『少し遠くの夏空へ』




 ハナが持って来ていた夏のおすすめスポットが掲載されている雑誌の中から見事栄冠を得たのは、千葉県の海沿いに在るかなり大きめの遊泳施設で、近隣にはテニスコートや公園もあるという立派なところだった。時期的にまだ夏休みに入っている学校は少ないだろうからそこまで混みはしないだろう、と思わせておいて、実際こういうのは思った以上に混んでいたりするんだよなぁ、とひづりはそんな覚悟を胸に、少し早く来すぎてまだ午前七時前を差している腕時計の針をちらちらと伺いながら、初めて来たその蘇我駅の日陰のベンチに掛けて少々落ち着かない気持ちで二人を待っていた。集合時刻は七時半という話になっている。


 遊泳施設を決めたあと交通機関の話になり、施設のホームページを見ると東京駅からの乗り換え方法が記載されていたが、そこでちょっとした不便さを予感したため、三人は集合場所をこの蘇我駅に決めた。不便さとは以下の通りである。


 ひづりとアサカの家はそこそこ近いが、ハナは浅草と東京駅寄りだった。休日に東京駅で三人が待ち合わせするのは少々難儀に思われたので、混雑度や集合のしやすさを考えて東京駅を過ぎた、目的地への中間地点であるこの蘇我駅を集合場所に選んだのだった。


 その外観は地図アプリの写真等によって初めて知ったものだったが、実際に来て見ると構造は東京駅や新宿駅のような魔境と比べると非常に単純明快で、初めて来る待ち合わせ場所としてはとても良い場所だったな、と、提案者であったひづりは少々満足感に浸っていた。駅構内には飲食店が並んでいて、蕎麦屋だろうか、揚げ物の良い香りがホームに着いた時からひづりの鼻を心地良くくすぐっていた。


 休日のためか人通りも結構なものだったが駅の見晴らし自体は良く、約束していた時刻から少し遅れて二人は集合場所に現れた。


 水着やタオルや財布を突っ込んだナップザックを提げ、半そでのシャツにショートパンツを着て申し訳程度の熱中症対策としてハンチング帽を被って来たひづりに対し、アサカもハナも中々におしゃれな、各々の背丈や髪型に似合う可愛らしい格好で現れた。


「はああ。ラフな格好で来た私を差し置いて、よくも可愛くおめかしして来やがったな。なんだいデートにでも行くのかい、おのれら」


 ひづりが炎天下の下、少しまくし立てる様に毒づくと、二人はひづりの腕を掴んで歩き出した。


「デートですとも」


 そう言って改札を抜けると屋根で日陰になった駅のホームに並び、「暑苦しいから離せ」と言われるまで二人はひづりにぴったりくっついていた。


 デート。そうですかい。ひづりの顔が少し赤いのは、暑さだけが原因ではなかった。








 蘇我駅から成東駅まで行き、乗り換えて松尾駅、から横芝駅、そしてそこから出ているという循環バスに乗り込んで、目的の遊楽施設へは到着する流れだった。


 三人がその横芝駅発のバスに乗り込んでしばらくした頃、不意にハナが訊ねた。


「ねぇ、ひづりん。たぬこさん達とは現地で集合?」


「は?」


 首を傾げたひづりにハナは「え?」という顔をした。それから見つめ合ったまましばらく二人の間にバスの走行音だけが続いた。


「……たぬこさん達もプール、来るんだよね……?」


「いや、来ないぞ? というか、いつそんな話になった?」


 《和菓子屋たぬきつね》のメンバーがこの行楽に参加する、などというそんな話は一度も出ていなかったはずだった。


 するとハナはにわかに立ち上がってひづりの正面を位置取り、叫んだ。


「嘘だ! 嘘だろひづりん!? 完全にあたしたぬこさんも来るって信じてたんだぜ!? ひづりんがどんな汚い手段を使ってでもあの、あのおっぱいお姉さんをプールに連れて来てくれるって!!」


「普段から私がコンスタントに汚い手段使ってるみたいに言うな。あとおっぱいお姉さん言うな。あとうるせぇ!!」


 しかし聞く耳持たず、というようにハナは若干膝を曲げると天を仰いで顔を押さえ、続けざまに絶望を吐露した。


「うそだああぁ。だってあのたぬこさんの水着っ、水着見たいって思うじゃん誰だってそう思うじゃん!! 飛び出してたんだよ!? 普通和服って帯より前におっぱい出る訳ないのに、たぬこさん普通に帯の上におっぱい乗ってたんだよ!? 何カップだったらああなるんだよ!? K……いやL!?」


 吼えるハナを放り、ひづりはポケットからパンフレットを取り出して眺めた。先ほどの駅で貰って来た、これから向かう遊泳施設に関しての物だった。気づいて、隣のアサカも身を寄せる様にしてそれを覗き込む。


「……あのねひづりん、あれから悩んでるんだよ私は!! 割と本気であの人とちょっと肌の接触が多めのフレンドになりたいって悩んでるんだよ!! どうしたら再びお近づきになれると思う!?」


「肌の接触が多めのフレンドってなんだ馬鹿野郎。やめろ」


 他人のフリをされてもめげず叫び続けていたハナのスネをひづりのスニーカーの先端が軽く蹴った。


「独り占めなんてずるいぜぇひづりん! 皆で分かち合おうよあのおっぱいをさぁ!!」


「次、わたしが『座れ』って言ってまだその話題やめなかったら、お前次の駅で降りて歩いて帰れ。――座れ」


 ひづりが本気の声で言うとハナはさすがに引き際と見たか、黙って席に戻った。戻って、両膝に両肘をついてまた悲しそうに顔を覆ってうつむいた。


 車内の周囲の視線は先ほどまで嵐のように騒ぎ立てていたハナにまだ突き刺さったままだったが、それも数分すれば散った。そしてそれからまたしばらくするとふつふつと今度は別のざわめきが起こり始め、ひづりとアサカも「おや」と気づいてそちらを見た。


「ハナ、あれじゃないか」


 ひづりが言うと落ち込んでいたハナもようやく顔を上げてバスの正面窓を見た。まだ遠目ではあるが、ネットの写真で見た長く続く木々の柵が正面左手にうっすらと見えており、そしてたった今通り過ぎた左脇の道路から伸びていた看板はその遊泳施設の案内を示す物だった。


 同じ目的でバスに乗っているのだろう子供連れの客などが沸く中、ハナの顔色もにわかに明るくなってぱぁっと無邪気な笑顔に変わった。


 こういうところは可愛いんだよな、とひづりは思った。


「よっしゃぁ! やっとひづりんの初プライベート水着生着替え見られるぅ!!」


 げんこつがハナの脳天に落ちた。……こういうところがなければ。








 杞憂であった、とひづりは少し安心した。蘇我駅の時点で既にひづり達と同じ目的地を目指しているのであろうカップルや子供連れの客が同乗していたが、道中の乗換えでもそこまで混雑はしていなかったし、実際到着した遊泳施設の入場門も数人並んでこそすれ、大行列というほどではなかった。


 しかし同時に「休日にこんな客数なものだろうか」とひづりは少し思ったところで、ふと振り返ったバス停から入場口までのその道のり……たった今自分達が歩いて来たその幅の広い歩道を、先ほどバスから降りた自分達の三倍は居そうな人数の客らしい人々がぞろぞろとこちらへ向かってくるのを見て「ああ、タイミングが良かっただけか」と胸を撫で下ろした。


 入場門の脇に立て看板があり、今から二時間ほど後に様々なアトラクションやプールの方でもショーが行われるとのことで、その時間に合わせて後続の彼らは来たようだった。


「少し早起きして来て正解だったね」


 隣のアサカが麦わら帽子のつばに触れたまま呟いた。


「そうだね。諺も馬鹿にならないもんだ」


 数分の待ち時間ののち、ひづり達は入場手続きが完了し、案内板を元に更衣室への道を少しばかり急いだ。これから後続の客がぞろぞろと来るのだ。手早く着替えを済ませたい。


「待ってぇ、ひづりん……アサカも、足速いぃ……」


「頑張れ頑張れ。置いていきゃしないよ」


「ハナちゃん、急いで急いでー」


 ちょっと駆け足くらいでこれなのに大丈夫だろうか、とひづりはちょっと心配になったが、しばらくぶりに体感するこの規模の遊泳施設の外観には少々、さすがに気持ちが浮ついてしまうようだった。










「先、出てるね」


「えっ、うっそひづりん着替えるの早!? 待ってよぉん……」


 ハナの悲鳴を無視してひづりは更衣室を出た。


 更衣室に入って着替えて出る、その一瞬の事ではあったが、ひづりは改めてこの太陽の眩しさと暑さに強い気だるさを覚え、思わず眼を細めた。履き替えたサンダルの足元からは反射した熱が這い上がってくる。さすがは七月の日中。ラッシュパーカーという物を今回初めて購入してみたが「これはどうやら体を濡らす前に着る物じゃないな」と得心してひづりはその場ですぐに脱いで脇に抱えた。


 さて、とひづりは左を見た。先ほど三人で通ってきた方角だが、その時にちょっと気になっていた物があったのだ。パーカーのポケットから取り出した数枚の小銭を手の中で鳴らしながらひづりはそちらへ向かう。すぐの用事なので問題はないだろう。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る