『幼馴染として当然の下心』




 おいしい。もはや恐ろしいほどにその金つばはおいしかった。口にした途端、アサカは思わず先ほどまで企てていた官舎ひづりに対するいかがわしい悪巧みがほぼ不可能と判明してしまった現実に落ち込んでいたのも全て忘れてしまうほどに、その味覚の快楽に脳を満たされてしまっていた。本当に大丈夫なのだろうかこれは。変なものとか入れてない?


「めっちゃ美味しい……」


 向かいのハナが、パフェを口に運ぶかたわらうわごとの様に呟いた。彼女もアサカと同じ状態にまで陥っている様だった。


 これほどまでの美食に、和服にメイドエプロンを着た仕草の美しい欧州人の美人店員と、あのおよそフェティッシュな格好した美少女女子高生店員。加えてこの店の立派な佇まい。これほど完璧な和菓子屋が他にあるだろうか。いや、無い。アサカは天を見上げてゆっくりと小さく息を吐いた。


 美味しかった。ちょっと欲張って注文した《ちっちゃな豆大福セット》も、《夏季限定 冷やし金つば イチゴソース》も、わずか二十分ほどで食べ終えてしまっていた。ハナも数分前にパフェの器を空にして、自らの味覚に対する衝動に抗えなかった事を悔いてか顔を押さえてずっとうつむいていた。


 時刻は十七時二十三分。ひづりの退勤時間までまだあと三十分もある。優秀な二人の従業員だ、空になった器にじきに気づいて片付けに来るだろう。そしてひづりが言うのだ。


「食い終わったならさっさと帰れ」


 と。《和菓子屋たぬきつね》の天井を見上げるアサカの眼から一筋の涙が零れ落ち――。


 否。まだ、まだだ。私達の手駒はまだある。一手、残されている。うなだれている奈三野ハナには無くて、この味醂座アサカには有る、究極の一手が。


「ハナちゃん、諦めるのはまだ早いようだよ」


 涙を拭い、アサカは背筋を伸ばして言った。


「何……アサカ……だってまだあと三十分も……」


 腕時計を見ながらぼやいた彼女にアサカは返した。


「ハナちゃん。ハナちゃんも私も、この《和菓子屋たぬきつね》にあって、まだ会ってない人が居るでしょう。《重要なその人》に、まだ私達は挨拶が出来てない」


 涙目のまま不思議そうに首を傾げていたハナだったが、やがて気づいた様子でにわかにその眼に光を取り戻した。


 そうなのだ。この《和菓子屋たぬきつね》に於いて《最も重要な人物》に二人はまだ挨拶できていない。


 和菓子職人の、吉備サトオに――。


 以前、新装開店時に一度会ったきりで、今日はまだ彼に挨拶が出来ていない。厨房に居るのだからそれはそうなのだが、しかしこれだけ美味しかった和菓子の感想を、一応知人である我が身より申し出る事が、何故不可能であろうか。


 そう、お礼だ。こんな美味しいものを作ってくれてありがとう、と言うためのその口実が今、我々には出来たではないか。


「ひぃちゃん!」


 アサカは席を立って近くに居たひづりに声を掛けた。物静かなアサカの急な指名に彼女は驚いた様子で振り返ったが、すぐにこちらへ歩いてきた。


「どうした? あ、食べ終わった?」


 テーブルの有様を見てひづりは納得した様子を見せたが、彼女はもっと大事なことを把握し損ねていた。


 アサカの左手が、ハナの右手が、ひづりの両手をそれぞれ捕まえた。


「とっても美味しかったよ、ひぃちゃん」


 アサカが真摯な声音で伝える。


「こんな美味しい和菓子、食べた事がないよ、ひづりん」


 ハナも立ち上がってそれに続く。


「え、な、何」


 明らかにひづりは動揺していた。


 二人の視線がひづりの眼にまっすぐ向けられた。


「感謝の気持ちを伝えさせて欲しい。サトオさんに。今日まだ会えてないし、久しぶりだし、いいでしょ!?」


「あたしからもお願い! 今まで和菓子はたくさん食べて来たけど、こんな美味しい和菓子は初めて!! この気持ちを作り手さまに伝えずには帰れないわ!!」


 そう、二人は騒いだ。あえて大声で、店内の奥、厨房に居るであろうその作り手、吉備サトオに聞こえるように!


 アサカだけでは無理だった。ハナだけでも無理だった。しかしこの日、恋のライバルは手を組んでいたのだ。


 一応ではあるが知己であるアサカの声で彼を呼び出し、その後ハナの話術を以ってこれよりの《滞在言い訳二十分間》をどうにかして稼ぐ。


 店の閉店時刻は十九時で、現在は十七時半。先ほどネットで調べたこの店の一日の混雑状況を示すグラフから、もう今日の最後の繁忙時間はとっくに過ぎていた。


 つまり、この後《和菓子屋たぬきつね》は暇になるのだ。だからひづりはもうほとんど客が来なくなる十八時には上がらされるのだ。


 これは勝った。アサカもハナも勝利を確信していた。呼び出したサトオさんと二十分ほど話をした後ふたたび席に戻り、改めて何か小さめの和菓子を二人で注文し、一時は崩れかけた夢の計画を再度実現させる。


 和菓子屋店員官舎ひづりに専属接待してもらうという、夢の計画を。


 ありがとう運命。人とのキズナ。味醂座アサカの夢、ここに完遂――。


「ああ、ごめん。サトオさん今は居ないんだ。ごめんな」


 ひづりはその様に返すと、少々ばつが悪そうな顔をして謝った。


「……は?」


 思わず、アサカの口からその一文字が零れ落ちた。


 ひづりの腕を掴んだまま、視線をテーブルに落とす。食べ終えた和菓子の皿。とてもとても美味しかった、和菓子が乗っていた皿。


 それから再びひづりの顔を見た。


 そんな馬鹿な。嘘だ。今日食べた和菓子の感動は、以前訪れた際に得たそれと全く同じものだった。和菓子ソムリエではないが、同じ甘さと優しさが確かに今日の和菓子にはあった。


 それが、居ないだと? 嘘。嘘だ。どうしてひぃちゃんは今そんな嘘を……?


「……あ」


 店内と従業員室とを隔てる暖簾。厨房へと続くそこを振り返ったひづりがにわかに声を漏らした。


 アサカの視線も自然とそこへ行く。


「…………」


「…………」


 見知らぬ一人の女性が、暖簾を控えめに寄せて顔を覗かせていた。体はほとんど柱に隠れているが、その視線はアサカ達の方へ向けられていた。


 誰だ、あれは。記憶を探ってみたが、前回の来店時には居なかった、と思う。もしかして厨房で手伝いをしている人だろうか。


 天井花という名札をつけたフロアの少女と同じ欧州人の顔立ちをしており、髪も金髪で、こちらはくりんくりんの巻き毛だった。暖簾から覗くその顔の位置は高く、百七十センチほどもあるようだった。


「あー、実はね……」


 おもむろに、ひづりが重い口ぶりで語り始めた。








 将来の妻の口から聞かされた、現在《和菓子屋たぬきつね》の和菓子製作はほぼすべて彼女、和鼓たぬこ氏が担っているのだ、という話は、味醂座アサカにとって驚愕以外の何ものでもなかった。


「手先がとっても器用で、しかも手際も良くて……」


 説明しづらそうにしているが、そこに嘘は無いようだった。官舎ひづりは嘘があまり上手ではない。だから、アサカには分かった。ひぃちゃんは嘘をついていない。


 《和菓子屋たぬきつね》に於いて和菓子作り担当だった吉備サトオ氏は今、和菓子職人になるための修行時代に親しくなった知人が最近開いた和菓子屋で手伝いをしていて、朝ここを出て夜には帰ってくるが、この店の日中の和菓子作り担当は彼から《和菓子屋たぬきつね》の味を全て叩き込まれた在日フィンランド人の彼女が受け持っているというその話は、どうやら全て事実であるようなのだった。


 計画、挫折。十七時五十分まで、呼び出した吉備サトオと会話することで時間を潰し、ひづりとのイチャイチャタイムを確保するという計画は頓挫して崩れ去った。アサカは視界が白んでいくようだった。まだ十七時半……半……。


 ……あれ……?


 半じゃ……ない……?


 アサカは店内の時計と自分の腕時計を見比べた。


 そうなのだ。今のひづりの話は思いのほか長く、十五分ほども潰してしまっていたのだ。しかも店内にお客さんが少なくなっていたから、ひづりは同僚や他の客からも呼ばれず、説明の中断は成されなかった。


 隣のハナを見た。彼女はアサカより先にそれに気づいていたらしく、「やったぜ」という視線をアサカに送って来ていた。


 ありがとう、和鼓たぬこさん。初対面でまだ会話もしていませんが、あなたのおかげで充分な時間が稼げました。


「ほら、出ておいでよ。褒められたのだから」


 不意にそんな声が従業員室の方から聞こえた。


 天井花という従業員の声だった。それに押されながら暖簾をくぐって出てきたのは先ほど顔だけ覗かせていた件の和鼓たぬこ氏だった。


「え……だ、だめだよぅ、イナリちゃん……」


「大丈夫。高齢の方はもうみんな帰ってるから」


 なにやらそんな会話が二人の間で交わされていたが、アサカもハナもそれどころではなかった。


「あー、連れ出して来ちゃったんですか。じゃあせっかくだから挨拶しとく?」


 ひづりは先ほど「和菓子職人さまに賞賛を贈らせて欲しい」と言ったアサカ達の言葉を汲んだようで、掴んでいた二人の手を逆に掴み返してひっぱった。


「え、や、ちょっ」


 僥倖の後に待っていた予想外の展開に、アサカもハナも戸惑ったまま引っ張られ、そのまま彼女の前へ連れ出されてしまった。


 その和菓子作り担当だという、和鼓たぬこの前へ――。








 天井花は『いいよひづりちゃん。もうじき上がりだし、せっかくお友達が来てくれてるんだから、お話していて。それにあんなに熱烈にたぬこちゃんの和菓子を褒めてくれた人を無下には出来ませんよ。レジや、あとの事は私とちよこさんとで見ているから、ゆっくりしていて』と言って去ってしまった。


 違うんだあああああああ。アサカもハナも内心壮絶な絶望に暮れた。


「こちら和鼓たぬこさん、さっき言ったように和菓子作りの担当をされていて――」


 ひづりが和鼓たぬこを紹介する。十七時四十七分。


「こっちが私のクラスメイトで……。すみません、さっきは騒がしくしてしまって。今日はどうしても和菓子が食べたいって言って聞かなくて……こっちが幼馴染の――」


 ひづりがアサカ達を紹介する。これが長かった。十七時五十八分。


 そして、ついに……。


「あ、あの、ひづりさん、もうお時間ですよ……」


 最後のとどめを刺したのは、和鼓たぬこ氏だった。彼女は終始腕時計を気にしている様子だった。ひづりが時間通り上がれるよう、気にしてくれていたらしい。だがそれが今日、この日、このタイミングに於いてアサカ達にとっては「やめてくれ」だった。


「ああ、もうそんな時間。結局話し込んでしまいましたね。すみません和鼓さん」


「いえそんな。ひづりさんこそ退勤なさってください」


 和鼓たぬこは天井花と同じく綺麗で丁寧な日本語を用い、とても楽しそうにひづりと話していた。言葉遣いが丁寧で、大人な雰囲気があって、あんな美味しい和菓子が作れて、物腰がとても柔らかくて、胸が大きくて、可愛らしい愛嬌のある顔をしていて、スタイルが良くて、胸が大きくて、くりんくりんの綺麗なブロンドで、胸が大きくて、胸が大きかった。


 なんだあの胸は。なんで、和服のあの分厚い帯の上に、胸が乗ってるんだ。ひづりやハナという比較対象が普段からそばにいるためさすがにもう普段からあまり気にしないようにという気の持ち様がアサカには出来ていたが、しかし和服の帯より前に《それ》が飛び出すような、あんな一方的過ぎる物量を眼前に晒され続けてしまったら――。


 味醂座アサカの心は、《ひづりとの店員さんごっこイチャイチャプレイ計画》が潰れた事と相まって完全に崩れかけていた。となりのハナも同じようだが、彼女は逆にその眼前に持って来られた圧倒的な巨乳に興奮している様子だった。


 もはやこれまで。アサカは強烈な敗北感を胸に「今日一日、自分は一体何を……」と思わず眼に涙が浮かびかけた。


 と、その時だった。


「あ、あのひづりさん。上がった後、少しお友達の方々と何か食べて行かれては……?」


 和鼓たぬこが、暖簾をくぐろうとしたひづりに言った。


 え? とアサカの視線がおもむろに和鼓たぬこに向けられた。


「お作りしますよ、金つばでも、何でも」


 彼女は、まるで飼い主に心地良く撫でられている時の猫の様な笑顔でそう言った。


 ひづりの視線がアサカに向き、眼が合った。


 それからアサカは隣のハナと眼が合った。


 これは最後のチャンスだ。そう気づいたアイコンタクト。


「はい!」


「是非頂きたいです!」


 アサカとハナは元気よく答え、暖簾の向こうに行きかけた店員姿のままのひづりを引っ張り出すと自分達の席へと連れ込んだ。


「や、ちょ、せめてエプロンは取らせて」


「はーははは、残念ながらそれは許可できないのだよひづりん!」


「座って、ひぃちゃん。私の膝の上に座って。だめ! ここに座って! 膝の上に!!」


 ……結局ひづりは「これは勤務時の制服みたいなものだから」と言って三角巾もエプロンも外してしまったが、それでもアサカの要求通り膝の上には座ってくれて、また和鼓たぬこが後で運んで来てくれたお菓子を二人に「あーん」してくれた。


 出会いは衝撃的で、かつ計画は半分の達成に終わったが、アサカは少しだけ和鼓たぬこという和菓子職人の事を好きになれそうだと思った。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る