『想い人の職場』





 自分が少々特殊だ、という事に気づいたのは、実は小学校五年生の時だった。そしてそれが、もうちょっと早めに気づいていてもおかしくないくらい、周りの女の子達の大多数が気にしている事だったというのだから、その時ばかりは味醂座アサカも驚きに天地がひっくり返り、しかし同時にそれ以上の誇らしくて暖かい気持ちを胸に抱いたのを今でもはっきりと憶えていた。


 自分が男の子を好きかどうかとか、女の子が好きなのかどうかとか、そういった事を意識するずっと前から、一生好きでい続けると心に決めた相手が味醂座アサカにはもうすでに居たのだから。








 アサカは、同じ教室に通う女子生徒、官舎ひづりの事を愛している。深く深く、十代の女学生にあるまじき熱量で以って、愛していた。


 だからひづりの口から「アルバイトを始める」と聞いた時は、正直なところかなり戸惑った。聞けば、テスト期間中や店の繁忙期を除いた時期に、無理の無い時間帯でのみ入るという事らしいが、どうあれ、今ある味醂座アサカと官舎ひづりが一緒に帰宅する時間というのは確実に減少してしまうのに違いないのだった。


 それがアサカは寂しくて、けれど母親が亡くなってから少しだけ感じの変わった官舎ひづりが新たな事に挑戦するという姿勢を見せたのなら、そこへ口を出す事などアサカには出来ようはずもなかった。


 店は、彼女の姉夫婦が経営する老舗の和菓子屋であるとの事で、ひづりは和菓子作りなどの経験はないが、まずはフロアの手伝いをする所から徐々に全体の補佐が出来るよう学んでいく予定なのだと言っていた。彼女は昔から要領が良いからきっとすぐに店の仕事を憶えて、もうすでにほとんど上手にこなしているのに違いない。


 だが、やはり心配事というものがアサカの胸には生まれていた。


 姉夫婦の店とは言え、その優秀さから先輩従業員に疎まれてひづりが嫌がらせなどを受けてはいないだろうか、という心配だ。また先輩従業員と姉夫婦に気を使ってそういった事を誰にも話せずにいるのではないだろうか、とも。そういった憂いが、以来ずっとアサカの胸にはあった。


 実際、七月に入ってアルバイトを始めてから官舎ひづりは少し、どころか、かなり雰囲気が変わったようにアサカは感じていた。幼少の頃から見てきたが、今起こっている彼女の変化は、他の人の眼にはさして気にならないようであったが、アサカの眼には明らかに大きく、そして重大なものであるように見えてならなかった。


 アサカはその真偽を確かめねばならないと思った。官舎ひづりは「恥ずかしいから店には来るな」と言うが、今日こそは彼女が働いている職場に突撃するべく、とある一人の仲間を連れて彼女の元へと詰め寄り、一日かけて根気よく要求を続けた結果、どうにか来店の許可を貰う事に成功したのだった。


 仲間の名は奈三野なみのハナ。二年C組の教室にあって味醂座アサカとは対を成す存在であり、また同じく官舎ひづりを想う、恋のライバルであった。


 アサカとひづりは幼稚園からの幼馴染で、アサカはひづりの事がこの世の何より大好きで、愛しており、ひづりがヘテロセクシュアルだとしても将来的に結婚するのは自分だと信じている。


 腰に届きそうなくらいの一度も染めていないストレートの髪に、毎朝形を整えるのに気をつけている胸元のリボン。アンダーフレームのスクエアレンズは常に綺麗に磨かれており、スカート丈は校則通りでシャツも出してはおらず、重箱の隅をつつくなら前髪が少々長いくらいの、見た目だけなら絵に描いたような真面目少女であったが、実際のところ得意科目は運動の方に少々、いやかなり、いや極度に傾いており、はっきり言ってえんぴつを使う科目は全般的にダメであるというのが味醂座アサカという少女であった。


 そして一方の奈三野ハナは去年の夏前くらいからひづりと親しくなったらしく、以来アサカとも交流が出来た、何よりアサカとは正反対のクラスメイトだった。


 髪は常に明るく染められ、その先端には可愛らしいカールまで掛かっており、化粧は毎日していて、いくら注意を受けようが首のチョーカーを外す事も、常に三つか四つ開けられている年齢にしては平均よりだいぶ大きめのバストを包むシャツの胸元のボタンを閉じる事も、シャツのすそ出しをなおす事も、上げに上げたスカート丈を直す事もしないが、学業の成績はクラスを飛び越えて学年のほぼ頂点を常に競い続けているような秀才少女なのだった。しかし一方で運動の成績の方はまるで振るわず、走りだろうが跳びだろうが投げだろうが、大体いつも学年の最下位を同レベルの誰かと奪い合っていた。


 であるから、同じ二年C組に席を置かれているそんな調子の二人はよく『二Cのあべこべコンビ』などと呼ばれていた。これに対し、失礼な話だ、とアサカは憤慨している。コンビではなく、そこにどんな枕詞があろうと必ず『トリオ』と呼ばれるべきだ、と。アサカにとって世界の中心は官舎ひづりただ一人、ただそれこそが大切なことなのだから、それは当然の怒りであった。


 そんな訳で、奈三野ハナはアサカの恋のライバルでもある女だったが、勉学の成績が良いからなのか彼女は非常に言葉巧みであり、一辺倒のごり押し懇願しか出来ないアサカとは違い、良い悪いはこの際眼をつぶるとして、あの手この手を行使する事でどうにか、ついに、ひづりから来店の許可を見事その日一日で獲得して見せたのだった。ことこれには、普段から勉強を教えて貰っていて奈三野ハナに感謝しているアサカも普段以上の尊敬の念を抱かずにはいられなかった。


「言っておくけど、勤務中は相手とか出来ないからな」


 ただし、と少し怒ったように言うひづりに二人は調子よく肯定の返事こそしたが、今日この日に限ってアサカは、お仕事をしているひづりに構ってもらったりだとか、頭を撫でて貰ったりだとか、お店の和菓子をあーんしてもらったりだとか、そういったとてもとても楽しいアトラクションを満喫するのが主目的では無いのだ。でも時間に余裕がありそうなら是非やって欲しいと思っている。


 いやいや違う。そうだ、見極めるためだ。すべてはそのため。愛する少女、官舎ひづりがバイト先でつらい思いをしていないか、酷い先輩従業員が居ないか、それをハナと共に見極め、必要であれば無理にでもひづりをその労働環境から救い出す。ひづりのお父様も、嫁に行った長女より、嫁入り前で二人暮らしをしている次女の方の味方をするはずなのだ。


 休戦協定、愛しの官舎ひづりを守るために手を組んだ二人の女の決意を前に、敵は無いのだ。


「いらっしゃいませ。お二人さまですね。こちらへどうぞ」


 以前一度だけひづりと共に来た事があったその記憶を頼りに辿り着いたアサカが《和菓子屋たぬきつね》の扉を勢いよく開けたところで、想定外の存在と直面した。


 受けた印象はハナも同じだったようで、アサカと同じく隣で硬直していた。


「ああ、丁度いまとても良い席が空いていますね。運が良いですよ。窓際で、表の通りが眺められる人気の席です」


 店員らしい、和服にふりふりのメイドエプロンを身に着けた彼女は、太陽の様な笑顔で二人を迎え入れた。


 無言のまま二人は狭い木製の廊下を通され、指定された席に着いた。以前一度だけ《和菓子屋たぬきつね》の新装開店時でひづりと共に訪れた際、アサカは同じくこの席に案内された。確かに良い席ではある。頭上の提灯照明が背後の乳白色の壁を照らして反射し、右手の壁際にはめ込まれた窓ガラスからは通りを行き交う人々の姿がうかがえた。窓辺にはかわいらしい狸と狐の小物が置いてあって――。


「可愛かった……な……」


 アサカの向かいに掛けたハナが、深呼吸しながらおもむろに呟いた。彼女はテーブルに両肘を乗せて指を組み、そこへ頭を少しうなだれる様に乗せて静止していた。彼女の頬から流れるカールした金髪がわずかにふるふると揺れていた。


「外人さん、だったね……欧州とか、その辺りの……」


 本日、学び舎にて問い詰めたところ、ひづりはフロアに一人先輩従業員がいると言っていた。とても仕事が出来る人なのだ、と。その時のひづりの顔をアサカは思い出した。あんな風に嬉しそうに人を褒めるひづりの顔を見たのは初めてで、アサカは少々嫉妬しつつ「一体どんな素敵な人なのだろうか」と想像していたのだが――。


「ちっこかったね……」


「小さかったね……」


「超綺麗な金髪……! さらっさらだった……あれ地毛だねたぶん……」


「眼も、なんか、もう、宝石みたいだったね……」


「めっちゃ小顔やん……何あれ……」


「しかも美人だったね……」


「……見ろよ。すっげぇテキパキ仕事してる……」


「完全にベテランの動きだね……」


 感じたままの、本当にその通りの感想をつらつら並べたところで、互いに大きな、それはもう深い深いため息を吐き、そして同時に声を揃えて唸った。


「かわいいいいいいいいい……」


 あんな美人で可愛い娘が、欧州にはそこら中に存在するのか? ミックスだろうか、日本語がとても上手だった。眼が合って挨拶をして席に案内するまでのわずかな間に見せた、その低身長なれど完璧で品のあるしゃなりとした艶やかな歩き方、それに合わせて揺れる、色素の薄い綺麗なブロンドのストレートヘア……。


 アサカもハナも、完全に見惚れてしまっていた。


「ねぇちょっとアサカさん、話が違いませんか。店、間違えているんじゃないですか」


 神妙な面持ちで奈三野ハナがまっすぐこちらを見つめながら問うて来た。


「そんな訳ない。こんな立派な和式建築の和菓子屋そうそう無いもの。看板も確認したじゃない。それにさっきの店員さんのエプロンにつけてあった名札にも、ひぃちゃんが言ってた『天井花』って名前が……」


「いらっしゃい。何? 二人で何の白熱討論してんの?」


 ぶっきらぼうな、よく知っている声が不意に降って来て、二人とも反射的に顔を上げて振り返った。


「ひぃちゃん!」


「ひづりん!」


「はいはい私ですよ」


 思わず席から立ち上がった二人に、官舎ひづりはめんどくさそうに、また照れくさそうに言った。


「なんでメイドエプロン着けてないの!?」


「なんでメイドエプロン着けてねぇんだよ!!」


 アサカとハナは同時に悲痛な声で叫んだ。


 注文を取るメモ用紙をテーブルに一旦置くとひづりは二人の脳天に握り締めた拳をそれぞれ振り落とした。


「で、来てくれた訳ね。注文は? 決まった?」


 再びメモ用紙を手に取ると物ぐさな態度で彼女は腰に手をやって訊ねた。アサカは綺麗に入った、けれど一応手加減はしてくれたらしいちょっとだけ優しかったげんこつに頭をさすりつつ、改めて彼女のいでたちを見つめた。


 学校帰りの制服姿に、以前学校の調理実習で使っていたのと同じ三角巾と普通のエプロンを装備した官舎ひづりの今の姿は、先ほどの天井花という店員のいでたちから完全にメイドエプロンを期待していた身としてはいささか物足りない気持ちになりこそすれ、しかし決して劣るものではなく、別方向ではあるがアサカのフェチズムを刺激するのに充分な代物であった。しかも調理実習の時は特に何も思わなかったが、今は自分が客で、彼女が店員であるというそのシチュエーションにアサカもハナもひどく、それはもう酷く大興奮していた。


「いやでもこうして見るとアリだわ……ひづりんダメだわそれは……エッロいわ……」


「ひぃちゃん写真撮って良い? 大丈夫低い位置からとかは撮らないから絶対大丈夫、私はひぃちゃんの事いやらしい眼で見たりは……」


「――出禁にされたいなら続けろよ」


 驚くほど低い声で短くひづりが言い放ったので二人はそろって「すみませんでした」と返してカメラを起動しかけたスマートフォンをテーブルにそっと置いて大人しく席に座り込んだ。


「あら~ハナちゃんにアサカちゃんじゃない! 来てくれたんだぁ~!」


 と、またこちらも聞き覚えのある声がひづりの背後から投げ飛ばされて来た。


「お姉さん!」


 ハナが再び立ち上がって嬉しそうな声を上げた。ひづりの背後から現れたのは彼女の姉、官舎ちよこ……ではもうないのだ。そう、今は吉備家に嫁いで苗字が変わっているから、彼女の名前は吉備ちよこであった。アサカも小さくお辞儀をする。


「あらハナちゃん、またおっぱい大きくなった?」


 彼女は駆け寄ると出し抜けに奈三野ハナの胸を両手で持ち上げるようにした。騒ぎを耳にして覗いていたらしい、格子を挟んだ隣と横に連なっている席の方から小さな歓声らしきものが上がった。アサカは微かに眉根を寄せた。


「あは~分かります~? アンダー維持してるんで、たぶん前に会った時から二つくらいカップ増えてますよ。しかしまぁ本当にお久しぶりですね! 相変わらずお綺麗で~! 化粧水とか何使ってます? 今度ひづりんも連れて買い物行きましょうよ~」


 一方、その吉備ちよこに両胸を持ち上げられたり揉まれたり顔を近づけられたりしながらハナは嬉しそうに照れつつ世間話を開始した。


 と、にわかに手際よく、がん、がん、とひづりのメモ帳のカドが二人の頭を打った。


「和菓子屋の店内で何やってんだ。やめろ」


「いったぁ……もう! おっぱい揉むくらい良いじゃない! 和菓子屋が何よ!」


「お前の店だろうが」


 今度はぐりぐりと吉備ちよこの頭にメモ帳のカドが押し付けられた。「あはぁそれ痛いめっちゃ痛いひづりめっちゃ痛い、それだめ、あぁ」と漏らしながら吉備ちよこは押さえ込まれるままにしゃがみこんだ。


 アサカはこの吉備ちよこという女の事が少し苦手だった。将来ひづりと結婚する決意を固めた以上、義姉となる彼女との付き合いも上手くしていかなくてはいけないのだが、目の前にすると何故かいつもどうにも胸がざわつくような感覚に囚われてしまうのだ。今はおふざけをしているが、普段の彼女の言葉選びというのは常に嘘で守りつつ相手の隙を窺うような、そんな底知れない敵意のようなものがあるように思えてならないのである。


 巧妙な腹の探り合いをする女は別に珍しくも無いし、そういった部分、奈三野ハナとも少し似通うフシがあり、だからこんな風に仲が良さそうに振舞うのかもしれないが、しかし吉備ちよこの《それ》はどんな女の嘘も可愛く思えるほどにその背中に湛えているものはもっとずっと暗く色が無くてどこまでも深い、じめじめとした洞窟のような……たった一歩足を踏み入れる事さえためらわせる、そんな雰囲気があるのだった。


「ほら、姉さんは食器洗いに戻って。途中でしょどうせまだ」


「お姉ちゃんの仕事効率を把握しないでください~。じゃあまた後でねハナちゃん、アサカちゃん」


 ぶー垂れつつも彼女は踵を返し、天井花氏ほどではないがそれでも和服にたすき掛けをしたその服装に見合うだけの品のある仕草で従業員室の暖簾をくぐって消えた。


 張り詰めていた神経が解けるのを感じつつ、アサカは姉が仕事に戻るのを睨むように見つめていたひづりに声を掛けた。


「お姉さん、相変わらずだね」


 振り返ったひづりと眼が合う。どきり、とアサカの胸が鳴る。横顔も綺麗なのだが、そのぱっちりとしつつも鋭い眼差しにまっすぐ見つめられたら、少し薄暗い店の雰囲気もあいまってアサカは思わず顔が熱くなってしまった。


「そう、変わらないんだよ、あれは。結婚しても、経営者になっても。けど、どうにか食器洗いだけは手伝わせるようにした。姉さん、本当に店のこと従業員さんに全部まかせっきりであんまりだから、ついこの間、こっちも本気で訴えたんだ」


 どうやら、アサカが案ずるより先にもうすでに一悶着あったようだった。彼女の視線は再び従業員室の方へと向けられていた。その横顔には、嬉しい、とか、やってやった、とか、そういう良い色が浮かべられていた。


 杞憂。本当にただの杞憂だったのかもしれないな、とアサカは思った。店の先輩従業員たちは皆どうやら官舎ひづりの味方らしい、というのが、今はっきりと分かった。久しぶりに見たあの将来の義姉の邪悪な雰囲気を前に堂々と抵抗の意思を示し、そして実行出来る人間なんて、アサカは将来の妻である官舎ひづりを於いて他に知らなかった。


 それに、そうなのだ。あの吉備ちよこは、かつて官舎ちよこであった頃から、ひづりとアサカが幼稚園の頃から、初めて会った時から、すでにあの女は妹である官舎ひづりにだけは正直だったのだ。


 嘘を吐いた事も、悪い事をした事も、すべて打ち明けているのをアサカはこれまで何度も見て来た。言わなくても良い事を、隠していれば良い事をいちいち打ち明けて、叱られている。


 まるでそれが必然で、必要なことであるかのように。


 これまでに何度か、官舎家などでアサカは彼女と二人きりになった事があった。その時の人の違い様と言ったらなかった。いや、態度が露骨に違うとか、そういうことではない。ひづりが居ないだけで、彼女は世界中のあらゆるものに対し、人間や動物が持つ『暖かい好奇心』というものを一切見せなくなってしまうのだ。そしてそれは見せないのではなくてそもそも持ち合わせておらず、ただしひづりが隣に居る時だけ生じているのだ、ということに、アサカは最近気づいてしまった。


 以来、ひぃちゃんはそれに気づいているのだろうか、とアサカはつい疑問に思ってしまうのだが、しかしそこまで家族の事に深入りするにはまだ、十年の付き合いを以ってしてもまだ、早い気がしていた。特にこの姉妹の関係に関しては。


「商品、前に来た時からだいぶ一新してるから、ゆっくり選びなよ。決まったら私か天井花さん呼んで」


 そう言ってひづりは踵を返した。ハナほどではないが短めに巻かれたスカートが体の回転に合わせてひらりと舞い、アサカとハナは思わずちょっと屈んだ。……当然見える訳は無いのだが、これは避けられない脊髄反射、化学反応だとしか言い様が無い。先ほどまでだいぶシリアスな人間関係について考えていたとしても、だ。


「しっかし、このお店来るの久しぶり~。相変わらず店内のセンス良いよね」


 ハナが椅子にもたれて天井の梁や漆喰の壁、そして焼き色の入った廊下の木目や格子に視線を泳がせる。


 アサカも同感だった。ひづりも言っていたが、確かにこの《和菓子屋たぬきつね》という和式建築の佇まいと内装はあまりにも芸術性が高い。かつても今と同じように栄えた和菓子屋だったそうだが跡継ぎが決まらず、吉備ちよこの夫である吉備サトオの祖父は怪我を機に一旦店じまいをして以降は奥さんと二人、普通の家屋として使っていたらしいのだが、孫のサトオが立派な和菓子職人として修行から帰って来ると彼はその味を認め、店その物の権利をすべて孫夫婦に明け渡したというのだった。


 そういう経緯があった故か、お品書きに並ぶ吉備サトオ製の和菓子はどれも本当に美しくておいしそうなのだ。しかもそれは驚く事にお品書きの映りが良いだけでなく、出てくる物は写真よりずっと客の食欲をそそる出来栄えで運ばれて来る。それは食べる和菓子をあらかじめ決めて入店した客でさえお品書きを前にしばらく目移りをする、とネットの食レポにも書いてあったほどだ。


 だから当然、アサカとハナもお品書きを手にそれぞれ独り言の時間が続いた。


「わらびもち……いや、でもな、こっちのアイスも沿えてある小豆が……」


 『あべこべトリオ』の中で最も甘い物に眼が無いハナが、先ほどの明るい調子はどこへやったのかというほど真剣に、まるで入学試験にでも挑んでいるかというような気迫で、握り締めた常設のお品書きや期間限定品を載せてある方のお品書きを見比べていた。


 お店が少し家から遠いのと、何よりひづりの姉が居るという理由から来づらかったが、やはり以前一度だけだったが口にした彼の吉備サトオ氏が作る和菓子のことはとても忘れられなかったので、ハナほどではないにしろ上質な甘味の魅力には抗えないアサカも同じく真剣に見入ってしまっていた。


「……決めたぜアサカ。あたしは《夏季限定 抹茶とバニラアイスのあんみつパフェ チョコレートソース》で行く……!!」


 決意を先に示したのはハナの方だった。お品書きを手に取ってから実に十分後の事であった。


 頬を一筋の汗が伝い、アサカもここへ来てついに心を決めた。


「なら私は……この《ちっちゃな豆大福セット》と《夏季限定 冷やし金つば イチゴソース》で行く……!!」


 するとハナはお品書きをテーブルに伏せて額を押さえ天を仰いだ。


「あぁーそう来たかぁー! あたしもそれ! 《冷やし金つば》は絶対やばいと思って……」


「うるせぇぞこら」


 どうも近くに居たらしい、騒いだハナの頭をひづりが軽く叩いた。


 あぁ、今のちょっと羨ましい……とアサカは思った。


「ひぃちゃんひぃちゃん、今のやって……私も叩いて……」


 なので正直にお願いした。


 するとひづりは一度だけ瞬きをして「へ」とそっぽを向きため息を吐いたかと思うと一歩だけ近寄ってメモ帳を腋に挟んでからアサカの両頬を軽く抓った。


「うちはそういう店じゃないんだけど?」


 と、必然的に近づいたその顔で微笑んだ。


 ……ああ、ありがとうひぃちゃん……結婚……同じお墓に……。


「ひづりんひづりん、アサカが意識飛びそうになってるからその辺にしときなよ」


 ハナの一声でアサカはハッとなって自我を取り戻した。意識が数年後から数十年後の結婚生活からのお葬式まで行ってしまっていた。


「おお、ごめん痛かった? 大丈夫?」


 自覚が無いのか、ひづりはその後またアサカの頬をその両手の細い指でさすった。


「ありがとうございます。ありがとうございます」


 頬を撫でられながらアサカは目じりに涙を浮かべつつ両手を合わせて崇めた。


「ふふ、なんだ、大丈夫そうじゃん。で、注文決まった? だいぶ悩んでたみたいだけど」


 悩んでたみたいだけど、のところがやけに嬉しそうだな、とアサカは頬に残る将来の妻の柔らかい指先の感触をなるべく長く噛み締めつつ思った。


 姉とはともかく、義兄のサトオ氏とは上手くいっているようだ、とアサカは察して少し安心した。


「決まったよひづりん! あたし《夏季限定 抹茶とバニラアイスのあんみつパフェ チョコレートソース》!!」


 ハナが夏季限定の方のお品書きを掲げて元気に注文した。苦笑しながらひづりが「はいはい」とメモを取る。


「ひぃちゃん、私はこっちの《ちっちゃな豆大福セット》と、《夏季限定 冷やし金つば イチゴソース》にする……!」


 ひづりがハナの分をメモし終えたところでアサカも注文を行う。


「ああ、いいね。《金つば》の方、夏季限定のお品書きが出来上がった後で、本当に最近サトオさんが考えて追加した商品らしいんだけど、美味しかったよ。アサカも好きだと思う」


 メモしながらひづりは楽しげにそう言った。アサカも好きだと思う、の部分が嬉しくって、アサカはついまた頬が熱くなってしまった。


「そ、そうなんだ。楽しみだなぁ」


「うん。じゃあ少し待ってなね。すぐ出来ると思うから」


 ペンをくるりと回してそのまますとん、とエプロンのポケットに入れるとひづりは踵を返した。アサカとハナの姿勢と視線がまた下がる。


「しかしまぁ、心配はなさそうだねぇ」


 ひづりの後姿がまた暖簾の向こうに消えると、頬をテーブルに付けていた頭を持ち上げてハナが言った。アサカも頭を上げて彼女に向き直った。


「そうだね。ひぃちゃん、楽しそうに働いてる」


 官舎ひづりは『職場に友達が来て浮かれる』というようなタイプではない。こちらのテーブルへ来た際には多少、本当に少しだけ照れくさそうにしてはいるが、おそらくそれ以外は普段通りの勤務態度なのだろう。席を回って注文を取り、暖簾の奥に消えては、商品が乗ったお盆を手に出てくる。天井花氏ほどではないがその足取りは軽く、無駄が無い。


 その姿を見て「かっこいい」と思うのと同時に、アサカは安心した。吉備ちよこ氏は相変わらずのようだったが、ひづりはこの職場で至って健全にその業務に励めているようだった。


「そしてアサカ氏よぉ。問題が解決したところで、ふと気づいた事があるんだが、聞いてくれるかい」


 するとにわかにハナが江戸っ子のような調子で耳打ちした。アサカも乗る。


「なんでい、奈三野どん」


「この店……」


 ハナは数秒視線を周囲に巡らせたあと、神妙な面持ちで言った。


「もしかしてだが……この店、《店員さん指名制》を、採用していないのでは……?」


 アサカはハッとなって顔を上げた。完全に悪ノリであった。


「ってことは、追加料金でひぃちゃんが膝の上に乗ってくれたり、注文した和菓子をあ~んしてくれたりも……」


「あぁ、きっと無いぜ。こいつぁ少々まずい所へ来ちまったようだ……」


 二人でこそこそと演技がかった相談をしながら、決まりきっている一つの提案へと繋いでいく。


「なら……!」


「やる事は一つ……!」


 合わせた二人の視線が、同時に店内の時計へと向けられた。現在、時刻は十七時五分。聞いていた官舎ひづりの退勤時刻は十八時。


 それまで全力で時間を潰し、ひづりの退勤直前にテーブルへと彼女を呼び出し、接待してもらう! 同じフロア担当だというあの天井花さんは優しそうだったし、お友達が客として来たという現状を好意的に受け取ってくれていてもおかしくない。だから勤務終了時間手前であれば、アサカとハナの願いは実現可能かもしれないのだ。


 天井花氏にただ、


『いいよひづりちゃん。もうじき上がりだし、せっかくお友達が来てくれてるんだから』


 とさえ言ってもらえれば!! 現在の三角巾&エプロン姿のひぃちゃんに!! お膝の上に座ってもらったりとか!! 和菓子をあ~んしてもらったりとか!!


 ――出来るかもしれない!!


「はいお待ちどう」


 ことん、とアサカとハナのテーブルに《夏季限定 抹茶とバニラアイスのあんみつパフェ チョコレートソース》、そして《ちっちゃな豆大福セット》と《夏季限定 冷やし金つば イチゴソース》が並べられた。


「早いよ!?」


 アサカとハナの口から同時に出たほとんど非難にも似た声がテーブル脇のひづりへと向けられた。


 上等な和菓子である。さすがに出来上がるまで十五分から二十分くらい待つだろう、と時間つぶしの算段をしていたのに、まだ注文から五分も経っていなかった。


「な、なんだよ悪いのかよ」


 ひづりは少々面食らった様子で悪態をついたが、二人はハッとなって慌てて口裏を合わせた。


「う、ううん! すごいなぁー! さすがサトオさんだなぁーって思ってー!」


「そ、そうそう、わぁ! しかもとっても美味しそうー!」


 もうどう見てもあからさまでわざとらしい返答になってしまっていたが、二人の目的までは図りかねているらしく、訝しげにしながらもひづりは「ゆっくりね」とだけ言ってまた歩いて行ってしまった。


「……頼む物、失敗したなぁー。アイスじゃぁすぐ溶けちまうもんなぁー……」


 ハナは体を縮めるようにして、運ばれてきたパフェを見つめた。


「……お勧めされた手前、あんまりのんびりも食べる訳にもいかないし……」


 アサカも運ばれて来たイチゴソースの掛かった冷やし金つばを見下ろす。


 二人分のため息が店内の一角で人知れず転がった。




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