『いつの日か、きっと今日の事を』
奈三野ハナは、左手首にいつもスカーフを巻いている。黒色の薄い生地で、そのふちを白いエスニック柄が彩った、白い肌の彼女によく似合う一品だった。そしてそれは去年の十月、奈三野ハナの誕生日にひづりから彼女へ贈られた物だった。
彼女は以降、それを常に身に着けている。少なくともひづりは外したところを見た事がなかった。
誕生日、そのスカーフを受け取った彼女の喜び様と言ったらなかったし、実際それはハナの左手によく似合っていたし、ひづりも彼女には似合うだろうと思ってプレゼントしたのだった。ハナが喜んでくれた事はひづりもとても嬉しかった。
しかし、贈ったひづり本人の気持ちというのは、実に、それはもはや苦痛と言っても過言ではないほど、望んだ通りのものにはならなかった。
まず、ひづりがその黒いスカーフをハナの誕生日に贈ろうと思った経緯は、こうだった。
ハナの誕生日より三ヶ月ほど前、高校生になって初めての地元の夏祭りを、アサカとハナを含めた数人の友人でひづりは回っていた。
その時のハナの衣装は浴衣で、一方髪型はほとんどいつも通りだったのだが、いつも高めの位置で一つに括っているそのポニーテールの結び目部分にはその日、可愛らしくも大人っぽい、リボンのように結われた赤い生地のスカーフがひらひらと夕暮れの夏の風に揺れ、金魚の尾のようになびいていたのだ。
それがあまりにも似合っていて素敵だと思ったから、そのバリエーションにでも使って貰えたらと思い、ひづりはその三ヵ月後、彼女の誕生日にその黒いスカーフをプレゼントしたのだった。
その頃にはハナもよく笑うようになっており、アサカとも充分に打ち解けて、更には一年生の頃はかなり浮いていて独りで居ることも多かったが、次第にクラスの生徒らとよく話す姿をひづりも見かけるようになっていた。
しかし、ただ一つの誤算が、まさかそうなるとは思いもしなかった誤算が、以来ひづりを悩ませる事になっていた。ひづりが今心地良いはずの車内で眠れずに居る理由がまさにそれなのだ。
奈三野ハナの左手首にはリストカットの痕があった。それも一本や二本ではなく無数にあって、そしてそれらはいずれもそう何年も昔の物ではない、新鮮な赤さを残した物で、普段彼女はそれらを黒いリストバンドで隠していた。彼女はいつも運動の授業をサボっていたため人前でそれを外す機会がそれまで一度も無く、だからひづりも知らなかったのだが、しかしその夏祭りで浴衣を着てきた時、リストバンドが似合わないからだったのか、それとも別に何か理由があったのか、彼女は当時夏祭りに集まっていたたいして話したこともないひづりの友人らの前でその傷跡を初めて露出させた状態で現れたのだった。
『あいつはあのリストバンドでリストカットの痕を隠してるんじゃないか?』という、見たこともないのだから信じようも無い噂をひづりは一度だけ教室で耳にしたことがあった。だからひづりは初めてそこでちゃんと彼女の《傷》を知った。知ってしまった。
そして同時に、その時の彼女の浴衣姿の美しさから漏れ出ていた《それ》を感じ取ってしまったひづりは心臓をわしづかみにされたような息苦しさを感じ、最初にスカーフが金魚のようで可愛らしいと思ったことも忘れてしまいそうになるほど動揺してしまっていた。
あの時のハナは確実に《何か》がおかしかった。その隠し続けていた傷跡を晒した以外は特に何かした訳でも無かったが、確かに《何か》が違った、とひづりは今も確かに憶えている。そして確信は無いが、それが自分が抱えている問題と少なからず近いものであるとも感じ取っていた。
だがそれについて話し合うでもなく、分かる事があるでもなく、けれど数ヵ月後にはずっと仲良くなって、そして彼女はひづりが髪に結ぶ物のつもりで贈ったスカーフをリストバンドの変わりに翌日からその左手首に巻くようになったのだった。
彼女は本当に、本当に嬉しそうにしていた。リストバンドは蒸れるため、よくずらしたり隙間を開けたりしているのを見かけていたので風通しの良いスカーフは汗を掻きやすい手首にぴったりではあるし、それに彼女の手首に選んだひづりも嬉しくなってしまうほどそのスカーフは似合っていた。けれど、その下に隠されてるものを、ひづりは以来、夏祭りの時に止まっていた何かが再び動き出したように、ハナに対してそれを強く意識するようになってしまっていた。
《傷》というのは、体だけでなく心にも付くもので、そしてそれは時に一生残り続け、その人の人生を暗い道へと落とし込む、恐ろしいものだということをひづりは学んでいた。
だからこそ、ひづりはそれが、そのどうしようもない人間の心とどうにもならない現実というものが大嫌いで、酷く憎んですらいた。
傾く夕日が、差し込む窓を朱色に染めていた。ひづりは、ハナとアサカが《和菓子屋たぬきつね》に来店したあの翌日、天井花イナリと話した事をふと思い出した。
「あのハナとかいう娘、付き合いは長いのかの」
その日は少々強めの雨が降っていたため客足は少なく、当時お客は一席しか埋まっていなかった。暇だったのでひづりがレジ周りの機器の掃除をしてると、天井花イナリはおもむろにかたわらのお立ち台に腰を掛けて静かにそう訊ねて来た。
「黒髪の方、アサカとは幼稚園からの付き合いですけど、金髪の方、ハナは、去年の夏前くらいから、ですね」
ひづりは世間話くらいのつもりで捉えて返事をしたのだが、手を止めてよく見ると天井花イナリは少し真面目な顔をしており、何かずいぶんと考え込んでいる様子だった。
「どうかしましたか?」
その横顔に問いかけると、彼女は一拍置いてから首を傾げるようにしてゆったりとした仕草でひづりを見上げた。
「……気を悪くしたならば許せ。少しばかりじゃがの、あのハナという娘……万里子のやつと、本当に少しじゃが、同じ感じがするな、と、そんな事を思うてな」
「母さんと……?」
意外に過ぎる彼女の発言に、ひづりは思わず身を乗り出すようにして訊ね返してしまった。
「ああ。じゃが、少しじゃ。どこが、とまではっきりとは言い切れぬ。あと、ちなみに《未来》も《過去》も見てはおらぬ。値はせんと思うて、使うてはおらん。ただ――」
彼女は厳かな口ぶりで、僅かばかりの影を落としたその宝石の瞳をひづりの瞳に向けて言った。
「ひづり、お主はいずれあやつの事でつらい想いをするやもしれぬ。そういう予感が、そういった部分が、おそらく万里子のやつと似ておると、そう感じたのじゃろう。……名の通り華のある娘じゃが、おそらくそれも棘いばらゆえなのであろう」
そしてそう語り終えると天井花イナリは腰を上げてまたふらりと仕事に戻って行った。けれど去るその後姿がどことなく寂しげに思えて、ひづりはそれ以上、その話題について訊ねる事は出来なかった。
ひづりは視線を落としてハナの左手を見た。ひづりの右手を握っている、細くて、細かい綺麗なネイルアートが施されている、同い年の女の子の左手だ。その手首には変わらず件の黒いスカーフがリボンのように巻かれ、扇風機の風に揺れている。
その下にある傷跡をひづりは改めて想った。痛々しい切り傷の痕が数え切れないほどに存在していて、それが今も増えているのかどうかはわからないが、去年の夏に一度だけ見ることがあった際に窺えたそれは傷の治りから見て幼少期のものなどではなく、ほんの数ヶ月前にも付けられたと分かるほどに赤く、濃い桃色をしていた。肌の白い少女の体に走るにはあまりにも痛々しい、鋭い刃物による傷の痕だ。
だがその《傷》がひづりにとってつらいのは、見慣れないから、という訳ではない。ひづり自身にも傷の痕というのは多いし、かなり深めに刃物で切りつけられた経験もあった。
けれど、ひづりがハナのその手首を、それはもう苦手だとかそういった事を越えて、もはや恐怖にすら思っているのには、一つ、大きな理由があるのだ。
それは天井花イナリが話したように、母、官舎万里子のことだった。
左肩、両太もも、両膝、両すね、左わき腹についた紫色の痣。右肘、首、手のひら、そして下腹部と太股の内側に無数に残る、恐らくは火のついた煙草がそのまま押し付けられた、火傷の痕。
それらの《傷》が、ひづりの母、官舎万里子の体にはあった。たまに帰国して温泉旅行に行くたびにひづりは母のそんな体を見て育った。
また前途の《傷》の他に、母の体には顔を除いて、体中に刃物によると思われる無数の《切り傷の痕》が残っていた。いつ付けられたものかは分からないがいずれも白みがかっており、万里子自身の素肌より明るい色で目立っているそれらは少なくともひづりの記憶が最も古い頃からそこにあった。しかも年に二回は帰って来ては毎度温泉旅行に行く母の体を十七年間見て来たが、それらが増えるというような事は一度も無かった、とひづりは記憶していた。
ただ一度、その傷にまつわる事で、父の幸辰が激怒した事があった。それはごく最近の事で、二ヶ月前の葬儀の時だった。傷についてこそこそと話していた親族の数人を、父の幸辰が思い切り殴りつけたのだ。あれほど激怒した父をひづりは見た事がなかった。
ひづりには、決して誤解されたくない事がある。母の体に無数に点在するそれらをつけたのは断じて、ひづりの父、万里子の夫、官舎幸辰ではない、という事だ。もしこの事で笑う者が居たら、ひづりはそいつを二度と口の利けない体にするであろうほどに、己の父と母の愛というものを大切に捉えていた。
葬儀の際、出席したのはほぼ官舎、つまりひづりから見て父方の親族だけであった。母、万里子の親族は二人、彼女の妹とその父親が来ただけだった。
母の家は扇という金持ちの家だったらしい。しかし今は潰れてしまい、散り散りになっているから、妹と実父以外、誰も来ないんだ、と父は説明してくれた。
だが、葬儀以前、今から二年ほど前の事であるが、官舎の親族が集まった席でひづりは、本来なら父の幸辰が娘達に永久に隠しておきたかったであろう、その母の傷に関する話がされていたのを偶然聞いてしまっていた。
それはひづりが中学生の頃荒れに荒れた原因とも言える、凄惨な母方の家の話だった。
扇家では女の発言力が強く、結婚では必ず婿養子を取り、当代を名乗る女は母親を始めとした親族から厳しく躾けられるというが、実質それは完全に虐待のそれであり、また万里子の母親は一度離婚した後、内縁の夫を家に住まわせ、万里子はその義父から性的虐待をも受けていたという話だった。
ひづりと同い年くらいの時に、当時は恋人であったという幸辰の協力と、また法律と児童養護施設によってようやく守られた万里子が、それまでその実母と義父から一体どのような事をされていたのか。
当時十四歳だったひづりには、その情報はあまりにも重く、にがく、苦しいものだった。
……かつて幼かったひづりは一度だけ、母に体の傷について訊ねてしまった事があった。
『大冒険の時についた傷さ!』
魔法使いを自称していた彼女はそんな事を言って、嘘であろうに、魔法使い官舎万里子の冒険譚を、当時それらを疑いもしなかった少女ひづりに語って聞かせた。
けれども、母が『この傷はあの竜を倒した時の……』などと言って自身の体に付けられた傷の痕に視線を送る度、ほんのわずかずつの変化だったが、何を以っても、何が起こっても普段は見せないような……それを形容するなら他には無い、泣きそうな顔に母の顔は歪んでいって、それから何度も、何度も、口から出任せに流れる物語が進むたびに、その眼と鼻は赤くなり、瞳はどんどん濡れていって……。
その時初めて、官舎万里子は娘の前で泣いた。ひづりは母が泣いた本当の理由を当時理解出来なくて、しかし、官舎の親戚がしていた噂話によっておよそ数年越しに、自分がしてしまったその過ちのあまりの重さに酷く後悔し、胸のうちを潰されるような苦しみにそれ以後苛まれるようになったのだった。
ひづりが荒れた理由というのが、まさにそれなのだ。『女の子の下腹部と太ももの内側に煙草の火を押し付けられた痕がある』というのがどういうことか理解してしまったひづりは、以来、煙草を歩きながら吸ったり路上に捨てる輩を見るとにわかに脳と心臓が燃えるようになって、気づけば暴力沙汰を頻繁に起こすようになってしまっていた。そんな事をしても、母が十代の頃に受けた傷が消える訳でも、ひづりの後悔が消える訳でもなかったが、それでもひづりは自分を抑えられず、怪我ばかりして、父にもひどく心配を掛けてしまい、母はどう思っていたのか分からないが、そして最大の不幸として、最近この世を去ってしまった。
ひづりが後悔している事はそれだった。母がどんな境遇で少女時代を過ごしたのか知りつつも、ひづりには依然として万里子は万里子だった。話をする事が増えるわけでも、ましてその少女時代の話をする事も無かった。
だがそれでは駄目だったのだ、と、ひづりは気づかされ、それまで以上に母の事で悔やむようになってしまった。
天真爛漫、自分勝手、快楽主義のあの母に対してたった一つだけ、ひづりは言わねばならないことがあったのだ。
嘘の、出任せの物語で茶化しながら己の《傷》について語る母をあの時止める事が出来なかった、その謝罪を、ただ一言、『ごめんなさい』と、自分は言わなくてはいけなかった、と。
こんなに早く死ぬと思っていなかった、などという言い訳は意味を成さない。官舎ひづりが母の万里子に『ごめんなさい』を言うそんな機会はもう二度と来ない。
だから二ヶ月前、母の葬式でひづりは自身が想像もしていなかったほどに泣いて喚いて取り乱した。『ごめんなさい、ごめんなさい』と、棺おけにしがみついて泣くひづりの涙の訳など誰にも分かるはずもなかった。
今でもひづりの中で母の評価というのは変わっていない。子育てもほっぽりだして人生のほとんどを海外で過ごし、父に寂しい想いをさせ、また親族から冷たい眼で見られるような有様になる原因を作った母に対して、好きになろうだとか、母親として尊敬しようだとか、そんな気持ちの変化は一切起きなかった。
ただそれでも、あの時の事だけは謝りたかった。一人の人間として、一人の人間であった母に。
だからひづりは《傷》が嫌いなのだ。母の事を思い出して、耐えられないほどの後悔が押し寄せて、時には人前ですら涙が滲みそうになる。母にあのとき何もしてあげられなかった事をずっと悔いていて、今も、左右の友達が眠っているのを幸いに、眼と鼻を赤くしてしまっている。
姉とアサカの行動によって中学三年の秋頃にはひづりも精神的な落ち着きを取り戻していたが、やはりその後悔だけは消えなかった。一生背負って苦しみ続ける事が罰になるのだろう、そう受け入れることしか出来ないのだろう、とひづりは捉えていた。
だからひづりはハナの手首の《傷》が怖い。自分が送ったスカーフの下に隠れているその《傷》が、かつての母との事を思い出させるから。
ハナが喜んで身につけてくれているはずのそれが、自分が良かれと思って贈ったはずの誕生日プレゼントが、結果的にひづりに毎日のように、特にひづりの胸のうちにあって非常に繊細な問題であるそれが、はっきりと眼に見える形あるものとなって揺らぐのだから。
そしてやがてひづりには無意識にある衝動が生まれた。
自分の胸のうちにある、母へ謝罪できなかったというその後悔を払拭するために、その償いに、ハナの《傷》を癒してあげられはしないか、という、そんな考えが浮かぶようになったのだ。
それは傲慢で醜い心の弱さだ、と嫌悪し、ひづりは押さえ込み続けているが、それでも、いつかハナがその《傷》の事で助けを求めてきてくれたなら、という夢をひづりは見続けてしまう。ハナの《傷》も、自分の《後悔》も、どちらも消えてくれる、そんな都合の良いさいわいの夢を。
そんな、叶うはずのない夢を。
ひづりには、ハナの手首の《傷》に包帯を巻いてあげることは出来ない。仮にもしひづりが訊ねるような事があれば、きっと彼女は茶化すから。冗談めいたように、あの時の母のように、適当な話を唇の先から転がして、さっさとその話題を終わらせることだろう。そしてあの眼をするのだ。母があの時見せた、悲しい、どうにもならない現実に打ちのめされた人間の心を映したようなどこまでも暗く痛々しい眼差しを、自分は奈三野ハナにさせてしまうのだろう。
そして彼女は少しずつ自分から離れていく。そんな恐怖が、ひづりの中に確信として存在している。
ハナは少々おバカで、可愛くて、スタイルも良くて、その佇まいはどこをとってもきらびやかな女の子だけれど、その内側に見えないながらしかし確かに存在する酷く危い儚さをまるで隠しきれていない。彼女はそんな不器用な女の子だ。少なくともひづりにはそう見える。天井花イナリが母の万里子と似ていると言ったのは、きっとそういう部分のことなのだろう。
アサカは、きっとひづりが行くところならどこへでも付いてくるのだろうが、ハナは大学や就職といったそれらをちゃんと自分の意思や家庭の事情で現実的に決めるだろう。
官舎ひづりと奈三野ハナの時間は、高校生活を終えるまでの一年と半年ほどしか残されていない。
扇風機の風がまたハナのスカーフを揺らす。
三人の時間は過ぎていく。吐いた嘘がバレていると分かっていても、隠し通せていない相手の嘘に気づいていても、ただただ解決へ向かうでもなく、あっという間に通り過ぎていく。
焦りは消えない。奈三野ハナという少女と友達になった時から。官舎万里子の娘として生まれた時から。
あの日、母に《傷》の事を訊ねてしまった愚かな子供を演じてしまった時から。
――けれど。
おもむろに首を傾けて、アサカの寝顔を見た。
ごく最近だが、そんな焦りが少しだけ和らいだ事があったのをひづりは思い出していた。
あの日、二人で新宿へ出かけた和鼓たぬこが語ってくれた、天井花イナリとの話。
幼い頃は仲の良い友だったが、二人の《悪魔》はその性質の違いから環境が別たれ、天井花イナリは国の王に、和鼓たぬこはその片隅で貧困に陥った。けれど一歩を踏み出した天井花イナリの行動と、その後の《人間界》での数奇な運命が、二人を今こうしてかつての幼い頃と同じ様に、そばで、笑顔で、満ち足りた日々へと繋いでいる。
私もいつかそうなれるだろうか。ひづりはハナの寝顔に視線を向けた。彼女の《傷》を見て勝手に苦んでしまうこんな自分を、それでもいつか、変えられる日が来るのだろうか。
あの二人の《悪魔》のように、いつか大切な瞬間が来たその時に、天井花イナリが踏み出したというあの一歩を、自分も踏み出せるだろうか。
残りの日々は少ない。けれど日々は続いていく。来週も、来年も、明日は続いていく。
ハナが自分の《傷》とどう向き合うのか。自分が母への《後悔》とどう向き合うのか。それは今のひづりには分からない。
けれど生きてさえいればいつかの日は来るのだ。
いつの日か自分の《傷》と向き合えたハナと、いつの日か母への《後悔》と向き合えた自分が、その話をただ、ただお互いを傷つける事なく語り合える、そんな日がいつか来るのかもしれない。
そんな風にひづりは思えるようになったから。
ひづりは二人の手を少しだけ強く握ってゆっくりと瞼を閉じ、思った。
今日という日を憶えていよう。たとえ三人が三人でなくなる日が来ても。いつか訪れる悪意や不運によって互いを憎むような事になってしまうとしても。死ぬまで、抱えたあらゆるものが何も解決しないとしても。
それでも、こんなにも笑い合った今日を、三人がただ一緒に居られる今を、いつかの日にちゃんと思い出せるように。
こんな日々が自分達にはあったのだ、と、ちゃんと思い出せるように。
それが一歩を踏み出す勇気になってくれるのだと、優しい二人の《悪魔》が教えてくれたのだから――。
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