『優しい悪魔たち』





 焼き目の入った焦げ茶色の扉。七月の頭にはその横に日焼けして少々よれた求人の張り紙が在ったが、今は『店主療養中のため、九月まで休業致します』と書かれた真新しい紙へと張り替えられていた。


 ひづりは戸口の前に立って改めて深呼吸をすると、ポケットから取り出した鍵をその古い作りの鍵穴に差し込んで回した。


 からから、という引き戸の音と共に店内へ入ると、休業中であるにも関わらずフロア全体には電気が点いていて、入り口から一番近いお座敷席では天井花イナリと和鼓たぬこの二人が揃ってお茶を飲んでいた。


 彼女達は一週間の帰省より戻って来たひづりを見るなりその顔色をにわかに明るくした。


「おお、戻ったか」


「おかえりなさい、ひづりさん!」


 二人はすぐさま草履に足を通し、各々の歩調でひづりの元へと駆け寄った。


「はい。ただいま戻りました。一週間の留守番、ありがとうございました。何もありませんでしたか?」


 お辞儀をして訊ねると、天井花イナリが一歩前へ出てひづりの眼をじっと見つめて来た。


 そこには特に普段と違う感情の色は含まれておらず、一週間ぶりの再会に高揚してくれるでも、何かまたからかおうという意図も見受けられなかった。


 しかしだからこそひづりは、ああやはりそうなのか、と納得してしまった。


 彼女は《未来と現在と過去が見える力》を持っている。あの時、ひづりが千登勢たちに会おうとした事に対し、彼女があまり乗り気でないような声音であったのは、それはひづりが千登勢に会って何かを起こすからではなく、逆にこうして何もせずに帰って来るであろうことを、またひづり自身がその複雑な心持ちでここへ戻って来るであろう事を知っていたからなのだ。《神性》か《魔性》を持つ者が関わらなければ、《人間界》でその《未来》は変わらない。天井花イナリが教えてくれた事だった。


 ひづりが、自身の《契約者》が、一体どんな顔で帰ってくるのか。《未来視》では会話の内容などは聞けないらしいが、それだけは彼女にも《見えていた》。ひづりが少しだけ、普段とはやや異なる疲れ方をした顔で帰って来ることが分かっていた。


 けれど彼女はそれについて何も言及もせず、そのまま口角を上げて美しい赤の瞳を長い睫毛で細めた。


「休暇と言うておったのに、最後の最後でずいぶんと疲れた顔になって帰って来たな? 以前も言うたが、わしの力では会話やお主の心のうちまでは分からぬ。お主の表情などからしか、その具合を推し量ることは出来ぬ。……じゃが休暇の間もお主が《召喚魔術》への訓練に従事しておった事、魂の儀に幸辰らと共に務めておったこと、学校の宿題もちゃんとしておったこと、それらはわしも《能力》を用いて何度も《見て》おった。……まぁわしらはやることも無かったしの。しかしまこと、よぅ頑張ったのぅ、ひづりよ。相応の労いが必要であるとわしは考えておる。どれ、何でも言うてみよ。お主の望む褒美をとらせよう」


 そう言って天井花イナリはいつもの調子で胸を張った。


 《未来と現在と過去が見える力》を持つ彼女ならあるいは、と思っていたが、やはり度々《見ていてくれていた》らしい。それが分かっただけでひづりは胸が暖かくなったが、しかし今彼女が口にした言葉の方にその意識はかなり傾いていた。


 労い……何でも? ご褒美を、何でも? 何でも……。何でも……?


 逡巡するひづりの視線が、ぴくりと揺れた天井花イナリのその長い耳へと向けられた。


 ……え。『触って良いですか』、ってお願いしても、大丈夫なのかな。だって『何でも』って言ってたし……。耳、とか。その綺麗な髪とか。旅行先の温泉で結い上げる手伝いをした際に一度触れたその髪は、さらさらしていてとても触り心地が良かった。ひづりは両手に当時の感触を思い出していた。


 普段なら、絶対に触らせて欲しいなんて言えない部分。しかし今確かに彼女は『何でも』と言った。この王様、『何でも』って言った。


 あっ、《悪魔》はっ、約束を違えない……! ひづりは意を決して口を開いた。


「……じゃ、じゃあ……! て、天井花さんの、その……耳、と、お、御髪……触っても……良いです……でしょうか……?」


 ひづりがこれでもかと噛みながら訊ねると、天井花イナリは得意げにしていたその眼をやや丸く開き、それから二回ほど瞬きをして、そして一度にその顔を実に愉快そうな笑みへと歪めた。


「なんじゃ。触りたいのか、ひづりは。わしの体に触れたいのか。一週間もの時を離れて過ごし、寂しき夜に枕を濡らしたが故に、この再会についに耐え切る理性を失い、我が玉体にその指先を触れ、感触を味わいたくなったと言うか? ……ふふ、ふふふふ、あぁもちろん構わぬぞ、我が《契約者ひづり》よ。どれ、三階の寝室まで行くとするか。お主の好きなだけどこでも存分に触れ、甘えるが良いぞ……」


 彼女は、すすす、とその身を寄せて来てぴたりとくっつくと、いたずらっぽい、しかしそれ以上に凄まじい色気を撒き散らす微笑みを浮かべながらその小さな手のひらをひづりの喉もとから頬へ、唇へ、目尻へ、これまたいかがわしい手つきでゆっくりと這わせた。


 ひづりはまるで頭を引っぱたかれたかのようだった。


「ち、違います、違いますよ!? そこまで本格的な、その、そういうんじゃないですから!? ちょっと、ちょっとだけ、そのお耳に触れてみたいなーって! 御髪も、以前結い上げさせてもらった時にとっても手触りがよくて……だから、その、決して、そ、そういった意味では……!!」


 ひづりが顔を真っ赤にしながら弁明すると、天井花イナリは「…………なんじゃ」と残念そうな顔をしてその視線を適当なところへ転がした。……あれ? 本当に本気で今、誘ってたんですか? 冗談ですよね? …………冗談ですよね?


「……まぁ、お主がその程度で満足するというのであれば、ほれ、いくらでも触るが良い。……無論、誰でも易々と触れられるものではないことは忘るでないぞ。今は狐の耳となっておるが、本来は《魔性》そのものである《角》なのじゃからな。そして何より、王に対する相応しい敬意で以って臨めよ、ひづり。お主であるから、そしてお主のその努力を見ておるから、わしはこの身を触れさせるのじゃからな」


 そう言って彼女はそのまま少しうつむいてひづりの眼前にその長く白い狐耳と白髪の頭を差し出した。


 どきん、どきん、とひづりは胸の鼓動が早まっていくのを感じた。て、天井花さんの頭がこんな近くに……さ、触って良い、良いんですよね? 触りますよ? 触りますよ!?




 ……さわさわ。もにもに。




 耳! 柔らかい! あといつもの事だけど何か良い匂いする!!


 髪も、髪も撫でてみたい……。




 さらさら。するり。




 ……絹か何かかな? 温泉宿で触れた時と全く同じ感想がひづりの胸のうちで垂れ流された。


 お、おおお……。これは、これはご褒美としては、ええ、最高です、最高です天井花さん……!


「ふ、くふふ、少々くすぐったいな。どうじゃひづり? 労いとして、望んだ通りのものであったか?」


 耳やその白髪を撫で擦られながら彼女は少し顔を上げてひづりを見た。


「一生こうしていたいです」


 嘘偽り無く正直な感想をひづりは述べた。


 すると天井花イナリはこの上なく上機嫌な笑顔になって「ふはは! そうかそうか!」と快活な笑い声を上げた。


「お主に一生とまで言われ……ああ、それはもう悪い気はせぬが、しかしたまにであるからこそ良きものでもあろう。今日はもうそのくらいで抑えておけ、ひづり。いずれまた機会はある」


 名残惜しくその耳の先端を折り曲げたりして遊んでいたひづりの手首を掴み、天井花イナリは穏やかな声音でそう諭した。


「……して、電話があってから度々お主と幸辰の様子を《見て》おったが、お主、家に帰らず、途中で店に来たな? そんなにわしらに会いたかったか? 今更照れずとも良いぞ? うむ、そうじゃ、正直に言うなら、もう少し触らせてやっても構わぬが、どうじゃ?」


 彼女はひづりの手を掴む力を少し弱めながらまた妖艶な微笑みを湛えた口唇でそう囁いた。ああ、手玉に取られるぅ……。


「駄目だよ、イナリちゃん」


 と、にわかにかたわらで立ち尽くしていた和鼓たぬこが珍しく叱るような声を上げた。ひづりも天井花イナリも顔を上げ、彼女を振り返った。


「ちゃんと、『自分も、ひづりさんと会えなくて寂しかった』、って、言わないと」


 これまた珍しく彼女は胸の前で両手をぎゅっと握り締め、眉根を寄せて叱責するように言った。……いや、怒ってるのは分かるのだけど、全然怖くなかった。むしろ可愛い。


 しかしその彼女の言葉に天井花イナリはピタリと体の動きを止めていた。


「…………たぬこ。余計なことは言わんで良い」


 そしてその表情を険しくしつつ、やたら低い声でそう返した。


「駄目。それに、ひづりさんも、きっとイナリちゃんにそう言って貰いたいと思うよ?」


 天井花イナリの様子も気にせずぐいぐい行く和鼓たぬこに、ひづりは少々ハラハラしてきた。け、喧嘩? いつも仲良しなこの二人が? その初めての空気にひづりは動揺しっぱなしだった。


 しばらく二人は睨み合っていたが、やがて天井花イナリはかなり深めに息を吐くと和鼓たぬこから視線を逸らし、掴んでいたひづりの手を引っ張って手近なテーブル席まで歩いてその椅子を一つ引いた。


「……ひづり、髪留めを取れ」


 淡々とした、しかしやはり露骨に不機嫌そうな声音と表情で彼女はひづりのヘアピンを指差した。


「え? あ、は、はい……」


 ひづりは戸惑いながらも、いつも着けているそのヘアピンをすぐに取り外してテーブルにそっと置いた。


「では座れ」


 続けて天井花イナリは先ほど引いたその椅子を指してまた催促した。言われるまま、ひづりは大人しくそこへ腰を下ろす。


 すると天井花イナリはにわかに目の前まで詰め寄り、それからその小さな両手を広げてひづりの顔を捕まえるなり自身の胸にぎゅう、と押し付けた。


 しかしそれも束の間、彼女はその手で出し抜けに、ガシガシガシガシ、とひづりの髪をぐしゃぐしゃにすると、やがてぴたりと動きを止め、足を引いて離れた。


「……満足した。……たぬこ、梳いてやれ」


 そう言い残し、天井花イナリは休憩室の方へと歩いて行ってしまった。


「はい」


 和鼓たぬこはニコニコしながらそばに駆け寄ると袖から小さな櫛を取り出し、呆気にとられたままのひづりの乱されに乱された頭髪を優しく梳き始めた。


「……あの……あれは、一体何だったんでしょうか……」


 天井花イナリが去って行った休憩室の方を硬直した体で見つめたままひづりは和鼓たぬこに訊ねてみた。


「ふふふ。照れ隠しですね。少し意地悪をしてしまいました。でも、ああでも言わないと、イナリちゃん、絶対にひづりさんにかっこつけたがりますから。……イナリちゃんも一週間ひづりさんに会えなくて、寂しかったんですよ。素直じゃないんです」


 しょうがないんだから、と和鼓たぬこは嬉しそうな口調で答えた。


 つまりは、……かなり分かりづらかったが、今のは彼女なりの愛情表現だった、と理解すると、ひづりは急に顔が熱くなってきた。


 ……可愛いな。天井花さん可愛い……。私の《悪魔》が可愛い……。


「おい、ひづり。お主、明日の用事は特に無かったな?」


 などと考えていると休憩室から天井花イナリがにわかにひょっこり顔を覗かせた。びくり、と反応したひづりの背筋が一気に伸びた。


「えっ、は、はい。ありません……けど……」


 な、何だ? 急に何だろう? ……っていうか、明日の予定って、天井花さん、見ようと思えば見られるのでは……?


 天井花イナリは暖簾をくぐってフロアに戻って来るとそのままスタスタと店内を歩いてレジ横の受話器を取り、どこかへ電話を掛け始めた。


「……ああ、幸辰。今日じゃがの、ひづりは帰らん。お主も迎えに来んで良いぞ。ひづりは今日、うちへ泊まって行く」


 …………はい?


「どうやら一週間ぶりにわしらにうて、寂しさが抑えられなくなったようでの。まだ帰りとうないと言うて、わがままを言うのじゃ。わしとたぬこと、一泊過ごしたい、とな。仕方のないわらべよな。いやまったく、母親や姉とちごうて、実に可愛らしいことじゃ」


 ちょっとあの待ってください天井花さん何言ってるんですかちょっと。


 ゆ、誘拐される……!?


「……ああ、ああ、任せておけ。わしがきっちり面倒を見ておく。お主も旅疲れしたであろう? 今宵はゆっくりと一人で休むとせい。ではな」


 いや任せておけじゃないです。あ、受話器置いた。


 許可したな!? 父さん、今許可したな!?


「ひづりさん、今日、うちに泊まって行かれるんですか!?」


 すると意外な方向からにわかに高揚した声が上がった。そばで髪を梳いてくれていた和鼓たぬこだった。……ああ、この流れはもう駄目だ。


「お泊りですね!? ひづりさん!! 嬉しいです!! でも、ああ、どうしよう。何も準備していないのに。イナリちゃん、お泊りってどうしたらいいのかな!?」


 和鼓たぬこは今まで見たことがないくらいにはしゃいで、その尻尾をぶんぶんと振り回した。……あぁ、その尻尾、そんなに激しく動くんだ……。ひづりは思わず現実逃避した。


「そうじゃなぁ。ではまず夕餉と明日の分の朝餉の買い出しにでも行くとするか。ほれひづり、急ぎ、出かける用意をせよ」


 父を丸め込み、和鼓たぬこを完全にその気にさせて退路を塞いだ天井花イナリはその顔に今日一番の悪い笑みを浮かべて言った。


 ひづりは諦めて息を吐きながらその肩を落とすと、ヘアピンを拾い上げて立ち上がり「……待ってくださいよぅ」とぼやきながら玄関の戸口へ向かう彼女達を追いかけた。


 ……ただ、まぁ、元気付けようとしてくれているのは分かるのだ。うん。分かっている。二人は優しい。自分が《和菓子屋たぬきつね》へ戻って来ることが分かっていたから、彼女達はフロアに電気を全部つけて、またすぐに顔を見られる近くのお座敷席で待っていてくれたのだろう。


 なら、それに甘えよう。見ていてくれた王様が言うのだ。そして和鼓さんが見たこと無いくらいはしゃいでいるのだ。一週間留守番をしてくれて、その上こうして出迎えてくれた二人の好意を、どうして無下になんて出来るだろう。


 だから、今日くらいは良いよね……うん。










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