第6話 『二匹の猫と凍原坂春路』(前編)





 のどかでうららか、とはこういう事を言うのだろうなぁ、とひづりはしみじみと感じていた。


 《和菓子屋たぬきつね》、本日の昼休憩の時間まであと数分であった。客は皆帰り、こうして休憩時間までの間、テーブルを拭いたり片づけをしている時間がひづりは結構好きだった。フロアには自分と天井花さんしか居ない。一時のことではあるが、そんな静謐で雰囲気の良い店内を休憩時間までゆるやかな気持ちで作業に身を投じるのは嫌いではなかった。どこか、学校で担っている図書委員の仕事と似た心地良さを感じるとさえひづりは捉えていた。


 ……りん……ちりん、ちりん、と軽快な音が聞こえてくる。近所で誰か風鈴を吊るしているのだろうか、その涼しげで風流な音色が、ちりんちりんちりん、とどんどん近づいて――。


 ……近づいて? ひづりはおもむろに顔を上げて商店街の通りの方を振り返った。


「にゃは! にゃあーっはっはっは! にゃはははは!!」


 突然、店の入り口の戸が開く音と同時に、その人の声か猫の鳴き声か咄嗟に判別がつかない妙な笑い声が正午過ぎの《和菓子屋たぬきつね》店内に響き渡った。あまりに急な事だったのとその凄まじい声量にひづりは盛大に肩をびくりと震わせてしまった。


 な、何だ何だ? 一体何事だというんだ?


「何じゃお主。やかましいぞ。それにもう午前の営業は既に終わっておる。午後の時間にまた来るが良い」


 ひづりが恐る恐る柱の影から顔を覗かせると、レジの手前にある通路で天井花イナリが腰に手を当てて立ち、入り口の方を見つめてそんな具合に説明をしていた。


 子供、だろうか? とひづりは思った。天井花イナリが話しかける入り口の横には格子と、その下にちょっとした棚があって、ひづりの位置からなら身長百五十センチ以上もある客であればその棚を飛び越えて格子の隙間からその人物の頭が見えるはずだったのだが、どうもその格子から見える位置に、先ほどの妙な笑い声の人物の姿は見当たらなかった。そして実際、天井花イナリの視線も百四十センチほどしかない彼女と同じくらい水平の位置に向けられていた。


「聞こえぬのか? さっさと――」


 が、そこまで言ったところで俄かに天井花イナリの声がぴたりと止まった。ひづりは「おや?」と思い、また少し身を乗り出した。


 それはほんの微かな変化で、距離もあったせいで気づきにくい変化であったが、しかし確かにひづりはそのとき天井花イナリの眼が普段より大きく見開かれたのをはっきりと見た。


「……お主、まさか、《フラウロス》か……?」


 初めて聞く種類の声音だと思い、ひづりは静かに驚いた。動揺、驚愕、疑念。そんな様々な色が混ぜこぜになった、普段淡々とずばり語っていく天井花イナリをして、それは本当に珍しい声だった。


 フラウロス……? その響きの良い単語にひづりはどこか聞き覚えがあった気がした。それも最近。しかし思い出せなかった。


「にゃは! これは運命か! 互いに決められた争いの宿命であるか! にゃは! 剣を抜け! 牙を剥けい! ここで会ったが百年目!! 覚悟ー!!」


 まるで武将のような謎の物騒な掛け声を張り上げた後、シタシタという軽い、子供特有のスニーカーの足音が数歩駆けるのをひづりは聞いた。


 《それ》が、俄かに棚の陰から飛び出した。――それはつまり棚より数歩も離れていない廊下の角に立っていた天井花イナリのすぐ目の前にまで接近した、という事に他ならなかったのだが――。


「ふぎゃっ!」


 入り口の辺りからまっすぐ突っ込んで来たらしい《それ》は、しかし天井花イナリが組んでいた腕から解かれた左手にひっぱたかれるとそのまま横に吹き飛んで木の狭い廊下を転がり、柱の角から様子を窺っていたひづりの足元まで来てようやく停止した。


「な……な……」


 ひづりは足元で仰向けに倒れた《それ》を見下ろして愕然とした。


 確かに思った通り、それは子供だった。年齢としては小学校低学年くらいで、顔立ちや体つきから見るに女の子だった。


 だが、デジャヴのような背筋の冷えを感じてひづりは腰が抜けそうになっていた。


 ずいぶんと幅の狭いチューブトップに、もはや水着かと見紛うほどに丈が詰められた布面積の少ないショートパンツといういでたち。夏とはいえ極端に露出度が高められているそんな彼女の体には、なんとまるでかの有名なサイエンス・フィクション小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』に登場する《フランケンシュタインの怪物》の様な凄惨な無数の継ぎはぎの痕がそこら中に走っており、更に驚かされたのはその肌の色は半々に別たれており、片方は不健康に青白く、生きているのかどうかすら怪しいほどで、しかしそれよりも何よりも一番ひづりを驚かせたのは、そのもう片方の肌の色だった。


 彼女の顔の右半分、右腕、右足といったおよそ体の右側半分が、痣でもなんでもなく、元からそこは全てそういう色であるかというように毒々しい紫色で彩られていたのだ。


 加えてやや葡萄色がかったその黒い頭髪は異常なほどに長く、天井花イナリも踵ほどまでその綺麗な白髪が流れているが、この少女のは完全に自分の身長から更に半分は超えていようかというような長さで、普通に歩けばまず確実に引きずる長さをしていた。


 ああ、いや、注目すべきはそこではない。ひづりの視線はその毛髪の最先端部へと向けられた。


 その驚くほど長い黒髪は、先端部へ向かって一メートルほどが紫苑色へのグラデーションになっており、店内には大した風も吹いていないというのに、まるで、そう、まるで炎のようにゆらゆら、めらめらと揺らぎ、先端が次々に揺らいで千切れては虚空に消え、また燃え上がり、消えていくのだ。


 要するに、髪の先端が、薄紫色の炎のように燃えているのだ。そう言うほか無い有様だった。


 そして極め付けが、ひづりが覚えたそのデジャヴの一因こそが、その顔右半分の額の辺りからまるで当然のように生え、二十センチほども頭上へ向かって伸びている乳白色の《螺旋状の角》と、そしてその両脇にこちらももう当たり前のように生えている、まるで猫のような二つの《耳》だった。


 《角》と《耳》。そしてちなみに、……天井花イナリにぶちのめされてスッ転んで気絶している故なのか、髪の毛ほどではないがこちらも紫苑色の小さな炎が、ちらちらと蝋燭のようにその《角》の先端でまた揺れているのであった。


 誰に言われなくてもひづりには分かった。そして先ほど耳にして思い出せなかったあの《単語》が何故最近聞き覚えがあったのか、それも理解していた。


「ふ……《フラウロス》……?」


 ひづりが先日図書室で調べた《ソロモン王の七二柱の悪魔》の中に、その名前は確かにあった。彼の《悪魔》自体とても数が多いので全部の名前を暗記した訳ではなかったが、響きが良くて憶えやすかったから、という単純な理由で頭に残っていたのだ。


「あ、あのすみません! 今、これくらいの背の、黒い髪の女の子が入って来ませんでしたか!?」


 すると立て続けに今度は格子越しにもひづりの位置からはっきり見える、身長百八十センチに届こうかという、一人の中年男性が入り口をくぐって現れてそう叫んだ。


「……え、あ、あれ……?」


 男性は先ほどから立ち尽くして動かない天井花イナリを見下ろして不思議そうな声を漏らした。


「……人間。名乗れ」


 低い静かな声が、昼休憩前の店内に驚くほどはっきりと響いた。天井花イナリの口から発されたものだった。


 男性は戸惑った様子だったが、店内を一瞬一瞥するように顔を上げたあと、ひづりとその足元に転がる、どうやら彼の知り合いらしいこの……おそらくは《フラウロス》というこの小さな《悪魔》を発見すると、天井花イナリに向き直って慌ててお辞儀をした。


「す、すみません。うちの《フラウ》がどうやらとんだ失礼を――」


 天井花イナリの体が瞬間移動したようにひづりには見えた。彼女の体は廊下の角から消えると、次にはその百七十センチいくつの高さもある男性の顔の辺りへと移っていた。


 彼女の足は男性の両肩に掛けられており、左手は彼の胸倉をそのシャツが引き千切れんばかりに掴み上げていた。そうして男性の首元にがっちりとしがみついたまま、天井花イナリは右手に再び一瞬で現して見せたあの禍々しい剣のその刃を男性の首にピタリとあてがっていた。


「――名乗れ、と言うたのじゃ」


 まずい。呑気こいていたひづりの前に転がってきた《フラウロス》と思しきこの奇妙奇天烈な外観の《悪魔》に加え、続けて現れた男性にいきなり掴みかかって今にもその首を跳ね飛ばさんとしている天井花イナリ。ひづりはちょっとパニックになってしまった。


「凍原坂様に何をする! 離れろ!」


 と、ここでさらに新しい姿の見えない声が入り、ひづりはもう何だ、何が何だかで、とにかく天井花さんを止めなくては、とようやく柱の陰から出る決心をした。


 その時だった。


「あっ」


 天井花イナリはにわかに男性を蹴飛ばすように離れて器用に着地すると、ぱたぱたとひづりの方へ駆けて来た。え、何? と思いつつ、先ほど彼女が発した「あっ」が何の「あっ」なのかすぐに思い出して背後を振り返った。


 ひづりのすぐ背後に、姉のちよこが立っていた。


 その手に駅前で売っている稲荷寿司が詰められた箱を持って。


「はぁ~いイナリちゃん、こっち、こっちよ~」


 天井花イナリはまるで目の前ににんじんを吊り下げられた馬のようにその視線を稲荷寿司の箱に釘付けにされたまま、少しずつ従業員室の方へ下がっていくちよこに連れられてよたよたとそのまま誘導されていく。


 彼女がいきなり人を斬り殺すような事態にならなかった事には安堵したが、その尊敬する先輩従業員の痛ましい姿をひづりは最後まで見ていられず、眼を瞑って顔を背けた。


 やがて、ぴしゃり、と休憩室の扉が閉められる音が控えめに響いた。どうやらそこへ稲荷寿司と共に天井花イナリは閉じ込められたらしい。すぐにちよこが暖簾をくぐって出て来た。彼女はひづりと眼が合うと額を拭う素振りをしながら「一仕事した!」という顔をして親指を立てて見せた。確かに事態は一時的に収拾したが、ひづりは悔しくてちょっと泣きそうだった。


「凍原坂さーん?」


 それからにわかにちよこは入り口の方へ向かって声を張り上げつつひづりの脇を抜け、転がっている《フラウロス》を跨いだ。……この女は《悪魔》というものを本当に、本当になんだと思っているんだ……。


「ああ! ちよこさん! すみませんうちの《フラウ》が、店に近づいた頃に急に駆け出して先に入ってしまって……あの、先ほどの方は……?」


「ああいえ良いんですよ。お気になさらないで。それよりお元気なようで何よりですわ。ああ、どうぞ裏へ。畳部屋がありますから、そちらでお菓子でも食べながらゆっくりお話しましょう」


 ひづりは再び廊下の角まで来て、足元でまだ気絶している《フラウロス》をちらちらと見つつその顛末を眺めていたが、どうにも一向に話が見えなかった。


 凍原坂? 誰なのだろう。そしてさっきから彼は《フラウ》と、この足元に転がっている少女、《フラウロス》の事を呼んでいる。


 ずいぶんと遠慮がちでまた申し訳なさそうではあるが、ちよこに連れられて彼はこちらへ歩いて来た。やはり背が高い。廊下の壁の格子と比べて見るに、百七十七、八センチくらいはあるだろうか。黒いフルフレームの眼鏡の奥に優しげな垂れ眼を隠していた。身なりはそれなりに小奇麗に見える。


「あっ、もしかして……」


 転がっている《フラウロス》にばかり視線が行っていた彼だったが、そばの柱に隠れていたひづりに気づくとにわかに声をこぼした。


 そして。


「あなたが官舎ひづりさん、ですか!?」


 彼は急にひづりのそばまで駆け寄って来ていきなり名前を呼んだ。


 誰なのだ、本当に? 見たところ結構な歳で、父の幸辰と同じくらいに見える。ちよこの知人らしいが、何故この男は自分に対してそんな、……そんなきらきらした眼を、向けて来るのだ。ひづりはどちらかというと不審に思った。何せ姉の知り合いだというのだから。


 彼の脇には、寄り添うようにしてもう一人《少女》が立っていた。先ほど、天井花イナリが彼にしがみついた際に責めるような声を上げたのがこの《彼女》だったのだろうか、とひづりは考えた。


 もう驚くまい、とひづりは思った。彼女もまた《フラウロス》と同じように体中が継ぎはぎで、白い肌と紫の肌が交じり合い、頭からは猫のような《耳》と一本の《角》が生え、しかし対照的に髪は天井花イナリのように真っ白で、纏っている衣装も白い清潔感のあるワンピースに白いガルボハットという如何にも清楚な少女といういでたちだった。身長も《フラウロス》や天井花イナリと同じくらいだったが、《フラウロス》とは逆に、こちらは黙っている時の味醂座アサカのような物静かな雰囲気を纏っていた。


 ただ、彼女はその凍原坂と言う男のシャツのすそを握り締めたまま、先ほどからずっとひづりとちよこに冷たい視線を送っており、その白く長い髪の先端はめらめらと赤い炎の色で立ち上る様にして揺らぎ、額から生えた角の先端の火もごうごうと燃え盛っていた。


 凍原坂はしゃがみこみ、《フラウロス》をひょいと拾い上げて隣の彼女に手伝ってもらいながら慣れた手つきでその背に担ぐと、改めてひづりに向き直った。


「失礼しました。初めまして。凍原坂春路とうげんざかはるみちと申します」


 それからすっと丁寧な仕草で右手を差し出して続けた。


「十四年前、あなたのお母様、官舎万里子さんに命を救ってもらった者です」




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