゃんと聞いていて偉いわね』とか、『お父さんの良いところがいっぱいひづりちゃんに遺伝したのね』と褒められるのはひづりも嬉しかった。


 しかし甘夏はそのひづりからの『なっちゃんお姉さんがお母さんの代わりになってくれたら嬉しい』という願いに対し、こう訊ね返した。


「ひづりちゃんのお母さん、楽しそう?」


 当時、その質問の意図は分からなかったが、ひづりは正直に答えた。


「楽しそう」


 年に二回、いつも何かバカみたいにお土産を買って帰って父とイチャイチャして、この頃からもう娘達を旅行に連れまわしていた母。楽しそうか、楽しくなさそうか、と問われれば、答えようなど一つしかなかった。


「お母さん、お父さんと、仲良くしてる?」


 続けて甘夏は訊ねた。ひづりは眉を寄せて答える。


「仲良し。見てらんない。見てて恥ずかしい」


「そう。それはとっても良いことだわ」


 ひづりの回答に、甘夏は心の底から安堵したというような笑顔になっておもむろに声を高めた。


 首を傾げるひづりに彼女は続けた。


「昔ね。ひづりちゃんもちよこちゃんもまだ生まれてない、ずっと前。なっちゃんお姉さんね、ひづりちゃんのお母さんに一つ、約束をさせたの。『必ず幸せになってね』って」


「……うん? 『幸せになる』……?」


 よく分からずまた眉間に皺を寄せたひづりに、甘夏はいつもの博識なお姉さんの顔で語った。


「だって、お母さんが幸せじゃないと、お父さんも幸せになれないじゃない。ひづりちゃん、お父さんのこと好き?」


「うん! 大好き!」


 ひづりは即答した。


「私もひづりちゃんのお父さん大好きよ。お揃いね。ふふふ」


「ふふふ」


「……じゃあ、やっぱりひづりちゃんのお母さんは、ひづりちゃんのお母さん以外に居ないね? お父さん、お母さんのこと、大好きだもんね? お父さん、幸せそうだもんね?」


 そう言った甘夏に、ひづりは視線を逸らして眉を八の字にした。


「……でも、寂しそう。お母さん、ぜんぜん家に帰って来ないから」


 すると甘夏はひづりを抱き上げ、その膝の上に乗せた。


「じゃあ、お母さんが居ない間は、お父さんが寂しいときは、ひづりちゃんがお父さんのこと、幸せにしてあげましょ? なっちゃんお姉さんもたまにこうしておうちに来るから、その時はひづりちゃんのお手伝いをします。なっちゃんお姉さんとひづりちゃんの二人で、お父さんを幸せにする《約束》。どうかしら?」


 そう言って彼女は右手の小指を立てて見せた。


 ひづりは甘夏の顔を見上げ、それから自身の右手も同じようにしてその小指同士を結んだ。


「《約束》! 《約束》する! わたし、お父さん幸せにする!」


「ふふふ。ええ、なっちゃんお姉さんも《約束》します。一緒にお父さんのこと、幸せにしよーね」


「えへへ」


 そう言って最後に甘夏はひづりを抱きしめて頭を撫でてくれた。








 ……ひづりは成長してそれを思い返すたび、『甘夏さんは本当に言葉選びが上手だなぁ』と毎度関心していた。子供の相手の仕方、相手が望んでいる言葉、そういった事を順序立ててゆっくりと話してくれる。そうして穏便に、気づかないうちに、いつの間にか甘夏さんもこちらも納得のいく、そんな結果になってしまっている。


 もしあの時の甘夏さんとの《約束》が無ければ、自分はもっと母の事を嫌いになっていたかもしれない。


『お母さん、楽しそう?』


 甘夏がしたあの質問が当時はとても不思議で、けれどハッと眼を覚まさせられるような衝撃があったのをひづりは今でも憶えていた。


 あの瞬間こそが、母が、父が、周りの大人が、子供の自分と同じ、一人の人間なのだ、ということに気づかされた瞬間だったように思う。


 そういった《気づきの衝撃》を甘夏はよくひづりに与えてくれていた。それが子供で、好奇心旺盛だったひづりにはとても心地が良かった。分からなかったこと、気づかなかったこと、他の大人が誰も教えてくれないことを、彼女は官舎家へ足を運ぶ度にひづりに教えてくれた。


 だからひづりはそれからもずっと甘夏のことが大好きだったのだ。よく本を読んで聞かせてくれた事もまた今日こんにちの図書委員を務めるひづりのあり様に大きな影響を与えていたし、また文字というものの大切さ、尊さ、脆さを教えてくれたのもやはり彼女だった。


 彼女は母の代わりではない。けれど、一緒に人生を歩いてくれる一人で、尊敬するお姉さんである。その喜びを知った日から、ひづりは甘夏の事がもっとずっと好きになったのだった。


「……ゆっくりと帰ってくださいね、父さん、母さん、ご先祖様……」


 まだまだたくさん残っている花火の一つに火をつけた父がそんな事を呟いた。甘夏もそれに倣ってか、火をつける前に一度手を合わせてから、また花火に火をつけた。ひづりも二人の真似をして手を合わせる。


 それからふと、次に点けた花火の火の色がとても明るい紫色で、ひづりはまた我知らず気持ちがそこから少し離れた。


 紫色。紅葉が仕立ててくれた桔梗色の浴衣も、甘夏がくれた髪飾りの二藍色も同じ紫の色相だ。そして帰省の前に天井花イナリに手伝ってもらって成した《防衛魔方陣術式》、あの《魔方陣》の光も濃い紫色で。昔から比較的好きな色ではあったが、最近特にひづりは頻繁にそれらを眼にしている。占いの類はあまり信じない性質ではあるが、もしかしたらちょっとした縁くらいはある色なのかもしれない、とひづりはそんな事をぼんやりと考えていた。


 しかし《防衛魔方陣術式》と言えば、だ。引き続き甘夏が家を空けたタイミングで描画の練習に励み、また他の《魔方陣》の練習の方にも手を出してはいるが、やはりその度にひづりが思い出すのは天井花イナリが語ってくれたその《魔方陣の色について》だった。


『――たしか、万里子のやつが言うたとか何とか言うておったか、ひづり? お主には魔術の才能があるぞ、などと、あやつめが』


 九日、ひづりが《防衛魔方陣術式》の構築に成功した後のことだ。出掛けの道中で彼女はそんな事を訊ねて来た。


『ああ、子供の頃の話ですよ。あの頃は私、《魔術》なんて使えもしませんでしたし。母さん、あれ絶対、適当に言ってただけですって』


 だからひづりは「いやですねぇ」と返した。しかし天井花イナリは「いや、あながちそうでもないぞ」と指摘した。


『確かに幼少のお主に《魔術》など使えんかったじゃろう。その知識も無かったじゃろうし、万里子めも教えんかったであろう。当時こそ万里子めは適当を抜かしおったやもしれぬ。しかし実際どうじゃ。先ほどお主が発動させた《防衛魔方陣術式》。あの《魔方陣》の見事な紫色よ。憎らしい事に、万里子もあれと同じ濃い紫の《魔方陣》を使っておった。よいか、《悪魔》と《契約》した者の《魔方陣》はの、色相としては赤や紫といったものになるのじゃ。そしてそれが紫色に近いほど、その《魔術》の性能は秀でる。要するにその扱う《魔方陣》の色が薄い桃色に近いほど《魔術師》としての才能が無く、逆に濃い紫色であればあるほど、《魔術師》としての才能に満ち溢れておる、ということじゃ。そして紫色の《魔方陣》を使う《魔術師》の場合、その子らも《悪魔》と《契約》した時に現れるその《魔方陣》の色は同色になる確率が高い、という話をよく聞く。おそらく突然変異などではなく、そこら辺の影響は血縁による部分が大きいのであろう』


 それを聞いてひづりはふと花札千登勢、彼女の《ヒガンバナ》が現れる際の《魔方陣》も濃い紫色である事を思い出した。


 しかし同時に姉の《魔方陣》も思い出した。あの時、《ベリアル》から守ってくれた姉の《防衛魔方陣術式》。あれは薄い桃色だった。


『ちよこめは才能が無かったのじゃろう』


 ひづりがそれを問う前に、察してか、天井花イナリはズバリと斬り捨てるように言いきった。……確かに、姉のちよこは勉強でも運動でも成績はいつも並以下だった。そんな彼女が秀でているのは人心掌握術、ただその一つだけであった。《魔術》に関してもそれは同じだったらしい。


『そして改めて言うが、ひづり、あの《防衛魔方陣術式》じゃが、事前に言うた通りあれは他でもない、《神性》と《魔性》を完全に防ぎ、触れた《天使》と《悪魔》の身を焼き焦がす特性がある。あの時、《ベリアル》がちよこに対し接近戦をせず、羽根でのみ攻撃してきたのはそれが理由じゃ。触れれば己が傷を負うが、しかしちよこの負傷、またその《魔方陣》の薄い桃色を見て、あやつはすぐにそれが壊れると気づいた。じゃから遠距離からの持久戦に持ち込んだのじゃろう。しかしひづり。お主のは違う』


 天井花イナリはそうはっきりとひづりの眼を見て言った。


『お主のは濃い紫ゆえ、非常に上質な《魔方陣》じゃ。おそらくはわしの剣で以ってしてもお主の《防衛魔方陣術式》は切り裂けまい。……万里子の奴の《防衛魔方陣術式》がそうであったようにのぅ』


 にわかに眉間に皺を寄せて彼女は舌打ちをした。未だに彼女の、官舎万里子への憎悪はそれこそ色濃いらしい。


『……しかしそれはそれとして、じゃ。ひづり、お主がその紫色の《魔方陣》を受け継いだというのは、《契約相手》としてわしも非常に頼もしい。加えて花札千登勢、あやつもずいぶんとお主を好いておる。《ヒガンバナ》もわしの家臣であるしの。お主が十分に《召喚魔術》を身につけた後は、補佐としてあやつらにも《レメゲトン》を貸し出し、《召喚魔術》をしっかりと教え込んでやるのも良いじゃろうな』


 彼女はそのような提案をして話を締めくくった。そうだ。あの時、《ベリアル》に撃ち抜かれた《ヒガンバナ》を《治癒》しようとして、しかし千登勢は《魔方陣》は紫色なのに、上手く《治癒魔術》を行使出来ていなかった。訊きそびれているため事実は分からないが、もしかしたら《ヒガンバナ》から口頭で説明を受けただけで、千登勢は姉から《レメゲトン》そのものを貸して貰えていなかったのかもしれない。それならあの時彼女が《防衛魔方陣術式》を用いることが出来なかったのにも説明がつく。《テウルギア・ゴエティア》いわく、《防衛魔方陣術式》を扱えるのは人間だけだという。つまり《悪魔》である《ヒガンバナ》からは教わる事が出来なかった《魔術》なのだ。……なぜ母が千登勢に《テウルギア・ゴエティア》を貸し出さなかったのかは分からないが、そもそも《ベリアル》のような《名》のある《悪魔》を相手にするような事態になる事を想定していなかったのかもしれない。


 だが実際にあの時、《七二柱の悪魔》からの襲撃は起こった。いつか同じ様な事態にもしまたなってしまった時のためにも、自分だけでなく、才能のあるという千登勢さんにも《召喚魔術》は少しでも身につけておいて欲しい、とひづりは思った。《防衛魔方陣術式》だけでもちゃんと扱えれば、より身の安全は確保される。実に良い提案だ、とひづりは思い、そして同時にそうなるべく、自分がまずその《召喚魔術》を早いとこ身につけねばならない、と決意を固めたのだった。


 ――そうしたところで白昼夢が覚め、ひづりはいつの間にか火が消えてしまっていた手元の花火を見下ろした。


 ひづりは同じ物をもう一つ手に取って、着火した。先ほどと同じ紫の花火がぱちぱちと燃え上がった先から消えていく。


 一人の《下級悪魔》と、二柱もの《ソロモン王の七二柱の悪魔》を召喚して手玉にとっていた母。人としてはどうかという部分が多かったが、しかし《召喚魔術師》としてはとても優秀だった母。紫色の強力な《魔方陣》を用いていた母……。


 決して立派なものとは言えないだろうが、しかし自分達が用意出来る魔術師・官舎万里子のための送り火としては、きっとこの紫色の花火はお似合いの一品だろう、と、ひづりはそんな事を思った。


 しかしそれと同時に、そんな母がもうこの世に居ない事を思い出してつい視界が少し滲んでしまった。


 もし生きていたら《魔術》の話をしてくれたのだろうか。いや、母が死んだからこそ天井花さんたちは自分と繋がりを持ったのだが……それでも、もしかしたらそういう《未来》だってあったかもしれない。


『ひづりは魔術師の才能があるぞぅ』


 子供の頃に無責任にそんなことを言った母。


 その責任を取るのに、もうちょっとくらい長生きしたって良かったんだぞ。


 ……でも。


「……またね」


 死んだ人はもう帰って来ない。そしてこの紫の火は、そんな彼女達を再びお墓へと送るための火なのだ。ひづりはぽつりと呟いて、一つ鼻を啜った。


 ぬるい夜風の中、その紫色の花火はやがてまたその光を失い、ひづりの手の中で小さく震えた。








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