『似た者兄妹』




 まず正座をさせた。リビングで。父方の叔母、三十八歳を。


「どうして鍵を掛けずに居たんですか」


 玄関の鍵はすでに閉めた。そして叔母がリビングに居る間に何者かが、廊下の途中にあるひづりの部屋やトイレなどに忍び込んでいないかの確認もした。幸い、侵入者は楓屋紅葉だけで済んでいたらしかった。本当に幸いなことだった。


「ごめんなさい……」


 まだ酒の入っている顔をしているが、彼女は腰に手を当てて叱るひづりを前にしょぼくれていた。


「勝手に入ったのは良いです。それは構わないんですよ。でもその後、鍵を掛けずに部屋で一人お酒をかっくらっていた事に怒っています。……紅葉さんの身に何かあったらどうするんですか。父も、佳代秋さんも悲しい想いをするんですよ」


 佳代秋は紅葉の旦那だった。そういえば姿が見えない。


「うええ。分かってるの、分かってるんだけど……うええええ。新宿駅が悪いんだああぁ……」


 そう言いながら彼女は這いつくばるようにしてひづりの足にしがみついてきた。


 新宿駅。それを聞いてひづりは佳代秋が居ない理由が分かった。


 彼女は今日、一人で電車に乗ってこの南新宿にある官舎宅へ来たのだ。普段、都内の西寄りにある官舎本家へ里帰りする際などには大抵山梨にある楓屋家から車を飛ばして来る彼女らだったが、どうやら今日は佳代秋と都合が合わなかったらしい。酒飲みの彼女は運転出来ないのが嫌だからだろう、そのために電車で来たようだったが、どうやら察しの通りらしい。


 迷ったのだ。新宿駅で。それも大いに。都民のひづりですらちょっと珍しいコースを行こうとすると迷ってしまうあの魔境は、現地の人間でなく、また里帰りにも普段利用しない楓屋紅葉にはあまりに過酷な道程だった事だろう。それで歩き疲れ迷い疲れ、そうしてようやく到着した兄と姪の家である官舎宅に入り込むともう鍵も掛けずそのまま酒に逃げてしまった、ということらしい。


「でも駄目です。ちゃんと、鍵だけは掛けてください。大事なことです。新宿駅で大変だったのは分かりました。つらかったですね。でも、約束してくださいね。鍵だけはちゃんと掛けてください。いいですね?」


「わかったぁ……紅葉お姉さん、ちゃんと約束するぅ……ごめんねぇ……駄目なお姉さんでごめんねぇ……」


 ひづりにしがみついたままほとんど濁音のついた声で彼女は泣きながら誓った。


「はい。約束ですよ。でも紅葉さんは駄目な叔母さんじゃないですよ。大丈夫ですよー」


 ……何でうちの家系の女は揃いも揃ってこう……と少々呆れつつ、ひづりはその場に座り込んで、しばらく叔母の頭を撫でてあげた。








「なるほど。父さんに聞いて、それで……」


 ようやく落ち着いた紅葉に訊いてみたところ、どうやらちよこが怪我をしたこと、加えてひづりが少し疲れている事を、彼女は昨日の夜に兄の幸辰から初めて聞いて、そうして今日、一人電車で駆けつけたというのだ。


「だって可愛いひづりちゃんがさぁー!? ちよこちゃんも怪我したってさぁー!? 聞いたらさぁー!! 紅葉お姉さん心配になるじゃん! 逆になんで兄貴すぐに連絡くれなかったの!? 信じらんない! そんでちよこちゃんの手術も無事もう終わったって!? 良かったよ!! でもなぁんであたしにすぐ連絡してくれないのぉ~!? もっと早めに教えて欲しかったよぉおおお……」


 リビングのソファでクッションを抱きかかえて紅葉は芋虫みたいにもぞもぞ悶えながら不平不満を漏らし続けた。これはひづりと同い年の息子を持つ、三十八の女である。


「……まぁほら、その通り、慌しかったので。連絡する間も余裕も無かったんだと思いますよ、父さんも」


 ひづりは向かいのソファに腰を下ろし、まだ会社に居るであろう父の弁護をした。


「そーうーだーけーどーさ~……」


 まだ眼と鼻を赤くしたまま彼女はクッションをぎゅうと抱いて視線を床に転がしていた。


 ひづりはため息を吐きつつ、コップに注いで来た水を紅葉の方に差し出した。彼女は呑むとすぐ酔うが、実はザルで、一定以上酔いが回らないタイプだった。ただ何にせよ早いところシラフに戻ってもらわなくては面倒くさくて敵わないので、ひづりはすでに彼女からお酒の瓶を全て取り上げていた。


 体を起こし、姪に差し出された水を呷ると紅葉はいくらか落ち着いた様子で語り始めた。


「でもでもぉ、びっくりしたでしょーひづりちゃん? だって来週辺りにお盆休みで会うのに、なんで今? って思ったでしょ? ふふ。だからこそのあえて今日、来たんだ~! へっへへぇ~」


「……紅葉さんは、私を気遣って来てくれたのか、それとも心労を掛けさせに来たのか、どっちなんですか」


 普段はそうでもないのだが、今日に限ってはラウラの事で疲れ、重ねて予想外の面倒を起こしてくれた叔母に、ひづりは少々辛辣に出ずにいられなかった。


「ごめんなさい……」


 ひづりの冷たい声に紅葉はまた頭を下げてしょげた。


「違うのぉ~。本当はかっこよく会いに来て、かっこいい紅葉お姉さんがひづりちゃんを慰めてあげるつもりだったのぉ~。こんなはずじゃなかったのぉ~……あと鍵掛け忘れてお酒飲んでたのはホント兄貴には黙ってて下さいお願いしますもう充分反省しましたから……」


 そう言って彼女は深々と頭を下げた。……何と悲しいことだろう、とひづりは思った。彼女は、姉の怪我できっと心身ともに疲れているであろうひづりの元に駆けつけて良い格好をしたかったらしい。いや、実際シラフだと割と、というか結構かっこいいのだ、紅葉は。すらりとした体型に、百七十センチを超える長身。体格の種類としてはラウラと似ている。それが三十八を超えても保たれていて、また目鼻立ちもはっきりとしていて非常に女性受けする……言うなればタカラジェンヌのような、そんなかっこいい雰囲気の女性なのだ。……ご覧の通り、シラフならば、なのだが。酒さえ入らなければかっこいい叔母なのだ。だから、魔境新宿駅にいじめぬかれ、姪には叱られ、これから帰宅する兄にまで叱られるかと思うとさすがに哀れに思え、ひづりはテーブルに押し付けられている叔母の頭を掴んでそっと持ち上げた。


「分かりましたよ。父さんには言いませんから。でもその分、ちゃんと約束は憶えていてくださいよ。私の眼を見てください。今度また駄目になりそうになったら、私に叱られた事、ちゃんと思い出してください。ね。いいですか?」


 テーブルを挟んで叔母の顔を捕まえたまま、ひづりは改めて説教した。


「……ひづりちゃんが優しい……大好き……結婚する……?」


「しません。っていうか紅葉さんヘテロでしょ。やめなさい」


「ごめんなさい。……あ、それよりそれより、本当に大丈夫なのひづりちゃん? もう学校に行ってるって聞いたよ? あっ、制服姿かわいいね? スカート短いの可愛い! 似合ってる! しかしまた大きくなったねぇ! 胸も! バスト大きくなったんでしょ紅葉お姉さんに測らせて――」


「――誰に聞いた?」


「ちよこちゃん!」


 …………あの女、そんなに仕事内容増やして欲しいのか? 退院したら楽しみだな、おい。


「違うの違うんだよひづりちゃん。あたしがちよこちゃんに聞いたの。実は紅葉お姉さんね! ちょっとひづりちゃんに――」


「ただいまー? ってあれ、紅葉!? 本当に来たのか!? 一人で!? 新宿駅出られたのか!?」


 その時、リビングの戸を開けて幸辰が帰って来た。妹の顔を見るなり驚愕で眼を見開いていた。やはり彼も本当に紅葉が単身、電車で来るとは思っていなかったらしい。


「ぁあにぃきぃ~!! 聞いてよぉ、新宿駅がさぁ~!!」


 自分から語りだした話を勝手に途中で打ち切ってひづりからぱっと離れると彼女はすぐさま兄の元へ駆け寄ってその手を握り、再三、彼の駅を非難し始めた。酒が入っているにしてもそれはあまりにもおよそ四十を前にした女の声音と動きではなく、ひづりはまたちょっと呆れるようだった。


 鍵を掛けずに酒をかっくらっていた件についてひづりは父には黙っておいてあげると言ったが、久々に会った兄を前に、また酒の入っている紅葉は甘えん坊状態が発動しており、うっかり自分自身で口を滑らしてしまいそうな危うさがあった。それくらい、紅葉はなかなかのブラザーコンプレックスだった。自分にやたらと愛情を注いで来るのも、兄の娘、という部分が大いに影響しているのだろう、とひづりは見ていた。


 事前の明確な連絡も無くの訪問だったが、勿論ほっぽり出す訳にもいかないため、彼女はとりあえず官舎宅で今日一日だけ泊まることとなった。




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