『妹だから』




 ひづりは震える膝を畳に叩きつけるようにして立てると、机を支えにふらつきながらも立ち上がって、そして吼えた。


 天井花イナリに向かって。


「天井花さん! 先日! 私が和鼓さんとお買い物に行った件についてなのですが!!」


 相手は《悪魔》の王だった。やると決めたらやる。だから単刀直入に言う。伝える。ひづりはもはや覚悟が出来ていた。


 提案する。させて頂く……!!


「その時、姉さんに言われていた用事の後、新宿の、お酒を飲み比べができるお店に和鼓さんを連れて行って、それをとても喜んでもらえたっていう話をしたのを、憶えてくれていますか!!」


 まっすぐ硬直したように凍原坂の娘達に向けられていた天井花イナリの視線がおもむろにじろりとひづりへと向けられ、その足が止まった。


 食いついた、とひづりは内心息を呑んだ。和鼓たぬこ。彼女のことを耳にして天井花イナリが無視を決め込む道理などないことを、ひづりはこの一週間で充分に過ぎるほど学んでいた。


「今! 私は! 休日と! お給料の話をしています! 今現在お二人は姉さんからそれらを一切貰えていません!! 私もそれでは駄目だと思ったから、今まで何度もそれを正せと姉さんに言って来ましたが、まるで直す気はないようでした! 今後もこのままでは期待出来そうもありません! ですから今! これから姉さんを殴ります!! 主に顔を重点的に!!」


 稲荷寿司の在庫も尽き、こうなった天井花イナリはもう止められないと諦めてか静観を決め込んでいた隣の吉備ちよこが、妹のその言葉を聞くなりおもむろに振り返って顔を上げた。


 へ? という、間抜けな顔だった。


「本気で顔を殴ります!! 姉さんに『天井花イナリさんと和鼓たぬこさんに正しく給料と休日を与えます』と誓わせるまで、ひたすら顔を殴ります!! 嫁に行った女の顔なら多少歪むくらい、さして問題はないでしょう!! 姉さんの顔がどんな形になってもきっとサトオさんも愛し続けてくれると思いますから!!」


「え、え……ちょ……ひづり……? え……?」


 ちよこが動揺していた。ひづりの制服のすそを摘んで引っ張るその力が、無視を決め込まれる時間が流れていくに連れて強くなっていく。嘘でしょ? 冗談だよね!? と声を荒げて喚きはじめた。


 ちよこは確かに《強い》。人の《弱み》を持っているから、あらゆる人間を、後手ではあるが、確実に、そして自分の手を汚さずに生き地獄に叩き落す事が出来る。


 しかし弱点もある。こういった場面、特に普段なら味方につけられる天井花イナリが暴走して別の目的のために中立地点に居る場合、そして姉の顔を殴る事に抵抗がそれほど無い、また中学時代には喧嘩に明け暮れていた、つまるところ人の顔に思い切り暴力を振りかざすのにさして抵抗がないひづりがこの場で即座に吉備ちよこの顔の骨の形を変えると宣言した今この瞬間に於いて、ちよこのその《強さ》は全く意味を成さない。


 そしてこういった事態になると吉備ちよこは「逃げるが勝ち」という言葉を正直に行動に移す女だったのだが、しかし残念ながらそれも今は封じられている。普段着物でごろごろと怠け、店内でのおしゃれのためだけに歩きにくい草履を履いているような女が、狭い店内の廊下を普段から動きやすい制服とローファーで駆け回っているひづりから逃げ切れるはずがないのだ。


 ひづりの腕が姉の着物の襟首を掴んで引っ張り、体重を掛けて畳の上に押し倒した。そこから腕を掴んで仰向けにするとひづりは姉の両腕を股の間に挟み込んでいわゆる完璧なマウントポジションの形に持ち込んだ。


「待ってええええ!? ひづり待ってえええ嘘でしょ!? お姉ちゃんだよ!? ひづりの大好きなお姉ちゃんの顔を殴るなんて、そんな、嘘でしょ!?」


 姉は必死に姉であることを主張した。しかし対する妹の眼は冷たく、そして覚悟の色で満ちていた。


「姉さんの顔一つで助かる家庭があるんです。それに良いじゃないですか、サトオさん言ってましたよ。『俺が好きになったのはちよこの内面だ』って。かっこいいですよね。安心です。それに姉さんは私が何度お願いしても天井花さん達にお給料と休日を与えようとはしませんでしたよね。私は今日会ったばかりではありますが、凍原坂さんたちには迷惑を掛けたくないと思っています。姉である貴女は、妹がとても優しい事を知っているので、こうなる覚悟は出来てましたよね。それに姉さん、大丈夫。顔って神経細かいからすごく痛いと思うけど、私殴るのには慣れてるから、本気で殴れば、たぶん数発で綺麗に骨折させられると思う。差し歯ってね、前歯でも保険利く種類あるらしいから金銭面も心配要らないよ」


 するとさすがに見かねたらしい凍原坂が《フラウ》と《火庫》をかばいながらも慌てた様子でずりずりと近づいて来た。


「ま、待ってくださいお二人とも!? 駄目です落ち着いてください!! そんな、私たちの事でお二人が殴り合うなんて、そんな!! 亡くなられた万里子さんに合わせる顔がありません!!」


 ひづりは振り返ると彼を安心させるようににこやかに微笑んで見せた。


「大丈夫です凍原坂さん。殴り合うんじゃなくて、一方的に殴るだけです、私が。恥ずかしながら学校の成績は自慢出来るほど良くないんですけど、殴るのだけは中学の頃から得意なんですよ。特に相手が姉なら躊躇も無いので、手元も狂いません。完璧に折ってみせますよ、頭蓋骨」


「何を、何を言ってるんですか!? そういう問題じゃ……駄目ですから!! ひづりさん!!」


「うわああああ凍原坂さん助けてええええ! イナリちゃんも見てないで、た、助けて! た、たぬこちゃんんんん」


 ひづりは天を仰いで一つ深呼吸をすると先ほどから速くなっている胸の鼓動に手をやった。叱るために頭を叩くことは多々あったが、実の姉の、女の顔を、完全に《入る》位置から一方的に殴るのは実は初めてだったから、少々覚悟が必要だった。


 だから眼を瞑って父の顔を思い出して懺悔をした。


「……お父さん、ごめんなさい。人様に迷惑を掛ける出来の悪い長女の不始末は、妹の私が責任をもってつけます……」


 そうして再び見開かれたひづりの眼が本気である事を察知してちよこの糸目がかすかに見開かれた。それは普段何があっても自分の逃げ道だけは確保している彼女には珍しい、青ざめた顔色を呈していた。


 当然だった。これはこの場を収めるための口裏合わせをしたその場逃れでも、嘘でも脅しでも無い。確実な頭蓋骨骨折が主目的の暴力行為なのだ。


 覚悟を決めた官舎ひづりの眼は、姉を人間として見ていなかった。


「わかったあ!! 降参する!! ちゃんと二人にお給料と休暇あげるからぁ!! もうやめてえぇ……」


 押さえ込まれた姿勢のまま、吉備ちよこは普段の駄々をこねる泣き顔とは違う、本当に悲しげな声音で泣き始めた。


 ひづりは握り締めていた右の拳をゆっくりと解くと、少し震えるそれを自身の額に当てた。かつてないほどの激しい動悸がしていた。とても平気で居られる訳がなかった。


 けれど、その危険過ぎた一枚のカードは、どうやら《勝ち》を取って来てくれたようだった。


「……ひづりよ、改めてもう一度聞くが、たぬこは喜んでおったのじゃな……?」


 畳部屋を横切る机の向こう、天井花イナリは凍原坂を見下ろした格好のまま視線だけをこちらへ向け、静かにひづりに訊ねた。


 一瞬気後れしたが、ひづりはちよこを蹴っ飛ばすようにして天井花イナリに向き直ると元気よく答えた。


「はい! とても、とても喜んでくれていました! 次は天井花さんとも一緒に出掛けられたら良いなと言っていました! 私は、美味しいお稲荷さんのお店を知っています! お酒は、きっとそこの凍原坂さんやサトオさんが知っています! この店が本来の正しい営業形態の姿に戻り、天井花さんと和鼓さんにちゃんと給料と休日が与えられれば、お二人がそういった時間を過ごす事は毎週ですら可能になり、美味しいお酒を和鼓さんが飲むことも、天井花さんが美味しい稲荷寿司を食べられる機会もずっと増え、二人で遠くの景色が綺麗なところへ旅行に行く事だって出来ます!! 私の不出来な母と姉のために今まで天井花さんたちが封じられて来た、この《人間界》に存在する色んな楽しみというものを、それこそいくらでも体験することが出来るようになります!! 和鼓さんと一緒に!!」


 ひづりは考え付く限りの提案を精一杯叫んで伝えた。


 それからしばしの静寂のあと、天井花イナリは「ふふ」と笑みを零し、天に向けた手のひらから力を抜いてハラリと床に落とすかのような仕草でその手から剣を消滅させた。


「……そうか。それはまた、ずいぶんと大いに魅力的な商談であるな。かつての《魔界》での競争相手が今どうなっていようかなど忘れるほどに、良い……実に魅力的じゃ……」


 ゆっくりと首を傾げるようにしてひづりを振り返ると彼女は薄く微笑んでそう返した。子供のわがままに困り果てたというような、そんな優しい顔をしていた。そして同時に、小さくも心地良い満足感を得たという、彼女らしい大らかな暖かさもそこに戻って来ているようだった。


 ……ああ、良かった……。本当に……。ひづりはあまりの安堵に魂が抜けてしまうかと思った。








「はい、ほら! さっさと立つ! 銀行しまっちゃうでしょ! さっさと二人の分のお給料振込み用カードを作りに行く! 急いで!!」


 ひづりは倒れたままめそめそしていた姉の腕を引っ張って無理やり立たせるとそのまま畳部屋を追い出して銀行に向かわせようとした。


 しかし休憩室に下りようというところで彼女はおもむろに歯切れ悪く、ひどく言いづらそうに零した。


「通帳とカードは……もうあるの……」


「……あ?」


 思わずちんぴらのような声が自分の口から飛び出したがひづりはこの際もう気にしない事にした。


「えーと……ね? だからね? その、二人の分のカードと通帳はもうあって……作る必要は……」


「見せろ」


 ひづりは着物の首根っこを掴んだまま命じた。


「…………」


 ちよこはうつむいて眼を合わせようとしないがその顔は青ざめていて、暑さからではなさそうな汗が額に浮かんでいた。


「見せろって言ってんだ! その二人の通帳を! 早く!!」


 放り込むようにちよこを畳部屋に連れ戻すと、その言葉通り、貴重品入れの棚からは二人の名前が記されたカードと通帳が出て来た。


 その二つの通帳の引き出し履歴を見て、ひづりは思わず悪鬼の如き表情で姉を睨み付けた。ひぃ、とちよこの口から悲鳴が漏れた。その眼には涙が滲んでいた。


 ……この女!! やっぱり天井花さん達の通帳に入れたお給料を引き出して使っていやがった!! この間の高いキャンプ道具一式買い揃えも、頻繁に行く温泉旅行も、全部これで行ってやがったな……!! ひづりはにわかにもう頭と胸のうちがぐらぐらと燃え盛るように熱くなった。


 これには吉備サトオも当然グルのはずだ。彼にも問いたださねばならない。義兄と言えど、共犯者には正しくその報いを受けて貰う。天井花さんには別の意味で効果があったが、目の前で嫁の顔面を変形させると脅せばその通りの効果がサトオには期待出来るだろう。


 自分がしていることは暴力に他ならない。それはいつだって自覚している。それが罰せられるなら罰されよう。しかし今ひづりはキレていた。あのような母でも恩人と慕う凍原坂春路を悲しませた事、そんな彼に金銭をせびってその家庭を危険に追いやろうとした事、天井花イナリと和鼓たぬこの給料を横領し、自分はほとんど働かずに楽だけをして暮らしていた事。


 姉には必ずそのツケを払って貰う。同じ地獄に落ちるとしても付き合ってやる。こんなのでも、自分の姉なのだから。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る