第7話 『二匹の猫と凍原坂春路』(後編)





「ですが当店の味を気に入っていただけて嬉しいですわ。今はたぬこさんが作ってくれていますが、今日の話を聞けば、その味の監修をしている私の夫も喜びに跳ね上がる事と思います」


 ちよこはその様に冗談めかして言った。実際、サトオさんは喜ぶだろうなとひづりも思った。《和菓子屋たぬきつね》が《和菓子屋たぬきつね》になる前のこの建物で和菓子屋を経営していた祖父からその味を認められるほどの菓子職人になるまでのサトオさんの修行時代というのはきっと大変なものだったに違いないのだから。この場に居ないのが残念だとひづりは心の底から思った。


 すると不意に凍原坂の顔色が変わった。たまたま《猫》たちを寝かしつける彼の少しうつむいた顔を見ていたひづりはその変化にすぐに気づいた。


 撫でていた《猫》たちの頭からそっと指先を離し、凍原坂はそれを机の上に乗せておもむろに組むと、にわかに神妙な面持ちになって言った。


「ええ、サトオさんとも出来ればお会いしたかった。……実は今日伺ったのは万里子さんの事でもありましたが、何よりの目的は、こちらで働かれているちよこさんとサトオさん、そしてひづりさんに大切なお話があったからなのです」


 真摯な声音で彼は語り始めた。


「十四年前のあの日、《フラウ》と《火庫》の融合実験に成功した事で、私の周りで起こっていた《火車》に関する問題は無事解決へと至りました。しかし当時、あの後すぐにイギリスへ戻られてしまった万里子さんにはちゃんとしたお礼を言う事すら出来ず、そうして今日まであの人の所在も分からず、そしてあろうことか、亡くなられたのを知ったのは葬儀の後でした……。感謝の言葉どころか、花を添える事すら叶いませんでした……」


 机の上で握り締められた彼の手は力の込め過ぎで白み、ふるふると震えていた。


 ひづりにとって母は、少々、どころかかなりどうかしている女であったが、この凍原坂春路という男にとっては大切な命の恩人で、しかしそうありながら、彼女は一方的に連絡先を聞いて来たくせに自分の連絡先は教えず、ほとんど一年中イギリスに身を置き、感謝の言葉もしっかりとしたお礼も、それどころか葬儀の席に並ぶ事すらも彼にさせてやらなかったという。もし自分が凍原坂の立場だったら、と思うとひづりはひどく胸が痛んだ。やはり母はひどい奴だ、と思った。何故、人の心というのをわかってやろうとしないのか。


 あなたが死んだ事を悲しむ人がこうして家族以外にも居ることを、何でわかってやらなかったのだ。


「ですから、ちよこさん、ひづりさん」


 二人を見つめ、にわかに凍原坂は声を高めた。


「お二人のお母様に返す事が叶わなかったこの大き過ぎるご恩、どうかお母様の代わりにお二人へお返しする事を、どうか受け取って頂く事を、許してはもらえないでしょうか」


「……何です?」


 ひづりは何となく察していたが、けれどそれでも聞き返さずにはいられなかった。自分の顔が今、険しくなっていることも自覚しながら。


「お二人のために、何かお役に立ちたいのです。万里子さんにご恩を返すどころか何も出来なかったこの自分の無力さの償いを、どうか、何とぞ、お子さんであるお二人にさせて頂きたいのです。しがない数学者ではありますが、それなりの蓄えはあるつもりです。ですからどうか、何でもおっしゃってください。お願い致します」


 そう懇願しながら彼はぐいと身を乗り出し、机に手をついて頭を下げて来た。苦しげに、切なげに、真剣に、切実に、そして何より切羽詰った様に。


 お礼がしたい、くらいは言われると思っていた。菓子折りだとか、お米数十キロだとか。そういったくらいにひづりは考えていた。


 だからひづりは戸惑った。最初は「金銭をせびられるのではないか」などという危惧すらしていたというのに、よもやこれほど真逆の事態になるとは思いもしなかったから。しかも父親ほども目上である男性からこのような風に言われることなど、普通に生きていてそうそうある事ではない。ひづりの動揺は当然だった。


 しかし、この話の当の一人でありながら、心の底から全く動揺していない奴が一人だけ居た。


「いいえいいえ、お止めになってください、凍原坂さん。顔をお上げになってください」


 さも驚いて焦っている風を装いながら、ちよこは凍原坂に言った。ひづりはハッと我に返った。


 ……この女。そうだ、感傷に浸ったり驚いている場合ではないのだ。ひづりは鋭い視線を隣のその実の姉へと向けた。


 彼女は完全にその『亡くなった恩人の変わりに、その娘たちへ恩返しに来た男性の相手をする長女』を演じきっていた。実際その立場にあるのは確かだが、《明確な目的》がこの女にはある。疑いようも無く存在する。それをひづりは今になってようやく気づいたのだ。


「お礼だなんて……それに蓄えがあるとはおっしゃいましたけれど、婚約者の方は亡くなられて、男手一つでその《お二人》を育てていらっしゃるのでしたら、決して楽な生活ではないのではありませんか? 学校などにも通わせてらっしゃるのでしょう? でしたら、そんなご家庭から、まして金銭を頂くなんてとてもとても……」


 あからさまな気を使う言葉と態度。けれどそれは全て嘘だ。ちよこにはそれが不要な心配である事が分かっている。分かっていて当然なのに、分かってないような顔をして、今、話を進めようとしている。


 思惑に気づかないまま、凍原坂が返す。


「あ……いえ、学校には通わせていないのです。どうもこの子達は《悪魔》と《妖怪》が混ざり合った少しよくわからない存在であって……決して人間の子供ではないのです。十四年前から、この姿のまま、ずっと成長していないんです。《認識阻害魔術》のおかげで成長しない事に関しても誤魔化しは利いているようなのですが……。ただ、確かに私も最初は『小学校だけでも通わせよう』と思って、公園などで他の子供たちと遊ばせてみようと試みたのですが、しかし《フラウ》は……ご覧になられた通り、性格がこれでしょう? 上手く馴染めなくて……そのうえ、おそらくは理性や知性を失った後遺症なのでしょうが、勉強も得意ではないどころか私の話もろくに聞いてはくれなくて……。手首につけているかなり大きな音が鳴る鈴にしても、迷子にならないための苦肉の策で……。その分《火庫》の方はとても賢くて大人びていたのですが、ですがこちらはこちらでどうも私以外の人間には全くの無関心で……また私が付きっきりで教えればどんなに難しい学問でもかなりするすると学んでくれるのですが、そうでないと何もせず、普段読むのは若い女の子のファッション誌くらいのものでして……。それに何より、この二人はどうも人間の子供との関わりというものにひどいストレスに感じるみたいで……それがあんまりにつらそうで……」


 歯切れも悪く複雑そうにそう語る凍原坂だったが、やがてひづりたちを見つめると改めて言った。


「ですから、学校だとか習い事だとか、また人間が患うような病気もしませんから、一般的な子供の養育費というものがこの子たちには掛からなくて。食費だとか、たまに閑散としてる所の遊園地に行くだとか、本当にそれくらいのもので。私自身も娯楽らしい娯楽もないですし、そうして十四年もしていましたら、四十三歳の独身には少々どころでない金額が溜まってしまっていたのです」


 家庭の貯蓄情報などそう話すものではないが、これは例外であった。


 姉のちよこは一体いつ、この凍原坂春路という男の事を知ったのか。想像して、ひづりは先ほどから寒気がしていた。


 おそらくはその名前自体は母から聞いたのだろう。天井花イナリと和鼓たぬこを譲って貰った今から三ヶ月ほど前に、《魔術》の話を聞いた際に、その召喚に至る過程の話の中で、きっと彼のことを聞いたのだろう。そして母が彼に連絡先を教えていない事も知ると、ちよこは母が通っていたというその大学に足を運んで、母の名を話の種にして情報を集めた。凍原坂春路という数学教授は相変わらずその大学で勤めており、独身のままで居ると。


 そんな彼が、今も一般的な養育費の掛かるはずの無い二匹の《悪魔》をまるで娘の様に育て、暮らしている。


 ちよこがそれを知った時点でおそらく、まだ母は生きていた。亡くなったのは天井花イナリ達を従業員として受け取った一ヵ月後の事だったが、そういった重要な、つまり『金になりそうな話』の情報収集に関してちよこは何より行動的で素早く、それに関してだけは怠ることを決してしない。きっと母から話を聞いたその翌日にでも大学へ行ったのだろう。


 つまり、吉備ちよこは、母の死をわざと凍原坂春路に教えなかったのだ。おそらくは母が死ぬまで、今後何年でも待つつもりでいたのだろう。母が死んで、凍原坂がそれを知らぬまま数ヶ月が経つ、というまさに現在のような状態になる時を、ひたすらに。


 二人の関係を知って、いつでも会える状態に出来たくせに、連絡を取れる様はからう事も出来たくせに、ちよこの頭にはそんな《計画》がはっきりとした形としてあったが故に、わざと彼にずっと接触しなかったのだ。


 ちよこにとって母親はなるべく適度に長生きして欲しかったに違いなかった。時が経てば経つほど、凍原坂にかけられたその《呪い》の効果が増すであろうことを承知していたからだ。だが結果的に、それを知った一ヵ月後に母は死んだ。ちよこにとってそれは計画外の早さだったことだろう。しかしそれでも既に経ていた十四年と言う歳月は、実際に彼にこんな悲しげで苦しそうな後悔の顔をさせるのに充分な時間だった。それはひとえに生真面目そうなこの凍原坂春路という男の性格によるものだろう。


 改めてひづりは姉の性格に、その行動原理の揺ぎなさに、そして人の心を遊びの将棋の《歩》程度にしか考えていないその冷酷さに、一度は冷えた背筋が今度は逆に頭を熱くさせた。


 この後、ちよこは何の苦も無く、凍原坂から金銭を頂戴する結果へと話を進めるのだろう。彼が何の不満を抱くこともなく、それどころか全て満足のいく形で。


 やがてもう残り三十年か四十年ほどであろう寿命の彼が歳老いていき、自身の貯金の価値の全てをちよこたちへ配る事に見出すまで、一度に必要以上は受け取らず、少しずつ、少しずつ、しかし確実に彼の財産を頂戴しながら、一生かけて彼の良心にたかり続けていくつもりなのだ。


 この女は一体どれだけ卑劣なのだ。天井花さんたちのことにしてもそうだ。これまで何度も言って来たが、尚も彼女は二人の《悪魔》従業員に給料を支払う事も、休日を与える事もかたくなに拒否してきた。子供じみた駄々を堂々とこね、近所迷惑も省みない叫び声で吼え、近所の知り合いに顔を出させて仲介させる。そういった他人にまで手間と迷惑を掛けてでも、ちよこはひづりの《天井花イナリと和鼓たぬこに正当な従業員としての権利を与える》という目的を阻止してきた。たまに顔を合わせる吉備サトオもこの件に関して金銭的にかなりの楽が出来るという部分ではちよこと同じく非常に正直な男だったため、《契約》に加え《認識阻害魔術》によって法からも守られているのを良いことに《悪魔》たちの労働環境からも眼を背け、ちよこの味方をし、ひづりの主張はこれまでずっと通らずに来た。


 だがもう我慢の限界だった。いつかの天井花イナリのように、まさに堪忍袋の緒が切れたとはこの事だった。


「――凍原坂さん」


 ひづりはにわかに立ち上がって彼を見下ろすと抑揚のない声で言った。


「え、あ、はい、なんでしょう?」


 すでにちよこと話を進め始めていた彼は面食らった様子でひづりを見上げた。ただならぬ雰囲気と険しい表情が込められたその鋭くも大きなひづりの眼力に射抜かれ、彼の意識は直ちに長女から次女へと移った。


 すう、と深く一呼吸するとひづりは胸を張り仁王像のようにどっしりとした佇まいで、しかし静かに語り始めた。


「ありがとうございます。母をそんなにも敬ってくださって。そして、出来なかった恩返しを私たちにしたい、というそのお気持ちも分かりました。充分に」


 そしてひづりは、じろり、と隣に座ったままの姉を睨んでから言った。


「ですが。あなたは少々、母に幻を見ているように思います。またその娘である私たちに対しても」


 その淡々としつつも堅固なひづりの物言いに凍原坂は眼を見開いたまま呆気に取られていた。当然と言えば当然だった。その声音は初対面の女子高生から向けられるにはあまりにも迫力があり、また表情には激怒しているかとさえ見紛うほどの凄味があったからだ。


「……確かに母はあなたを助けたのかもしれません。ですが、母は基本的に自分勝手で、育児も父に任せきりでしたし、そのまま勝手に死にました。……ただ、別に私は母の事をこれといって憎んでいるわけでもないし、そこまで嫌ってもいません。確かに貴方が母に感じている恩は本物でしょう。ですが、官舎万里子という女の実態は、あなたがこの十四年間記憶に残し、思い出として美化してきたその人物像とは大いに異なります。――そして何より」


 びしっ、とひづりは隣のちよこを指さし、声を更に低くして言った。


「私の姉、この吉備ちよこは、そんな母の悪い部分だけを集約し、そこからさらにぐつぐつと何時間も煮詰め、綺麗な部分を全て取り除いて出来上がったような女で、この人の良さそうなバカっぽい顔で他者を騙してその懐に入り込んでは使える人間はいくらでも使い潰して延々金銭をたかり、しかも自分は働かずに毎日だらだら過ごしてしているような、そういう女なんですよ」


「ひづり、やめて、せっかく凍原坂さんが」


 先ほどから隣で真剣な顔をして話を聞きつつもようやく制止の声を入れたちよこだったが、


「――黙っててくれるかな」


 低く、強く、この十七年の人生の付き合いをして一度も見せた事が無い強烈な敵意を実の妹から向けられると、彼女のその喉はまるで栓がされたように音を消した。


 ひづりは呆気に取られている凍原坂に再び向き直るとまたはっきりと言った。


「ですから、貴方がいま手にしている生活を大事だと思うなら、手放したくないと思うなら、そして何より私の母に感謝しているのなら、この女に『何でもする』なんて、冗談でも死んでも言わないでください。今、この場で、先ほどの発言を全て撤回してください」


 これまでにもこの様な凄味を利かせた声を使って迷惑な輩を威圧してきた経験はそれこそ何度もあったが、今日ほどそれが力強く迫力を伴って己の口から流れ出るのを聞いたのは初めてで、ひづりは内心すこしばかり驚いていた。


 また「この一週間《悪魔》と一緒に過ごして来たからだろうか」とそんな考えが頭によぎるほど冷静な頭でいる事にも。


 そうして牢乎にハッキリと言い放ったひづりに、凍原坂はやはり相変わらず戸惑っていた様子だったが、やがて姿勢を改めると微かにうつむき、搾り出すようにぽつりぽつりと言葉を返してきた。


「……実にお恥ずかしい。失礼を致しました。実際、お二人の事を私は『きっと良い娘さんに違いない』と、勝手に思い込んでいました。お母様のことにしても、確かに思い出を美化していた部分があるのは、きっと否定できません。それは本当に、恥ずかしながら確かなことです……。そして先ほどの件で妹のひづりさんがそうまでおっしゃるのであれば――承知致しました。この凍原坂、発言を撤回させて頂きます」


 そう、ひづりにまっすぐ視線を向けて、歳相応の力強い男の声で彼は言った。


 ひづりは隣のちよこを見下ろした。少々芝居がかった悔しそうな顔でこちらを見上げていた。悔しいのは間違いなく本心だろうが、かわいこぶるその様はまたひづりの癪に障るものであった。


「では、言ってください。『私、凍原坂春路は、このちよこという女からの金銭の工面、また労働に関する頼みは今後も一切聞かないし、そのような内容を含む接触があった場合、即座に必ずその妹であるひづりに相談する』と。はい、どうぞ」


 ひづりは座ると、そう言って片手を軽く差し出して凍原坂に復唱を促した。彼は少しばかり自嘲するようにうつむいていたが、やがて顔を上げ、ひづりの眼を見て背筋を伸ばすと、言った。


「はい。私、凍原坂春路は、このちよこさんという女性からの金銭の工面、また労働に関する頼みは今後も一切聞かないし、そのような内容を含む接触があった場合、即座に必ず、その妹である官舎ひづりさんに相談いたします」


 聞き届け、彼が宣誓のためにだろう上げていた片手を下ろすところまで見送ると、ひづりは大きな深呼吸をした。


 それから自分が命じた事とは言え、凍原坂が片手を上げて真面目に復唱したのが今更ながらに少し可笑しく思えてしまってつい「はい。それで良いです」とちょっと微笑みながら返し、この話に終わりをつけた。


 隣のちよこを見る。子供みたいに拗ねた顔をしてひづりからそっぽを向いていた。だが今回、ひづりがこの今にして見れば少々行き過ぎに思えなくも無い行動を起こさなければ、今後ちよこによって行われていたのは凍原坂から金銭をせびる事に加え、おそらく彼の娘である《フラウ》と《火庫》は天井花イナリや和鼓たぬこと同じように「その子たち、仕事も何もしてらっしゃらないんでしょう? 良い社会勉強になると思いますの」とか言ってこの店で、あるいは他のもっと、場合によっては法に触れるような場所で無賃労働させられる未来が待っていたかもしれないのだ。


 ふと、机の隅に座っていた天井花イナリとひづりは眼が合った。彼女は眼を細め、口の端を吊り上げて笑んでいた。その笑顔からは『よぅやったのう、ひづり。かつて無いほどに胸が空いたぞ。ちよこめ、ざまぁないの』と言う、そんな彼女の心の声が聞こえてくるかのようで、ひづりは先ほどの行動を起こして本当に良かった、とまた安堵で肩から力が抜けるようだった。


「――しかし、今のひづりさんの物言いと、ちよこさんを見ていて確信しました」


 にわかに凍原坂が真面目で、しかし柔らかな口調で語った。


「お二人にはやはり万里子さんの面影があります。見た目だけでなく、あの人が周囲に放っていた素敵な内面の部分が、ちよこさんとひづりさんにはしっかりと受け継がれているように思いました。今日、ここへ来て本当に良かったと思います」


「凍原坂さん……」


 ああ、この人は本当に、本当に心から母を慕ってくれていたのだな。たとえそれが美化された思い出であったとしても、それを支えに彼のこの十四年があったというなら、それが間違いだとしても、決して『悪い事だ』とはひづりには言えなかった。


 彼はきっと《それ》に救われたのだから。


「ではお主らの話に決着もついたところで、次はわしの用事じゃ」


 すると事の顛末をずっと着物の袖を組んで静観していた天井花イナリがそこでにわかに声を投げ、着物の衣擦れの音と共にゆっくりと立ち上がった。その低くもよく通る綺麗な声に、寝ている《猫》二匹以外の視線が自然と集まる。


 用事? と思ったところで、ああ、そうかとひづりは意識がやっと《悪魔》とか《魔術》といった方の話に戻った。この畳部屋に居るのは三人の人間と、紛れも無い一柱の《悪魔》と、元《悪魔》と元《妖怪》のミックスが二人。凍原坂たちとの話し合いに白熱し過ぎていたのもあるが、これはそれとは別に、天井花イナリたちともう一週間の時を過ごしていたせいであると気づき、ひづりは少し自身の常識がずれ始めている事を自覚した。


「ちよこ。思うようにならなんだのは残念であったのう。ただ、礼は言おう。今日の稲荷寿司、あれは普段用意しておる物ではなかったな?」


 稲荷寿司、と言われてひづりはふと思い出した。確かに今日、入店した際に凍原坂から天井花イナリを引き剥がすのにちよこは稲荷寿司の箱を餌に使ったが、その箱は普段買って冷蔵庫に置いてあるものとは少しデザインが違い、また少々大きいようにも記憶していた。そこまで思い出したところでひづりもまた天井花イナリと同じく、それに気がついた。


「実に美味であった。あらかじめこの様な事になると思うておったから、わしを少しでも黙らせておくために、時間稼ぎも含めて、少々普段より質の良い物を、しかも多めに用意しておったのじゃろう? あきれ返るほどに周到なことよ」


 これにはさすがに隠しようが無いと思ってか、ちよこは頭を掻いて「えへへ」と舌を出して見せた。……本当に、周到なことよ。


「ただ、先のお主らの話し合いを優先させてやったのは、ひとえにこの店の将来と、そしてひづりの今後にも関わると思うたがゆえの事じゃ。思い違いをするなよ」


 そう締めくくると、天井花イナリは改めてその視線を眠る二匹の《猫》へと向けた。


「《フラウロス》……それから《火車》か。十四年前によもや万里子の奴がそのような実験をしておったとは実に驚いたが……しかし、それよりもじゃ……。わしとたぬこにこのような《イレギュラー》を発生させて半永久的に使役するための実験として、よりにもよって《フラウロス》を用いるとは。ずいぶんと大きな賭けであったろうに、万里子はなにゆえ……。……焦りか、それともそれほどの自信があったのか……」


 彼女の言葉は後半、ほとんどもう独り言のように呟かれていた。


 やはり普段と様子がおかしい、とひづりは感じていた。《魔界》での知己に再会したことで調子が狂っている、という、人間と同じ様な事が起こっているのだろうと最初は思ったが、しかしそこには何か別の感情か、あるいは考えがあるようにひづりには見えていた。


 すると、ふ、と彼女はにわかに息を漏らして笑った。彼女のまた意外な表情の変化にひづりは面食らったが、その理由はすぐにその口から語られた。


「確かに、そうか、わしが召喚される十二年前か。一度《人間界》へ召喚されたきりさっぱり戻って来んから、珍しい事もあるなと思うてはおったが……。よもやこのような有様になっていようとはの。無様に極まるな。ふふ。見るに耐えんほどじゃ。滑稽に過ぎる。まるでイエネコのようではないか」


 凍原坂の膝で眠る《フラウ》を見下ろして彼女はさも愉快そうに、かっかっかと笑っていたが、違った。そこに本音の笑いが微塵も入っていない事を彼女はほんの少しも隠しておらず、むしろ、ひづりもちよこも、そして凍原坂ですら感づくほどに、その笑い声には冷たい敵意のようなものが混ぜられていた。畳部屋の空気がにわかに変質していくさまを、ひづりは何も出来ず見ているしかなかった。


「……おい、凍原坂と言うたな……?」


 天井花イナリが少し首を傾げて凍原坂に問うた。……気のせいではない、部屋が少しずつ暗くなっていた。そんな中で唯一、彼女のルビーのように赤い瞳だけがその彩度を増して輝いていた。


 まずい、まずい、まずい! 状況を察した体が、入り口での再現のように強張っていくのをひづりは感じていた。


「は、はい、凍原坂、春路、です……」


 怯えながら勇気を出して凍原坂は返事をしたが、表情も声も、天井花イナリのそれは少しも変わらなかった。


「凍原坂……たしか、聞き違いでなければ、お主が《フラウロス》の《契約者》と言うたのう……?」


「え、ええ、はい、そうです。私が二人の《契約者》で、保護者です!」


「…………保護者?」


 その途端、部屋が一気に暗闇に落ちた。ひづりは最悪の事態に陥ってしまった事を理解した。


 理由は分からないが、今、凍原坂は天井花イナリの逆鱗に触れてしまったようだった。彼女の周囲にはかつてないほどに濃いその黒い敵意の感情がまるで燃え盛る炎の様に凄まじい勢いで滲み出し、その中心で真っ赤に輝く双眸はおよそ人類には到達不可能な域の暴威に満ちた悪鬼の如き表情を照らし出していた。


「図に乗っておるのか人間風情が!! 《ソロモン》の名に連なる我らが同胞をこのような無様な姿にしたその大罪、よもやよもや見過ごしてもらえるとでも思うたか!! たわけが! お主を殺せば《フラウロス》も《契約》から解き放たれ正気に戻り、元の本来の《悪魔》の姿へと返る! それを以ってお主の罪は許してやろう! ただその生業を学者と言うたな? 気まぐれじゃ。寛大な処置を施す。一瞬で、微塵も苦しませず殺してやろう」


 一歩一歩、彼女の足が確実に凍原坂へと近づいて行く。あまりの迫力にひづりもちよこも動けずにいた。当の凍原坂など天井花イナリを見上げたまま口をぱくぱくさせて震えていた。


 ――しかし。


 凍原坂のほぼ目の前、彼女は距離にして三十センチほどの位置で不意にぴたりと足を止めると、周囲に纏っていた暗闇をゆっくりとだが弱めていった。天井から下げられた蛍光灯も少しずつながら畳部屋にその本来の明るさを取り戻し始めた。


 見ると、いつの間にか天井花イナリの顔から憤怒の色は消えていた。それでも彼女は怯える凍原坂を見つめたまま引き続き言葉を投げかけた。けれどそれは淡々と、静かに零すような語り方だった。


「……じゃが、たぬこの菓子を『美味い』と言うたその賢慮な舌と、ひづりに知見を与えた事に免じ、此度のお主の罪そのものは許す事とする。それに腹立たしい事じゃが、あがなうべき罪の片棒を担いだ万里子めは勝手にくたばりおった故、この一件はお主一人の命で解決する話ではもう既に無くなっておるでの……」


 彼女の体から漏れていた闇はもはや跡形も無くなっていた。ひづりの心臓の音はまだ速いままだったが、それでも溢れていた緊張の汗は止まるに至っていた。


「あ、ありがとうござい、ます……?」


 凍原坂はまだ呂律の回りきってない口で、ふさわしいかどうかは天井花イナリのみぞ知る、そんな感謝の言葉を返した。


 許された……のだろうか? 可能性は高かった。今までも和鼓たぬこが絡むとなると彼女が考えを百八十度変えるというような事はそう珍しくもなかったからだ。ひづりは天井花イナリを見つめたまま強張っていた肩をおろした。


「じゃが《フラウロス》は殺す」


「…………え?」


 殺意も敵意も消え失せたはずの天井花イナリの口からにわかに放たれたその一言に、凍原坂もひづりも思わず呆気に取られ、間抜けな声を漏らした。


 天井花イナリはまた淡々と続けた。


「《フラウ》と今は名づけられておるようじゃが、一度殴って分かった。今なら何の苦も無く殺してやれる。そこの、《火庫》と言うたか《火車》と言うたか、位の低い《妖怪》と混じった故であろう。……《フラウロス》。奇異なものよな。わしら《悪魔の王》が、揃いも揃って人間なぞにこの様な姿にさせられるとは。ふふ、知られれば《魔界》の笑い者じゃな……。じゃが、今日再会したのも縁であろう。せめて貴様だけでもその醜態、同じ《悪魔の王》としてこのわしが終わりにしてやる」


 シャリン、と、軽い音と共にあの剣が天井花イナリの手に現れた。


 許されていなかった……!! 凍原坂が官舎万里子と共に、いや主に立案者は万里子の方だったのだが、《フラウロス》を利用して《火車》という《妖怪》によるストーカー行為を止めさせたその事については、先ほど天井花イナリの口唇から語られた理由によって幸いにも許されていたが、それはそれとして、同じ《ソロモン王の七二柱の悪魔》として《フラウロス》を元の《悪魔》の姿に戻すという目的は依然天井花イナリの中で健在だったのだ。


 これまでの天井花イナリと《フラウ》のやり取りから、そして彼女の口から語られた内容から、人間のひづりでも分かったことがあった。


 それは、天井花イナリと《フラウロス》はかつて《魔界》に於いて長きに亘るその生の中で共に競い合ったライバルで、馴染みのある仲で、『こいつを倒すのは自分だ』と互いに思っていた。だから他人から干渉された事がひどく、それこそ何より気に食わない。彼女が最初、出会い頭に凍原坂に斬りかかったのは、まさしくそういう事が原因だったのでは、と今のひづりは理解に至っていた。


「や、やめてください天井花さん!!」


 やっとの思いでひづりの口から声が出た。しかし彼女はその朱色の瞳を凍原坂の膝で今も呑気こいて眠っている黒髪の《猫》に向け続けていた。


「黙っておれひづり。これは《悪魔》の問題じゃ」


 それは……確かにそうだ……。これは間違いなく、天井花イナリと《フラウロス》という《悪魔》の間にある問題。他人が口を出して良い問題ではない。それがもし自分の立場だったなら、同じようにひづりは思い、行動するだろう。


 けれど、けれど……!!


 凍原坂さんは幸せそうなのだ。《フラウ》となった彼女と、《火庫》となった彼女。三人はまるで父娘のように愛し、愛されている。この三人が欠けるところをひづりは見たくないと思った。


 特に、どんな経緯であれ、目的であれ、それが母のやった結果であるなら。あんな母が、人を幸せにしたのであるなら。


 それを壊されたくない。母への《後悔》が消えないひづりの胸がそう叫んでいた。


 その大切な結果を消さないで欲しい。ひづりにとって何の贖罪にもならないが、それでも。


 そして、そして何よりも、何を措いても、それを破壊する人物が天井花イナリさんであって欲しくないのだ。ひづりにとって今はそれが何より嫌だった。それが、それだけが一番胸を締めつけてくる。この激しい心音を加速させている。


 かつて官舎万里子が行った、自分たち《悪魔》への辱め。今日を以ってせめて知能の低下した《フラウロス》だけでも解放する、と言った天井花イナリは、しかしその顔に怒りを灯すでもなく、その周囲に憎悪の暗闇を纏うでもなく、ただただその剣を右手に携えたまま、眠る《フラウ》と《火庫》をかばって「やめてください、どうかやめてください、どうか」と叫びながら部屋の隅へと逃げる凍原坂の元へ一歩一歩近づいて行く。


 そんな彼女の横顔を見てひづりはハッと気がついた。


 ――今。今なのだ。今こそ自分はあの《カード》を切るべきなのだ。


 敬愛する天井花さんがその胸に抱く《フラウロス》さんへの気持ちに決して割り込む事なく、また《フラウ》ちゃんや《火庫》ちゃんを死なせることもなく、この場を治め、彼女を止める、そんな唯一無二の最善の手段。そしてそれは仮に実行に移して失敗しても、今より悪い結果にはならない。


 その究極の《カード》を自分はこの手に持っている。いや、得ていた。


 この《和菓子屋たぬきつね》で働き始め、かつて無い程に濃い一週間を過ごした、今の官舎ひづりは。




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