第5話 『奈三野ハナは水着にこだわる』





 東京都綾里高校に通う二年生、官舎ひづりの交友関係は狭くも広くも無いが、基本的には、大体以下の二人と行動する事が多かった。


 一人は、同じ二年C組に通う、味醂座アサカと言う女子生徒だった。見た目こそほぼ生徒手帳に記された校則通りのいでたちをしていて、黒いストレートの髪に知的な眼鏡はさぞ優秀な勉学の成績を収めているかのように思わせるが、実際彼女の能力値はほぼ運動、スポーツ、格闘技といった肉体の駆使方面に傾ききっており、外見から期待されがちな勉学の成績は、実は下の下だった。


 もう一人は、こちらも同じ二年C組に通う、奈三野ハナと言う女学生だ。こちらは味醂座アサカとは正反対で、髪はほとんど金髪ほどにも明るく染めてあり、またその毛先には雑誌のモデルがしているような丁寧なカールがいつも巻かれていて、首には小さくも輝く銀の留め金の黒いチョーカーが巻かれ、ブラウスのボタンは常に首元から四つほども開け放されて下のシャツが見えており、そのすそがスカートの内側に入っていた事は一度もない。スカート丈は生徒手帳が自然発火しそうなほどに巻き上げられて短くされており、まさに真っ向から校則に立ち向かおうといういでたち……ではあるのだが、彼女の学業の成績は近隣の都内高校でもそこそこ高い偏差値で知られる綾里高校の二年生の中にあって常に最上位を奪い合うほどに高く、それゆえに彼女の服装に対する注意も、他の生徒より少々控えめである、という事実があった。ただしこちらも味醂座アサカ同様に極端な欠点があり、彼女は体操着を着て行う事、つまりあらゆる運動行為に於いて大体常に最下位を歩き続けているほどに運動音痴なのであった。


 そんな二年C組にあって、見た目も、勉強の成績も、運動系の成績も真逆な二人の事を『あべこべコンビ』などと称される事がたまにあるが、当人達はそれを実際のところ全く以って良くは感じていない。当然ではある。そこに自身の欠点までを含めて、自身の友達とを比較して見られているそのような蔑称に怒りを感じない訳が無いからだ。


 ただそういった蔑称も、教師やクラスメイトが堂々と口にして笑いものにするために用いる、というような事が、しかし意外にもほとんど無かった。というより当人達が聞こえる場所で無闇に口にされるというような事はほぼ無かった。


 理由があるのだ。そこには実に、二つほど。


 一つは、見た目だけなら大人しい少女である味醂座アサカは過去、中学時代に剣道部だったのだが、理由までは知られていないが、とにかく喧嘩を売ってきた生徒十数人全員をその竹刀で滅多打ちにして数ヶ月の病院送りにした、という強烈な噂が、彼女が入学してからすぐに生徒らの間に誰が流したか広まっていたからだ。


 そうした経緯もあって、二年経った今でも綾里高校の二年生の間では少なくともその味醂座アサカのどこにあるのか分からない、ひとたび触れれば死ぬほど痛い眼に遭わされ、いわく竹刀を見るだけで発作が出る体にされるというその《逆鱗》を量りかねている以上、彼女からとにかく自己防衛するために、竹林を見て発作を起こすような体にはなりたくないがために、一方的な暴力や物言い、そして蔑称を用いるような者はほとんど居ないのだった。


 そしてもう一つの理由は奈三野ハナの方にあった。彼女は前途の通り武道など一切ダメなタチの女子生徒だったが、とにかく勉強が出来るのと同じくらい、クラス中のほとんどの生徒と《近からずも遠からずな良い関係》というものを築いていて、常に自分の立場が悪くならないような嘘を吐くことに長けていた。嘘を吐くのが上手な女子生徒らの中にあって、彼女のそれはひときわ巧妙で、そしてそれが敵意として使われた時に発生した被害というものを、誰が知ったか、話したのか分からないが、少なくとも敵に回すのだけは避けたいと思わせるような噂が勝手に一人歩きしていたのであった。


 であるから、そんな強烈な個性と《強み》を持つ二人の友人に普段から挟まれているにも関わらず、確かに中学の頃はちょっとやんちゃだったが今はそこまででもなく、服装も折り目正しすぎも悪すぎもなく割と女子高生としては普通の線を行っていて、勉強の成績は常に中の上くらい、運動もそれくらいのもので、人間関係は、まぁ、普通かなと言うくらいのその自分がそこに含まれず『コンビ』とされているのは、そんな比較的地味な自分に対する蔑称の意味合いもあるのだろうな、と官舎ひづりは察していた。


 一体誰なのだ、こんなセンスの良い蔑称を考えたのは、と発案者にはセンスの良さを褒めた後でしっかりとその顎に一発入れたい、とひづりは思わざるを得ないほどだった。馬鹿にされているのは自分だけではない、他でもない友人二人が主だったからだ。


 友達である以上当然と言えば当然だが、ひづりは二人の事が好きだった。そして二人も、……いや、こちらはひづり以上の好意でもって、ひづりへの《好き》を示してくるのだが。


 また運動が出来るとか、成績が良いだとか、そういった事は別としても、ひづりは実際のところちょっぴりだが優越感というものを抱いていたりもした。


 少しぼんやりとした雰囲気こそあれどアサカの眼はぱっちりと大きくまた綺麗な形をしていて、黒髪に包まれた顔の輪郭は芸能人の様に小さく、メガネを外した素顔がどれだけ整っているかをひづりは幼稚園の頃から見続けて来て知っているし、ハナもハナで化粧などしていなくても元々睫毛は長く、また日本人らしからぬほど鼻は高くて、少し上にめくれた上唇は色っぽさを湛え、そして三人の中では一番背が高く、とにかくスタイルがとても良かった。


 ひづりは、親類から『母親にとてもよく似ている』とよく言われる。勝気な目元が特にそうだ、という。要するに、喧嘩っ早そうだ、という評価だった。そもそも可愛いとか美人とかの評価ですらない。自分でさえ、不意に鏡を見ると「タバコを吸ってそうな女子生徒がこちらを見ている」と感じる事があるほどだった。


 そのため、美人のアサカと色っぽいハナに挟まれているとたまに顔面のことで劣等感を抱かざるを得ない瞬間というのもあるのだが、しかしなにぶんそんな二人がひづりに対して毎日のように「好きだ」と言うのだから、そんな劣等感を抱くのがバカらしくなって、結局気にならなくなってしまうのであった。そう言った点に於いてまた、ひづりは二人の事が好きだった。


 このように個性が強めの三人が上手く行っているのは、本当に奇跡的で不思議な事だった。彼女らが仲良しでいられる今は、今後の彼女達にとって大切な思い出となることだろう。


 たとえその裏にどんな事情があって、誰かがとても大きな嘘を吐いているとしても、だ。


 もしこの三人の中に、その大きな嘘を吐いている者が居たとして、しかしそれを責められる者が居るとしたなら、それはどうあっても、やはり同じこの三人の中の誰かでしかない。


 女学生達の時間は過ぎていく。あまりに速く、結末へ向かって。








「――ねぇ、ひづりん。夏ってさぁ……何なんだろう……ね……」


 朝。ホームルームを待つ教室の一角で、書店のブックカバーに包まれた少し昔の小説にひづりは眼を通していた。海外作家の長編小説で、再版自体は何度もされているらしいが最近ついに文庫化、つまり持ち運びやすい大きさに刷られたという事で、重たい本を持ち運び、またその頁をめくるのが億劫だという理由で手をつけていなかったひづりはようやくその物語に触れる気になったのだった。


「……フ、答えるまでも無い、ってか。そうとも。夏と言えば、海、プール。……と見せかけて女の子の水着姿……!!」


 ひづりの席と、その前の席との、間。ちょうど窓枠のある、畳まれたカーテンと開かれた窓ガラスによって存分に風通しがよくなっているその西側の窓辺に位置の高い腰を乗せるような格好のまま、奈三野ハナは何やら熱弁していた。


「だからひづりん、プール、行こうぜ。そして今日の放課後バイト無いでしょ? ちよこさんにメールで聞いたよ。今日の放課後、水着選びデートしようぜ! アサカと三人でさ、水着、買いに行こうぜ!!」


「……ちょっとお前、待って、話決めるんの早すぎるから、待って。……何て?」


 いつもの小芝居か何かだと思ってほとんど無視していたのだが、まくし立てる様に語られた今の内容はあんまりに急で勝手で、ひづりは思わず本を閉じてちゃんと彼女の顔を見上げた。


 教室に流れ込んでくるかすかな風にカールした彼女の毛先が揺れていた。付け睫毛をしていないというのが嘘のように長く濃いその睫毛から覗く瞳が、ようやく顔を上げてくれたひづりを見て嬉しそうに細められていた。


「だからぁ、今度のお休みにぃ、三人でプール行こ、って話。水着まだ買ってないっしょ? あたしもまだ~」


 彼女は窓辺に腰掛けたまま、体を横にゆらゆらさせながらへらへらと笑って見せた。


 確信は無いがしかし予感はあって彼女は今そう問うたのだろう。ひづりがこういう方向に対して、この文庫本がそうであったように、少々面倒くさがりである事を知っているが故に、奈三野ハナは今「まだ水着買ってないでしょ?」などと決め付けるように言ったのだ。


 ……そして実際、ひづりはまだ今年、新しい水着を買っていなかった。


 今年に入ってからもうすでに数回、水泳の授業は二年C組でも行われていた。身に着けるのはもちろん学校指定の水着で、一年の夏前に採寸して購入した物だったのだが、一年が経ち、今年になって身に着けてみると去年は感じなかった胸囲のかすかではあるがその窮屈さにひづりは顔をしかめており、帰ってから棚の奥の方にしまいこんでいた去年買ったプライベート用の水着をあてがってみて、やはり結び目の位置が去年とだいぶズレている事を知り、肩を落としていたのだった。


 だから今年、プライベートでプールに行くなら、ひづりには新しい水着は必須なのだった。


 しかし。


「やだ。めんどい」


 断ってしまえば水着を買う必要なんてものも無くなるのだ。ひづりは文庫本を再び開いた。


 するとハナは窓辺を離れ、ひづりの正面に立って机に両手をつき、強く訴えた。


「何で!?」


「……水着買いに行くのが面倒だから」


「……ほぁーん。やはり去年の水着ではいささかサイズが合いませんかなひづりお嬢様……」


 この野郎、いやらしい目つきしやがって。


 鎌掛けが当たって得意げな顔のハナに、ひづりは頬杖をついて言ってやった。


「っていうか、プールだの水着だの言うけどハナ、あんた、泳ぐのそんな得意じゃないでしょ」


 知っているのはこちらもなのだぞ、という具合にひづりは攻めた。去年まで浮かぶ事しか出来なかったというハナは、今年すでに数回行われた水泳の授業、現段階を以ってしても尚、しかしただ一つの水泳方法も習得出来ず、授業が終わるたびに落ち込んでいたのだ。


「泳げなくても良いんですぅー! ひづりんの水着姿とかアサカの水着姿とか見たいし一緒に水着選んだりしたいんですぅー!!」


「もう水着とプール行けよ」


 呆気なく本音を漏らした彼女にあきれてひづりは雑に突き放した。


「ねぇーん。行こうよぉーん。いいよねアサカは幼い頃からひづりんと海とかプールとか行ってさ! あたしは去年の夏ごろに仲良くなったばっかりだったから一度もそういうの行ってないのにさ! あーああ! 冷たいんだひづりんの心は冷え切った都会人の荒んだありようをそのまま映し出したようにざらざらでべとべとしててえっちなんだ」


「他は知らんけどお前にだけはえっち呼ばわりはされたくない」


 ……しかし、とひづりは思った。先ほどの水着の寸法の話だ。


 改めて思うが、そういう事がもうこんなにもお互い分かってしまう仲なのか、とひづりはにわかに奈三野ハナと出会ってからのこの一年を大雑把にだが振り返った。


 アサカはひづりの事ばかり見ているからひづりの変化に敏感であるが、ハナの場合はひづりの事『も』見ていて、それでこれだけ鋭いのだから、上等だ。生きていく上でそう言った観察眼は重要だとひづりも思う。少し分けて欲しいくらいだ、とも。


 けれど、とひづりは改めてハナの顔を見上げた。


「あ、アサカ~! おはよー! 今日さ今日さー!!」


 彼女は少々遅れてやってきた眠そうな眼をしたアサカを教室の入り口に見つけると手を振りつつ彼女の元へ駆け寄って行ってしまった。


 ……けれど、「決して我が姉のような有様にだけはなって欲しくない」と、残念な部分が少々吉備ちよこに似ているこのとても頭は良いのにやたらと奇行が目立つ奈三野ハナに、ひづりはそんな想いを馳せずにはいられなかった。


「水着選び、行きます」


 ハナの提案に即答したアサカの声がやけに大きく教室に響いたのを、ひづりは少々憂う想いであふれていた頭で聞いた。




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