『叶わない事』





 八月十六日。ひづり達が官舎本家に到着し、紅葉達が来てアヒージョや浴衣の事で騒いで、皆でお墓参りもして、紅葉と甘夏の料理バトルは白熱するも引き分け、迎え火も送り火もして、そうして行事としてのお盆が終わった、その翌日。ついにひづりと幸辰も官舎本家を去る日を迎えていた。


「甘夏お姉さん寂しい……」


 歳相応に普段は幸辰と同じくらい落ち着きのある雰囲気の甘夏だが、しかしひづりとの別れ際ともなるとやはり弟や妹と同じく抱きついて来てそんな駄々をこねた。とは言え毎年のことなので嫌ではない、というか、甘夏さんに別れを惜しまれるのはひづりとしても嬉しく、そして寂しいものであった。


「遅くてもお正月に。そうでなくても、また何か用事が出来たら、会えますよ」


 ひづりは、紅葉より数センチばかり低いその甘夏の頭を撫でながら、自身も反対の手で彼女の体をぎゅうと抱きしめた。


「そうね……。ええ。またね。また、甘夏お姉さんと遊んでね、ひづりちゃん」


 ……うん? いつの間にか幼い頃と立場が逆転している……? ひづりは甘夏の冗談に、ふふ、と微笑みを返した。


「はい。また父と来ます。甘夏さんも何かあったらすぐ連絡してくださいね。いつでも、ふふ、お相手させて貰いに行きますから」


 それから一際ひときわ互いにしっかりと抱きしめ合うと、やがてひづりはその手を離し、玄関の軒を出た。すでに車庫から車を出して用意していた父の元へ向かうと、ドアを開けてからもう一度甘夏の方を振り返り、おじぎをして、そして車内に入ってもまだ窓越しに手を振り続けた。甘夏も表の通りまで出て来て、その姿が見えなくなるまで手を振ってくれていた。








 ティッシュ箱が空になった。ひづりは足元のビニール袋の中に溜め込んだ自身の涙やら鼻水やらを拭ったティッシュの山を見下ろし、それからダッシュボードを開いてポケットティッシュが入ってないか探した。


「はい」


 高速インターまでの道中、赤信号で停まると、先ほどから見かねた様子で居た父が手早く後部座席から鞄を引っ張って来て中からポケットティッシュを取り出し、ひづりにそっと差し出した。


「ありがと……」


 ああ言って綺麗にお別れこそしたし、別れ際に泣きべそを掻くほどもう子供でもないひづりだったが、しかし時間差で涙が出るタイプだった。ただ父いわく甘夏も同じタイプだそうで、おそらく今回も今頃官舎本家のリビングで一人、ソファでクッションを抱きしめて泣いているだろう、という話だった。血縁の遺伝というのはどこで出るか分からないものだなぁ、とひづりは受け取ったポケットティッシュを目元に当てつつ、毎度の事ながらそんな事を思った。


「ん……?」


 不意にスマートフォンが振動し、ひづりはポケットから取り出して画面を確認した。甘夏さんかな? 何か忘れ物をしてしまったかな? と思ったが、意外にもそこに表示されていたメールの送信者は母方の苗字を冠していた。


「姉さんから?」


 青信号に変わり、再び車を進ませ始めた父がひづりと同じ予想をして訊ねて来た。


「いや、千登勢さん」


「……千登勢ちゃんから?」


 父は「どうしたんだろうね?」と視線を一瞬ちらりとひづりの手元へ向けた。


『こんにちは。お盆休みはどうでしたか? 私たちはこれから本家でお片付けをしてから帰るところです』


 千登勢からのメールの文面はそのようになっていた。


『予定いっぱいで、少し慌しかった感じです。千登勢さんはゆっくり過ごせましたか? 私はいま父と高速道路に入って帰るところで――』


 と、そこまで返事を打ったところでひづりは、はた、とその指を止めた。


 ……なんだ? 改めてもう一度その千登勢からのメール内容を見返したひづりは小さな違和感を抱き、気づけば涙も止まっていた。


 文字だけでは伝わらない事もある。意図しない伝わり方をする事もある。それはひづりだって重々承知だった。


 しかし何故か分からないが、先ほど受信した千登勢からのメールはその文章構成、というのか……それが少し、……小説で例えるなら、そう、どうも『作風が異なる』ように感じられたのだった。


 そう捉えたところで、ひづりはそういえばこの一週間、彼女の方から連絡が一度も無かった事を、そのメールの受信履歴を見て気がついた。お互い歳も離れている故に話題もそれほど豊富とは言えないが、しかし《悪魔》という繋がりがあって、また姉の怪我の事や各々の体調の具合、そしてお盆休みはいつもどんな風に過ごしているのか、などなど、そこそこにやりとり自体はしていたのだ。


 お盆休みに入るまでは。


 この一週間、彼女からの連絡はぱったりと途切れていた。ひづりは花札本家の事情をあまり知らない。だからあちらの家でのお盆期間がどのくらい忙しいものなのかは、これまでにある程度彼女から聞いていた内容から想像するしかない。しかし、連休中にひづりの方から二度ほどメールを打てば、それにちゃんと返事自体はあった。だからその時はひづりも特に気にしていなかったのだが、けれど今こうした心持ちでその二件の返信内容を見ると、やはりそれらもどこか妙な感じがした。


 彼女らしくない、と言うべきなのか。どこか余所余所しさがあるようにひづりには感じられていた。


 ひづりは眉根を寄せてスマートフォンの画面をじっと睨んだ。……どうしたんだろう? 自分の中で、彼女のメールの文面の、一体何が引っかかっているんだろう……?


 しかし父の運転する車のフロントガラスからもう高速道路の入り口が微かに見えて来た所でひづりはにわかに声を上げた。


「父さん! ちょっと停めて!!」


 普段穏やかな次女の口からにわかに切迫した様相で発せられたその声に対し幸辰の反応は早かった。瞬時にバックミラーで後続車が居ない事を確認すると適度にブレーキを踏んで速度を落とし、隣に原付も居ないのを確認すると車を路肩に寄せて停車させた。


「……どうしたんだい? 千登勢ちゃん、何かあったのかい?」


 急な娘の制止の声をすぐに緊急事態と受け取ったらしい、父は自身も携帯電話を取り出してひづりの次の言葉を待った。


 しかしひづりは携帯電話の液晶を見つめたまま無言で逡巡していた。迷いがあった。ただ、今車を停めなければ完全に『間に合わなくなってしまう』から、父にはブレーキに足を掛けて貰ったのだ。


 やがて意を決するとひづりはその電話帳画面を開いた。


「……ちょっと、電話掛ける。そのまま車、停めてて」


 ひづりはようやく父に言葉と視線を返すと、呼び出し音が鳴り始めた携帯電話を耳に当てた。


 数回の呼び出し音の後、ガチャリ、と受話器の持ち上げられる音が聞こえた。


『《和菓子屋たぬきつね》じゃ』


「天井花さんですか!? ひづりです!」


 焦りからか思わず声が大きくなってしまい、ひづりは我に返って少し前のめりになっていた自身の体を引いた。


 電話口の向こうの彼女も驚いたのか、数秒無言だった。


『……何かあったのか?』


 切迫したひづりの声音を察してか、彼女の声は少し低かった。


 まだ完全には振り切れていない想いがその胸にはあったが、ひづりは一秒でも時間が惜しく思え、焦り、そうしてついに思い切ってその重要な第二声を発した。


「……天井花さん、今、千登勢さんや《ヒガンバナ》さん達がどこで何をしているのか、《見え》ますか?」


 隣で父が微かに動揺を見せたのが視界の端で感じ取れた。


 天井花イナリ、《ボティス》が持つ、《未来と現在と過去が見える力》。そのうちの《現在視》。ひづりは初めてその行使を彼女に依頼した。一週間のお盆休みを終えてこれから帰る、というこのタイミングで。


 出し抜けの事で、また一切事情を説明せずの頼みだったが、しかし天井花イナリはすぐに対応してくれた。


『……千登勢は父親の市郎が運転する車に乗っておる。《ヒガンバナ》は千登勢のそばに、いつも通り《魔方陣》の中へと隠れておる。場所は……ちと待て、地図を出す。…………ああ、思うた通り、お主らと少しばかり近いところを走っておるな。ひづり、今幸辰と共にこちらへ帰って来ておる途中か? であれば、すれ違いになっておるぞ、花札の父娘とは。向かっておる先は…………む? これは墓地か?』


 予感が当たり、ひづりは焦りを抑えきれないまま携帯を両手で包むように持つと加えてお願いをした。


「天井花さん、重ね重ねすみません、少しだけ、《未来視》もお願い出来ますか!?」


 ひづりの携帯電話はそれから数秒間、無音だった。思案しているのか、それともすでに《未来視》をしてくれている最中なのか、ひづりには分からなかったが、それはずいぶんと長い時間のように感じられた。


 やがて耳に当てたままのスマートフォンのスピーカーが再び低めの声を響かせた。


『……ひづり、お主、千登勢らが官舎家の墓参りに行くところへ、鉢合わせをするつもりか?』


 どくん、と心臓が跳ねた。まさにひづりが想像していた通りだった。


 お盆休暇について花札千登勢は一週間前、ひづりに何度も確認するように訊ねて来ていた。いつ行く、いつ帰る、という話を、やけに多くやり取りしていた。それを思い出したのだ。当時は何も不思議に思わなかったが、しかし現実はこういうことだ。


 花札父娘は、官舎の人間と鉢合わせるのを避けるため、お盆が終わったこの十六日に官舎家の……官舎万里子の墓に、二人で手を合わせに行こうとしているのだ。そして『そうであるなら』と想定したひづりの意思は、天井花イナリの言った通り、彼女達と墓前で顔を合わせることを望んでいた。


『止めはせん。お主がそうしたいならば、己の責任で行動すればよい』


 しかし天井花イナリは特に否定も賛同もせず、あたかも突き放すかのようにそう言った。その『推奨は出来ない』という響きに、ひづりは思わず一つばかりの息を呑み込んだ。


 けれどひづりの知りたい事はもう十分に訊けていた。これ以上は、彼女の言ったように自己責任の域だ。人間同士の話にまで、天井花さんにおんぶにだっこをして貰うつもりはない。


「……ありがとうございます。……帰るの、少しだけ遅くなるかもしれません」


 自分はまた暴走しているのかもしれない。周りが見えていないのかもしれない。天井花さんにお願いをしたその上で、自分はこれから数十分か数時間後の未来に、ひどい無様を晒してしまうかもしれない。だからひづりは天井花イナリに対し、すでに申し訳なさが胸に満ち始めていた。


『構わぬ。お主が成すべきと思った事を成して来い』


 けれど天井花イナリの返答は普段よりその無関心さがやや強く目立ちつつも、そこに冷たさのようなものはなかった。


 ただ一つ、代わりに指示が来た。


『ひづり、今、受話器通話にしておるな? スピーカー通話に切り換えよ。隣に幸辰が居るのじゃろう』


 何もかもお見通しのその《眼》で天井花イナリはそのように命じた。ひづりはスマートフォンを耳から離すと彼女の言う通りに画面を操作した。


『……幸辰。おい、聞こえておるか』


 スピーカー通話になったひづりのスマートフォンから天井花イナリの声がやや割れ気味で響いた。隣でそわそわしていた父は驚いた様子でひづりの手元を振り返った。


「あ、えっ、は、はい! 聞こえます、天井花さん。どうされましたか?」


 戸惑いつつスマートフォンとひづりとをちらちら交互に見ながら、父は天井花イナリに訊ねた。


『これより、ひづりがお主に頼み事をする。しかしそれはお主にとって、ひづりの父親であるお主にとって、おそらくは不安で、心配に想う事であろう。加えて、知っての通りわしは《未来》が見えるが、かと言ってその会話は聞こえん。またひづりの心の内まで見ることも、当然出来ん。故に、ひづりの話をよく聞いた上で、ひづりのその願いを許可するかどうかはお主で決めよ。しかし、《荷》としてはかなり重いものやもしれぬ。先ほどひづりはわしに頼った。であれば、お主もわしに多少ならば頼って構わぬ。困ったならわしにまた電話をして来い。分かったか?』


 天井花イナリはそのように語った。


「はい、わかり、ました……」


 父もごくりと息を呑んだようだった。しかしひづりは既に自身の体が徐々に強張っていくのを感じていた。


 どうやら彼女が見た《未来》は、ひづりのこの思い付きは、ひづり自身が思うよりずっと良くない結果に着地するらしい。加えて、彼女は父にも助力をすると言った。温厚で尊大な彼女をしても、それはあまりに至れり尽くせりではないかという具合だった。


 故に、そうまで言われて、ひづりも何も思わない訳がなかった。


 天井花さんがそのような対応をするほど、自分がこれから父に相談しようとしていることは危険なことなのだろうか? 他でもない《未来視》が可能な天井花イナリによるその対応声明は、すでにひづりの行動意思を大いに削いで落としていた。


 …………でも。


『よく話し合え。良いな? では切るぞ』


「は、はい! 分かりました!!」


「あっ、ありがとうございました、天井花さん!!」


 親子揃ってそう言ったところで、ガチャン、という受話器の置かれる音と共にスマートフォンの液晶は通話終了の画面に切り替わった。


 わずかな沈黙のあと、幸辰が訊ねた。


「……ひづり? パパにお願いって、なんだい?」


 天井花イナリたっての命令だった。父は丁寧に、真摯な態度でひづりに問うた。


 ひづりは膝の上で拳をぎゅっと握り締めると顔を上げ、今一度父の眼を見つめてお願いした。


「父さん。今から、もう一度、母さんのお墓に行って欲しい。……千登勢さんと市郎さんが、母さんのお墓参りに今、向かってるって……天井花さんに《見て》貰ったんだ」


 父はひづりたちの会話から大まかながら予感していたのだろう。微かに眼を見開いただけで、すぐにまた優しい表情に戻って問いかけて来た。


「……じゃあ、二人は、ひづりや父さんたちに会いたくなくて、今日、墓参りに行っているんじゃあないのかい? ……会いに行って、どうするんだい?」


「……わからない」


 ひづりの返答は正直なものだった。本当だからだ。わからない。どうなりたいのか、どうしたいのか……。天井花イナリの言葉を聞いた今、もはや自信を失って何も分からなくなっていると言っても良かった。


 けれど。


「……私は、千登勢さんに嘘を言わせた。これから自分達も片づけをして、家に帰る、って……。本当は、今、官舎家のお墓に向かっているところなのに……」


 今日、この時間帯に自分達が官舎本家を去ることを、ひづりは先週千登勢から訊ねられて、答えていた。そんな彼女が、このタイミングで先ほどの様なメールをして来た。……嘘のメールを。


 そこから見えてくるのはただ一つだ。父が言った通り、『官舎本家のお盆は完全に終わって、官舎ひづりと官舎幸辰も南新宿へ帰ろうとしている。だから自分達は今からお墓参りに行っても、官舎の誰とも鉢合わせずに済む』という、彼女達のそのような思惑に他ならない。


 ほぼ確実に、彼女達はひづりたち官舎の人間と、官舎万里子の墓前で顔を合わせたくないと考えている。おそらくは、顔を合わせづらいと考えている。


 ひづりはそれを『嫌だ』と思ったのだ。二人が、千登勢さんが、あんなに愛していたという母の墓参りに、官舎の人間である自分たちと顔を合わせるのを避けるためだけにお盆を過ぎてからようやく出向くような、こんな現状は。


 千登勢さんはどう思っているのだろう。あの人は、母さんの迎え火も送り火も、本当はしたいのではないのか。それをまず問い質したい。そしてそう願ってくれているのなら、今はもう官舎本家に扇の血を引く花札千登勢の事を悪く言う人間など居ないということを彼女には知って欲しい。……いや、佳代秋が居ると言えば居るが、あいつが何か言おうものなら自分が黙らせる。


 官舎本家は今、今年のように少人数で過ごして、つつましくも幸いに過ごせるのだと、それを花札千登勢に、そして千登勢と万里子の実父である市郎にも知って貰いたい。ひづりはそう思ったのだ。


 話したい。そして聞かせて欲しい。……天井花さんはあまり勧められない、という態度だった。だからきっとあまり良い結果にならないのかもしれない。


「……でも」


 それでも。


「私は千登勢さんに、母さんのお墓参りを、何の後ろめたさも無く来られるようになって欲しい……。送り火の花火を、私は千登勢さんと一緒にやりたい……。そのために話をしたい。千登勢さんと市郎さんに、伝えられることを伝えたい。父さん、お願い。私のしたいこと、手伝って欲しい」


 ひづりは父の眼を真っ直ぐに見つめて頼み込んだ。


 父は次女の視線を受け止めつつも、しかしすぐに返事をしなかった。やがてハンドルに手を添えて正面を見据えた後、伏目がちに深い息を吐いて、それからゆっくりと振り返り、語った。


「……今から話す事は、父さんの……いや、私の気持ちの話だ。官舎幸辰としての話だ。まずそれを分かって欲しい」


 その視線を受け止めたひづりは思わず呼吸が一瞬ばかり止まった。自分の父の、《父》ではない顔。それは今まで一度も見たことがない、《ただ一人の人間》としての顔だった。


 彼は語った。


「千登勢ちゃんのお父さん。花札市郎。彼は、ひづりにとっては母方の祖父……ただそれだけでしかないかもしれない。……けれど、私にとって花札市郎という人は、自らの長女を……万里ちゃんを、あの扇家に置き去りにして、見捨てた男だ。例えそれが不可抗力だったとは言え、それでも父親だった彼には、娘を、万里ちゃんを守る義務があった」


 静けさを保ちながらも、しかし普段柔和な彼の語気は今確かに荒く強まっていた。


「……けど、最近だ。彼の次女の千登勢ちゃん。万里ちゃんの妹……。この一ヶ月で、ひづりは彼女と親しくなった。ひづりは千登勢ちゃんの事を、今語ってくれたように、とても大切な母方の叔母だと、そう思うようになったんだろう? それは私も見ていて、分かっている。分かっているんだ……。花札市郎はあの日、扇家からただ逃げただけじゃない。せめて次女だけでも、ちゃんとした環境で育てようと思ったんだろう。父親として、千登勢ちゃんに深い愛情を注いで、大切に育てて来たんだろう。そうして立派な大人になった千登勢ちゃんが、この一ヶ月で、ひづりととても良い関係になった。ひづりがあの日、旅行に誘おうと思ったくらいに……。それは、数十年前の出来事を帳消しに出来るほど、私にとって…………父さんにとって、嬉しい事だったんだ。父さんの中にあった市郎さんへの怒りも、今はずいぶんと薄れている。この一ヶ月ほどで、大いに……」


 複雑そうな表情で顔色も暗くしていたが、けれどそう語った父の声音はそれでも優しいものだった。


 自分と千登勢との関係を心から喜んでくれている、それがひづりにもちゃんと分かった。


 だが直後、にわかにその顔を上げると彼は改めてひづりに向き直った。


「けれど、だからこそだ、ひづり。父さんもひづりも、官舎家の人間だ。そして千登勢ちゃんと市郎さんは、花札家の人間なんだ。たとえ血縁であっても、違う家の人間だ。あの二人が官舎家の人間に顔を合わせたくないと言うなら、千登勢ちゃんがひづりに嘘を吐いてまでそうするというのなら、その繊細な感情に対してこちらから触れに行く事は、互いの今の関係を壊す危険を大いに孕んでいる。……二人がお盆の日に万里ちゃんのお墓に来ないのは、ほぼ確実に、その後ろめたさからだろう。特に市郎さんが、だ。次女の千登勢ちゃんを育て上げた事への誇りこそあっても、幼少の頃に長女の万里ちゃんを見捨てたその罪悪感は、あの人の中から決して消える事は無い。それは誰が許そうとも、彼自身が許すことが出来ない、そういう種類の罪なんだ……」


 同じく二人の娘を持つ一人の父親としてだろう、彼のその言葉は充分過ぎる程の重さを伴ってひづりの両肩に圧し掛かって来た。


「……ひづりの考えている事は、話し合いというその行為は、確かに大切なことだ。けれどそれは、長年重い《後悔》を背負い続けた老人には、耐え難い苦痛である可能性が高い。……市郎さんはもうずいぶんな歳だ。千登勢ちゃんから聞いている。最近、少しずつだけど介護が必要になって来ていて、来年には車の免許も返上すると。まだ症状は軽いが、患っている持病も多いと……」


 父は改めて姿勢を正し、そしてひづりの手にそっと触れた。


「ひづりは間違っていない。けど、それで市郎さんが耐えきれず、病状が悪化したら。心がその罪悪感で潰れて、狂ってしまったら。ひづりは、彼の娘である千登勢ちゃんと、それからどう接していけばいいのか、分かるのかい?」


 ひづりは愕然として言葉が出なかった。その《未来》はどこまでも恐ろしく、受け止めるにはあまりに苦し過ぎるものだった。


 加えて、千登勢の気持ちを想えば尚のこと足がすくんだ。もし自分の父の一番突かれたくない苦しい場所を責め立てる者が居て、しかしそれがどこまでも正論で、そしてその責め立てる者が、自分にとってとても親しい人であった時、自分はきっとその人を今まで通り好きではいられない。たとえ好きで居たいと思っても。


 自分はやはり、父の事が好きだから。どうしようもないくらい子離れできない人だけど、姉と自分をほとんどその男手一つで育ててくれた立派な人だから。ひづりは父を愛し、尊敬している。


 そしてそれは花札千登勢も同じはずなのだ。そうでなければ、若くして死んだ姉のために、長女のために、二人で墓参りになど来ない。


 考えるまでも無い事だったのかもしれない。自分は官舎ひづりで、あの人は花札千登勢なのだ。苗字はただの便宜上のものではない。複雑な家庭の事情がそこにはある。


 願いだけではどうにもならない現実がそこにはあるのだ。


「……私」


 うつむいたまま、ひづりはその眼に涙を滲ませた。


「父さん……。ごめん……。私、今日は……千登勢さんたちには会いに行かない……」


 ひづりはもうそれ以外の言葉を選べなかった。


 無力感じゃない。間違えた訳でもない。ただ悲しかった。そういう悲しいことがあることをひづりは知っている。ただ、それを受け入れられても、悲しくない訳ではない。涙を抑えられる訳ではない。


 父はおもむろにひづりの手を優しく握ると、安心させるようにまた優しい声音で説いた。


「良いんだよ。ひづりが正しい。それでも、どうにもならない事はどうしてもある。それでも父さんは信じてる。ひづりの事を信じてる。ひづりが選ぶ全部を信じてる。絶対に否定しない。ひづりがこのまま家に帰るとしても、それを悔やむとしても、ひづりが今日、千登勢ちゃんたちにしてあげたいって思ったことを、父さんはずっと憶えてるから。だから、帰ろう。帰って、休んで、それから夕飯にしよう……」


 一度は止まっていた涙を再びその眼に溢れさせながら、ひづりも父の手を握り返して頷いた。


 ……けれど一つだけ。ひづりは父に、今日最後のお願いをする事にした。


「新宿に着いたら、私を《和菓子屋たぬきつね》に置いて行って欲しい……。天井花さん達と話がしたい。帰りました、って、伝えたい……。留守番してもらったこと、お礼を言っておきたい。暗くならないうちに帰るから……」


 すると父はそっと手を伸ばして体を乗り出し、ひづりの額にキスをした。


「分かったよ、ひづり。じゃあそれまで、少しだけ眠っていたら良い。たくさん泣いたし、考え疲れただろう? 千登勢ちゃんには、『ひづりは疲れて寝ている』って、父さんから連絡をしておくから。着いたら起こすよ。だからそれまでは、ゆっくりとお休み……」


 その穏やかな父の声に、ひづりは自身の強張っていた両肩から力が抜けていくのを感じた。そして改めて目元の涙を拭うと、そのまま助手席で体を丸め、赤く腫れたその瞼をそっと下ろした。


 ――花札千登勢と花札市郎。二人がこっそりと官舎家のお墓へ参る様子――。頭に浮かぶその空想はにわかに消えてはくれなかったが、それでも泣き疲れ考え疲れていた脳はその心の痛みを抑えるためか、数分もするとひづりを穏やかな眠りへと導いてくれた。









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